彼と彼女はまた一つ大きくなる。
過去のもどかしさなどとうに無く。
あるのは、ただこれから手をとる期待と動悸。
だからこそ、今宵の僕らは。
同じ時を、過ごしていこう。
【新しい朝】
夏の真っ只中、と家を出た時にも思った。
夏休みが始まって、まだ一週間。実感するのは毎度の事なのだが、なにしろ日課のランニングを始める際、第一に思うのがそれなのだ。
フッ、と意識して強く息を吐く。毎年の平均気温は年々高くなっているが、暑さに負けているようでは鍛える事などできない。
アスファルトを踏み、いつものランニングコースを走る。早くも汗が出ているのが、少しだけ鬱陶しい。
この午前中の時間帯は、商店街近くにほとんど人影は見えない。みんな、公共施設を目的に都心へ遊びに行くか、外に出る事を嫌って家にいるかのどちらかだ。
通りに向かって走りながら、津田タカトシは思い出していた。数日前の、あの事を。
新聞部の合宿として、学園七不思議の調査を合同で行う事になった生徒会役員達。その過程で、ちょっとした事件が起きたのだ。
桜才学園に、泥棒が入ったのである。その男は、同じく学園で合宿をしていたコーラス部の所持品を奪おうとしていた。
実を言うと、タカトシは泥棒が学園に入っているという可能性を途中から予期していたのだ。予期といっても、可能性のひとつとして視野に入れていたという方が正しいが。
七不思議調査のため、彼らは屋上に上がったのである。夕方時にタカトシがグラウンドを見下ろした際、校門から見慣れない人影が校舎内に入っていくのを目撃したのだ。
さすがに遠目だったので、容姿までは確認できない。しかし、少なくとも私服の男のようだったとはかろうじて理解できた。
こんな時間に誰だ。しかも、どこか周囲の目を気にしているような様子だったが。
用務員か学園の関係者が、忘れ物でも取りに来たのかもしれない。しかし、不審者の可能性も無視はできなかった。
結局その場では結論が出ないまま、タカトシは階段を降りていく彼女達の背中を追う事にしたのであった。
そう。もしもの時のために見回りの意味も兼ねて、タカトシはずっと七不思議の調査に取り組んでいたのである。いざという時は、自分が皆を守るという決意を胸に秘めて。
そして、後に本当の泥棒だった男と鉢合わせし、たまたま一緒にいた五十嵐カエデを傷つけようとしたのだ。予め心構えはできていたタカトシがそれを止め、男を取り押さえる事に成功する。そのまま警察へ通報。
そこまでならば、修羅場を乗り越えた一幕でおしまいだっただろう。しかし、タカトシにとってはむしろそれからの方が強く心に残っている。
取っ組み合いの際に受けた切り傷をカエデに見咎められ、保健室で手当てをしてくれたのだ。そこで、彼は思い切って自分の素直な気持ちを打ち明ける。
当然、カエデは動揺。それでも、最後は――
いや、とタカトシは走る足を止めないまま思う。出入り口でこちらを盗撮していた新聞部部長の畑ランコと書記の七条アリアがこちらを覗いていた事が発覚し、うやむやになってしまったのだ。
まったく、肝心な時に。自分の顔が猛暑とは別の意味で赤くなる。
「おっと……」
まずい。これ以上身体を熱くさせるわけにはいかない。今は走るのに集中しなければ。
そして、時折カエデの事を考えて集中力が乱れかけるものの、なんとか家に戻ったタカトシが見たものは――
「あれ?」
「ああ、やっぱりトレーニングをしていたんですね」
件のカエデが、家の玄関の前に立っている所であった。
【お誘い】
カエデと鉢合わせしたタカトシが真っ先にした事は、汗をシャワーで流す事だった。やむをえないとはいえ、汗臭い身体では何の話もできはしない。
そして、その後に昼食の準備をする。リビングで待っていたカエデは慌てて遠慮をするものの、いい時間帯ですからと納得させた。
「それに……今日はコトミも出かけていますし、一緒に食べたいかなって。ダメでしょうか?」
「……じゃあ、せめてお手伝いさせてください」
真っ赤な顔でそう提案することで、お互いが妥協した。2人ともエプロンを身につけ、調理を開始する。
昼食を作る手間は、1人分が2人分になっても変わらなかった。まして2人で作っている分、ずっと楽に思える。
パスタは少し麺を多めに茹でれば良く、カルパッチョも手馴れた手つきで作る事ができる。もはや彼にとっては慣れたものだ。
それらを津田タカトシが一通り食卓によそった時、椅子に腰を下ろしていた五十嵐カエデは、どこか居心地が悪そうな顔をしていた。
「本当にすみません、タカトシくん。突然お邪魔してしまった上に、わざわざ……」
正直なところ、カエデとしては食事をご馳走してもらうために来たのではなかった。こんなことなら、外食でもいいのでどこか適当なところで昼食を食べておけばよかったと後悔にも似た気持ちが見え隠れしている。
そんな責任感の強い彼女に、タカトシは笑った。
「一緒に作ったんですから遠慮しないでください。さっきも言いましたけれど、1人で食べるというのも寂しいと思っていたところですから。俺を孤独にさせないためにも、ぜひ一緒に」
冗談めかして言うところに、カエデはタカトシの優しさを感じる。
まだ、わずかに躊躇いを覚えたものの、結局はお言葉に甘えることになった。一口食べると、確かにレストランを連想させる味がする。
「お口、合いましたか? って、偉そうですよね、俺。合作なのに」
「あ、はい。すごく美味しいです。正直に言うと、タカトシ君のアレンジが口に合っているというか」
「……なんだか、こういうやり取りも何度目でしょうかね」
「まあ、そうですね……」
タカトシ達は、お互いにクスクスと笑う。外では、わずかに日の光が緩まっていく。雲にでもかかったのだろう。
時間が経ち、ゆっくりとした食事は終わる。自然と後片付けも手伝う事になり、肩を並べて台所に立つこととなった。
食後の紅茶を飲んで一息つくと、カエデは改めて津田家に来訪した理由を話す事にする。
といっても、何か学園の仕事に関することで何かがあったわけではなかった。彼女が鞄から取り出したのは、一枚のプリント。
「えっと……これ、学園のアルバイト募集のやつですよね?」
「はい。昨日、学園に用事があって来校したんです。その時に、一緒にいた友達から渡されまして」
確か、ナオミという人だっけ。タカトシはカエデと付き合いのある先輩を思い出す。
「それ、明後日から5日間の夏休み限定なんです。もし、その……ご予定がなければ、一緒にどうかと思いまして」
そういうカエデの顔は、少しだけ赤い。彼女のこれまでを察するに、男を誘うなど初めてなのだろう。
5日間。ちょうど、こちらも店舗を改装するという事でアルバイトが中止になっていたところだ。渡りに船とはこの事なのかもしれない。しかも学園から紹介されているというのなら、信頼が置けるはずだ。
「わかりました。やります」
二つ返事だった。断る理由などない。
それを聞いて、表情にはっきりと安堵の色が浮かぶカエデ。
「よかった。タカトシ君が一緒なら心強いです」
「大丈夫です。こう見えても、鍛えていますから」
「?」
「夏の海って、危険が多いって言いますし。自惚れるつもりはありませんが、がんばります」
カエデは少しだけポカンとした顔をすると、少しだけ肩を落とす。
「あ……はい。頼らせていただきます」
「?」
ボディガード的な意味じゃあなかったんですけどね。そう言いたくても言えないカエデであった。
「……もしかして、こういう事を言う男は好みじゃあなかったですかね?」
困ったように頭を掻くタカトシ。再び彼女の顔はポカンと。
そして、今度はゆったりとした微笑に変わる。
「いいえ。本当に頼もしいです」
それは、彼女の心からの言葉だった。
【一転して】
「それでは、失礼します」
玄関で靴を履きつつ、カエデはそう言った。あれから数十分ほど雑談を楽しんだ後、カエデは家に帰宅することになったのだ。
「はい、わかりました。それではまた、明後日に駅で待ち合わせということで」
「朝の7時ですよ。遅刻だけはしないでくださいね」
時間に真面目なカエデらしい。もっとも、自分も遅刻するつもりは毛頭ない。
「それでは、ご馳走様でした」
「よければ、駅まで送りましょうか?」
「いえ、大丈夫です。これ以上ご迷惑はかけられませんから」
さすがに食事をご馳走させてもらった後ろめたさがあるのだろうか。カエデは一度だけ頭を下げると、そそくさと家を出て行ってしまった。
「あ……」
なんとなく、落胆のような気持ちを覚えるタカトシ。もう少し、話をしていてくれても良かったのに。
おっと、と頭を掻く。これ以上引き止めるのはさすがに失礼だっただろう。彼女はあくまでもアルバイトに誘ってくれただけなのだから。
さて、勉強でもするかと自分の部屋に向かおうとする。来年は自分も受験生だ。成績は一応次席をキープしているが、気を抜けばあっという間に他の者達に追い越されてしまう。
部屋に入り、天気をチェックしておく。ちょうど番組の合間の天気予報が始まっていた。自分の住んでいる地区が、すぐに表示される。
――関東地方南部に非常に発達した低気圧が発生し、広い範囲で夕立となるでしょう……
「……」
タカトシは無言でテレビを消す。外は、どんよりと濁った雲。晴れていれば遠くに都会のビルが見える風景も、今は灰色に染まっている。雨が降っている証拠だ。
そして、あっという間に――嵐と見間違うほどの雨が降り注いだ。洗濯物を取り込んで置いてよかったと彼は内心で思った。
いや、今はそれよりも。
「……」
お節介かもしれない。そんな考えがチラリと頭を掠める。それでも、彼は行動した。
部屋を出て、玄関で靴を履く。そして、2本の傘を持って家を出た。
彼を迎えたのは、比喩抜きでバケツをひっくり返したと思うほどの雨。この短時間によくもまあここまで雨雲が発達したものだと内心で呆れる。
すでに水溜り状態のコンクリートを踏みしめつつ、駅の方面へと向かった。
「おいおいおい、ちょっとヤバいって!」
「今日って、天気予報は晴れのち曇りだったよね!?」
口々に騒ぐ通行人とすれ違う。誰もが傘の用意をしていないので、あわてて自宅らしい方向へ走っていた。
しかし、この地域に自宅がない者はそうはいかない。近くのコンビニで傘を買えばいいのだろうが、あいにくとタカトシが歩いているこの周囲は、昔ながらの川原だ。店らしい建物はもう少し歩かなければ存在しない。
朝の散歩に見た川原の光景も、雨が降るとまた違う様子に見える。川の氾濫はさすがに心配のし過ぎかもしれないが、あまり楽観はしないでおこう。
「……いた」
目的の人物を見つけ、ホッとする。川をまたぐ大橋の下。数人の家族連れに紛れて、不安そうな顔をしている1人の少女が立っていたからだ。
タカトシは近寄る。彼女は雨のせいもあって、自分に近寄ってくる人物に気づいていないようだ。そっと、肩をたたくタカトシ。
「っ」
ビクリと肩を震わせる。どうやら、少し驚かせてしまったかもしれない。
少しだけ怯えの走った視線がタカトシを確認した。途端、その澄んだ瞳を瞬かせる。
「タカトシ、くん……?」
「大丈夫ですか?」
全身を水浸しにしている彼女――カエデの姿は、いつもより少しだけ心細そうに見えた。
【シャワー】
「重ね重ね、すみませんでした……」
津田家の玄関につくまで、カエデは何度も申し訳なさそうにしていた。食事をご馳走してもらっただけではなく、ここまで気を使わせてしまったことに平身低頭したい気持ちでいっぱいなのである。
まさか、自分が雨宿りすることを見越して、ここまで追いかけてくれたなんて。
自分と同じようにタオルで頭を拭きながら、それでもタカトシは笑っていた。むしろ、持っていった傘が無駄にならなくて良かった、などという始末。
「それよりも、カエデ先輩」
「はい?」
「シャワー浴びます?」
「え!?」
「あ、すみません。少し温まったほうがいいんじゃないかなって」
顔を赤くするカエデに、タカトシは付け加えるように言った。実際、2人の服はびしょ濡れだ。
「し、しかし……タカトシ君も風邪をひきそうなのでは?」
「俺は後でいいですよ。むしろ、先輩が一番濡れているじゃあないですか」
傘を差していても、やはり足元は濡れてしまうものだ。翻って、カエデは全身がずぶ濡れ。どちらを優先するのか、考えるまでもなかった。
「そ、それではお風呂場をお借りします……」
「……濡れた服は、洗濯機の中に入れておいてください。いま、着替えを持ってきますので」
言うが早いが、2階へと向かっていくタカトシ。なんだか、今日は彼に迷惑をかけてばかりだなとカエデは思った。
そこで、彼がしれっと言う。
「着替えは、お姉ちゃんのでいいですかね。コトミのだと、ちょっと背丈が小さめかもしれませんので」
「もう当然のように来ているんですね、魚見会長」
いまさら驚くこともなく、カエデは素直な感想を述べた。
「あ、一応確認を取っておきましょうか」
「確認?」
タカトシはいそいそとポケットから携帯電話を取り出し、操作をする。
「えっと……私が言うのもなんですが、わざわざ連絡なんてする必要があるんでしょうか?」
「一応、自分にとってのけじめですよ。お姉ちゃんだったら許してくれると思いますけれど、人の肌着を使うんですから。念のために本人から許可をもらいたいので」
妙なところで徹底しているタカトシの耳に、携帯電話が繋がった英陵高校生徒会会長の声が届く。
「どうしたの、タカ君?」
「あのさ、悪いんだけどお姉ちゃんの下着使わせてくれない?」
「!?」
「タカトシ君。ちょっと待って」
手渡されたタオルは洗濯をしたばかりなのか、微かに洗剤のにおいがする。カエデは顔を始めとした肌を拭うと、衣服のボタンを外していった。
濡れた衣類は全て洗濯機へ入れ、そのままバスルームのドアを開ける。数ヶ月前に、魚見チヒロがタカトシの風呂場に入った暴挙を止めるために入った時以来だ。
「……あ、やだ」
そのときのことを思いだし、つい頬が熱くなるカエデ。生真面目ながらも愛らしい顔がほんのりと桜色に染まった。そのときの彼の下半身は、もう忘れたはずなのだ。蒸し返さなくていい。うん。
シャワーの蛇口をひねり、お湯を出す。白い柔らかな肌に、幾多もの水滴を浴びせた。
今の季節は真夏。それでも、水浸しになった身体には、温かいお湯の飛沫が心を落ち着かせてくれる。
――大丈夫ですか?
あの心配そうに自分を覗きこむ顔が、カエデの瞼の奥に焼きついた。雨に降られたときは不安が色濃く心に残ってしまっていたが、今はそれもない。
彼に迷惑をかけてしまった事はわかっている。それでも、カエデは嬉しかった。自分の気持ちを自覚してからは、それが一層強く感じられる。
「カエデ先輩?」
「は、はいっ!」
思わず、背筋を伸ばしてしまうカエデ。バスルームのドア越しに、いつの間にか来ていたタカトシが声をかけたのだ。
「着替え、ここに置いていきますね。サイズが合わなかったら、遠慮なく言ってください」
「ど、どうも……」
そう言うのが精一杯だった。どうやら、着替えを置きに来てくれただけらしい。脱衣所のドアを閉める音が聞こえたと同時に、カエデはヘナヘナとタイルの上に座り込んでしまう。
ずっとシャワーの音が響いている中、カエデはバスルームの中でポツリと呟いた。
「なにしてるのかな……わたし」
【彼女らの帰宅】
「ふいい……まいったよ。いきなり雨になるなんて」
津田コトミが家に帰って来た時、友人の時カオルと高部ノリユキも一緒であった。今日はコトミと一緒に遊ぶ約束をしていたのである。
タカトシは準備していたバスタオルを持って、玄関に駆け寄った。衣服を濡らしている3人に渡す。途中で購入したらしいビニール傘を畳んでいる彼女たちは、遠慮なく受け取った。
「あ、タカ兄。ありがと」
「どうも……」
「あ、ありがとうございます」
コトミはタオルで頭を拭き、カオルとノリユキも同じようにする。
「災難だったね、3人とも。時さんはコトミの部屋で着替えを貸してもらってくれるかな。高部君は、俺のを貸すよ」
カオルとノリユキはタカトシに礼を言うと、言われたとおりにそれぞれの部屋へ行った。
と、そこで廊下の奥からドアを開く音が。姿を見せたのは、言うまでもなくバスルームから出てきた先輩。
「すみません、タカトシ君。シャワーを先にいただいてしまって……えっ?」
一同、硬直。
彼女を除く全員が、風呂あがりの女性を見ていた。
彼女――カエデの今の姿は、普段とは明らかに印象が異なっている。やや茶色が混じった髪は、普段の見慣れた三つ編みを完全に解いていた。そのため、天草シノのようなストレートロングになっている。
例えていうなら、お隣の美人なお姉さん的な……まあ、そういう感じのアレである。
「……」
カエデ先輩、ですよね?
この場に2人きりならば、タカトシとてそう尋ねてしまっていただろう。それほどまでに、今のカエデは見知らぬ女性のような印象を受けたのだ。
だが、そんなタカトシの心の動揺も、この場にいる者たちは誰も察する事ができなかった。部屋に向かおうとしていたコトミが、なぜかにこやかにタカトシへと顔を向ける。
「……ああ、タカ兄の出張ヘルスの方ですね?」
「おいこら」
「出張ヘル……は?」
タカトシとカエデが顔を引きつらせているのをよそに、下級生2人の視線が集まる。
「……」
「……」
「いや、誤解だから。学園の先輩だから」
カオルの軽蔑と、ノリユキの羨望の視線に堪えながらタカトシは弁明する。
「あ。よく見たらそれ、お姉ちゃんの服」
「他に着るものがなかったから、貸しただけだ。100パーセント善意だよ」
「おお。つまりは、脱がす前に汚しちゃったってわけですな。タカ兄ってばケダモノ!」
「汚したという言葉の意味が絶望的に違う」
「こ、コトミさん。これは、私が服を濡らしてしまったから」
「なんと! 汚したのではなく、濡らされたと申しますかっ!!」
「雨で、が抜けています。カエデ先輩」
「なるほど。洪水にさせるほどタカ兄のテクがよかったと!! ぜひ、感想をお聞かせ願えますかな!?」
「外見ろ、外!」
「……」
「……」
「そこの帰ろうとしている2人方、待って。話聞いて」
結局、騒動が終わったのはそれから20分後の事であった。
【きれいにしましょう】
いまや室内にいても、鍵のかかった窓が鳴る音が聞こえる。強風が増している証拠だ。
今朝までの予報では、ここまでの嵐になるなんて聞いていない。だが、リビングのテレビでは速報で突発的な大雨が発生していると表示されている。気象庁は洪水と土砂崩れに警戒をと呼びかけていた。
時刻は、すでに4時を過ぎている。ソファやクッションに腰掛け、雨が止むのを待っている一同。しかし、天候は回復する兆しがない。
「うわあ。関東南部の電車、全線ストップだって」
コトミの驚きの声。さすがに彼女たちの顔色に、深刻さが浮かび始めている。まさか、この短時間で孤立状態になるとは思わなかった。
「車で迎えに来てって、父さんに連絡しようかな」
「見てなかったのかよ、さっきの道路の中継。どこも渋滞だって」
呆れた様子もなくカオルに指摘され、肩を落とすノリユキ。まあ、この状況では無理もないが。
「……」
会話が続かない。そこに、人数分のアイスコーヒーを入れてきたタカトシが言う。
「だったら、今日はうちに泊まるといいよ」
「え……こ、この家に一晩……」
「あ……なんか、すみません」
当たり前の提案なのだが、済まなそうにしているカオルはともかく、ノリユキは少々動揺しすぎている感じがする。外泊はあまり慣れていないのだろうか。
「うんうん。トッキー達なら大歓迎だよ」
「じ、じゃあ……そうしようかな?」
「何で疑問形なの?」
挙動不審なノリユキはさておいて、タカトシはキッチンへ足を運ぶ。手伝いを引き受けてくれたカエデと一緒に、洗い物をしているのだ。
「カエデ先輩も、それでいいですよね。男が住んでいる家で一晩っていうのは、あまり気が進まないかもしれませんが」
「い、いいえ。むしろ申し訳ない気持ちでいっぱいです。また一晩もご厄介になってしまうなんて」
また、というのはチヒロとの一件の事だろう。もう気にしなくてもいいというのに。
「でしたら……何か手伝わせてください」
「いえ。手伝うといっても、すでに手伝ってもらっていますので」
タカトシがすでに台所の後片付けを終わらせている光景を見て、そう言った。実際、カエデの洗い物は手際が良かったと思う。家でも、何度か手伝いをしていることを思わせるほどに。
「気にしないで。家に泊まるのですから、身の回りの世話をするくらいの礼儀はわきまえているつもりです」
「あ、それでしたらあたしもやりますよ。このままっていうのも心苦しいですし」
会話が聞こえていたのか、リビングにいたカオルも声をかけてくる。少し遅れて、ノリユキも手伝うといってくれた。じゃあ僕も、と。
「あ。それならみんなでやろうよ。そのほうが早く終わると思うし」
コトミも参加を表明してきた。こうなると、タカトシも遠慮をすることはできない。
「それなら、私はリビングの掃除をします」
カエデがそう言うと、カオルは風呂を担当することに。
「じゃあ、僕は廊下をやります」
「私はおトイレ」
ノリユキとコトミが同時に言った。家事の主な領域は彼女たちがやることで問題はなさそうだ。
タカトシは思う。ならば、自分がするべき仕事は――
「それなら、俺は浸水対策に砂ドノー袋を作っておきます」
「……外の仕事は、それこそこいつにでも任せればいいんじゃないですか?」
カオルが視線だけをノリユキに向けた。というか一晩世話になるのだから、むしろノリユキ自身が率先して行うべき仕事ではないだろうか。
「いえ。せっかく家事を引き受けてくれているのですから、それ以上求めるのは申し訳ありませんので」
「……そうですか」
仮にも家主として、一番苦労しそうな仕事は譲らない。やっぱり生真面目な人だとカオルは思った。
そして、同時に心の中で少しだけ詫びる。
――すいません。コトミのやつが言っていた出張なんとかっていう話、ついさっきまで信じちゃっていて……
雨合羽を身に着け、タカトシは庭の倉庫の奥で数枚のドノー袋を取り出し、スコップを使って土を入れ始める。
袋の口を押さえつつ、土を入れ続けた。充分な量になったら、また次の袋に。
掘り起こす庭の土の場所も、ちゃんと考えなければならない。掘れば水たまりができるのは当然なので、後で庭が凸凹にならないように。
楽な作業ではない。額や背中に汗が浮かぶ。さらに大雨なので湿気がひどく、また今の季節は夏だ。軟な鍛え方はしていないタカトシなのだが、さすがに蒸し暑さばかりはどうにもならない。
「よっ、と」
それでも、どうにか玄関前の浸水を防げる程度には設置できた。雨水は、すでに道路のコンクリートを沈めている。家の敷地内に段差がなければ、すでに浸水騒ぎになっていたのかもしれない。
とはいえ、これで作業も済んだ。玄関前で雨合羽を脱ぎ、出入り口のドアを開ける。すでに掃除は終わっていたらしく、リビングから話し声が聞こえていた。
どうやら、自分は一番作業が遅かったようだ。家に上がり、一言声をかけようとリビングに向かい――
――カオルの足を舐めようとしているコトミと、目が合った。
「なんだ、この構図」
【古典ラブコメ】
要約すると。
足の小指を角にぶつけたカオル。それをコトミが、熱いものに触った指を耳たぶに当てるような反射的行動で、舐める事にしたという。
必死に誤解を解こうとするカオルの表情は珍しいなと思っていたが、それでからかうというのも可哀想だ。タカトシはできる限り事情は理解しているよと伝えておいた。
ついでといっては何だが、ノリユキは足を舐めようとするコトミを止めるでもなく、とても真剣な顔で見入っていたという。いや、見てないで止めろよ。カオルは内心でそう言いたかった。
まあ、それはさておき。
時計を確認すると、夕食の準備をする時刻になっている。タカトシは手を洗った後、キッチンに入った。
「あ。カエデ先輩が準備してくれていたんですね」
「あら、タカトシ君。すみません。勝手に始めてしまって」
カエデはすでに、キッチンに立って調理を始めていた。コトミから借りている半袖の白いブラウスに、デニムのスカート。その上からエプロンを身につけている格好は、まさに年上のお姉さんという印象を受けさせる。
「……」
「どうしました?」
ついマジマジとカエデを見つめてしまうタカトシに、彼女は首をかしげた。一瞬の間のあと、彼は取り繕うように予備のエプロンをつける。
「あ、いえ。俺も手伝います。手伝わせてください」
「休んでくれていても良かったんですけれど。今日は私、タカトシ君に迷惑をかけてばかりでしたから」
困ったような顔をするカエデ。だがタカトシも譲らない。そもそも、迷惑などと思ったことはない。
「そんな事は考えてもいません。むしろ、もっと頼ってほしいくらいです。それよりも、夕飯は何にするつもりですか?」
「……そ、そうですか。それでは、鶏の照り焼きを作りたいので、準備のほうをお願いします」
「任せてください」
手馴れた手つきで調理を始めるタカトシ。カエデも、必要な調味料を彼に渡す。
しばらくして、肉に焼ける匂いがキッチンに広がった。しかし、同時進行で次の料理に取り掛からなければならない。今日の津田家は5人分なのだから。
タカトシが鶏肉を切り、小麦粉を薄くまぶす。カエデはししとうがらしに竹串をさして、穴を開ける。それが終わると、フライパンにサラダ油を入れて中火で熱した。
「鶏のくわ焼きですね。それなら、次は茶碗蒸しでも作ってみませんか?」
「いいですね。では、こちらでタレを作っておきますので、食材を用意しておいてほしいのですが」
「了解しました。実は、前に作ってくれた先輩の茶碗蒸しを思い出しちゃって。また食べてみたいなって思っていたんですよ」
「あ……そういえば作りましたっけ。まだ覚えていてくれたんですね」
「もちろんです。あの時は俺、長くシャワーを浴びていたので」
「ふふっ。あの時は……確かに……」
またしても、カエデの脳裏に浮かぶのはチヒロの風呂場へ特攻したときの光景。そして、止めようとした自分。
「……そう、でしたね」
途端、耳まで顔をトマトのように真っ赤にしてしまう。恥ずかしそうに俯いてしまうカエデの姿は、見ているだけで可哀想になってくるほどだ。
「あ、すみません……蒸し返すつもりはなかったんですが」
鈍感なタカトシでも、カエデの反応の意味は理解できた。彼女は生まれてはじめて、同年代の男の裸を目の当たりにしてしまったのだ。
「い、いえ。思い出すまいとしていた事を、つい……痛っ」
動揺のあまり、ししとうがらしに刺していたはずの竹串で、うっかり指を傷つけてしまった。プクリと、赤い血が彼女の人差し指に浮かんでくる。
「だ、大丈夫ですか?」
「ううん、気にしないで。これくらいなら大げさです」
本当になんでもないように言うカエデ。ここで、そうですかと納得していれば話はここで終わりであったかもしれない。
しかし、タカトシはつい行動してしまった。先ほどコトミがしていた反射的行動を、今度は彼が実践してしまったのだ。
台所の布巾で血を拭おうとしていた彼女の手を、彼はごく自然な手つきで取った。そして、血がわずかに滲んでいる細い指を、彼はそっと口に含む。
彼女の驚きの声が耳に入る。昔、自分が料理を勉強し始めた時のように、ごく僅かな血を吸った。
「あっ……」
ビクリと、カエデの肩が震えた。それに構わず、タカトシは血の混じった唾を台所の流しに飛ばす。
「先輩。念のためにバンドエイドでも……あ」
目の前には、茹蛸のように全身を赤くしているカエデが立っていた。一瞬遅れ、タカトシは自分が何をしてしまったのかをようやく自覚する。
「いや、あの……す、すみませんでした。他意はないんです! ただ、つい昔自分がやっちゃってた失敗を思い出して、いつの間にか、その……!!」
「い、いえ。いいんです! むしろその、気を使わせてしまって申し訳ないというか、それほど嫌だったというわけでもなかったようなそうでもない事もないのか……!!」
2人そろって、ワタワタと自分でもよくわかっていない言い訳を始める。顔を真っ赤にし、ろれつが回っていない。
そんなやりとりが、5分ほど続き。
「……」
「……」
どちらからともなく、気まずい沈黙が続き。
「……その」
「……あの」
どちらからともなく、意を決したような顔をすると。
「ご、ご馳走様でした……」
「お、お粗末様でした……」
どちらからともなく、頭を下げた。
そして、ほんの少しの間のあと。
「……ぷっ」
「……ふふっ」
どちらからともなく、クスクスと笑いはじめた。
「あのさあ、コトミさん。さすがに、覗きは不味いんじゃあないかな?」
「んふふ。いいの。こんな甘酸っぱい雰囲気のタカ兄って、初めて見たから。永久保存しなきゃ」
「自分の兄貴を盗撮なんかすんなよ……あの先輩たちも人前でアレはどうかと思うけど」
キッチンのカウンターの陰に隠れつつ、嬉々として携帯のカメラで動画撮影している妹。そして、その男友達が羨望の眼差しを。女友達は呆れの視線を向けていた事は、知る由もなかった。
【夜になって】
「――というわけで、タカトシ君の家に一泊するから」
その言葉を区切りに、五十嵐家に伝えることは全て伝えた。カエデが外泊をすることを、家族に伝えておきたかったのだ。
電話口で対応しているのは、姉の五十嵐ヤヨイ。彼女は男女関係について理解が深く、妹の突然の外泊にも気軽に了解をしてくれた。
「男の子の家なんだから、ちゃんと可愛い下着とかはいてなきゃあ駄目よ?」
「あのね。下着も人のを借りているから。それと、そんな事が目的で泊まるわけじゃあないの」
「あら。そんな事って何の事?」
「うちの会長達みたいな事を言わないで」
げんなりするカエデ。いつもながら、姉のこういうところは疲れる。
「まあ、それはあんたが帰ってきてからじっくり聞かせてもらうとして……1つ大事なことを忘れてない?」
「な、なによ」
いつになく真剣な声になるヤヨイに、少しだけ怯む妹。
「ゴム、ちゃんと持ってる?」
「お休み。また明日」
問答無用。電源も切っておくのおまけつき。
「どうかしましたか?」
「いいえ。なんでも」
不思議そうな様子のタカトシに、カエデは何でもありませんと清々しく言い切りつつ、副会長の隣の椅子に座った。
「それよりも、答え合わせの続きでしたね」
「はい」
ここは、タカトシの部屋。部屋で勉強をすることにした彼に、カエデが付き合う事になったのだ。彼女も寝るにはまだ早すぎる時間帯なので、手持ち無沙汰だったのかもしれない。
「まず、ここなのですが――」
「なるほど。俺はてっきり、こっちが正解かと」
「それは引っ掛けですね。この単語は、こういう意味にもとることができます。判りづらいので、無理もありませんが」
丁寧に教えてくれる。さすがはカエデだと思った。間違えてしまっている部分も、どうして不正解になってしまったのかを理解した上で教えている。まるで、問題を解いていた時の心を読まれているかのようだった。
いや、違う。カエデもまた、失敗と努力を重ねて優等生になっているからなのだ。自分にも経験のある失敗だからこそ、相手に対して共感できるように取り組んでくれている。
やっぱりすごいな。カエデという女性は。
「……とまあ、注意してほしいところはこれだけですね。他は特にありません」
「あ、ありがとうございます。先輩の教え方って、本当にわかりやすいですね」
タカトシはつい思ったことを口にする。カエデは照れくさそうに頬を掻いた。
「あはは……そういってもらえると嬉しいですね。天草会長や萩村さんと比べられてしまっているんじゃあないかって、正直不安だったんです」
「さすがは未来の先生というところでしょうか?」
「あ。覚えていてくれたんですね。そういうタカトシ君は、医者志望でしたっけ?」
「先輩こそ覚えてくれていたんじゃないですか」
しばらく、2人で笑う。そこで、話題は勉強の成績に関して。
「夏休み明けには、実力試験がありますからね」
「俺としては、正直満点が目標ですから。あと、萩村に勝つっていうのも」
「前回は、引き分けだったそうですね。私は、いつも生徒会の方に負けてしまって。いつも3位なんです」
あの天草シノと七条アリアはレベルが違いすぎる。いつもどういう勉強をしているのかと思うほどに。
「でも、勝ちたいとは思っているんじゃないですか?」
「それは、まあ」
「一緒に頑張りましょう。といっても、後輩の俺じゃあ役に立ちませんけれど」
「いいえ。勇気付けられます」
でも、自分を応援してくれるのは嬉しいけれど、それを会長達がどう思うかな……
そんな内心の不安をおくびにも出さず、カエデは勉強を続ける事にする。タカトシも、改めて机に向かった。
「今度は数学ですね」
「はい。一通り解いてみようかと思って」
「あ、タカトシ君。ここはね――」
と、隣の椅子から身を乗り出し、カエデは問題集の一文を指差した。
瞬間。
――柔らかい感触が、腕に触れる。
「――の公式を使うと……」
「……」
「……と、なるわけです。あの、タカトシ君?」
「え?」
「もしかして……分かりづらかったでしょうか?」
言われて、我に返るタカトシ。目を瞬かせ、口を開閉するなど挙動不審だ。
「す、すみません。ぼうっとしてしまって」
「……そうですか。では、もう一度説明しても?」
「は、はい」
その後も、勉強は続いた。それなりの結果を出すことはできた、と思う。
それでも。
何度目を逸らそうとしても。
勉強に集中しようとしても。
何度自らを叱責しても。
タカトシは、さっき触れた彼女の柔らかかった感触が頭から離れなかった。
【健康的男子】
そして、2時間後。
カエデはもう部屋にはいない。今は、ノリユキが床にお客様用の布団を床に敷いて、眠っている。時折いびきをかいているので、爆睡といってもいいほどに。
彼女たちは今、コトミの部屋にいるはずだ。さすがに時間帯は深夜に近いので、すでに就寝しているだろう。
そう。あの五十嵐カエデも今、同じ家の中で眠っている。そんな当たり前の事なのに、どうしても意識をしてしまうのだ。
――告白したんだよな。あの先輩に。
思い出すのは、夜中の保健室。あの時に彼女を両腕で抱いた感触は、今でもまだ残っている。
もし、コトミが帰ってこなかったら、今頃どんな時間を過ごしていたのだろう。
妹達をお邪魔虫扱いするわけではないが、タカトシの頭にはそんな可能性のifを廻らせてしまう。
ジッと、暗がりの中で天井を眺めているタカトシ。いくら夏休みとはいえ、朝は早く起きなければ健康に差し支える。しかし、眠気がまったく無いのでどうでもよかった。
思うのは、明後日のこと。
あと2日経てば、自分はカエデと出かけるのだ。アルバイトをするため、5日限定で泊り込みの。
タカトシは思う。どうして、彼女は自分をアルバイトに誘ったのだろうか。
考えるまでも無い愚問。そして、ほんの少しのそうであったらいいという願望。
期待して、いいんですよね。カエデ先輩。
「……」
目を閉じれば、瞼の裏に浮かぶ。
澄んだ瞳に長い睫。茶色がかった三つ編みの髪。ほくろ1つ無い肌。
コーラス部としてピアノを弾いているために、ほっそりとした指。
指。そういえば、自分は今日、彼女の指を……
――ああっ!
タカトシは思わず頭を掻く。熱帯夜ではないはずだが、急に蒸し暑くなっていくように感じた。
続いて思い出すのは、やはり。
パジャマ越しに押し付けられた、彼女のふくよかな胸。
あれは反則だ。思わず前かがみになりかけてしまった。ついでに言えば、風呂あがりだったために、とてつもなくいい香りがしたのだ。
心臓の鼓動が聞こえる。なんというか、息苦しい。
悶々する。今のタカトシの心情は、まさにそれであった。
しばらくジッとしたままになるタカトシ。だが、ゆっくりと上半身を起こす。
「すみません……カエデ先輩。俺……最低みたいです」
ここにいない彼女に懺悔するかのように、彼は両手で顔を覆った。
【早朝のやりとり】
鳥の鳴き声。
雨上がりの証明として、この日は明け方から青空が広がっていた。
突然の大雨は、日付が変わった頃に去っている。5人分の朝食を作っていたタカトシは、テレビのニュースでそう聞いたのだ。
朝の7時が過ぎた頃、皆そろって食事を取った。コトミだけは相変わらずの寝坊だったため、片づけを始めようという時に自分の部屋から出てきたのだが。
そして、見送る時間となった。
「それじゃあ、本当に一晩お世話になりました」
「ありがとうございました。今後、何らかの形でお礼をさせていただきますので」
カオルとノリユキが、そろって頭を下げる。やむをえないとはいえ、一晩宿を貸してくれたのだ。少しだけ恐縮しているらしい。
「水臭いなあ。またなにかあったら、気軽に泊まってくれてもいいんだよ?」
「えっ。き、気軽に……?」
コトミの罪の無い笑顔に、毎度ながらドキリとするノリユキ。その隣で頭を抱えるカオル。
「おい。あまり弄ぶようなマネはやめとけ。絶対拡大解釈してるぞ、こいつ」
「?」
コワモテに見える少女の忠告に、首を傾げるコトミ。何のことだろうといいたげな顔だ。
「駄目だこいつ」
「あ、あはは……」
そんなやり取りを、愛想笑いするカエデ。すでに、彼らの人間関係を察してしまっているらしい。
「それじゃあ、カエデ先輩もお気をつけて」
「はい。本当にお世話になりました。感謝しています」
にこりと笑顔を向けるカエデ。その、いつもよりもなお眩しく思えるカエデの顔に、タカトシは思わず直視することができなくなった。
「……?」
突然顔を背ける彼に、今度はカエデが首を傾げた。なんだろうか。この反応は?
「い、いえ。当たり前の事をしただけですから。気にしないでください」
「は、はあ」
目を瞬かせているカエデと、顔を赤くして俯いているタカトシ。こうも分かりやすい図に、コトミはコソコソとカオル達を引っ張って、玄関の隅で話し始める。もちろん小声で。
「……ねえねえ、どう思う。あのタカ兄?」
「えっと……まあ、分かりやすいよね?」
「さっきのオメーと、まったく同じ反応してたしなあ」
ヒソヒソと何事かを言い合うと、やがてパッと散開する3人。カオルだけは若干面倒そうだったが。
「それじゃあ、私は2人を駅まで送っていくから。カエデ先輩も、後から来てよね」
「えっ……あ、はい」
若干気後れしながらも、頷くカエデ。その返事を聞くや否や、3人はあっという間に家から去っていった。
取り残された形になった2人は、改めてお互いに向き合う。といっても、お互いの顔に浮かんでいるのは苦笑。
「……それじゃあ、先輩。分かっていると思いますけれど」
「はい……明日の朝、駅で待っています」
少しの沈黙。これは少し言うまいか迷ったが、やはりタカトシはどうしても言いたかった。
「あの、カエデ先輩」
「はい」
「俺……」
照れたように笑うタカトシ。カエデは、こんな表情の彼をはじめて見た。
「俺……カエデ先輩が誘ってくれて、本当に嬉しかったです」
「……」
「本当は、昨日の雨にもちょっと感謝しているんです。あれがあったおかげで、一緒に一晩……その」
うまく言えない。言いたいことが、うまく言葉にできない。なんて女々しい。
そんな彼を、カエデは微笑みで受け入れてくれた。
「いいんです。言わなくて」
「えっ」
「私も、タカトシ君を誘ってよかったと思っていますから」
「先輩……」
「それじゃあ、また」
会釈をして、彼女は背を向けた。なんとなく呼び止めるそぶりをしようとして、手が中途半端な位置まで持ち上がってしまうタカトシ。
駅まで送りましょうなどと、言う暇も無かった。小さくなっていく背中を、彼はただ黙って立ったまま見送るしかない。
「……はい。また明日」
その呟きは、朝の澄んだ風に吹かれ。
そして、空の向こうへ消えていった。
【2人の出発】
漸くこの日がやってきた。
続く晴天の朝。タカトシとカエデはひっそりと旅立つ。
朝の通勤ラッシュよりも少しだけ早い時刻の駅。もちろん、行き先は学園ではなく。
「それじゃあ、いきましょうか。カエデ先輩」
「はい」
肩に掛かる心地良い重量を感じながら、2人は電車に乗り込んだ。乗客はまばらなので、近くの座席に座る。
電車に揺られつつ、タカトシはカエデに確認した。今回のアルバイト先の事を。
「仕事先は、確か飲食店の接客でしたね」
「ええ。何でも、卒業生の身内が経営しているそうです」
なるほど。人手が足りないので、母校のアルバイト募集欄にも手を伸ばしていたということか。
「もしかして、カエデ先輩の知り合いですか?」
「ええ、そうよ。一昨年までは、みんなが知っている人だったんだから」
「そんな人が……」
なるほど。そこまで信頼の置ける人なら、仕事先としても安心できるのだろう。カエデが選んだ理由も少しだけ分かった気がした。
そこで、電車が所定の駅に到着する。何人かの乗客と入れ違いになりつつ、ホームに足をつける2人。改札を抜け、
「わあ」
思わず感嘆の声を出してしまうカエデ。タカトシも、つい足を止めてしまう。
2人が立っているのは、浜辺に近い歩道の上。視線の先には、海の存在が形作る水平線。
そして、波の動きに合わせて太陽の光を反射している美しい風景。ここが、自分たちの働く場所なのか。
と、そこへ。
「おおい。久しぶり、五十嵐っ」
こちらへ、見慣れない女性が声をかけてくる。手を振りつつ、まっすぐに駆け寄ってきた。
「いやあ、本当に久しぶりにあえて嬉しいな。確か、卒業式以来だっけ?」
親しそうに話しかけてくる金髪の女性。おそらくは染めているのだろう。まさに、今風のお姉さんという容貌であった。
しかし、タカトシの目には不思議と軽薄な人には見えなかった。そういう女性にありがちな空気を、目の前の彼女からは感じないせいかもしれない。何故か、といわれると困るのだが。
「えっと……お、お久しぶりです。先輩」
どういうわけか、顔を知っているはずのカエデもどこか戸惑ったように女性を見ていた。なんだろう。知り合いではないのだろうか?
「ちょっと五十嵐。もう先輩の顔忘れちゃったの? 私は悲しいぞ、ヨヨヨ……」
大げさに泣くフリをする女性。というか、ハッキリいって古風な芝居だった。
「ああ。そういえばこういう人でしたね……って、それはそうと先輩」
気を取り直し、カエデは女性にタカトシを紹介する。
「この度は、5日間お世話になります。こちらは、桜才学園の副会長です」
「どうも、はじめまして。副会長の津田タカトシです。不慣れな事もあるかもしれませんが、よろしくお願いします」
そろって頭を下げる2人。女性は一度だけ驚いた顔をした。
「……へ、へえ。あの男嫌いだった五十嵐が、ねえ。ちょっと見ない間に変わるものだね」
「いえ。変わったというのなら、先輩の方こそ。ずいぶんイメージが変わりましたね。前は静かそうな印象が強かったので」
「そりゃあ花の女子大生だもん。ナウい格好しなきゃ。それよりも、津田君だっけ。いやいや、こちらこそよろしくね」
何か開き直ったように、打って変わって明るく言う女性。と、何かを思い出したように我に返る。
「ああ、メンゴメンゴ。そういやさ、あたしの名前言ってなかったね」
「は、はあ」
「わたしは、古谷だよ。古谷サチコ」
カエデが信頼を置いている卒業生。
それは――かつて2年前、桜才学園にて生徒会長の肩書きを持っていた女性。
前生徒会長、古谷サチコとの対面であった。
つづく