ひとつの区切りを迎える時、新たな風が吹いてくる。
この日。この場所で。
もう一度、僕はアナタに会えたから。
それだけが、何より僕には嬉しくて。
だから、どうか。
今だけは、そばにいてもいいですか。
【年が明ける瞬間】
津田コトミが食卓へ姿を見せる頃には、すでに自分の席の前に蕎麦が置かれていた。
カウンターの奥にある台所には、兄の津田タカトシの後ろ姿。キッチンの水道で手を洗い、タオルで拭いているようだ。
「ああ、ちょうどよかった。これから呼びに行こうと思っていたんだよ」
「えへへ、お腹がすいていたもんで」
蕎麦を見て、目を輝かせるコトミ。彼女は兄が作る天ぷら蕎麦が大好きなのだ。海老やイカの出来は数か月前よりも美味しそうに見えた。
自分の箸を掴み、いただきますと一言言って食べ始める。タカトシも自分の席に腰を下ろすと、妹よりもやや遅れて食べ始めた。
居間にあるテレビが気になるとか、コトミはチラチラと視線を向けている。行儀が悪いが、タカトシは特に咎めなかった。
そう。今日は大晦日なのだから。
クリスマスを越えた現在。世間では来年の期待と不安、去年までの反省を振り返る話題で持ちきりである。1年の中でも、この日だけはたとえ年齢が一ケタの子供でも、眠らない事を咎められはしないだろう。
タカトシ自身、幼い頃は両親や妹と一緒に神社へ足を運んだものであった。時と共に親の仕事の都合で家を空けがちになってからは、学校の友人と年を越す事が多くなってしまった。
それを寂しいとは思わない。親に構われないから悲しいなどと、それこそ子供じみた事を感じる時期からはとうの昔に卒業している。むしろ、自分の方こそ親孝行の一環として両親を連れ出してやるべきだろう。
まあ、そんなタカトシのささやかな気遣いも、何年か前にけんもほろろという結果に終わっているのだが。理由は、めんどくせえの一言。
それ以降、彼は両親を初詣には誘っていない。
「ねえ、タカ兄」
「ん?」
蕎麦を半分ほど食べたコトミが、タカトシに話しかけてきた。
「タカ兄の来年の目標って、何なの?」
「目標か……」
少しだけ間をあけ、タカトシは素直に口にする。
「やっぱり、萩村を超える事かな。満点を取って、あいつに勝ってみたい」
「ふーん。確か、IQが180もあるんでしょ。あの先輩」
桜才祭の時、雑談の中でそう聞いた事がある。正直なところ、あの外見でどこぞの名探偵の孫と同じ頭脳の持ち主とは思っていなかった。
「でもさ、スズ先輩も毎回満点なんでしょ? タカ兄が満点を取ったとしても……」
「ああ。同着になる事は出来ても、越えるというのはどうあっても出来ないかもしれない。それでも、俺はそれに挑戦し続けていたいんだ」
「……」
「どうした?」
「タカ兄って、なんで彼女ができないのかなって」
「なんでそんな話に……」
いきなり話題が変わり、脱力するタカトシ。
真剣になっている時の兄は、たまに背筋がゾクリとするほどの顔をする。昔から野球やサッカーの試合をしている時や、勉強に集中している時のように。
コトミは昔から、兄のそういう顔に何よりも惹かれていた。もちろん普段の穏やかな表情もいいが、やはりこの顔には代えられない。周りの女の子は、なぜ兄のこの表情の良さを理解できないのだろう。
「正直、あまりそういう方面は考えた事が無いよ。今はただ、萩村っていう目標があるからな。自分の面倒で精いっぱいなんだ」
「タカ兄。そんなにスズ先輩と成績で勝負するのが好きなの?」
「ああ。萩村と競うのって、本当に楽しく思う。口では色々言われているけど、なんだかんだで勝負を受けてくれるし」
「なるほど、なるほど。認め合っていた男女のライバル同士が、やがて気づかぬうちに恋に落ちていると……」
「漫画の見過ぎだよ。萩村が真面目なだけだから」
そんなわけないだろと手を振るタカトシ。海老の天ぷらを齧る。何度か咀嚼すると、また蕎麦をズルズル。
「あとは、少しでもドイツ語を本格的に話せるようになりたい。在学中にはフランス語も。来年は、それが目標かな」
「あ、それは前にも聞いた」
「そういうお前は、何か目標はあるのか?」
話を振られ、コトミは当然のように答える。
「私は、やっぱり桜才合格」
「まあ、当然だよな」
「あと、入学したらエロ友達を100人作りたい」
こいつは桜才に合格できるのだろうか。むしろ、合格させるべきなんだろうか。タカトシには分からなかった。
そして、除夜の鐘が鳴った。
【新年】
タカトシ達が暮らしている街の者達が利用している電車は、利用客が都会のそれと肩を並べるほどに多い。
都心の駅から温泉で有名な街を一本で繋いでいる電車は、年が明けたこの日も大勢の乗客を乗せて走っていた。
2時間ほど満員電車に揺られながら、タカトシは終点の駅に降りる。改札前まで歩くと、その向こう側にはすでに家族連れや自分のような学生のグループで賑わっていた。どうやら、彼らも自分達と目的は同じらしい。
改札を抜けたタカトシは、指定の場所へ人混みを避けながら歩く。すると、すでにその場には見知った顔が2人ほど立っていた。相手もこちらに気付くと、嬉しそうに会釈をする。もう片方はややぶっきらぼうな仕草であったが。
「津田君。あけましておめでとう」
「あけましておめでとう」
「七条先輩、萩村。あけましておめでとうございます」
七条アリア。萩村スズ。今回は、生徒会メンバーで初詣をする約束だったのだ。
「会長はまだなんですか?」
天草シノ。生徒会会長の姿が見えないので尋ねてみると、まだ来ていないという。どうやら、自分達が少し早く来て決まったようだ。
自分と同じ電車で降りた周囲の者達が、次々と改札前で待っていた者達と合流し、楽しそうにおしゃべりをしながら駅の出口へと向かっていく。
話題を振るため、タカトシはアリアに話しかける。
「七条先輩。晴れ着、似合っていますね」
「うふ、ありがと。着るのは大変だったけどね」
まんざらでもないのか、いつもよりもやや笑みを深めて言うアリア。
「もしかして、出島さんが着付けをしたんですか?」
「ううん、自分でやったよ。出島さん、着付けは心得ていないって」
「そうなんですか?」
出島サヤカ。七条家のメイドだが、いくら年に数回ほどしか袖を通さないモノを得ていないというのは少し意外であった。まあ、誰しも苦手な者や知らない事があるというのは当たり前の話なのだが。
「あ、でも脱がすのは得意って言ってたけど」
「無事で済んでよかったですね」
そういう意味では大変だったらしい。タカトシと傍で聞いていたスズはアリアに同情する。
「すまない。遅れてしまった」
と、見慣れた姿の女性がこちらへと歩いてくる。言うまでもなく、シノだった。遅刻をしてしまったのではないかと思っているらしく、腕時計を確認している。
「いえ、お気になさらず。俺もさっき来たばかりですから」
「む、そうか」
すると、シノはコホンと咳払いをする。
「では、改めて……あけましておめでとう」
「今年もよろしくね」
アリアがニコリと微笑する。
「では、みんなもそろった事ですので、初詣に行きましょうか」
スズの言葉に、生徒会役員達は駅の出口へと向かった。
日本全国規模で有名な温泉を持つこの街は、それと同じように名の通っている神社がある事でも観光客を呼んでいる。
湖の上に船が停泊している姿が印象的な風景は、足を運んだ者の目をくぎ付けにするほどの美しさだ。その湖を囲うかのように神社の鳥居が遠目で確認できる。
今日訪れている参拝客は、目算でも軽く数万人近く確認できるほどの込みようで、油断していると大人でもはぐれてしまいそうだ。
4人は他の参拝客と肩をぶつけないように注意しながら、ゆっくりと周囲の流れに合わせて歩いていく。
「萩村。手を繋いだ方がいいか?」
持ち前の運動神経を生かしてヒョイヒョイと通行人を躱しつつ、シノは言った。それに対し、生徒会会計はムッとした様子を見せる。
「子ども扱いしないでください。迷子になんかなりませんよ」
「でも、この様子じゃあ大人でも迷うよ。俺が手を貸すからさ」
「……じゃあ、参拝するまでは」
途端に態度がうって変わり、目線をそらしながらもタカトシの手を握るスズ。その反応に、アリアが楽しそうな顔をする。
「あらあら」
「む。なんですか、七条先輩」
「なんでもないわよ?」
微笑ましいものを見る表情のアリアに、スズがムッとした。睨まれた当人は、柳に風とばかりに受け流しているようだが。
そこに、珍しくも彼女たちの内心を悟ったタカトシが加わる。
「七条先輩。俺はあくまでもこの混雑を考えて手を繋いでいるだけであって、別にやましい気持ちはないですよ?」
彼としては、紛れもなく本心を伝えたつもりであった。だが、アリアの反応は相変わらずで。
「うふふ、分かっているわよ。でも、あまり否定しないであげた方がいいと思うわ。ちょっとくらい意識してあげた方が、スズちゃんも喜ぶと思うわよ?」
「なっ……」
アリアの援護射撃に対して口をパクパクさせ、顔を真っ赤にするスズ。何を言っているんですか、などとありきたりな抗議をする余裕もなかった。
「や、やっぱりやめとく」
そう言い放つと、スズはタカトシの手を離してズカズカと前へ行った。小柄な体型を利用して、人の隙間を縫うように神社の本殿へと向かってしまった。
「あ、スズちゃん。1人じゃ危ないわ」
「おい、萩村っ」
スズの反応に目を瞬かせていたタカトシは、慌ててスズを追って人混みの中に姿を消していくアリアとシノに遅れてしまった。
「ちょ、ちょっと……!」
後を追うタカトシだが、ちょうどそのタイミングで彼女達と自分の間に複数人のグループの人波が横から押し寄せる。どうやら家族連れらしく、赤ん坊を抱えている者達も見受けられた。
しまった。後を追おうにも、これでは割り込んで行けそうにない。せっかく、みんなで揃って初詣をするつもりだったのに。
この分では、おそらくシノ達は随分前まで行ってしまっただろう。そして自分の不在に気づき、携帯に連絡を入れる筈だ。
半ば諦めの境地で、タカトシは上着のポケットから携帯電話を取り出し、手早く連絡を取る。しかし、コールの音ばかりで反応が無い。
「マジか……」
考えてみれば、ここまでの人口密度なのだ。着信したところでシノ達が着信音やバイブレーション機能に気づかないのは無理もない。
周りを見回すまでもなく、他の参拝客にも携帯電話を使っている者達は数え切れないほどいた。自分と同じようにはぐれている者もいるらしく、どこか焦ったような顔で連絡をしている。
そのため、さっきから露骨に人が横から割り込んできたり、背中にベッタリとくっついたまま歩いていた。そして先ほども描写したが、小さな子供連れも大勢いる。
……で、これから自分は生徒会役員達を探しに行けるだろうか。この、今や前へゾロゾロと歩くしかなくなったまま、横にも移動できない状態で?
不可能だ。
やむをえまい。お参りは1人でやるとしよう。完全に諦めた気分で、タカトシは周囲の動きに合わせて前へ進むことにした。
――と、そこで誰かに肩がぶつかってしまう。落胆が尾を引きずっていたせいか、注意力が散漫になっていたらしい。
「あ、すみません」
と、自分よりも先に相手が謝ってきた。相手は晴れ着を着た、若い女性だ。
「あれ?」
「あら……タカトシ君?」
なんと、相手は風紀委員長の五十嵐カエデであった。まさか、ここで出会えるとは。
「奇遇ですね。ここで会えるなんて」
「あ、はい。カエデ先輩、明けましておめでとうございます……」
「はい。明けましておめでとうございます。タカトシ君」
タカトシは気後れしつつも言い切り、カエデは笑顔で返す。対応が遅れてしまったのは、彼女のライトブルーの晴れ着が、あまりにも似合っていたからに他ならない。
周囲のざわめきは相変わらずだ。2人はとりあえず小声で話しながら前へゆっくりと移動する。
「カエデ先輩は、もしかして1人でこちらに?」
「いえ、姉が一緒に来ているんです。少し先にいますので」
「ああ……」
五十嵐ヤヨイ。確かに、あの落ち着きのなさそうな女性なら、1人で勝手にどこかに行ってしまいそうだ。それとも、単に人に割り込まれただけか。
遠くから赤ん坊の泣き声か聞こえる。やはり、赤ん坊にこの寒さは堪えるようだ。母親が周囲の迷惑そうな視線にさらされていないか、ほんの少し心配になった。
「タカトシ君の方こそ、1人で?」
「いえ。生徒会のみんなと一緒に来ているんです。ですが、さっきはぐれてしまって」
「あ、あはは……しょうがないですよね、この混雑では」
乾いた笑いをするしかないカエデ。致し方ないとはいえ、あまりにも人が多すぎる。
「あ、そういえば」
「なんです?」
ふと思い出したように、目を瞬かせるカエデ。
「少し左斜めの方向に、会長に似た人を見かけましたけど」
「え、本当ですか?」
それは有り難い情報であった。こんな人混みでも、方向が分かれば会えるかもしれない。
「助かりました。ちょっとキツいですけれど、行ってみます」
別れの挨拶もそこそこに、タカトシは歩く方向を変えようとして――思いとどまる。
ちょうど、小学生らしき子供たちのグループが、進行方向に集まってきたのだ。初詣で浮き足立っているらしく、思い思いに騒いでいる。
「……無理、かな」
「ですね……」
相手が子供では、割り込んでいくこともできない。タカトシは結局、最後まで会長達に追いつく事は出来なかった。
【彼女との拝礼】
結局、タカトシは同じ境遇となっていたカエデと初詣をする事にした。結果的にとはいえ、お互いに置き去りにしてしまった者達に対して色々と思うところはあったのだが、一人寂しくこの時を終わらせるのもどうかと思ったからだ。
それに、とタカトシは思う。彼女と一緒ならいいかなと思っていたので。
二礼二拍一礼。
タカトシとカエデも、拝礼の基礎程度は知っている。2人の番になると、拝殿の前に進み出て、軽くお辞儀をする事は忘れない。
お賽銭は、どちらも100円玉。すでに周辺に散らばっている硬貨の中心に存在している賽銭箱に、タカトシとカエデはほぼ同時にお金を入れた。
さて、次は鈴を鳴らす番だ。タカトシは自分とカエデの間にぶら下がっている太いひもに手を伸ばす。
「あっ」
小さな声と共に、少し柔らかい感触が指に伝わる。
「え?」
声がしたのは、自分の右隣。視線を向けると、目を瞬かせているカエデが頬を染めて自分を見ている。
カエデは自分の手を胸元にあて、もう片方の手で庇うように添えていた。どうやら、お互いがひもを掴もうとしていた事に気づかなかったらしい。
「す、すみません……」
「いえ、こちらこそ……」
タカトシもなんとなく気まずい空気を察し、素直に頭を下げる。カエデは触れてしまった手を大事そうに撫でながら、謝罪にやんわりと応じた。
気を取り直し、ひもを持つ場所を意識して変えながら鈴を鳴らす。ガランガランと独特の音が、拝殿へと響く。あたかも、神様へ伝えようとするように。
2回深く礼をし、2回拍手。そして、1回深く礼をすると同時に、願い事を心に強く念じる。
タカトシは、心に強く願った。
その願いとは……
「……」
最後に、軽くお辞儀をしてその場を去る。カエデもタカトシと同じように拝殿から離れていった。
後ろで、次の参拝客の番が回ってくるのが分かる。この神社は今日1日、こうして参拝客を迎えていくのだろう。
タカトシは人混みの列からようやく抜け出し、周囲を見回してみる。やはり、会長達の姿は見えない。
「カエデさん。絵馬は、あの辺りですよね?」
境内の壁際を手で指し示す。
「そうですね。ちょっと、あそこも直ぐには応対させてもらえないかもしれませんが」
困ったように笑うカエデ。参拝客の相手で、色々とてんてこ舞いな巫女の姿が見える。かといって、やりもせずに帰るというのも違う気がした。
「あ、少し失礼します」
ふと思い出したように、カエデは携帯電話を取り出す。姉と連絡を取らなければいけないのだ。
コール音を耳にしながら、視界の隅でタカトシも携帯電話を操作しているのが分かる。今度はお互いに通話ができればいいのだが。
「あ、もしもし。カエデ?」
やっと繋がった。安堵感と共に、カエデは呑気そうな声の姉に向かって告げる。一緒になって聞こえる周囲の声が邪魔しているので、声が聞こえづらい。
「もう、姉さんってば勝手にどこか行くなんて」
「あはは、ごめんごめん。ついてきてくれるかって思っていたんだけどさ、いつの間にか逸れちゃっていたみたい。もしかして、参拝はもう終わらせちゃった?」
「えっと、それは……ごめん。こっちも、後が閊えちゃっていたから」
流石に、そればかりは申し訳ない気持ちが浮かぶ。しかし、帰ってきた姉の返答は実にあっけらかんとしたものであった。
「あー、それはもういいよ。私も、ついさっきやってきちゃったから。今、どこにいるの?」
「……あ、そう。えっと、拝殿から左に離れた先の――」
周囲を見回しつつ、場所を伝える。すぐに来ると告げると、ヤヨイは通話を切る。
隣を見ると、ちょうどタカトシも話が終わったらしく、携帯電話をポケットに入れていた。彼の表情は、少し申し訳なさそうな苦笑い。
「会長達、こっちに来るそうです。迷子なんて子供みたいって、萩村に言われちゃいました」
先にズカズカ行っちゃったのは萩村なんだけどな、とタカトシはボヤく。カエデもその光景が容易に思い浮かび、クスクスと笑ってしまう。
「まあ、萩村さんの前でその話はやめた方がよさそうですね」
「まったくです。会長達も、参拝は終わらせてしまったそうで」
「お互い様ですね。もうこうなってしまうと」
なんとなく、タカトシもカエデにつられて笑ってしまった。変な話だ。お互いに偶然相方から逸れ、偶然同じ境遇の先輩後輩がこうして一緒にいるなどとは。
妙なめぐり合わせとなってしまったが、なんだか不思議と悪くない。新年を迎えた冷たい風が、どこか心地よく感じる。
「カエデ先輩は、初夢は見たんですか?」
「はい。なぜか私が富士山に登る夢でした」
「あ、初夢でそれが見られるなんて縁起がいいですね。後は鷹となすびもあれば完璧じゃないですか」
「いえ、夢の中では汗だくになって山頂を目指していましたので、あまりいい夢とは思えませんでした」
2人して、また笑う。でも、頂上はたどり着いたんですよね。はい、おかげさまで。
「俺は、鳥になって地球を飛び回っている夢でしたね。成層圏まで高く飛んでいるんじゃないかっていうくらいの絶景を見ながら飛んでいました」
「羨ましいです。自分で飛ぶ夢なんて、素敵ですね」
「いえ。自分が何の鳥になっているのかは最後まで分からなかったんですよ。鷹だったらよかったんですが」
「でも、そんな爽快な夢だったら、間違いなくいい夢だったんですよ」
何人かのカップルが腕を組んだまま、境内から離れていく。参拝は終わらせたらしく、足取りが早い。小さな子供の手を引いた親子連れが、絵馬の方へ向かっていった。
「……次に会う時は、新学期ですね」
ふと、ポツリとカエデが言った。彼女の目は、眼前にある参拝客の行列を見ていない。
「そうですね。カエデ先輩は、春から受験生になりますもんね」
「はい。一応、行きたい大学は決まっているんです」
「どこを受けるか、訊いてもいいですか?」
「東京學堂(とうきょうがくどう)大学の、教育学部です。一応、推薦入学は出来そうだと先生達には言われているのですが」
東京學堂大学。日本の大学でも、特に教育に力を入れている、極めて歴史の古い大学の一つだ。教員養成機関としては一流で、規模も分野もそろっている。
「俺も、本気で進学希望に決めたんです。医学部志望ですから、東京慈英会医大(とうきょうじえいかいいだい)あたりを視野に入れているんです」
「あら、あそこなら確かに名門ですよね。日本医術大学(にほんいじゅつだいがく)くらいのレベルでしたか」
「ですが……今よりももっと努力して、慶王大学(けいおうだいがく)の医学部を目指してみたいとも思っているんです」
「け、慶王大……」
流石に、これにはカエデも呆れるしかない。慶王大学といえば、日本でも最高レベルの東京都大学(とうきょうとだいがく)と同じレベルの大学である。そこの医学部ともなれば、凄まじいほどの競争率になる事は目に見えていた。
タカトシの顔は照れてこそいる。しかし、瞳だけは本気の色が混じっている事にカエデは気づいた。少なくとも、冗談の類ではない。
「タカトシ君って、凄いところを目指しているのね……」
やっと口にした言葉は、そんなありふれたものだけであった。目の前の後輩男子は、腹をくくったような顔で首肯する。
「はい。目標は大きいほど、やりがいがありますから」
この日。神社の境内の中。
五十嵐カエデは、津田タカトシの穏やかな人物の中に隠れた、強い誇りを垣間見た気がした。そして、そんな男性の姿は、カエデにとってあまりにも好ましく映る。
自分自身に誇りを持っている男性。それは、まさにカエデにとって理想の――
「……そう、ですか。私が言うのもなんですけれど、応援しています」
なんだか顔を合わせられない。少しだけ俯いたまま、それだけを言った。
「先輩?」
「……」
唐突に、会話が途切れた。周囲の騒がしさが、どこか遠い。
「あの……何か変な事言いましたか、俺?」
「いえ……別に」
「?」
結局、カエデはこの場にシノ達が姿を見せるまで、彼と顔を合わせる事はなかった。
そして、シノ達と合流後の彼らの一コマ。
「津田……五十嵐と、何をしていたんだ?」
場の空気を察し、少しだけムッとした顔をしているシノが尋ねたところ、タカトシは、全く自然な調子で答える。
「俺たち、2人の将来について話していたんです」
「!?」
「まあ」
驚愕の表情で石化する生徒会役員2名。アリアは目を瞬かせているだけだが。
「タカトシ君……その表現は誤解されますから」
真っ赤になった顔を手で覆い、カエデは言った。
【新学期早々】
この日は、新年が明けて始めの登校日。
新聞部の畑ランコを中心として制作した桜才新聞に、早くも号外がはり出されていた。
掲載されている写真には、私服のタカトシと晴れ着姿のカエデが語り合っている姿。その横に、デカデカと見出しが書かれていて――
――“副会長、津田タカトシ。風紀委員長の五十嵐カエデと結婚に向けて将来を語り合う”と。
「またこんなオチですか、畑さん?」
「おほほほほほ……」
生徒会室で、猫を掴むようにタカトシの手で持ち上げられているランコがいた事は、言うまでもない。
つづく