良き結果を願いながらも、己の日常は変わらないまま。
共にいてくれた人々と共に。
彼と彼女は励ましの声を。
そして下される、学び舎からの結論。
胸の鼓動が、ひときわ大きくなっていく……
【憂鬱】
津田コトミは、朝から憂鬱だった。
「……はあ」
というのも、彼女はつい先日に桜才学園を受験したばかりなのだ。結果が心配だと思うのは当然であるが、すでに試験は終わった。自分のすべき事をしたというのなら、黙って結果を待つべきだろう。
今更、そんな事を誰に言われずとも、コトミ本人が一番分かっている。だからこそ、兄である津田タカトシも妹の顔色を指摘するようなことはしない。
代わりに、コトミが最近気に入っている自家製のプリンを、黙って朝食後の食卓に置いてやった。途端、両の瞳をキュピンと光らせるコトミ。
「ああ! これ、どこに隠していたのタカ兄!? あれだけ冷蔵庫を探しても無かったのに!」
「企業秘密だ。それよりも、早めに食べておいた方がいいぞ。冷えていた方がおいしいからな」
「うん。タカ兄、気が利いてる!」
憂鬱な気分には、さっぱりしたデザートが一番だ。こういう時のために、冷蔵庫に入っている野菜の奥にこっそりと隠していたのだから。
すっかり上機嫌で市販よりも美味に感じるプリンをパクつくコトミ。この調子ならば、もう大丈夫のようだ。
兄が入れてくれた紅茶を飲み、一息つく。そして、満面の笑みを浮かべて言った。
「そうだよね。心配していてもしょうがないよ」
「ああ。コトミはやるべき事はやったからな」
「そうだよね。兄妹で禁断の道に進んだりはしないよね。今朝、変な夢を見ちゃっていたから」
「おい、返せよ。せっかく作ったプリン」
【ロボット】
生徒会で定期的に行われている、放課後の見回り中。
職員室や会議室では、ほぼ毎日のように新入生の合否や合格後の教師の割り振りを議論しているが、自治組織である生徒会役員はさすがにそこまで関わる事は出来ない。
そのため、通常業務を課せられていた彼らは、ふと廊下を歩いている際に目に入ったものがあった。
とある教室前に掲げられているプレート。そこに、ロボット研究会と記されてあったのだ。
「あ、そういえば今日はネネが早めに来ているって言っていた気がする」
「ネネ?」
萩村スズからの聞きなれない名前に、首を傾げる天草シノ。当然ながら生徒会長と言えど、全ての生徒の名前を把握しているわけではない。
「私の友達ですよ。この際ですから、少し見回りの一環として顔を出してみたいのですが」
「おお、構わんぞ。私も活動内容は書面でしか知らんのでな」
会長の同意を得て、生徒会の者達はドアをノックする。どうぞと中から返事がした。
中に入ると、数人の女子生徒がいくつかの机を並べて、電子機器を弄っていた。そのうちの1人は半田ごてを片手に、何やら作業をしている。精密機械を取り扱っている女子生徒の顔は、真剣そのものだ。
その少女がこちらに気づくと、人当たりのよさそうな表情に変わる。僅かに同年代よりも大人らしい容姿が印象的だった。
「あれ、スズちゃんじゃない」
「ごめんね。作業中にお邪魔だった?」
「ううん。ちょっと休もうかなって思っていたところだったし」
少し間延びした声だが、不思議と気にならなかった。自然とタカトシや七条アリアも、彼女に好印象を受ける。
「友達の轟さんです。私はネネって呼んでいますが」
「はじめまして」
スズの紹介に答え、ネネも会釈した。シノやタカトシも簡単に自己紹介をする。自分達は生徒会として知られているだろうが、一応の挨拶として返しておいた。
「皆さんの噂はかねがね。特に、天草会長と津田君の話は特に」
そこで、ネネの興味はシノとタカトシに向く。
「会長と副会長が夫婦漫才をしながら学園を引っ張っているって」
「漫才……」
「め、夫婦か……」
肩を落とす副会長とは逆に、少しだけまんざらでもなさそうな会長。その反応に、スズのこめかみがピクリと動く。
「会長。あくまでも噂ですので。むしろこれは、不純異性交遊禁止の校則に繋がりかねない問題では?」
「え、あ、そうだな。萩村の言う通りだ」
「?」
ビクつき、アワアワとするシノ。突然の彼女の変化にタカトシの目が点になる。
「あれ?」
ネネはしばらく彼らの反応を見ていたが、そうなんだと納得する。その視線は、微笑ましいものを見るような目であった。
生徒会の者達は活動内容を見せてほしいと言って、作ったものをしばらく見る事になった。製作途中の玩具や、犬のメカ。特に後者に至っては、あまりの出来の良さにみんなが目を瞬かせるほど。
中には、ラジコンカーなども制作されており、ついみんなで面白がり、室内を走らせてしまった。タカトシやシノもつい童心に帰り、夢中で動かしてしまう。
そこでアリアが部屋の隅にある段ボール箱の中を覗く。そこから拝借したものは、学園の教室のどこにでも設置されてある時計。スズは、何となく思い当たる事があった。
「これって、もしかして音楽室と3階の空き教室の時計?」
「うん。電池を替えても直らないからって、先生に頼まれちゃった」
「直ったの?」
「さっき終わったばかりだから、後は届けるだけだよ」
「ああ、それなら私たちがやるよ」
アリアが言うと、タカトシは時計の入った段ボール箱を抱える。こういう時こそ、生徒会の出番だ。
「ちゃんと、轟さんが直したって伝えておきますので」
タカトシが言うと、ネネはありがとうございますと礼を言った。そのまま、彼らは部室を出て、廊下を歩く。
まずは、空き教室だ。黒板の上のかなり高い場所に時計をかけるフックがあるのだ。長身のタカトシでも、椅子程度の踏み台では届かない。
「どうするか。教卓くらいの台があればよかったが、ここには無いぞ」
「随分使われていない空き教室だからね。周りには何もないし」
シノとアリアが言った。校内の予備に使うべき机や椅子は、すべてそれぞれの器具庫や保管庫に収められている。持って来ようにも、ここからでは遠い。
「それなら、俺が萩村を抱え上げるよ。それなら届くだろ?」
「不本意だけど、仕方がないわね」
タカトシの提案に、スズも乗る事にした。
「津田よ」
と、そこでシノが口を挟む。
「はい?」
「こんな所で赤ちゃ○プレイか?」
「……なんですか、いきなり」
「いや、だって……ここで、たかいたかーい、とかやって遊ぶなど」
「会長だけど張り倒す」
タカトシに止められながら手をバタつかせて飛び掛かろうとするスズが落ち着いたのは、その3分後の事であった。
【事件発覚】
余計なトラブルはあったものの、生徒会役員は続いて時計を設置するために別の場所へと向かった。
場所は音楽室。僅かにドアの向こう側から歌い声が聞こえる。今日は、コーラス部が使っているはずなのだ。
この時期なので部活は自由参加の筈なのだが、熱意のある者は積極的に参加しているらしい。彼らは音楽が終了したタイミングを見て、音楽室へと入る事にする。
「あ、会長じゃありませんか」
コーラス部の部長である女子生徒が、生徒会長を見て嬉しそうに声をかける。彼女は、シノのファンなのだ。
「あ、タカトシ君」
「お疲れ様です、カエデ先輩」
タカトシの存在に気づいた五十嵐カエデにも、彼は笑顔で返事をする。
「ああ。練習中にすまないな。実は――」
事情を話し、部長は快く設置する事に応じてくれた。もともと音楽室の備品なので、断る理由など無いのだから当たり前なのだが。
そこで、コーラス部員である五十嵐カエデが近寄ってくる。その表情は、少しだけ心配そうだ。
「でもタカトシ君、大丈夫なの? 流石にあの高さは脚立でもないと届かないんじゃあないかな」
その通り。音楽室の天井は従来の教室よりも少し高めに設計されており、今度は肩車をしても届かないだろう。
「大丈夫ですよ」
ニコリとするタカトシ。スズもまるで平然としていた。
「それじゃあ、少しだけ借りますね」
そう言って、タカトシは時計のフックの真下の位置に教卓をくっつける。そこの上にタカトシが乗った。続けて、スズも一緒に。
タカトシがしゃがみ込むと、スズはまるで当然のように彼の大きな肩に腰を下ろし、肩車の格好になる。そこへ、乗りかかられた彼は両の脚だけでゆっくりと立ち上がった。
誰かが、おおっと声をあげる。足場の悪い場所で肩車など、組み立て体操くらいでしか見ないような光景だったからだ。
そこへ、部長がこっそりとシノに小声で訊いた。
「あの、会長。用務員とか呼ばなくていいんですか?」
「いや。これくらいなら、うちの生徒会役員だけでも充分と判断したのだ」
シノは、彼ら3人を眩しそうに見つめる。
「人が嫌がる事を、進んでする。それが生徒会のモットーだからな」
「天草会長、素敵です!」
きゃあっ、と黄色い悲鳴が部長と一部の女子の口から発せられる。シノが慕われる理由がよくわかる光景であった。
教卓の傍に立っているアリアが副会長に時計を渡し、それをまた真上のスズに手渡す。彼女は、問題なく時計を設置。
タカトシとスズは、時間を巻き戻すようにしながら床へと降りる。そして会長が教卓を元の位置に戻した。
「タカトシ君も大変ね……」
「あはは……」
傍で見ていたカエデの声に、苦笑いで返すタカトシ。大変なのはツッコミの方だけどねとは、さすがに言えない。
「シノちゃん。ここで時計の設置は最後だよね?」
「ああ。そのはずだが」
アリアが言うと、シノは思い出したように肯定する。確か直したのは時計だけの筈だったので、これ以上は何もない。
そこで、アリアは納得がいっていないように首を傾げた。
「ん。おかしいなあ……それなら、これは何所に設置するの?」
時計を保管していた段ボール箱の中から、アリアが“何か”を取り出す。
何を? 全員が一斉に疑問符を浮かべた。
それは――男○器を模った道具。通称、大人○おもちゃ。
カエデを代表とした複数の絶叫は、音楽室の防音効果によって外へ漏れる事は無かった。
轟ネネが機械工学に興味を持ったのも、もっと“強い刺激”が欲しいからであったらしい。ネネがうっかり段ボール箱に入れてしまった自家製のバイ○が今、白日の下にさらされた瞬間であった。
【今、あの時の事を】
「昨日はお疲れさまでした」
ロボット研究会の騒動の翌日。タカトシはカエデと食堂で話をしていた。ちょうど食堂が生徒で込み合う時間帯だったため、たまたま空いていた彼女のテーブルを挟んだ正面の席へ同席させてもらう事になったのだ。
「いえ……仕事でしたから」
そう言うカエデも、僅かばかりの疲労の色を隠せていない。やはり、生まれて初めて“あんなもの”を見たせいだろう。タカトシも会長達の話で毎日のように名前は耳にするが、実物を見たのは初めてであった。
「危うく、緊急の職員会議になりかけましたからね」
「はい……私は失神していたのであまり記憶にはありませんが」
カエデの友人を始めとしたコーラス部の女子たちが悲鳴をあげ、大騒ぎになったのだ。顧問の道下アユミ教諭からは顔を真っ赤にして問い詰められ、タカトシ達は言われるがままに白状した。するしかなかった。
この場では穏健派のタカトシとスズも、さすがに言い訳の余地がない状況ではどうしようもない。アユミが確認のためにロボット研究会へ向かうのを、黙ってついていくしかなかった。
その途中、廊下でたまたま通りかかったのは生徒会顧問の横島ナルコ。アユミや生徒会役員の様子を見て、何かあったと感じたらしい。めずらしくも、教師らしい態度で訳を聞いた。
そこで事情を知ったナルコの、第一声。
「え。それって何か問題なの?」
本当に分からないような表情で、教員免許を持っている女性は言い切った。思わずアユミがずっこけ、アリア以外の生徒会役員共は遠い目になる。
完全に出端をくじかれた格好になった一同は、緊迫感が抜けたような表情のままその場を去っていった。
「あれ?」
理由もわからず、首を捻っているナルコを放って。
――そして、その後。
ロボット研究会は急遽、私物の確認を目的とした抜き打ち検査が入ったという。
その結果、ロボット研究会の部室からは“色々な物”が多数押収されはしたものの、周囲の生徒や一部の教職員は――
――ああ、彼女ならやっているだろうな。
という反応をするだけで、それほど顧みられることはなかったという。
これから学年が変わる季節に差し掛かるというのに、桜才学園の今後が心配になる一件であった。
「ともかく、俺たちのせいで不快な思いをさせてしまい、申し訳ありませんでした」
「い、いえいえ。別にタカトシ君が謝る事じゃあありませんよ?」
神妙な顔で言うタカトシに、カエデはむしろ困惑する。
「しかし、元はと言えば俺が段ボールの中をちゃんと確認しなかったせいですから。せめて、面と向かって非を認めておかないといけないなって」
「そ、それはどうも。でしたら、話はこれでおしまいという事にしましょう。別にタカトシ君が何かしたってわけじゃあないんですから」
少なくともカエデは、これ以上本当に何も言う気はないようだ。ならば、これ以上話を続けるのもお互いのためにはならない。
「ありがとうございます」
この話はここまで、と暗黙の了解を取る2人。そこで、ふとタカトシは思い出す。
「そういえば……前も、似たような事がありましたよね」
「似たような事?」
「はい。ほら、あの夏の合宿で……」
「ああ、あの時は色々ありましたね。偶然私たちが同じ旅館で……」
ようやく顔が綻んだと思っていたカエデが、恥ずかしそうに頬を桜色へと変えていく。タカトシも、しまったと背中に冷や汗をかいた。
「そ、そうですよね……私達、お互いにあんな恰好を……」
「す、すみません。お互いに忘れるべきだったのに、つい蒸し返すような事を……」
席に座ったまま、太腿の上で手を握りしめる風紀委員長。その内心は、察するに余りある。
「ほ、本当にすみませんでした」
頭を下げるしかないタカトシ。なんだか、この状況まで半年前に戻ったかのようだ。
しかし、意外にもカエデの顔は不快の色が薄かった。顔こそ真っ赤で視線もわずかに逸れてはいるものの、この場から逃げたがっているとかそういう事はなさそうである。
「いいんです。あの時の事は、私の中でとうに折り合いがついていますので」
「は、はい……」
「むしろ、ちゃんとタカトシ君が胸の中に仕舞ってくれている事の方が、私にとっては安心しました。やっぱり、タカトシ君は私にとって、普通に話せる人なんだなって」
「……カエデ先輩」
タカトシは、それ以上の言葉が出ない。俺の方こそ、とかそういう事を言いたいのに、どういうわけか口が回らないのだ。
カエデも、何か照れくさい事を言ってしまったという自覚があるのか、視線が右往左往している。それでも、言った事を訂正しようとはしなかった。
なんとなく、お腹の内側が温かくなるような気持ちになる。気がついた時には、タカトシは自分の持っている弁当を開けて、カエデに差し出していた。
「あの、先輩。よかったら、俺が作った弁当を食べてみてくれませんか?」
「はい?」
突然の脈絡もないお願いに、目が点になるカエデ。しかし、タカトシはお構いなく言葉を続ける。
「もともと、食堂には食べる場所とデザートだけが欲しくて来たんです。ですから俺、弁当を持ってきていて……」
「はあ……」
弁当を開け、中を見せる。イタリア風のキノコオムレツに、シーフードの具を取り入れたパエリア。イタリアンハンバーグに、ジャーマンポテトといった具合だ。
「その、なんとなくですけど、食べてほしいなって、なぜか思えちゃって……」
言葉の後半になるにつれて、声が小さくなっていく。
タカトシ自身、自分の今の気持ちがわからない。そもそも口に合うかどうかも分からないというのに、何を言い出しているのだろう。
ただ、何かカエデにしてあげなければなどという、自分でも理解不能な衝動に突き動かされてしまったのだ。たまたま思いついたのが、弁当の味見だったというだけで。
「その、無理にとは言いませんけど」
「タカトシ君……」
なぜか、カエデの顔がまともに見れない。彼女の驚いたような声に、なんとなく気まずい気持ちになって顔を伏せる。
「あ、あの……別に構いませんけど」
「本当ですか?」
思いっきり顔を上げると、目を瞬かせているカエデと目が合った。彼女は困惑しつつも頷いてくれる。
「よかった。それじゃあ、好きなものを食べてください」
「は、はい。それじゃあ、失礼して……」
現金なものだと、タカトシは自分に呆れる。だが、それは仕方がない。不審がって食べてもらえなかったらどうしようと思っていたからだ。
オムレツを一切れだけ拝借し、そっと自分の口で咀嚼しようとするカエデ。と、そこで手が止まる。
「?」
気づくと、彼女が少しだけ困ったような顔で自分を見ていた。
「あの、そうやって見られていると、食べにくいのですが……」
「あ……すみません」
お互いが恥ずかしくなる。顔を背け、できる限り相手と目を合わせないようにしながら弁当をつつき始めた。
生徒たちの話し声で騒いでいる食堂の中、しばらく無言で食事を続ける2人。気まずいと言えばそうなのだが、不思議と嫌な気分がしない。
かと言って、間が持たないというのはどうにも不安だ。パエリアを一口咀嚼し終わったタカトシは、思い切って話しかけてみる。
「その、このパエリアって、先日にレストランの発表会で作ってみたやつなんです」
「そ、そうですか」
「実は、そのキノコオムレツも自信作で……」
「は、はい。私、実を言うと、キノコが昔から苦手で……」
「そ、そうだったんですか。それは、すみません」
「い、いえ」
ダメだ。会話が続かない。今まで、こんな事なかったのに。
――何とか言えよ、このダメ男。カエデ先輩と気まずくなっているだろうが。
――こんな時に何空気の読めない事を言っているのよ。せっかくご馳走してくれているのに。
お互いが、それぞれ自分の事を叱っている。同じ気持ちでありながらもすれ違っている2人は、終始こんな調子のまま。
ふと気づくと、周囲には生徒がまばらになっていた。時計を確認すると、すでに昼休みも残り15分を切っている。
弁当も、とうに空になっていた。どうやら、もう2人の時間も終わりになってしまったらしい。残念なのか、ホッとしたのか。2人には分からなかった。
「あの……ごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
「お、お粗末様でした」
最低限の礼節しかできない2人。仕方が無く弁当箱を片付けるタカトシ。
なぜ、こうなってしまったのだろう。もう少し喜んでくれるかなと思っていたのに。
出しゃばったマネをしてしまっただろうか、とタカトシは反省する。ふと、彼はカエデがこちらをジッと見ている事に気がついた。
「……?」
「た、タカトシ君って……その、お弁当って、いつも作っているんですか?」
「あ、はい。やっぱり自炊の方が経済的ですし、バイトの訓練にもなりますから」
「そ、そうですよね……」
どことなく、恥ずかしそうにソワソワしているカエデ。何か言いたそうな様子に、タカトシも首を傾げた。やがて、意を決したように彼女は口を開く。
「あ、あの!」
「は、はい」
自然と、背筋を伸ばしてしまうタカトシ。そんな様子を見ていないかのように、カエデは勢いに任せるように言った。
「こ、今度は……私がお弁当を作ってきますから。その時は、一緒に食べてください!」
直立して頭を下げ、タカトシの前から姿を消すカエデ。風紀委員長らしく食堂を走るようなことはしなかったが、競歩の選手と見間違うような速度で去っていった。
「あ……」
残されたのは、呆然と立ち尽くしたタカトシ。2人のやり取りに気づかなかったがゆえに、目を瞬かせている周囲の生徒達。そして――
「ほほう」
――物陰でカメラのシャッターを切り続ける、新聞部の畑ランコだけであった。
【合格発表】
桜才学園への入試から、この日で10日後。
早朝の学園には、すでに何十人もの中学生が集まっていた。友人同士で喜び合う者。肩を落として校門を出ていく者。
当然、同じように試験を受けたコトミも例外ではない。彼女は試験中のように真剣な目で、玄関前の庭に設置されてある合格者の発表者が書かれてある掲示板を見据えていた。
「いよいよ、だな」
「うん」
付き添いで一緒に来ているタカトシの声に、コトミは頷いた。
「さあ、コトミ。私たちと一緒に行こう」
「はい。よろしくお願いします」
付き添いは1人だけではない。天草シノに萩村スズ。七条アリアも同伴していた。皆、コトミの事を応援していたのである。
「それで、コトミちゃん。番号は何番なの?」
「069番です」
アリアが訊いた。コトミはポケットにねじ込んである用紙に書かれてある数字を読む。
「なるほど。69番か」
「英語なら、シックスティナインだね」
シノの後に、アリアが続く。なぜわざわざ英語にしたのか。
「シックスティナイン、シックスティナイン」
シノ。
「頭とお尻がくっついている数字、頭とお尻がくっついている」
コトミ。
「大事なところを向け合っている数字」
アリア。
「静かにしなさい」
タカトシ。
「……」
周囲の受験生に妙な視線を向けられるのに快感を覚えつつ、コトミはそれと同じくらいの緊張をもって自分の数字を探した。
そこに、記されてあったのは。
059。060。064。065。067。
コトミの番号は近い。ゴクリと、誰もが喉を鳴らした。
068。そして――
069。
「やったあああ!」
瞬間、飛び上がったコトミ。目尻に光っているものは、紛れもなく喜びの涙。
「やったな、コトミ!」
「よくやってくれた、コトミ!」
「おめでとう、コトミちゃん」
全員が、口々に祝福の声をかける。無言のスズも、安堵の表情で親指を立てた。
この時をもって、津田コトミは4月からこの学園の生徒になる事が確定したのだ。成績がギリギリだったという背景にも負けず、諦めなくて本当に良かったと感じているに違いない。
しばらく全身で喜びを表現していたコトミだが、ふと思い出したようにシノに詰め寄る。
「夢じゃあないんですよね。ちょっとつねってみてくれませんか?」
「む。了解した」
「じゃあ、私も」
シノの横で、なぜかウキウキした表情のアリアまで乗り気だ。
生徒会会長と、生徒会会計の手はコトミに伸びる。そして、同時につまんだ。
シノは左の乳首を、アリアは右の乳首をダッフルコート越しに、キューっと。
「きもちいい……」
恍惚の表情で、コトミは喘いだ。
「ああ……なんてひでえ現実」
「泣かないの。私も嘆きそうだけど」
いよいよ本当に落ち込みかけるタカトシの背を、スズは優しく叩いた。
「あ、あの……」
と、そんなやり取りをしている彼らに、1つの遠慮がちな声がかかる。
「え?」
生徒会役員の面々が顔を向けると、こちらに近寄ってくる1人の男子がいた。どうやら、コトミに声をかけているらしい。
「えっと、誰だっけ?」
少しだけ困ったように言うコトミ。言われた彼は、僅かにガッカリしたような表情を見せる。
「ご、ごめん。いきなり馴れ馴れしくしちゃって。僕、入試の後に一度キミと話をしていたんだけど……覚えていないかな?」
少しだけの間。ああ、とコトミはポンと手を打った。
「確か、帰る時に話しかけてきた人だっけ? 久しぶりだね」
「あ、ああ……うん、そうなんだ。キミも、合格したんだよね。声が聞こえちゃって」
「うん。おかげさまでね。タカ兄やシノ会長のおかげで」
「……確か、君のお兄さんだったっけ」
チラリと、黒縁メガネの少年はタカトシを見る。タカトシは会釈をする事で返した。
「どうも、改めまして。津田タカトシです」
「あ、はい。この度はおかげさまで、無事に合格できました。失礼ですが、この学園の先輩方でしょうか?」
「そうですよ。一応、これでも生徒会の副会長ですから」
「ふ、副会長……すごいですね」
よそよそしい態度から一転して、恐れ戦いたという顔になる少年。タカトシは苦笑して手を振った。
「そんなに畏まらなくてもいいですよ。俺も、まだまだ覚えなくちゃあいけない事が山ほどある立場ですから」
「はあ」
それにしては随分物腰が落ち着いている人だと、少年は思った。と、そこでシノが訊ねてくる。
「私は、生徒会会長の天草シノというのだが……よければ君の名前をお伺いしても構わないだろうか? これから我々の後輩になるのだから、お互いに自己紹介がしたい」
「は、はい。名前も名乗らずに、すみませんでした」
今度は生徒会長。やたらと恐縮し、ペコリと頭を下げる。
「僕は東海北(とうかいきた)中学出身の、高部(たかべ)ノリユキといいます。これから、よろしくお願いします」
「うむ。よろしく頼むぞ」
「よろしくね」
「……よろしく」
シノに続き、アリアとスズも続けて挨拶をした。スズだけは、少しだけやる気なさそうな態度である。おおかた、気の小さい男だとでも思っているのだろう。
「そっか。それじゃあ高部君もこれから3年間、妹と仲良くしてやってもらえないかな」
「もちろんです」
ノリユキは真顔で言った。しかも、どことなく嬉しそうだ。
「それじゃあノリユキ君、これからよろしくね?」
ニコリと笑うコトミ。その満面の笑みは、友達が早速できて嬉しいという笑顔であった。
「うん……」
それに対し、惚けたように言うノリユキ。コトミは入学に必要な書類を校内へ取りに行き、彼は少し遅れた後で彼女の後をついていった。
「……ほほう。なかなか育て甲斐のある後輩が増えそうだな」
腕を組み、満足そうに2人が消えていった玄関を眺めるシノ。
「そうだね。入学前から、もうコトミちゃんに目をつけるなんて。素質がありそう」
どこか楽しそうに言うアリア。これからの生活に、どこかワクワクしている様子だ。
「何の素質ですか。まあ、後輩が増えるのは喜ばしい事かもしれませんが」
スズは、やはりそれほど感想はないらしい。たいして面白くも無そうな態度である。
と思いきや、生徒会会計はタカトシに話を振った。
「ねえ、津田。あんたは心配じゃあないの?」
「え、何が?」
「七条先輩じゃあないけれど、コトミちゃんに知らない男が寄り付くかもしれないって」
「知らない男って……別に、仲良きことはいい事じゃあないかな」
「そうだけど……」
兄として心配じゃあないのだろうか。スズはそう思う。妹の人間関係に口を出す気はないという事なのか。それとも、単純にノリユキがコトミに気がある事に気づいていないだけなのか。
そんなスズの心情を察したのか、タカトシはそっと告げる。
「大丈夫だよ。コトミの事なら」
「そう?」
「あいつは、誰とでも仲良くできるのが取り柄だから。少なくとも、悪いような関係にはならないと思うよ。それは確かさ」
「ふうん。あんたがそう言うならいいけど」
スズは、少しだけ意外に感じる。てっきり、タカトシはコトミの事を1人の人間として頼りないと思っている節があると考えていたのだ。
やはり、なんだかんだ言っても2人は兄妹だ。こと人間関係においては、タカトシは妹自身にしっかりと任せているらしい。
この分なら、余計な忠告だったかな。スズは安心感と共にそう思った。
「ところで、会長。萩村に七条先輩も。少しいいですか?」
「ん?」
「?」
「なあに、津田君?」
タカトシから声をかけられ、彼女たちは訊き返す。
生徒会副会長は、あくまでも涼しい顔のまま――
「今晩、空いていますか?」
「!?」
【こんばんは】
時刻は、7時10分。場所は五十嵐家。
少し早めの風呂からあがってきたカエデは、2階の自室に入った。1階からはテレビを見ている父と母の笑い声が聞こえてくる。
中断していた勉強を続けようと机に向かった時、ふとカエデは机の上の携帯電話に着信を知らせる光が点滅している事に気づく。どうやら、メールが来ていたようだ。
とにかく、見てみなければ始まらない。メールの記録を確認すると、発信源は津田タカトシ。
「タカトシ君?」
少しだけ緊張しながら、内容を確認してみる。そこには、夜分に失礼しますという彼らしい一文の後に、1つの報告が書かれてあった。
――――――おかげさまで、妹のコトミが無事に合格しました。4月から、兄妹共々色々とお世話になります。
「ああ……」
思わず顔が綻んでしまう。そうなのか。タカトシ君の妹さん、無事に合格できたんだ。
カエデは、さっそく返事を書き込むことにする。
――――――おめでとうございます。妹さんにも、よろしく伝えてください。
返事が来たのは数分後。すぐにチェックをする。
――――――ありがとうございます! それでは、おやすみなさい。
「ふふっ……本当に嬉しいんですね。あれだけ心配していたんですし」
――――――はい。タカトシ君も、おやすみなさい。
そんな言葉で締めくくる。こんな何でもないやり取りにも、カエデは胸が温かく感じてしまう。
さて、とカエデは鞄の中からファイルを取り出す。明日までに提出するべき書類があるのだ。2年生の風紀委員長としては、最後の仕事なのだから。
必要事項を記入し、次の書類に手を付ける。ふと、そこである事に気づいた。
「いけない……これは、会長の許可が必要だったわ」
必要な個所に、生徒会長のサインが無い。最後の仕事だというのに、らしくないミスをしてしまった。実を言うと後輩が仕事を忘れてしまったために起きてしまった事故だったのだが、チェックを見過ごしていた自分にも非はある。
時計を見ると、まだ7時30分にもなってはいない。連絡を取りつけて同意を得ておけば、自分の代筆でも事足りる筈だ。
会長のアドレスは知っている。カエデは電話をかける事にした。
数回のコール音。そして、会長が電話に出る。
「はい、もしもし。天草ですが」
「あ、会長。すみません。こんな時間に」
「いや、構わ……いぞ五十嵐。用件を……言って……れ」
何か雑音が混じっている。まるで、何かを焼いているかのような音だ。もっとも、必要な単語は聞こえているので、どうにか会話は成立しているのだが。
「あの、失礼ですが夕食の調理中でしたか? でしたら、時間を改めて……」
「いや、かまわん。それよりも……用件……は」
「すみません。実は……」
手短に、カエデは用件を伝える。シノは納得したように、了承の意を告げた。
「その案件なら……私からも異存……ない。五十嵐の代筆で構わんぞ」
「ありがとうございます。それよりも申し訳ありません、料理をしている時に」
「いや、なに」
シノは、何でもないかのように言った。それどころか、むしろ少しだけ嬉しそうに――
「実は今、津田の家に来ている」
ここだけ、なぜかハッキリと聞こえた。硬直するカエデ。
しかし、シノはお構いなしに喋り続ける。
「津田の……を、味わっている最中でな。つくづく、あいつは百戦錬磨の猛者だと再確認し……よ」
「え、え、え?」
頭の中でオロオロするカエデ。言っている意味が分からない。会長がタカトシ君の家にいて、彼の何かを味わっている?
「この塩辛さも、なんとも言えん。機会があれば、五十嵐も味わって……るといい」
「し、塩辛い……?」
「ふう……少し熱くなって……たな。服を脱ぐから、もう切らせてもらうぞ」
「……」
プツリ、と通話が途切れた。
その後、夕飯に来ないカエデを心配した姉の五十嵐ヤヨイが部屋に来て――
「ちょ、ちょっと! カエデ、しっかりしなさい。なんで机に突っ伏したまま気絶しているのよ!?」
――五十嵐家が大騒ぎになった。
【その頃の津田家】
「うわあ。やっぱりタカ兄が焼くと格別に美味しい!」
コトミが肉を齧りながら、上機嫌に言った。やはり桜才合格というスパイスが、彼女の機嫌を格段に良くしているのだろう。
「ちゃんと野菜も食べろよ。それと肉は逃げたりしないから、落ち着いてくれ」
「津田。その焼き豆腐は私が追加するから、貸してくれ」
シノがタカトシから皿を受け取り、ホットプレートに焼き豆腐をくべ始める。アリアも、ネギとしらたきを同じように入れた。
「私も何か入れようか?」
スズが自分を指さして言う。
「スズちゃんは春菊をお願いできるかな?」
「わかりました」
アリアが言うと、彼女は素直に指示に従う。タカトシも、コトミのジュースを冷蔵庫から取り出した。
今日の主役はコトミだ。だからこそ、みんなで精いっぱいお祝いをしなければ。
それでも、彼らとて思いっきり食べる権利はある。シノ達も溶いた卵に熱の通った食材をつけ、遠慮なく食べた。
楽しかった。嬉しかった。
熱い肉。醤油やみりんがしみ込んだ焼き豆腐。
香ばしい香りのネギに、味のしみ込んだえのき。
ささやかなお祝い。ささやかな労い。
楽しかった事、苦労した事。全てを、この時に楽しく思い出し合う。
この時。津田タカトシは、みんなの笑顔を見ながら思う。
合格が決まった時、皆をパーティーに誘えて本当によかったと。
――みんな。春になったら、兄妹共々よろしくお願いします。
心の中で、そっと頭を下げた。
そんなパーティーの一コマにて。
「会長。さっきの電話、いったい誰からだったんです?」
「五十嵐からだ。委員会の事で私の許可が必要だったのでな」
「すき焼きの音で聞こえ辛かったんじゃないですか?」
「聞こえない事は無かった。問題あるまい」
こんなやり取りがあったとか、なかったとか。
つづく