君とあの子の距離は遠いけど。
この日。この時。
僕らは間違いなく、ほんの少しだけ近寄れたと信じよう。
【求められるスキル】
桜が散り、緑が生い茂り始めた頃。
この桜才学園生徒会室では、生徒にとって1つの試練ともいうべき時期がやってくる。
そう。中間考査だ。
この日、天草シノはその旨を昼休みの会議中に役員へと伝える。
「さて、来週から中間考査なわけだが。知っての通り、我が校では試験結果が張り出される」
それについては、タカトシも知っている。だが、次のシノが言う言葉は予想外であった。
「我々生徒会役員は、学年20位以内に入る事がノルマとなっている。各自、しっかりと勉学に努めるように」
「え?」
思わず声を出してしまうタカトシ。その反応に、周囲の視線が集中する。
「なんだ、津田。自信がないのか?」
「いや、実は……そんな決まりごとがあったなんて知らなくて。すみません」
「だらしないわね。私たちは、全員問題ないわよ?」
萩村スズが呆れたように言う。そして、シノも。
「まったくだ。よくそれで生徒会に入ろうと思ったな」
「……あの。元々はあなたがゴリ押ししたせいだと記憶しているんですが」
「やれやれ。そうと分かれば、お前を今日から鍛えるしかないな。放課後、勉強道具をすべて持ってきて、生徒会室まで来い」
「は、はい」
これはとんでもないプレッシャーだ。だが、受ける以外に選択肢などない。
【それぞれの教え方】
授業が終わり、生徒会室へと入るタカトシ。
そこには、腕を組んで椅子に座っているシノとスズがいた。アリアはいつものようにしているが。
「すみません。遅れました」
「遅い。時間も押しているからな、さっそく始めるぞ」
「はい」
さすがにここまでくれば、タカトシも腹をくくるしかない。今日から中間考査まで、気合を入れて臨むとしよう。
「では、まずは英語からいくか」
言われて、タカトシはカバンから英語の問題集とノートを取り出す。
スズとアリアは、通常通りに生徒会の仕事をしていた。何となく格差があるような気がしてやるせないが、今は勉強に集中する。
「時に、君はSか。それともMか?」
「え。何の話ですか?」
「厳しく教えるつもりだったが、まだ君の性癖を私は知らない。もしMだったら、ビシビシ教えられないからな。それでは悦ばせるだけだ!」
「至ってノーマルですよ」
普通に教えてくれればいいのに、とは言わないタカトシであった。
そんなこんなで、時間が過ぎていく。生徒会の仕事を終わらせたスズとアリアも、タカトシの周りで勉強を教えていた。仕事が少なかったので、暇になったらしい。
「ちょっと、あんた。ここはこうした方が早く解けるわよ?」
「え、あ。本当だ」
横からスズが口を挟む。言われて、効率の悪い解き方をしている事に気づいた。
「それにしても萩村。こういう教え方をしている方が、お前には合っているんじゃないか?」
シノがふと口にする。スズはどこか不機嫌そうな顔になったが、不承不承頷く。
「まあ、そうですね」
「え、なんです?」
顔をあげ、シノの言葉の意味を尋ねる。
「周りに人がいるときに教えてると、その人たちからスズちゃんが教えられているみたいに見られちゃうから」
「ああ、なるほど」
アリアの言葉に納得したタカトシは、勉強を再開する。そこで、今度はアリアがタカトシに注意する。
「この問題は、こうするの。さっきの問題だったら、この方法でもよかったんだけど」
「そうでしたね。それだと、こうでしょうか?」
「うん。正解」
アリアの教え方は言葉に棘が無く、親切だった。優しく教えてくれるので、タカトシとしては最も質問しやすい相手である。
「……あれ、どうしたの津田君。私の顔を見ちゃって」
「あ、すみません。先輩って、本当に教え方上手ですね」
シノとスズの前だったが、タカトシはそう言わずにはいられなかった。尊敬の眼差しで見られたアリアは、どこか照れたように笑う。
「ほほう。津田はMかと思っていたが、どうやらSだったようだな」
と、そこでシノが半眼になって言う。
「え、いやいや。ただ七条先輩は優しく教えてくれるから助かるなってだけで」
「つまり、わたしたちの教え方では逆効果だという事だな」
しまった。今のは完全にシノとスズの不評を買った。思わず身構えるタカトシだが、シノはいたって真面目な顔。スズは不機嫌そうだが。
「ふむ。ならばこうしよう」
シノは一度咳払いをし、上目遣いになる。
「こ、ここは……こうした方がいい、かな?」
あまりにも上手すぎる、気弱な演技。教えている相手の顔色をうかがう、気弱な年上お姉さんの表情。
頬をピンク色に染め、潤んだ瞳。視線を合わせられない臆病な女の子の顔。
「……」
硬直するタカトシ。そして、傍から見ていたスズ。
「あらあら?」
そして、どこか楽しそうに笑うアリア。やがて……
「……っ」
タカトシの肩が、ピクリと震える。一瞬遅れ、その反応に自分自身こそが驚愕した。
――あれ? 今、背筋が……
自分が本当にS体質だと知った瞬間だった。
【試験結果】
試験期間が終了し、学園の生徒たちは試験結果が掲示されている職員室の前に集まっていた。
ザワザワと結果に喜んだり、順位が下がって嘆く者も数多くいる。そんな中を、タカトシは途中で会ったスズと一緒に結果を拝見する。
ふと、そこで2年生の試験結果が目に入る。その名前を見て、タカトシは驚きの声を上げてしまう。
天草シノ――491点。1位。
七条アリア――485点。2位。
「す、凄いな。流石会長と七条先輩」
「ああいう結果を出せるからこそ、自信を持って生徒会をやっていられるのよ」
スズはあくまでも当然のように言った。と同時に、そんな彼女たちと共に働いている自分の自負も少なからず入っているように見える。
「さて。1年の成績はあそこね」
「ああ」
2人は他の同級生に交じって、結果を確認する。そこには――
津田タカトシ――450点。8位。
「よかった。一応メンツは保てたかな」
「へえ。あんたも思っていたよりはやるじゃない」
「みんなのおかげだよ」
「当然ね」
少しだけ得意そうに鼻を鳴らすスズ。素直に感謝されて、まんざらでもないようだ。
「って、あれ?」
と、そこで安堵感がすべて失われるタカトシ。1位に名前が入っているのは、彼がよく知っている名前だった。
萩村スズ――500点。1位。
「まあ、こんなものかしら」
「ええ!?」
あまりにも自然体で、結果を受け止めるスズ。IQ180の頭脳は伊達ではなかったようだ。
「ま、あんたも頑張りなさい」
それだけ言うと、2年生のところに行ってシノたちに話しかけるスズ。まだ驚きから冷めやらぬといった様子で、スズの名前と点数が書かれてある結果表を呆然と見つめてしまう。
自分は8位。でも、他の生徒会役員は1位と2位。まして萩村に至っては全教科満点。
「……」
次はもっと頑張ろう。このまま、彼女たちの下っ端になんてなりたくない。
【生徒会室の昼休み】
昼食の時間。生徒会の者たちは揃って弁当をつついていた。
ふと、タカトシがシノの弁当を見て言う。
「その弁当、会長が自分で作ったんですか」
綺麗に焼かれている卵焼きや、丁寧なタコさんウインナー。弁当の代表と言っても過言ではなかった。
「ああ」
「やっぱり会長は本当に何でもできるんですね」
容姿だけでなく、性格も真面目で几帳面。勉強もできて手先も器用となれば、文句のつけようがないだろう。
「まあ、口先だけの安い女にはなりたくないからな」
なるほど。実際にそういう人間はいそうである。自分も、まったくもって彼女と同感だ。
「そうですね。言ったからには、ちゃんと責任を持つべきですよ」
実際は、そんなに簡単な事ではない。人によっては、それを簡単に忘れてしまう者もいる。けれど、会長はそれをちゃんと実行に移せる人間なのだろう。
「ああ。この前の君もそうだったしな」
「この前?」
「なんだ。もう忘れたのか?」
苦笑いするシノ。代わりに、彼女の隣で食事をとっているアリアが答える。
「津田君。シノちゃんは、柔道部の時の事を言ってるんだよ」
「ああ、あれですか。いや、俺はただ新聞部に協力してもらうようにちょっと口添えをしたくらいで」
彼女の前にある重箱の中にある分厚いステーキを見ないようにしつつ、タカトシは返事をする。
「それだけじゃないよ。そのためにシノちゃんを説得したり、畑さんと交渉したりして。全部津田君が言い出した事だし、実行したのも津田君だよ?」
「ま、まあ……ああいうのは、初めてじゃなかったものでして」
若干の照れくささを覚えながら、タカトシは言った。まさか、彼女たちがそこまで評価してくれているとは。
「それって、もしかして中学の時?」
スズがタカトシの隣で訊いてくる。
「うん。よく“上の人”とは揉めたことがあったし」
「あんたにも色々あったのね」
正直なところ、スズはこれまでタカトシの事があまり好きではなかった。見た目や態度で人を見るようなことはしないが、それでも彼女とて偏見はある。男は不衛生で汗臭いと思っていたし、海外にいた頃の男たちは半分以上がそうだった。紳士な者も勿論いたが、そういう人はほとんどが歳をある程度とっている者だ。
日本に戻ってきてからは、その偏見にチャラチャラしているという項目が加わる。将来のことも考えず、移り変わりやすい流行やファッションだけしか頭になく、そのくせ恋人を作る事だけは躍起になるのだ。
仮に将来を真面目に考えている男がいたとしても、それは周囲の声に合わせただけのなあなあとした進路しか選ぼうとしない。他人に合わせることばかりを考えて、自分の意思ややりたい事を自分で潰してしまう日本人特有の考え方だ。
それが処世術であり、なおかつ協調性を重んじていると言ってしまえばどうしようもないが、やはりこの国は特にその傾向が必要以上に強いと言わざるを得ない。
海外生活が長いためにそういった民族性に染まっていない彼女の目が厳しくなるのは、致し方が無いともいえる。
だからこそ、タカトシのあの行動力には正直言って感心した。勉強への熱意もあり、彼女にとってそこそこ上の成績にまで食い込んだ。日頃のさりげない気配りも、まあ評価してやってもいい。
だからと言ってすぐに恋愛感情を抱くほど、彼女は軽薄な女性ではなかったが。そしてそれは、シノやアリアも。
【誰だっけ】
昼食を終わらせ、仕事に取り掛かる生徒会役員。
そこで、ドアがノックされる。シノが誰だろうかと思いつつ、どうぞと言った。
入ってきたのは、髪をショートカットにした大人の女性だ。スーツをラフに着ている事から、おそらくは教員の誰かだろう。
「ういっす。生徒会役員共」
「すみません。あの人って誰ですか?」
見覚えのない女性が、生徒会室に入ってきた。生徒会の関係者かと思い、シノに小声で尋ねる。
しかし、女性には聞こえていたらしい。不審そうな眼差しを逆に向けられる。
「そりゃあこっちの台詞よ男子生徒。君こそ誰?」
タカトシの返事を待たず今度はシノに語りかける。
「天草。駄目じゃない。部外者に生徒会の仕事を任せるだなんて」
「ぶ、部外者……」
どうやら女性は、タカトシの役職を知らないらしい。ますます彼女の正体が分からなくなってきた。
そんなやり取りに眉をひそめ、どこか咎めるような口調でシノは言った。タカトシではなく、名も知らない女性に対して。
「失礼ですが、ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ?」
「あれぇ!?」
仰天する女性。続けて、シノがタカトシに言う。
「すまないが、津田。先生は君に何か用があるんじゃないのか?」
「いえ。全くの初対面ですが」
「私は名前だけ知っているが……それだけだぞ」
「うおおい、なんだその扱いは! 興奮するだろ!?」
この人が誰なのかはわからない。だが、また厄介な人が増えたという事だけは理解するタカトシであった。
気を取り直して、自己紹介をする事になった女性。
「コホン。では改めて、私が生徒会担当顧問の横島ナルコよ」
そう言われて、スズもようやく合点がいく。そして、アリアも。
「ああ。そういえば横島先生はうちの顧問でしたね」
「全然来ないからすっかり忘れてたわ」
「あ、そう……」
もはや諦めたのか、何も言わないナルコ。そこで、タカトシに視線を向ける。
「さっきは悪かったね。あんたが新しい生徒会役員だったんだ?」
「はい。よろしくお願いします」
頭を下げるタカトシ。さっきまではアレだったが、相手が顧問というのなら礼儀正しくしなければならない。
「んんっ……」
「……?」
途端、半歩後ずさるタカトシ。なぜか、ナルコから妙な威圧感を感じたのだ。
そう。まるで、獲物を前に生唾を飲んだかのような……
「津田。その反応は正しい」
「会長?」
「先生は年下の男が好きだから」
「いやあ、男子は生きがいいのが一番よねー」
言われた本人は隠すでもなく、堂々とカミングアウトする生徒会顧問。
「俺から3メートル以内に近づかないでくださいね?」
【仕事の合間に】
書類をある程度片付け終わると、スズは鞄から本とノートを取り出す。
覗き見をするつもりはなかったが、つい本のタイトルに目がいってしまう。それには『幼女でもわかるフランス語講座』とあった。
「萩村。フランスの勉強?」
「ええ。高校卒業したら、留学しようと思ってね」
「すごいな。俺は英語くらいしか話せないよ」
「私は他にもイタリア語とスペイン語。全部で5か国語よ」
得意そうに言うスズ。実際、そこまで話せるのなら確かに自慢できるスキルだ。
「まあ、今は国際化時代だからね。今の若者にはそれぐらい求めなければいけないわ。私も2か国語話せるしね」
「へえ」
結局何をする事もなく、ずっと空いている椅子に座っていただけの顧問が口を挟む。とりあえず、スズは適当に相槌を打っておいた。
「ご主人様ぁ、ごめんなさぁいぃぃ……」
ワザとらしい声を出すナルコ。生徒会の面々は、やっぱりという顔をした。
「まあ、2次元っていうオチですか」
「この展開は読めてた」
とっとと無視をする一同。
「まあ、俺も英語以外にも話せるようになりたいと思っているんだけど」
そう言って、タカトシも鞄から本を取り出す。
「あら、奇遇ね。私も」
「私もだ」
アリアとシノも、同じように本を取り出した。
タカトシが持っている本は『幼児でもわかるドイツ語講座』
アリアが持っている本は『SM嬢でもわかるロシア語講座』
シノが持っている本は『Mっ娘でもわかるポルトガル語講座』
「……」
沈黙する面々。それぞれの顔を交互に見合う。
「……ぷっ」
つい吹き出してしまう。それが、誰のものかはわからない。誰でもよかったから、誰も気にしない。
だって、すぐにみんなが笑い始めたから。学ぶ語学こそ違えど、みんなが同じだったから。
なんだか嬉しくなって、可笑しくなって。
いつのまにか、生徒会役員共はみんなが笑っていた。
「……」
隅っこで居場所をなくしている、ナルコを除いて。
【やっと言えた言葉】
廊下を歩いていると、アリアの後ろ姿を見かけた。どういうわけか、彼女は四角い段ボール箱を持っている。
タカトシは、一言声をかけた。振り向いた彼女の額には、一筋の汗が浮かんでいる。
「あら、津田君。これから生徒会室に?」
「はい。そうなんですが……よかったらそれ、俺が持ちますよ」
そう言うと、さっさとアリアの持っている段ボール箱を手に取る。途端、腕にずっしりと重さを感じた。
「あら、助かるわ。正直、ちょっと手が痺れていたところなの」
少しだけ困ったように手をブラブラさせる。彼女の腕では、かなりキツかったらしい。
「力仕事なら任せてください。それなりに鍛えていますから」
「ありがとう。やっぱり男手は大切ね」
通りがかってよかったと、タカトシは思う。フェミニストを気取るつもりはないが、女性の辛そうな姿を見るのは忍びなかったのだ。
「それで、これはどこに運べば?」
「あ、それは音楽室に運んでほしいの」
「分かりました」
そこは3階の廊下の奥に位置する。特に重さを感じさせない足取りで向かうタカトシ。
音楽室のドアは僅かに開いていた。中から、何人かの女子生徒の声が聞こえる。
ノックをして、出入り口を開けてもらう。そこで、中にいた女子と目が合った。
「すみません、わざわざ……げっ!」
「あれ、たしかあなたは……?」
タカトシの顔を見た瞬間、一気に顔を顰める女子生徒。彼女は、かつてシノたちと校内案内をしていた時に、タカトシに突っかかってきた先輩だ。
「……何の用?」
ドアから半分だけ顔を出し、警戒心丸出しで訊く。どうやら、この先輩には完全に嫌われてしまったらしい。
タカトシもどこか居心地の悪さを覚えながらも、用件だけを伝える。
「いえ。実は、こちらにこの段ボール箱を届けてほしいと七条先輩が」
「ああ、そう。じゃあ、ドアの前に置いといて」
それだけ言うと、ドアを閉める先輩。
「……」
無言で段ボールを置く。こういう時はさっさと用件だけを済ませておこう。
そこで、部屋の中から怒ったような声が聞こえる。音楽室で、何かもめているようだ。
「ちょっと、失礼じゃない。せっかく書類の束を運んできてくれたのに、お礼の1つも言わないなんて!」
「ちょ、ちょっと。あたしは、あんたのためを思って……」
「いいからどいて。七条先輩が手伝ってくれたんでしょう。一言くらい――」
と、ドアが開く。その場を去ろうとしていたタカトシと、音楽室から出てきた生徒が顔を合わせる。
「すみません七条先輩……って、ええっ! 男の人!?」
「はい。男の人です……」
内心で、あちゃあと思うタカトシ。あの先輩があの調子だったので、なんとなく彼女がいる気はしていたのだ。
五十嵐カエデ。男性恐怖症を持つ先輩である。
「あ、あ、あの……」
途端、カタカタと全身を震わせるカエデ。その様子に、2人の間に割って入る先輩と、その友人らしき数人の生徒。
「ちょっとカエデ、しっかりして!」
「気をしっかり持つの!」
「ちょっとあんた、いつまでそこに立ってんの。さっさと行きなさいよ」
やっぱりこうなったか。またあの時の焼き直しになるのは、正直御免こうむりたい。素直に頭を下げると、すぐに彼女らに背を向ける。
そこで――
「ま、待って!」
呼び止められる。なんだと思って振り向くと、カエデが顔色を青くしながら、ゆっくりと取り巻きの間から出てくる。
タカトシとの間には5メートルほど離れていたが、それでも彼女が自分から彼に近寄ったことは事実であった。
「か、カエデ?」
それは、先輩達にとっても驚きだったらしい。さっきまで騒いでいた彼女たちも、友人の行動にどう反応していいか分からなかった。
まさか、あの五十嵐カエデが自分から男に近寄り、あまつさえ引き止めるなんて。
「そ、その……先日は、お礼も言えないまま終わってしまい、まことに申し訳ありませんでしたっ!」
腰を90度に曲げて、深々と頭を下げた。その体勢のまま、勢いに任せて続きを言う。
「それと……助けてくれて本当に感謝しています!」
「あ……」
タカトシは気づいた。彼女の身体と声が、今でもガタガタと震えている事を。
五十嵐カエデは今、とてつもなく勇気を振り絞って自分と向き合っているのだ。自分の恐怖よりも、礼節を欠く事こそが自分にとって許せない行為だから、こうして……
タカトシは、自然と口を開いていた。彼女の人となりを知る事が出来て、本当に嬉しかったから。
「いえ。それよりも、怪我がなくてよかったです。これからも、何かあったら気軽に話しかけてください。俺は、そんなに怖い人じゃありませんから」
「え、えっと……確か……津田君、でしたよね?」
頭を上げた彼女の顔は、すでに真っ赤になっていた。
「ええ。津田タカトシです。今年度から、副会長になりました。よろしくお願いします」
タカトシはそう言って会釈をすると、今度こそその場を去っていく。残されたカエデは、脱力したように廊下にへたり込んでしまう。
「こ、こちらこそ……」
すでに目の前に彼がいないにも拘らず、無意識に返事をしてしまった。ここで、ようやく友人たちが駆け寄る。
「カエデ、ちょっとあんた……」
「凄いじゃない。いつの間にあんなに話せるようになったワケ!?」
勝手にはしゃぎ、盛り上がる周囲。その中心人物であるはずのカエデは、ただタカトシが消えていった廊下の先を、呆然と見送っているのであった。
つづく