恋に足を踏み出す日。
愛をより深める日。
彼と彼女は、互いにひとつ歩み寄り……
【五十嵐カエデの○○】
「カエデ先輩。約束通り、来ました」
昼休みの桜才学園。屋上で待っていると伝えられていた津田タカトシは、その場所へ素直に足を運んだ。
屋上の隅で待っていたのは、見覚えのある三つ編みの女性。彼女はこちらに振り向くと、うれしそうに微笑んで近寄ってくる。
「タカトシ君……」
五十嵐カエデの声は、どこか甘かった。自然、タカトシの心臓もわずかに高鳴る。
「カエデ先輩……?」
自分に向けられる、照れたような笑顔が太陽に照らされていて眩しく見えた。
彼は思う。なんだか、今日の先輩はいつもより可愛く見えるな、と。
「……これ、受け取ってほしいの」
「あ、これって……」
そう。彼女が持っていたのはハート形のチョコであった。今日は、バレンタインデーの日なのである。途端、喜びの感情で心がいっぱいになるタカトシ。
「ありがとうございます。先輩からのチョコなんて、嬉しいです」
「ありがとう。そう言ってくれると、作った甲斐があったわ」
失礼かなとは思ったが、さっそくピンク色の包みを開くタカトシ。ハート型のチョコが姿を見せ、本当に美味しそうだった。
「あ、ちょっと一口だけいいですか? 味見をしてみたいので」
「もちろん。そのために作ったんだから」
でも、とカエデは何かを思いついたように首を傾げる。その仕草は、なんだか年下のようにも見えて微笑ましい。
「せっかく屋上に2人きりだし、こういうのはどうかな」
「え?」
カエデは何を思ったのか、タカトシに渡したチョコの一部を割り、自分の口に咥える。うふっと満面の笑みを浮かべ、彼女はタカトシの頬に手を当てた。
驚くタカトシを歯牙にもかけず、カエデはスッと彼の口に咥えていたチョコを押し付ける。反射的に、口の中に転がり落ちる甘いチョコ。
だが、チョコの口移しに成功したというのに、カエデはタカトシから離れない。お互いの唇が触れるか触れないかというところの距離で、停止している。
彼女の息が……タカトシの口に触れた。
「おいしい……?」
「甘い、です……」
2人だけの時間。やがてカエデとタカトシは、徐々に熱を帯びた身体を吸い寄せていった……
「きゃあああああああああああああああっ!!!」
夜が明ける早朝。
勢いよくベッドから飛び起きた五十嵐カエデは、すさまじいまでの絶叫を伴って、一家の安眠を妨害したのであった。
ゼイゼイと息を切らせつつ、周囲を見回す風紀委員長。ややあって状況を悟り、真っ赤な顔で一言だけ呟く。
「ゆ、夢……?」
夢であった。
【男子達の内情】
桜才学園。時刻は6時28分。
玄関には、一つの人影。いや、それはすぐに一人、また一人と増えていく。
その人物達には、共通点があった。いずれも忍び足で、しかも桜才学園の生徒であるという事だ。何より、全てが男子。
ソロリソロリと玄関に入り、自分の上履きが入っているであろう下駄箱の中に。そこで、誰もが深呼吸。意を決し、小さなドアを開けた。
全ての男子の視界には、自分の上履きのみ。いつも通りの光景。だが、男子達はその事実に落胆した。中には、涙を流している者もいるほどに。
この日。2月14日。
バレンタインデー。別名、お菓子メーカーの陰謀ともいわれているこの日。それに頭から巻き込まれたがっている思春期共の1日が始まったという。
そんな中、1人大した緊張も見せずに登校してくる男子生徒がいた。桜才学園副会長の、津田タカトシである。
「なんだ、みんなして……?」
玄関に頭を抱え、涙を流している男子達の様子に首を傾げつつ、タカトシは靴を履き替える。
ついでに、タカトシの靴入れの中にも女子が何かを入れているという事はなかった。だが、それは彼にとってはむしろ幸運な事だったのかもしれない。
なぜなら、こんな中で自分だけがチョコをもらってしまったとしたら、全ての男子から間違いなく恨まれていただろうから。
えっと……今日はバスケ部の予算案と、体操部での苦情処理に関する書類……か。
朝のうちに終わらせるべき仕事を思い出しながら、タカトシは廊下を歩く。
ここ最近は3年生が完全に部活を引退した事もあり、仕事が多く舞い込んでくる。2年生に慣れない仕事が引き継がれ、部活の問題や内情を記録する報告が今頃になって出てきたりするのだ。
その点、生徒会はまだいい方だ。先輩であるシノとアリアはまだ2年生。引継ぎをするのは来年からなので、そのあたりの仕事の弊害は起きていないのだから。
だからこそ、余裕があるうちに仕事を終わらせなければならない。タカトシは気を抜く事もなく、生徒会室へと向かう。
そんな真剣な気持ちであったからこそ――
「津田。これあげる」
「あ、今日はバレンタインデーだっけ。ありがとう」
「おかまいなく」
――今日が何の日かを、萩村スズにチョコをもらう瞬間まで、きれいさっぱり忘れていた。
【チョコ責め】
スズと一緒に生徒会室に入ると、既に席には七条アリアが座っていた。彼女はタカトシの顔を見ると、挨拶をしながら近寄ってくる。
「おはよう、津田君。早速で悪いんだけど、受け取ってほしいものがあるの」
「あ、もしかして七条先輩……いただけるんですか?」
自分の自惚れでなければだけど。と、タカトシはそっと心の中に付け加えておく。
「大正解。バレンタインチョコ、どうぞ」
手渡されたのは、かわいらしい袋に包まれた手のひらサイズのお菓子詰めであった。
「ありがとうございます。いや、七条先輩からも貰えるなんて、ちょっと嬉しいですね」
「あれ、津田君。もう誰かから貰ったの?」
「はい。さっき萩村から」
「津田。余計な事は言わないでよね」
プイッと顔を逸らすスズ。その反応に、アリアは成程と納得する。
「そっかあ。だから、さっきからずっと生徒会室の前でソワソワしていたのね。そんなに一番に渡したかったんだ」
「そ、そんなんじゃないですよ!」
からかいの声に、思わず顔を赤くするスズ。タカトシの前で何を言っているんだ、この人は。
「そうなんだ。本当にありがとう、萩村」
「あ、う……うん」
あまりの羞恥に、とうとう顔を伏せてしまうスズ。今の顔は、誰にも見られたくなかった。
「あらあら」
スズがタカトシを待っていてくれたという事を彼に教えてあげたつもりだったのだが、どうやらやりすぎてしまったらしい。アリアは笑顔の裏で少しだけ反省する。
「?」
もっとも、そんな彼女らの心の機敏は肝心の本人には伝わってはいなかった。
【カエデの苦悩】
ど、どうしようかしら……
額に手を当てなくても、自分が顔を真っ赤にしている事がよく分かった。
朝早くに風紀委員会の仕事を終わらせた彼女は、自分が持っている鞄の中にある“もの”を意識せずにはいられない。というか、昨日の夜はそれを作るために、時間をかけて念入りに調理したものだったのだから。
言うまでもない。この日、バレンタインデーのチョコである。
相手はもちろん、自分が唯一普通に接する事の出来る彼……
「って、違うでしょう。これはあくまでも、日頃の御礼としてであって」
五十嵐カエデは1人、誰もいなくなった委員会の教室の席に座り、頭を抱えていた。
そんな言い訳丸出しな言葉では自分自身すら騙せなかったが、いつまでもこうしているわけにはいかない。そう、曲がりなりにも自分で作ったからには、本人に渡さなければ。
口を固く結んで、よしっと椅子から立ち上がる。しかし、1秒後にはまた椅子に腰を下ろしてしまう。力なく、ヘナヘナと。
こんな挙動不審な行動も、もう何度目だろうか。数えるのも馬鹿らしいので、意識しないようにしているのだが。
躊躇している理由は、たった一つ。そして、その一つが曲者であった。
「は、恥ずかしい……」
正確には、照れだ。まあ似たようなものだが。
だって、今まで男の子に何かをプレゼントした事なんかないし。
いや、もし万が一、いらないなんて言われようものなら……
カエデは一瞬でも、そんな発想をしてしまった自分を叱る。そんなはずはない。タカトシという男は、渡されたものをどんなモノであろうとも無碍にするような人ではない筈だ。
でも、やっぱり今すぐに渡しに行くのは……いや、こうしている間にも他の女の子が……
今から数十分前、既に生徒会会計からチョコを渡されていた事など知る由もないカエデであった。
「ど、どうしようかしら……」
結局、最初の疑問に舞い戻る。
彼女の思考ループは、結局朝のホームルームが始まる前のチャイムにより、中断する事となってしまった。
【チョコ責め・2】
「やあ、みんな。朝は出席できなくてすまなかったな」
この日の昼休み。天草シノが生徒会室へ入ってきた。彼女は部屋に入るなり、机に向かって仕事をしているタカトシの横に近寄り、話を切り出す。
「津田よ。その、なんだ……これを受け取ってほしいのだが」
彼女がカバンから取り出したのは、青い包装紙に包まれた四角い箱であった。鈍感な彼も、何を渡されたのかは察しがつく。
「ありがとうございます、会長。生徒会の人全員から貰えるなんて、ちょっと感激です」
敬うべき相手から渡され、思わず顔が綻んでしまうタカトシ。反対に、照れていた表情から一転して眉を顰めてしまうシノ会長。
「……全員だと?」
周囲を見回すと、視線を合わせまいと書類から目を離さないスズの姿。
「ごめんね、シノちゃん」
そして、笑顔のままではあるが眉をハの字にしているアリア。
「むう……私が一番出遅れていたとは」
頬を膨らませ、拗ねた子供のようになるシノ。それをフォローするように、タカトシは言った。
「いえ、本当に嬉しいですよ。正直、会長みたいな人から貰えて、ちょっと男として自信がついたかなって気がしますから」
「……っ」
シノ、硬直。まるで石化したかのように固まってしまった。
「?」
「こら、津田」
バシンと、ファイルを持った手で副会長の背中を叩くスズ。その顔は不機嫌そのものである。
「いつまでも浮かれてないで、仕事をしなさい。ほら、あんたの分」
「あ、ごめん……」
ファイルをタカトシの席の前に放り投げ、彼女は自分の仕事を続けた。何かブツブツと言っているようだったが、小さな声過ぎて聞き取れない。
硬直していたシノも、やがて席について仕事を始める。ただ、時折タカトシに赤い顔でチラチラと視線を向けていたが。
そんな微妙過ぎる空気の中、それぞれが色々な思いを抱えたまま仕事を続ける。
そのため、生徒会室のドアの向こう側に、1人の気配があった事など、誰も気づかなかった。
【踏み出せなかった少女】
カエデは1人、生徒会室の前で途方に暮れたように立ち尽くしていた。彼女の中では、先ほどまでの生徒会室内の会話がグルグルと回転を続けているのだ。
生徒会の皆が、タカトシにチョコを渡した。そのこと自体は何の問題もない。自分が口を挟むべきことは何もない。
かくいう自分もまた、チョコの入った箱を持ってこの場に足を運んだのだから。あくまでも、日頃の御礼として。
いや、足を運ぼうとしたと言った方が正しい。なぜなら、朝の時間に出遅れてしまった事を反省し、思い切って昼休みにこの場へ来たにもかかわらず、自分の足は入り口のドアの前で止まってしまった。
自分は、確かにドアを開けて中へ入ろうとしたのだ。仕事の邪魔をしてしまうかもしれんが、要件を済ませたらすぐに出ていくつもりだったのに。
いざ、入ろうとするその直前、聞こえてきたのは、タカトシの声。
――会長みたいな人から貰えて、ちょっと男として自信がついたかなって……
その瞬間、カエデの足は凍りついた。
どんな人間でも察してしまえるような、喜びとほんの僅かな誇らしさを込めた、タカトシの声。
相手は、生徒会長の天草シノらしい。彼女が息を呑むのが、目にしなくても理解できた。なぜなら、自分も違う意味で同じ反応をしたのだから。
「……」
無意識に、手に持っているラッピングされた箱を握るカエデ。まるで、それが最後の縁だと言うかのように。
それが、自分にとっての縁足りえるモノなのかが判然としないまま、勇気を出せなかった少女は――その場を立ち去った。
【真っ直ぐな好意】
「津田君にチョコあげるっ!」
そして放課後。最後の授業が終わり、教室からクラスメイトの姿がまばらになった頃、タカトシに声をかけてくる少女がいた。
トレードマークのポニーテールが特徴的な彼女。柔道部部長の、三葉ムツミである。
「あ、ありがとう」
タカトシは勢いよく目の前に差し出されたチョコの箱に、少々気後れしつつも受け取った。正直なところ、彼女からも貰えるとは思ってはいなかったのだ。
「本当に嬉しいよ。義理とは分かっているんだけど、女の子から貰えるっていうのはさ」
「え。あー……うん。まあ、そうなのかな」
義理じゃないんだけどな、という言葉は彼女の口の中で消えた。だが、ハッキリとそれを否定するのも、彼女の中にある女としての未熟さが先立ってしまう。
――あれ。なぜか、しょんぼりしている……?
タカトシは内心で疑問符を思い浮かべる。ムツミがなぜ肩を落としたのかが理解できない。
とはいえ、何か彼女をガッカリさせてしまった事は事実らしい。タカトシは会話を繋げるために、ムツミから貰った箱のラッピングを解き始める。
「あれ、タカトシ君?」
「いただくよ。一口だけでも」
目を瞬かせるムツミに、タカトシは柔らかな笑顔を向ける。
「あ……うん。一応、手作りだから!」
釣られる様に、ニパッと花が咲いたような笑顔を浮かべるムツミ。それを見て、タカトシはホッとする。よかった。機嫌を直してくれたようだ。
箱の蓋を開けると、中には一口サイズのチョコが並んであった。その市販のものと見間違うかのような出来の良さに、彼は素直に驚いてしまう。
「凄いね。三葉って、料理得意なんだ」
「うん。だって……好きだから」
「……え?」
目を瞬かせるタカトシ。はにかみながら呟いた彼女の好き宣言に、彼はついドキリとさせられてしまう。
好きって……もしかしてこのチョコは義理じゃなくて本――
「お菓子作り」
何の含みもない、純粋無垢な笑顔から言われた言葉の続き。途端、タカトシの顔に熱が集まってくる。
馬鹿か。何考えてたんだ俺は。三葉はあくまでも友達として渡してくれたのに。己惚れているなよ、この恥知らずの馬鹿男。
自分で自分に説教をするタカトシ。もちろん心の中で。
「タカトシ君。頭を抱えて何やっているの?」
「いや、何でもないよ。とりあえず、頭の中で100回ぐらい反省したから」
「よく分かんないけど、チョコは食べてくれるんじゃなかったの?」
「ああ、うん。そうだったね。ごめん」
大きく深呼吸をすると、少しだけ気分が落ち着いた。まったく、なんでチョコを一つ食べるのにこんな遠回りをしているんだ。
ホワイトチョコを摘まみ、口の中へ転がす。途端、チョコ特有の甘い味が舌へと伝わってきた。
そのまま咀嚼してみると、意外にもフワリとした感触が返ってくる。その正体に気付いた彼は、その答えを口にした。
「あ、これってシュークリームなんだ。生地の周りにチョコを塗ったんだね」
「正解。チョコが生地の上に塗ってある方の中にはホワイトチョコが入っていて、ホワイトチョコが塗ってあるのにはチョコが入っているの」
「凄い。凝っているね」
2つの味を楽しめる工夫に、素直に感心するタカトシ。自分もコトミにせがまれてデザートくらいは作る事もあるが、それでも彼女の作ったものには不思議と惹かれるものがあった。
一口と思っていたが、つい2つ目も食べてしまう。ムツミが妙に期待の眼差しで自分を見ていたからだ。
「美味しかったよ。残りは、家に帰ってからでいいかな?」
「うん。それじゃあ、私は部活あるから!」
満面の笑顔と言うのは、こういうものを言うのだろう。素直にそう思わせられるような顔を残して、ムツミは鞄を持ったまま教室の扉へ向かう。
「あれ?」
「あっ……」
扉を開けると、ムツミの目の前に女子生徒が立っていた。何度か朝礼やイベントなどで見た事のある風紀委員長である。
「あれ? 五十嵐先輩じゃないですか。ここ、一年生の教室ですけど?」
「い、いえ……その、通りがかったもので」
「あ、そうなんですか。見回りをしていたんですね」
好意的に解釈するムツミ。遠巻きに見ていたタカトシは、その時にカエデの顔に影が落ちたのを確かに確認した。
「い、いえ……これも仕事ですので」
「?」
ふとムツミは、カエデが両手を背中に回している事に気づく。まるで、何かを隠しているかのようだ。
「五十嵐先輩、どうかしましたか?」
目の前の風紀委員長は、過剰なまでに両肩をビクつかせる。さすがに何かあると思ったムツミは、曇りのない目に疑問色を浮かべた。
「……カエデ先輩?」
いつの間にか、タカトシがムツミの後ろまで近づいている。不思議そうな彼の顔を見たカエデは、とうとう顔を真っ赤にして激しく取り乱した。
「な、なんでもありません。それでは」
言うが早いが、カエデはあっという間に2人の前から姿を消す。おそらくは、廊下を目にもとまらぬ早歩きで行ってしまったのだろう。
「なんだろ?」
「……」
疑問符を浮かべているタカトシの横で、ムツミは目を瞬かせていた。
【踏み出そうとしていた少女】
「……で、本人目の前にしといて、さっさと逃げてきちゃったって事?」
「その……うん」
呆れた顔の少女が、並んで廊下を歩く友人のカエデに言った。
廊下と言っても、今2人が歩いている場所は3年生のフロアである。そのため、彼女たちがタカトシ達と顔を合わせる心配はない。
だからこそ、カエデは今自分の横を歩いている友人――ナオミに、先ほど自分が起こしてきた失態を話す事が出来たのである。
もっとも、自分に向けている視線は、親しい友達に向けるものとは異なっていた。どちらかと言うと、アホの子を見るそれである。
「何をやっているのよ。普通、そこで逃げたりする?」
「……足が竦んじゃって」
「なんで?」
「受け取ってもらえなかったら、どうしようかなって考えちゃった……」
ナオミは深くため息をついた。それはもう、呆れ果てたという気持ちが丸分かりの態度で。
「なんで副会長くんが渡されるチョコを拒むのよ」
「だって、天草会長や同級生の女の子からも貰っていたし」
「それで?」
どうでもよさそうに、ナオミは訊いた。
「私、今でも男性恐怖症だから。タカトシ君もそれを知っているし。男の子にチョコなんか渡したら、変な風に思われるかもしれないし」
「要するに、勇気が出なかったと」
バッサリとカエデの言い訳を要約するナオミ。
「ちょ、ちょっと。どうしてそうなるのよ」
「いや、だって長ったらしい言い訳をされたって、結局はそれが理由じゃない」
「……」
「他の子が副会長くんにチョコを渡す事と、あんたがチョコを渡す事に何の関係があるの?」
反論も出来ず、カエデは黙り込む。歩く歩幅も、心なしか小さくなった。
ナオミは無言のまま、不自然にならないように歩幅を合わせる。こういう時のカエデは、何も言わずにそっとしておく方がいいと経験で知っているからだ。
やがて顔を上げた時、カエデの目に迷いはなかった。若干泳いではいるものの、気持ちそのものに折り合いはつけたらしい。
「よし」
「何が?」
「今から、生徒会室へ行く。タカトシ君、きっと仕事をしていると思うから」
「ああ、そう。じゃ、いってらっしゃい」
やっとそこに行き着いたか。そんな調子で、ナオミは投げやりに手を振る。
「うん。それじゃあナオミ、つき合わせちゃってごめんね」
「いつものことだし」
カエデは軽そうに見えて割と友達思いな同級生に礼を言うと、近くの階段を降りようとする。手には、もちろんチョコが入っている箱。
「委員長」
と、そこに別の声がかかる。声のした方を向くと、歩いてきた方とは反対側の廊下から、1人の女子生徒が近寄ってきているところであった。同じ風紀委員の生徒だ。
「ここにいたんですね。今日はみんなでレポートを纏める日ですから、委員長が来てくれないと始まりませんよ?」
「あ」
カエデは石化した。近くに立っていたナオミは頭を抱えた。
【そして放課後】
「それじゃあ、お先に失礼します」
「失礼します」
「ああ。ご苦労だったな。津田、萩村」
シノとアリアに見送られ、1年生2人は生徒会室を出る。残った会長と書記は2年生であるために定時まで残り、これから来る委員会の活動レポートを受け取るために待っていなければならない。
タカトシはこの日、レストランのアルバイトがある。スズも親戚の都合があるらしい。
夕暮れの中、2人は自然と一緒に帰る恰好になった。2人とも口数は少ないものの、特に険悪な空気になる事もないまま校門をくぐっていく。
カラスが間抜けな声を上げて遠くの空を飛んでいるのが見えた。緩やかな下り坂を歩きつつ、スズが独り言のように呟いた。
「それにしてもあんた、随分と貰ったわよね」
「ああ、これの事?」
タカトシが、手に持っている紙袋を僅かに持ち上げる。この紙袋は生徒会室にあったものを、会長の許可をもらって使わせてもらっているものだ。去年、OGから何かの差し入れをもらった時に使われて、そのまま放置されてあったらしい。
貰ったチョコは、10を軽く超えている。おかげで、同級生の男子から向けられる嫉妬の視線はしばらく忘れられそうにない。
「まあ、男子が少ないから物珍しさでくれるんだと思うよ。俺たちの代から共学になったんだし」
「ふうん」
特に感想も口にせず、スズは興味なさげな反応を示す。実際、珍しさで渡している女子はいるだろう。それはスズも否定する要素はない。
だが、全員がそうというわけではない筈だ。会長がそうであったように。
そして、自分も――って、何を考えているのよ。
どうも疲れから、思考が変な方向に行っているようだ。指でこめかみをトントンと叩く。
「それで、津田。お返しはどうするの?」
「ホワイトデーの事?」
「他に何があるのよ」
少し考える仕草をし、タカトシは素直に答える。
「ありきたりだけど、ホワイトチョコを作ろうかな」
「市販……ってわけじゃないわよね?」
確認するように訊くと、タカトシは違うよと手を振る。
「せっかくだから、色々なお菓子に挑戦してみたくて。チョコだけじゃなく、クッキーとか」
「そういえば、七条先輩もクッキーの中にホワイトチョコ入りのやつを作っていたわね」
「うん。だからさ、俺もちょっとその辺こだわってみようと思ったんだ」
「あんたって、変なところでこだわりを見せるのよね。別に市販のやつでも女の子は喜ぶと思うわよ?」
「そういうものかな。でも、俺だってあまりいい加減なものは渡したくないというか」
「まあ、あんたが作りたいっていうなら口出しはしないけどさ」
律儀な男だとスズは思う。だが、そういうところも彼が女子に好かれる理由の一つなのだろう。
「それにさ。萩村からも貰っているし」
「あ、そういえばそうだったわね」
言われて、その事を思い出す。そうだった。自分は朝の一番に渡したのだ。わざわざ生徒会室の前で。
――やば。お返しを期待しているとか思われちゃったかしら?
顔を赤くするスズ。この時、夕暮れの時間で本当に良かったと思う。
茜色の世界にいるおかげで、自分の顔色はタカトシに気づかれていないのだから。
空に浮かぶ大きな夕日は、ビルの向こう側へと沈んでいく。夜の時間が来る合図だ。
夕暮れから夜へと変わっていく空の姿を、タカトシとスズは様々の思いのまま、最後まで見送っていた。
【最後の勇気】
「えっと……これ。例の案件です」
「ああ。ご苦労だったな」
タカトシとスズが学園から去ってから、遅れて10分後。五十嵐カエデは生徒会室へと足を運んだ。
必要書類を届けに来たカエデが見た光景は、生徒会長の天草シノと書記の七条アリアの姿。別の意味で用事のあった人物の姿は、どこにもなかった。
ああ、やっぱりと思う。今更驚きはしない。彼女は事務的な表情のまま、最後の仕事を終わらせて帰路につく。
歩きなれた道を、茜色の光が照らす。恋人関係らしい他校の生徒が腕を組んで歩いている。あの2人は、いったいどういう経緯でああいう関係になったのだろうか。
普段の自分からは考えもしない発想が出ている事に、最早カエデは驚かない。赤の他人にまで不潔やら何やらと言う感情が浮かぶほど、自分は子供ではないつもりだ。
子供ではない、か。本当にそうなのだろうか。例えば、渡したい物も渡す勇気のない事は、大人ではあるまい。
とうに枯葉の落ちきった街路樹の下を、彼女は歩く。肌寒い風が今の彼女には辛かった。
「カエデ?」
ふいに肩をポンと叩かれた。思わず振り返る。
驚いた事に、背後に立っていたのは姉の五十嵐ヤヨイであった。どうやら大学の帰りらしい。姉はいつもの調子で明るく声をかけてきた。
「どうしたの? 部活もないのにこんな時間まで学園なんて」
「姉さん。今日は、委員会の方で仕事が残っていたから」
「ふうん」
ヤヨイはたいして興味がなさそうに言った。
「一緒に帰ろっか」
「うん」
カエデの返事を待つ前に、姉は彼女の横に来る。相変わらずマイペースだなと内心で笑ってしまう。
「今日は、学園の方はどうだった?」
「どうって?」
ヤヨイの言葉の意味が、いまいち分からない。思わず質問に質問で返してしまった。
「ほら、今日はバレンタインデーだったからさ」
「あ、うん。皆、女の子同士で渡しあっていたよ。中には1年生の男子にって子もいたけれど」
カエデの脳裏に、鞄の中に入っている存在がチラついた。もっとも、今となっては意味の無くなってしまったものなのだが。
家に帰ったら、自分で食べてしまおう。これが、今のカエデの本心である。
「姉さんの方はどうだったの。渡したい人とか見つけた?」
「そうね。正直、いいかなって思える男は2人くらいいるわよ。とりあえず本命だって言って両方渡したけど、片方はとっくに彼女がいるみたい」
「それは、まあ……」
コメントに困り、カエデは曖昧な返事をする。それは、その男子2人を試したと言わないだろうか。これから姉のアタックを受けるであろう男性に、心から同情した。
ふと、不意に真面目な顔になるヤヨイ。
「カエデは、ダメだったの?」
「ダメって……」
「津田君の事」
ヤヨイは僅かに穏やかな表情になる。
「あんなしょんぼりした顔で歩いていたら、誰でもわかるから」
雑踏の中で2人は向かい合っていた。自然と、足が止まっている。カエデは戸惑いを深めながら、ヤヨイの言葉を待った。
姉の静かな瞳が見つめてくる。その視線には、先ほどまでのおちゃらけた様子など微塵もなかった。
「他の女の子が次々に渡している事に、気圧されたんじゃないの? もしそうなら、心配はいらないと思うわよ」
「えっ?」
カエデはいっそう困惑した。
「それって、どういう意味なの?」
「津田君って、ただでさえ元が女子高の学園に通っているんだから、惹かれていく女の子も多いんじゃないかな。でも、そんなこと気にする必要はないと思うから。ライバルが多いからって、気兼ねする必要はないでしょ?」
カエデは絶句した。
「そ、そんなの、違うよ」
「何が違うの?」
ヤヨイは目を丸くする。
「まさか、日頃のお礼がしたいだけでチョコを渡したかったけど、周りの人に誤解されそうだから渡せなかったなんて、そんな思春期男子を滅多打ちにしかねない言い訳とかするつもりじゃあないよね?」
「……それはさすがにタカトシ君に失礼だし。でも、お礼っていうのは本当だし」
カエデはたまりかねて、身体を別の方へ向き直った。しかし、ヤヨイは視界に入ってくる。
「ちゃんと聞きなさいよ。恋愛大先輩のお姉ちゃんが言っているんだから」
「……」
「別に好きかどうかっていうのは、一旦頭から追い出すとして。カエデは、タカトシ君にチョコをあげたかった。これは本当の事でしょ?」
「そう、だけど」
「だったら、どうしてタカトシ君に渡すのを躊躇ったの?」
「だって……会長とかクラスメイトの女の子とか、色々な子から渡されていたし。今更渡しても、喜んでくれないだろうなって」
「それじゃ、カエデはタカトシ君に喜んでほしかったんだ? 理由はどうあれ、渡すのが目的なのに」
「……」
何も言えなくなるカエデ。もし何か反論をしてしまえば、どんどん墓穴を掘ってしまいそうな気がしたからだ。
そう。本当は分かっていた。
カエデは、タカトシに喜んでもらうという意志があったからこそ、チョコを渡したかったのだという事に。
他の誰がタカトシに好意を持っていようとも、自分は躊躇う必要などない筈なのに。その事実に気圧されて、彼から逃げ出してしまっていたのだ。
要はただの逃げ腰であったという事。自分には、ただその他大勢の女になってしまうという不安に負けていただけ。
カエデは沈みがちな心と共に言った。
「私、怖くてタカトシ君にチョコを渡せなかった……のかな」
「そうだよ」
姉はアッサリと言った。カエデは、今の気持ちをどう受け入れればいいのか判然としない。
「で、さ。カエデ」
「姉さん……?」
ヤヨイはニコリと笑う。鞄からスマホを取り出した。
「ここはひとつ、この優しいお姉ちゃんが一肌脱ぐとしましょうか」
【まだ今の時間はバレンタイン】
タカトシが働いている、イタリアレストラン。
閉店時間1時間前となり、ラストオーダーに差し掛かっている時間も、彼は精力的に働いていた。
今日はバレンタインデーという事もあり、デザートを中心とした今日限りの限定メニューや割引サービスなどが行われ、カップルや家族連れでひっきりなしの状態である。
従業員は汗水を流して調理を進め、客を案内しつつ注文を訊く。元々人気店という事もあるが、この日はいつにもまして休む暇もない時間であった。
ベテランである先輩達も同僚のフォローすらできず、いやそもそもフォローしなければならないようなミスなど断じて許されず。
そして、最後の客を見送った後。
「はああああ……っ」
全ての従業員は、一斉に安堵のため息を吐いた。
終わった。その事実と満足感が全身を駆け巡っていたのである。
「お疲れさまねえ、みんな」
そんな中、1人だけいつものようにニコニコと笑顔でいる店長の萩村アカネは、口々に皆へねぎらいの言葉をかける。
この人の体力はどうなっているんだ、などという疑問は今さらだ。気にするだけ無駄である。
「津田君も、お疲れさま。もうすっかりベテランの域ね」
「いえ、俺なんて先輩達に比べれば」
本心でそう言うタカトシ。今日は自分の仕事だけで精いっぱいだったのだ。
「あら、そう? それにしては、仕事にもちゃんとついていっていたじゃあない。正直、今日は流石に津田君には厳しいかなって思っていたから」
「毎年バレンタインはこうなんですか?」
「それはもう。今日しか作らないメニューを目当てに来るお客様は大勢いるのよ」
「それは身に沁みました」
万感の思いでそう言った。こんなのが毎日続くのならば、流石にバイト先を考え直さなければならない。
その後、清掃をして私服に着替える。そこで、更衣室のロッカーに入っている鞄の中から音がしているのに気づいた。通話の着信だ。
画面には、五十嵐ヤヨイと表示されている。なんだろうかと思いながらも、他の先輩の邪魔にならないように一旦更衣室の外に出て、通話をした。
「もしもし、ヤヨイさん?」
「あ、やっと繋がった。ごめんね、こんな時間に」
「いえ。バイトがちょうど終わったところですので」
「あら、それはちょうどいいわね。ってことは、今はまだ店にいるんだ?」
なぜか、ヤヨイは嬉しそうな声を出す。それが気になったが、今は彼女の要件を訊ねる事にした。
「ええ、そうですが。もしかして、何か話でも?」
「ううん。ちょっと久しぶりに声が聞きたくなっただけだから。もう安心した。それじゃあね」
「あ、ちょっと」
呼び止める暇もない。一方的に通話を切られ、目を瞬かせるタカトシ。
何だったのだろうか、全く。首を捻りつつ、彼は更衣室へと戻った。着替えを今度こそ済ませ、店の前で解散する。
「それじゃあ、お疲れさまでした」
「お疲れさまでした」
同僚たちは終わりの挨拶を済ませ、それぞれの帰路へ歩いていった。
タカトシも歩き慣れた道を歩こうとする。そこでふと気づくと、レストランの駐車場の奥から、人影がこちらへと近づいてくるのに気づいた。
タカトシは身構えそうになるが、街路灯に照らされるその姿に、タカトシは思わず声をあげる。
「カエデ先輩じゃないですか?」
その通り。近寄ってくる風紀委員長の五十嵐カエデであった。彼女はどこか真剣な顔で、タカトシをジッと見ている。
「こんばんは、タカトシ君」
「あ、いえ。こんばんは」
つい間抜けなオウム返しをしてしまうタカトシ。
「って、どうしてこんな時間にカエデ先輩がいるんです? 店、もう閉まっちゃいましたけど」
「いいんです。食事はもう済ませていますから」
そういう意味でレストランに来たわけではないらしい。だったら何の用なのかと言いそうになるが、カエデの何か言いたそうな表情に、つい黙り込んでしまう。
沈黙。目の前には、ソワソワしながら視線を彷徨わせるカエデ。街灯に照らされ、夜でもわかるほどに頬が赤い。それは寒さのせいか、それとも……
側の道路にヘッドライトをつけた車が、何度も行き来する。その間に、カエデは意を決したように俯いていた顔を上げた。
「た、タカトシ君!」
「は、はい」
反射的に背筋を伸ばすタカトシ。そんな彼に向かって、何かが彼女の手によって差し出された。
「これ、受け取ってください!」
まるで賞状を差し出すかのような体勢で見せられたのは、ラッピングされた箱。
「えっと、これって……?」
「あ、あの……今日、バレンタインですから。日付が変わる前に、どうしても渡したくって」
「あ……」
鈍感な男は、ようやくここで気づいた。彼女は、どうしても今日チョコを渡したかった。だから、姉に協力してもらって……
「……あ、あの?」
顔を上げるカエデ。その目には、受け取ってもらえないのかなと言う不安が浮かんでいた。
瞬間、タカトシは慌てるようにカエデからのチョコを手にした。まるで、宝物を取り損ねそうになった子供のように。
馬鹿か、俺は。せっかく彼女がこんな寒い中で、自分の事を待っていてくれていたっていうのに。
「ありがとう。本当に嬉しいよ」
気づけば、自分でも気づかないうちにお礼を言っていた。自然と顔が綻んでしまいそうになる。
「よかった……」
心からの安堵。そんな様子でカエデはため息をつく。おそらくは、コーラス部の全国コンクールが終わった後のような脱力感であった。
ぐったりと肩を落とすカエデ。おおよそ、普段の彼女らしくない仕草である。
「カエデさん……オーバーですよ」
可笑しくなり、ついツッコミを入れてしまう。拗ねたような顔をするカエデ。
「もう、仕方がないじゃない。今日のタカトシ君、いろんな女の子にチョコを渡されていたから」
「ああ、それで昼間はずっと……」
「む。悪かったですね。私、男の子に贈り物をするのは初めてだったんですから」
「いえ、そんなつもりは無いですよ。俺の方こそ、気づけなくてすみませんでした」
「別に怒っているわけじゃありませんけど」
「それじゃあ、何か奢らせてください。ずっとここで待たせてしまったんだし、何か温かい物でも」
タカトシの提案に、えっという顔をするカエデ。まさかチョコを渡すだけのつもりだったのに、そんな事を言われるとは思っていなかった。
「あ、いえいえ。悪いですから」
心臓の鼓動を感じつつも慌てて手を振るカエデに、タカトシはすっと詰め寄る。
「それじゃあ、俺の気が済まないですから。近くにバイトの先輩から教えてもらった、コーヒーの専門店がありますので、そこでいいですよね?」
「ですから、そんなつもりじゃ……」
と、そこまで言いかけて止める。タカトシの目が、しっかりとカエデを見ていたからだ。責任感の強い彼らしいと言えば、らしい。
――タカトシ君と2人きり、か。
その姿が頭の中でよぎった時、カエデは自然と頷いた。できる限り仕方なさを装った様子で。
「……仕方がないですね。それじゃあ、少しだけという事で」
「よかった。それじゃあ、早速行きましょうか。電車の時間には間に合わせますから」
「うん……ありがとう」
冷たい夜の風が吹く。自然と、2人は寄り添うように夜の街を歩いた。
2人の影は1つとなり、未だにきらびやかな夜の街へと消えていく。
バレンタインデー。津田タカトシと五十嵐カエデにとって、暖かい締めくくりとなった夜であった。
つづく