生まれるのは、漆黒の闇。
闇から生まれし怪の宴。
それでも、人は恐れを見せず。
心は負けじと光の如く。
その与えるべき温かみは、誰に向けられたものなのか。
【探索中】
一番星に続いて、ちらほらと夜空の輝きが増し始めている頃。
桜才学園の校舎頂上――すなわち屋上に、生徒会役員達と新聞部部長である畑ランコは足を運んでいた。夏の夜風は涼しく、遠くの街並みには色鮮やかなイルミネーションが夜空に対抗するかのごとく瞬いている。
「それで、ここが第二の噂の該当場所ですか」
「はい。人呼んで、百鬼夜行」
萩村スズの強張った声に、ランコはあっさりと応えた。生徒会会計の小さな身体が震えているのは、風が吹き付けているからではあるまい。
「夜に屋上からグラウンドを見下ろすと、これまでに学園のあった場所で亡くなった人たちの魂が通り過ぎる」
「それじゃあ、俺が見てみますね」
津田タカトシが挙手をし、屋上のフェンスへと近づく。他の女子は念のために近づく事はしない。入り口の近くで固まっていた。
「う、うむ。流石は私の右腕だな。人の嫌がる事を進んでやるのが、わが生徒会のモットーなのだから」
スズとは別の意味で、入り口の前にしがみついている者がいた。天草シノだ。高い所にはある程度の耐性がついたことは確かなのだが、まだ完全に克服したというわけではないらしい。
「……」
タカトシがグラウンドを見下ろして、少しの間。七条アリアが呼ぶ。
「津田くーん。どうだった?」
「……いえ、別に何も」
「なあんだ」
大して残念そうに聞こえない声でアリアは言った。ランコも別に期待はしていない様子で階段を降り始める。
「さ、さあ次ですね。さっさと行きましょうか」
「そそ、そうだな。早いところ階段を降りるとするか」
まあ、それ以前にとっとと先へ行ってしまった生徒会長と会計がいた事は言うまでもないが。主に、それぞれが違う理由で。
【ハアハア声がした】
第三の噂。場所は旧館の女子トイレ。当然のように入ろうとするシノ達に、タカトシは外で待っていると告げた。というか、入れるか。
今回ばかりは調査に参加できないので、一応噂の内容を聞いておく。
どうやら、ここのトイレは異世界に繋がっており、夜に使用すると便器から悪魔の手が出てきて引きずり込まれる、という事らしい。
花子さんみたいな、マイナーな話じゃあないんだな。内容のおぞましさにも拘らず、彼はそう考えるだけであった。
「それじゃあ、津田。少し待っていてくれ」
「はい」
男子であるタカトシを残し、トイレへと入っていく。トイレから漏れる照明の光が、暗い廊下を僅かに照らした。
トイレのドアは割と分厚い素材でできている。そのため、こちら側に何か会話が漏れ聞こえる事は無い。まあ、わざわざ耳を済ませる必要も無いのだが。
「おまたせいたしました、津田副会長」
数分後、トイレからランコやスズ達がトイレから出てくる。
「津田。言うまでもないと思うけれど、特に異常はなかったわよ」
ほぼ予想通りの反応だった。それっぽい現象でも起きていれば、スズがもっと顔色を青くしている。まあ、口には出さないが。
「そっか。それじゃあ、今度は2階の廊下だっけ」
「ええ。第四の噂は、あの世への電話です」
近くの階段を上りつつ、ランコは説明を始める。自然、生徒会役員はそれにゾロゾロとついてくる形になった。
「あの世への電話って、どういう事かな?」
アリアが訊く。階段を踏みしめる音が、カツンカツンと静かな校舎に響いていった。
「噂の場所は、職員室前に設置されている公衆電話です。夜中にその電話を使うと、死後の世界に繋がり、恐ろしい何かが“連れてきてしまう”のだとか」
「あ、あああありきたりな話ですね。よく出ででできていますよよよ」
「だから落ち着きなさい」
「な、なによいきなりっ」
ドモりまくるスズの頭を軽く撫でながらタカトシが諭す。その後ろで、シノだけがなんとなく面白くなさそうな顔をしながら歩いていた。
そんなやり取りをスルーしつつ、ランコ達は所定の場所にたどり着く。場所こそ見慣れた職員室の廊下であるが、暗い世界の中に浮かぶぼんやりとした公衆電話が、妙な不気味さを覚えさせた。
「では津田副会長、どうぞ」
「はい」
タカトシがヒンヤリとした受話器をとる。その横で、アリアが番号をプッシュした。
「アリアよ。今のは、どこの電話番号だ?」
「ううん。適当に押しただけ」
素朴な疑問のシノに、あっさりと答える生徒会書記。まあ、ここで友人の番号でも押せば、そのままその人の電話に繋がるだけなのだから、当然だが。
受話器を耳に当て、しばらく感覚を澄ましてみる。周囲の息を呑む音が、妙に大きく聞こえた。
――。
しばらく待つと、受話器から耳を離したタカトシがアリアに向き直る。
「七条先輩?」
「なぁに?」
「もう一度訊きますよ。どこの電話番号を入れたんですか?」
「だから、適当に押したんだよ?」
主にテレフォンセック○の枠内で。
【闇にいたのは……】
「それで、次の検証場所はどこです?」
「この先の、美術室です。名づけて、美術室の死神」
美術室とは、いかにもな場所だ。しかし、死神とはどういう事なのか?
「昔、ある生徒が死神をモチーフにした絵画を完成させたそうです。しかし、その生徒が事故で亡くなって以降、生徒の幽霊が死神自身となりました。そして、夜な夜な向こうの世界に一緒に連れて行く人を求めて、絵画から抜け出してくるとか」
「死神の絵画なんて、美術室にあっただろうか?」
素朴な疑問を口にするシノ。対して、ランコは歩く足を緩めないまま答える。
「今でこそ不吉だからという理由で遺族の方々に返却されたそうですけれど。しかし、死神そのものは未だに美術室に姿を見せているという話です」
「おっと、ここか」
危うく通り過ぎるところだった。シノ達は足を止めて、非常灯に照らされている美術室の前に立つ。
「それじゃあ、津田副会長。またお願いしますね」
「まあ、いいですよ」
ここで女の子に試させるようでは男が廃る。タカトシは文句を言わずに出入り口のドアを開けた。ガラガラ、と妙に重い音が静かな校舎内に響いていく。
「……」
暗闇に目が慣れているため、電灯を点けなくても中の様子が見渡せた。特に怪しい姿形はない。
タカトシはしばらく周囲を見回していたが、やがて廊下へと引っ込んでいく。
「……やっぱり問題はありませんね」
「じゃ、次行きましょう」
その調子で、今度は六つめの噂。もう皆も慣れたもので、足取りに戸惑いはない。
七不思議、か。タカトシは漠然と今回の仕事を考えた。
怪談は古来から現代まで言い伝えられている、夏の定番だ。実際に幽霊など信じた事もないが、現実として宗教を中心として人間社会に根付いていることもまた事実なのである。
そもそも、霊的な存在などいないと笑っている者達とて、元旦は神社へお参りに行って神頼みをしたり、お盆にお墓参りをして先祖の霊に対して礼節を尽くすだろうに。
だから、タカトシは決して遊び気分でこの仕事に参加しているのではない。たとえ話の出所が退屈な先輩達の思い付きから生まれたものであろうとも、生徒会役員として噂に歯止めをかけるのは義務なのだろう。
まあ、それでも肩の力が入っているというわけではないのだが。
「次はこちら。音楽室です」
「これは定番ですね」
目の前には、通常の教室よりも大きめの出入り口。当然ながら防音効果が完備されているので、中で音楽が鳴り響いていても、廊下には聞こえない。
「油断していると、本当に出るかもだぞ」
「いえ、気を抜いているわけではありませんよ」
シノの指摘に、タカトシは手を振って答える。その横で、アリアがランコに今度はどういう噂なのかを尋ねた。
「人呼んで、幽霊のコンサートです」
「コンサート?」
「はい。夏休みの夜に、この学園で亡くなった生徒達の霊が誰もいない音楽室を借り切っているそうです。そこで、夜な夜なラップ音のような音や声が明け方まで聞こえてくるという話で」
この学園の歴史は長い。確かに、在校中に事故や病気で亡くなってしまう生徒もごく僅かなのだろうが、ゼロではないのだろう。その霊が、音楽室に集まっていると。
「まあ、とにかく……開けてみますね」
そっと、タカトシはドアを開ける。中でコーラス部が練習をしているかもしれないので、できるだけ音を立てずに。
生徒会役員とランコが見たものは――
「……」
――ピアノの周りを囲むように立っている、女子生徒の集まり。
「どうやら、練習中のようですね」
「ええ。それじゃあ、次に行きましょうか」
「今度が最後ですよね」
ドアを閉めた彼らは、邪魔をしないようにそそくさと廊下の奥へと去っていった。
【噂から生まれた……】
最後は、家庭科室にまつわる噂。
何でも、一説には過去に実際に起きた事件が発端となっているらしい。
話を聞くと、昔家庭科室で調理中の生徒が、誤って自分の手首を包丁で切り落としてしまうという、なんとも恐ろしい事故があったのだという。
その女子生徒は病院に運ばれたものの、間に合わずに失血死となる。そして幽霊となった今も、失われた手首を求めて調理室へ探しに来るのだ。
「スズちゃん、寒いの?」
「……」
スズはアリアの心配する声にも返事をせず、両手で耳を閉じたままガクガクと震えているだけであった。怖い話に、抑えていた恐怖がぶり返してきたのだろう。
階段を降りて、一階の調理室へと向かう一同。複数の歩く音が、今はなぜか遠く思えた。
窓の外を、タカトシは何気なく見る。ガラス一枚隔てた先の世界は、ただ漆黒の闇。ヒトが製造する光によって、かろうじて出歩くことができる時間。
「……津田?」
「はい?」
ふと気づくと、シノがどこか眉根を寄せて自分を見ていた。
「どうかしたのか? 今、少し怖い顔をしていたようだが」
「ちょ、ちょっと。あんたが怖がるなんて洒落にならないわよ」
スズが怯えたように副会長を見るので、一応否定しておく。
「違うよ。そうじゃなく……」
「……津田君?」
「え?」
つい会話に集中していたせいで、近くに人が近づいている事にも気づけなかった。暗い廊下に、非常灯に照らされた人影が立っていたのである。
「おお、五十嵐ではないか」
シノが気さくに相手の名を呼んだ。
相手はコーラス部員であり、風紀委員長の五十嵐カエデであった。そして、タカトシにとっては会いたいと思っていた相手。
「カエデ先輩じゃあないですか。こんな所で、どうしたんですか?」
つい顔がほころびそうになるタカトシとは対照的に、眉根を寄せるカエデ。ついでに、シノとスズも。
「津田君。前にも申し上げましたけれど、そういう呼び方は誤解をされますので」
「どういう誤解をされると思っているんだ?」
「その辺、詳しく聞かせてもらえませんかね?」
「で、ですから……津田君が、その」
恨めしそうにタカトシを見るカエデ。周囲の反応を気にしているらしく、居心地が悪いのだろう。そこで我に返るタカトシ。
「ああ……すみません。その、五十嵐先輩」
浮き上がった熱が冷めていくのを自覚する。やはり、彼女にこういう態度をとられるのは辛い。だが、めげてばかりもいられないのだ。
「それで、どうしてここに?」
「そちらこそ何をしているのですか」
「俺たちは、新聞部の取材の立ちあいで、学園の七不思議を調査中なんです。この先も、噂のスポットのひとつですから」
手で廊下の奥を指し示す。カエデはチラリと視線を向けた。
「ああ、そうでしたか。私は調理室に用があリまして。そこに向かう最中、うっすらと明かりが見えたんです」
不審に思い、足を運んでみたら生徒会役員達が歩いていた。つまりはそういうことだったのだ。
「そろそろ夕食の時間ですので。足りなかった食材を先ほど購入して、これから冷蔵庫に入れるんです」
そういって、手元に持っている買い物袋を見せる。暗闇に慣れた目でニンジンやジャガイモが入っているのが確認できた。
自然と、一緒に歩く形になる。行き先は同じなのだから当然だが。
生徒会役員と雑談しながら、一行は歩く。カエデは元々女性限定ならばいたって社交的な性格だ。身近な話で会話が弾む。
しかし、タカトシにだけはあまり話題がこない。意識的になのだろうが、やはり少しだけ気落ちしてしまう。
思い切って、タカトシは話題を振ってみる。できる限り不自然にならないように、さり気なく。
「ところで、先輩も今日はコーラス部の合宿でしたよね。事前報告で聞いています」
「ええ。それが何か?」
「いえ。ただ、コンクールもあることですし、頑張ってほしいなと」
「どうも」
以前ならば、ありがとうございますと笑顔で返事が来ただろう。だが、今となっては素っ気無いものだった。それとも、彼女が意識してそうしているからだろうか。
「……」
会話を続ける気がない。明らかにそう思わせる態度のカエデに、少しだけ役員達の会話が途切れる。
まずい。タカトシは思う。今のは、どう見ても自分が空気の読めない男だ。
「……」
一方で、カエデもまた胸をチクリと痛めていた。彼の事を意識しないように努めていたとはいえ、さすがにやり過ぎだったんじゃあないだろうか。
――ど、どうしよう……
タカトシとカエデは、ほぼ同時に同じ事を考えていた。
「……さて、それでは皆さん。調理室につきましたよ」
と、そこでタイミングよくランコが告げた。そのいつも通りの口調に、とりあえず固まりかけた空気が霧散する。
内心で胸をなでおろすタカトシ。それとも、彼女があえて空気を読んでくれたのだろうか。
「しっかりしてください」
「はい……」
こそっと、ランコに咎められる。やはり気を使われたようだ。情けなさを噛みしめるタカトシ。
「……ああ、そういえば七不思議の調査って言っていましたっけ」
そこでカエデが、思い出したように言う。
「これを確認すれば、七不思議の調査は完了いたします。それでは津田副会長、例によってズイッと」
「はい……」
そっと、ドアに手をかけるタカトシ。
ドアをゆっくりと開いているタカトシの背中を見て、女性陣は思う。
まあ、何かがあるとは思えない。ほとんどの者が、そんな似たり寄ったりな事を考えていた。
――しかし、その考えは誰もが失せた。
この時を持って、本当の恐怖が彼女達を襲うことに。
噂の調理室。手首を包丁で切り落とした逸話を持つ場所。
その中に、確かに存在していた。
懐中電灯が照らしている、闇に浮かんだ――ダレカの首、が。
【怪談の正体】
「…………え?」
その声の主は、果たして誰だったか。
誰もが硬直し、動けなくなっている。皆、自分の目に映った物が何を意味するのか、理解が及ばなかったのだ。
首。そう、首である。
ヒトの首。その何かの首についている2つの瞳は、皿のように見開いてこちらを射抜いている。
表情は、驚愕。だが、きっと今の自分達もまったく同じ顔をしているに違いない。
ギリ。
何が不快なのか、見る見るうちに顔が強張り、歯茎を見せて睨み付けてくる。まるで、鬼のような形相。
あまりにも、予想だにしなかった光景。調理室の中で、生首がこちらを睨み付けてくるなど。
奇妙な音が、やけに大きく鳴った。カエデが、無意識のうちに手に持っていた買い物袋を落としたのだ。
その、場違いな音が聞こえた事こそ。
この世界の全てに現実感を与えるスイッチであった。
「ぎゃああああ!!」
悲鳴。萩村スズの、心からの叫び。
「う、うわあっ!」
冷静なシノも、この時ばかりは思わずのけぞった。
「ひゃあっ!」
肩をビクつかせ、身を引くアリア。
「っ!?」
ランコにしては珍しく、カメラを構え損ねたように身体を硬直させた。
誰もが驚愕する光景。しかし、最もパニックになった者は――
「い、いやあっ!」
カエデである。落とした買い物袋を拾う事もできず、動転していた事など誰も責める者はいない。それよりも、彼女に迫っているモノが、何よりも恐怖を覚えさせたのだ。
夜の調理室の中から、彼女らに向かって突きつけられた銀色の何か。それが、包丁だと理解できる者がどれほどいただろうか。
そう。包丁である。
まさに、あの噂の通り――手首を切り落としたという凶器だ。
その切っ先が、まっすぐにカエデの喉に向かって……
「いやあああっ!!!」
――幽霊に殺されてしまう!
両目を、硬く閉じる。逃げようにも、身体がいうことをきかないのだ。極度の驚きによって、身体が硬直してしまっているので。
……しかし、その痛みは感じなかった。
恐る恐る目を開けると、そこのあったのは大きい背中。男子特有の広い背中だ。
その背中が割って入り、カエデから恐ろしい刃物を守ってくれたのだ。
事実、飛び出した刃物は男子――津田タカトシの胴体には刺さっていない。包丁を持った手を、彼が力強く押さえつけているのだから。
「あ、あ……」
廊下にへたり込むカエデ。冷たい床から立ち上がれないまま、彼女はただ目の前の光景を見上げるしかない。
「はっ!」
気合と共に、タカトシが刃物を持つ手首に拳を縦に叩きつけた。獣のようなうめき声と共に、包丁が床に音を立てて落ちる。
タカトシは廊下を力強く蹴り、暗い調理室の中へと入っていく。入ったというよりは、目の前の何かに飛びかかったというべきか。
転がっている懐中電灯の光で、中の様子が見て取れた。互いに襟をつかみ合い、もう片方の腕でタカトシを殴ろうとしている腕を、彼が捌いている。
ここまでくれば、誰もがようやく理解できた。生首だと思っていたのは、幽霊などではない。れっきとした、生きた人間だったのだ。
そう、人間。真っ白な頭でもようやく理解できる事は、その人間が明らかに体格の良い男だということ。しかも、教職員ではない。
あの男が誰なのかは答えが出ないまま、目の前の攻防は続く。
「うぐおおおっ」
野太い声。男が発したものだ。気合と共に、柔道の背負い投げを仕掛ける。足が床から離れ、投げ飛ばされそうになるタカトシ。
ここは道場ではない。床が固い場所で背中を打ち付けられれば、プロの格闘家でも大怪我は避けられないだろう。
しかし、彼は冷静だった。男の背中をマット代わりにして側転し、その勢いで捕まれた腕を外す。着地すると同時に相手の袖を掴み、自分の顔の真横に引く。
向かい合った相手の右足首が僅かに浮き上がったところを、自分の左足で払う。日本拳法では投げ技の基本だ。
バランスを崩して下半身が倒れこんだところを、タカトシの振り下ろした拳が男の胴体に直撃する。息が一瞬だけ止まったのか、潰れた蛙のような声を上げる男。
その隙に親指を下にして、相手の手を外側にひねる。途端、男はまるで子供のように悲鳴を上げた。膝をつき、やめてくれと懇願を始める。
逮捕術のひとつ、ニカ条と呼ばれている技。これで、決着はついた。
あまりの出来事に、呆然とするしかない周囲の女子達。なんだこれは。何がどうなっているんだ。
誰もがタカトシと男から視線を動かせない状況が続く。そこで、暗い廊下の奥から誰かが走ってくる音が近づいてきた。
「あ、いたいた。会長、カエデっ!」
姿を見せたのは、制服姿の女子生徒数人。いずれも、今回のコーラス部合宿の参加者だ。よほど急いでいたらしく、肩で息をしている。
「実は、ちょっと大変な事が起きてしまって……」
「さっき私達が気づいたんですけれど、その……空き教室に置いてあったバッグや鞄から、皆の財布が抜き取られていたんです!」
「誰かが盗みに入ったんですよ、きっと。何とかしてください!」
矢継ぎ早に訴える女子生徒たち。もっとも、シノの方もまともに応対できるような状態ではなかったのだが。
それでも、何とか我に返ったのはアリア。血の気が失せたような顔色で、調理室の中を指差す。
「あ、あの……それってもしかして、あの人の事?」
「はい?」
示された方を見る。そこで、彼女達は生徒会副会長に拘束されている見知らぬ男の姿を目の当たりにした。
「うう、悪かったよ。2度とここには来ないから、見逃してくれ……今まで盗んだものも、全部返すから」
そして、自白。この中で、唯一冷静だったタカトシが、ハッキリと言い放つ。
「やはり泥棒だったな。このまま警察に通報してやるから、覚悟するんだぞ」
言い訳など聞きたくもない。その思いを込めた断言だった。
【この想い、キミに届け】
「本当に、津田君は無茶をする人なんですね」
「……そんなつもりはないけれど」
どこか元気のない声は、五十嵐カエデ。目の前の津田タカトシと向かい合う形で椅子に座っているのだ。
2人が腰掛けているのは、保健室の椅子。普段は保険医が座る場所に、今はカエデがいる。患者用の椅子に座っているタカトシは、まさに患者としてこの場にいるのだ。
「ほら。動いてはいけませんよ」
「は、はい」
コーラス部の名に恥じない細い指が、タカトシの鍛えられた野太い掌にガーゼを取り付けてくれる。それだけで、タカトシの心拍数が上がっていくのを感じた。
窓の向こうから、パトカーが次々と去っていく姿が見える。自分たちは、先ほどまで生徒の一人から通報を受けた警察官達に事情聴取を受けていたのだ。
自分達の聴取が終わったあとで、カエデはタカトシが人目を気にするように保健室に入っていくところを偶然見かけた。そこで見たものは、消毒液を手に取ろうとしている彼の姿。
誤魔化しようがない。タカトシはカエデを狙った包丁を止める際に、手に傷を負っていたのである。
慌てた彼女は保健室に入ると、手当てをさせてほしいとお願いしたのだ。慌てた彼に構いもせず、風紀委員長は苦手であるはずの男の手を躊躇いなく取った。そして、なぜ気づけなかったのだと、カエデは自分を叱る。
半ば強引に椅子に座らせ、カエデはタカトシの治療を始めた。そして、今。
「終わりました、津田君」
「……はい。ありがとうございます」
ふと気づくと、処置はすでに終わっていた。単なる切り傷なのだが、真面目なカエデらしく包帯もしっかりと巻かれている。
「……」
「……」
しばらく、向かい合ったまま沈黙が続く。お互いに、俯いたまま何も話さなかった。
「先輩」
沈黙を破ったのは、タカトシであった。顔を上げた彼の視線は、まっすぐにカエデに向けられている。
その視線に、彼女の肩が上下に跳ねた。
「俺、ずっと考えていたんです。先輩のこと」
「……」
「やっぱり、こんな風に意識して他人行儀になるのって、ちょっと……いいえ、凄く嫌でした」
「それは……」
「だから、もう一度許してほしいんです。また、カエデ先輩って呼ばせてほしいから」
「っ……」
タカトシと目を合わせられない。顔が熱くなり、視界がぼやけている。
「ごめん、なさい。言え、ません……」
「カエデ先輩」
「だってっ」
喉を引きつらせながらも、カエデは顔を上げた。その潤んだ瞳に貫かれ、タカトシは思わず息を呑む。
「だって津田君、他の人にだって、凄く優しいじゃあないですか」
「えっ……」
「どうせ他の女の人とは、もっと優しくしているんでしょうって事です……」
「……」
「森さんや会長のような人と一緒にいる方が楽しいんでしょう、どうせっ」
ドン、と両手の拳でタカトシの胴体を叩く。力が入っていないので、全然痛くなかった。
「えっと……カエデ先輩、ひょっとして……やきもち妬いてくれていたんですか?」
「違う……やきもちなんかじゃ……」
再び俯いたカエデだが、その態度はもはやタカトシの言葉を肯定している事と同じであった。
それを理解し、彼の心に不思議な安堵感と嬉しさが滲み出てくるのを感じる。自分でも、顔が綻んでしまうのが分かった。
「その……嬉しいです。俺、てっきり嫌われちゃったんじゃないかって」
そっと、包帯を巻いてある手でカエデの頬に触れる。カエデはすぐに顔をブンブンと振って拒絶するものの、それはなんだか駄々をこねる子供にしか見えなかった。
「だから、違います……」
「だったら、俺の目を見てください。目を見て、それでもそう言えますか?」
「……」
視線が、一瞬だけ合う。それでも、カエデはすぐに目を逸らしてしまった。
「わ、悪いんですか。私が、や、やきもちなんて……」
「いいえ。俺、本当に嬉しいんですよ。カエデ先輩が、俺の事をちゃんと意識してくれてたなんて」
「そ、そうですよ。やきもち妬いていましたよ。うっ、うっ……」
潤んでいた涙が、とうとう頬を流れた。タカトシは反射的に椅子から立ち上がり、自分の身体に愛しい女性を抱きとめる。
ジワリと、制服のシャツが濡れてきた。でも、タカトシは一向に構わなかった。黙って、彼女の次の言葉を待ち続ける。
どれくらい、そうしていただろうか。やがてカエデは、ポツリポツリと囁くような声を出す。
「昔から男子が怖くて……ずっとそれに負けないようにって心がけていたのに」
「はい」
「中学の時なんて、一生独り身なんだろうって、男子にからかわれた事もあるんです。私が、いつも女子とばかり一緒にいるから」
「そんな人は相手にする必要すらない人種ですよ」
それは初耳だったが、素直に気の毒だと思う。おそらく、その男子はカエデに気があったのだろう。自分の気持ちに気づいてくれない腹いせに、あえてそういう言い方をしたのではないだろうか。
気になる女子に、悪い印象でもいいから覚えてもらいたいという幼稚な行為。だが、タカトシからすればただの嫌がらせだ。一度嫌われたら、二度と好かれはしない。
「なのに、ダメなんです。気がつくと、津田君の事ばかり考えちゃうんです。森さんとキスしているところを見た時だって、凄く辛かった。いたたまれなくて、逃げてしまって……」
「していませんよ。あれは、ただの耳打ちです。あまり泳げない事を大きい声で話したくなかったらしくて」
「……本当? 本当なんですか」
「はい。森さんも俺も、そんな軽薄な人間じゃありません。信じて」
タカトシの身体からゆっくりと顔をはがし、潤んだ目で見上げてくるカエデ。その様子は、どこかすがりつく子猫を思わせた。
「本当ですよね。もし嘘だったら、もう2度と口を利いてあげませんから」
「それは辛いですね。でも、分かりました」
「……っ!」
再び、彼の胸に顔を押し付けるカエデ。今度は、タカトシも両腕で彼女の震える細い身体を、そっと抱きしめる。
「……色々、誤解させていましたよね。本当にすみませんでした」
「もう、いいですから……」
いつまでそうしていたのだろうか。タカトシはそっと愛しい女性の小さな耳に、そっと囁きかける。
「カエデ先輩」
「ひゃんっ! ……な、何でしょう?」
息が首筋をくすぐったのだろう。それでも、どうにか聞き返す。
「好き、です」
「――――――!!??」
一瞬で、カエデの耳が真っ赤になったのがわかる。硬直すると、次第にタカトシをポカポカと叩き始めた。やはり、まったく痛くない。
「もう、馬鹿! ズルいです!! タカトシ君は、卑怯です!」
ズルいズルいと、子供のように喚きたてる。こんな時にそれを言われたら、もう返事などひとつしか無いではないか。
「ええ、そうですね。それで、返事はくれないんですか?」
「うー」
彼女がどんな顔をしているのか、容易く想像がついた。きっと、恨めしそうな顔をしているに違いない。
やがて、ゆっくりと彼の腕の中で力をなくしていく。そっと彼の背中に腕を回した。
「わ、私も……ずっと……」
緊張で震える唇。それでも、偽りの無い本心を伝えようとする――
――前に、目が合った。
「あ」
「おや」
「あら」
保健室のドア。その影から、カメラのレンズをこちらに構えた畑ランコ。そして、ついてきていた七条アリア。
【実在していたのは】
時間は、ほんの少しだけ遡り。
「それでは、ご協力ありがとうございました」
「いえ。それでは失礼します」
場所は校門前。赤いライトが光るパトカーの前で、生徒会長のシノは事務的に頭を下げた。相手は、年若い警察官。つい先ほどまで、事情説明に協力していたのだ。
シノ達は知らない事だが、タカトシとカエデが警察の世話になるのは、これで2度目である。今回は警察署に行くような事は言われず、学園の校舎内で質疑応答を受けただけ。
それでも、タカトシだけが警察から解放されたのは他の女の子たちに比べて随分と長かった事はいうまでもない。
当然といえば当然だ。なにしろ、彼は今回の一件で一番の功労者だったのだから。
犯人を乗せたパトカーは、とうに去っていた。事情聴取を終わらせた警察官もパトカーに乗り込み、自分達の仕事へと戻っていく。
それを、タカトシや生徒会役員たち、コーラス部の女子生徒たちが見送る。少し離れた場所では、新聞部の部員達もカメラのシャッターを切り続けていた。
誰かが、はああっと息をつく。それをきっかけに、強張っていた彼女らにも表情が戻ってきた。
「凄い事になっちゃった……」
「でもよかった。ちゃんと財布やスマホ、無事に戻ってきて」
「あの犯人、一生刑務所にいればいいのに」
口々に、所々から言葉が聞こえてくる。それは、自分達の時間がようやく日常に戻ってきた事への合図でもあった。
未だ興奮から覚めやらぬまま、周囲の女子は少しずつ校舎内へと戻っていく。まったく、女というのは本当にタフなものだ。
「それじゃあ、天草会長。私たち、これで失礼します」
「ああ。こんな事になってしまったし、少し休んだほうがいい」
「はい。ありがとうございました」
そう言って、コーラス部員の一人が頭を下げて去ろうとする。たしか、シノの記憶ではカエデの友人であり、ナオミという名前の生徒だったはずだ。
そのナオミは、部員の皆と同じように離れていく。行き先は体育館。
「……ん?」
そこで、シノとの認識に齟齬が生じる。彼女は、慌ててナオミを呼び止めた。
「はい。なんですか?」
訝しげに足を止めるナオミ。シノの隣では、スズも目を瞬かせている。
「あの、会長。どうかしたんですか?」
「……なあ、萩村。少し思い出してほしいんだが」
「?」
わけが分からない。何を思い出すというのだろう。
「今日の七不思議の最中、音楽室に寄った時の事だ」
「え、あ……!」
そこで、ようやくスズも気づいた。顔色が、一気に青くなっていく。
「す、すまない。確認するために訊いておきたいんだが」
「は、はい」
「今回のコーラス部の合宿は、いったい“どこで行われていた”のだ?」
「どこって……ずっと“昼間から”体育館でやっていましたけれど?」
瞬間、2人の記憶がフラッシュバックする。
音楽室にある、第六の噂。名前は、幽霊のコンサート。
――夏休みの夜に、この学園で亡くなった生徒達の霊が誰もいない音楽室を借り切っているそうです。
そして、自分達が見たものは……
なぜか、暗闇の中で。
女子生徒たちがピアノを囲んでいる姿。
そう。顔も知らない“見知らぬ女子生徒たち”が――
宵闇の桜才学園にて、校門と保健室から絶叫が上がったのは、まったくの同時であった……
つづく