確かにある何かを、僕たちは見ることが出来ない。
確かにそこにあるものを。
まだ、僕たちは見えていない。
【旅人達の夢】
誕生祭が間近に迫った冬の日。
早朝の天気は雲こそ多いものの、概ね晴れといって差し支えない陽気。凍りつくような風を暖めるように、朝の降りしきる日差しがせめてもの救いであった。
道路に、車の走る姿はまばらだ。誕生祭前日にもなれば交通渋滞に悩まされるであろう道のりも、ひと時の静寂を保っている。
そんな道路だからこそ、この一台の観光バスは苦もなく走り続けていることが出来た。先ほどから後続車も前方車両もほとんど見かけていないのだ。
天草シノを始めとした生徒会役員と、その身内が2人。そして、生徒会役員の“彼”から招待された風紀委員長。
参加者である7人は所定の席に座りつつ、今回のツアーガイドを担当している出島サヤカの話を聞いていた。
「原則として、今回の目的地は明かせません。先の見えぬ旅ですが、ごゆるりとお楽しみください」
バスガイドの格好をしているスーツ姿のサヤカは、なんだか新鮮であった。先ほどから参加者を退屈させないよう、バスのマイクを片手に余興クイズを出題している。
そんなサービスを受けながら、合間を縫ってそれぞれが雑談を始めていた。これだけだと、人数さえ目を瞑れば修学旅行のバス内のようで可笑しい。
「先の見えぬ旅、かあ。私たちの人生のようですね」
津田コトミが感慨深く、中二病を発揮する。しみじみと口にする妹に、津田タカトシは冷静にツッコんだ。
「達、じゃないから」
「確かにな」
同意するシノ。彼女もまた、より高みの生業に就けるように日々努力している。
「この歳にもなれば、将来の目標ぐらいはあるだろ」
「うん。私は桜才に入学する前に決めたかな」
七条家の跡継ぎを志している七条アリア。大学にて数多くの語学を学び、また経営の勉強を突き詰める事が進学の目標。
「そうですね。私はイタリアで起業したいんです」
かつて暮らしていた国で働きたい萩村スズ。IQ180の驚異的な数値にも驕りを見せず、常に進歩を続ける彼女。
「確かに。私は前に言っていたあの企業へ就職したいです」
誰もが知っている一流企業の就職希望を目指している魚見チヒロ。憧れの仕事先で、自分の持つ知識や経験を持って業界に貢献したいから。
「私もです。大学卒業後は教員免許を取って、ゆくゆくは大学教授になりたいですから」
教師から、大学教授への道を進みたい五十嵐カエデ。誰もが認める、人を導く人間になれるように。
「俺もですよ。医学大に入学して、在学中に留学してみたいですね。医師免許を取った後、どんな場所でも働けるように」
医者志望のタカトシは、留学だけでなく色々なボランティアにも参加して、どんな医療現場でも対応できるスキルを身につけたいと考えている。
「……」
あっという間に無言になるコトミであった。
【隣の色気】
「なるほど。目的地は東北方面かな」
天候や走行時間を推測し、シノが独り言のように言う。このように目的地を推理するのも、醍醐味のひとつなのだ。
一方で、タカトシは隣のシノに相槌を打っているが、内心ではそれほど意識を向けてはいなかった。
彼の心を占めるのは、やはりと言うかカエデの事。
昨日の夜。自分が不用意な事を口にしてしまったせいで、朝からはずっと話すきっかけが掴めないまま今に至る。
彼の斜め前に座っているカエデは、さっきから隣に座っているアリアと談笑を続けていた。それはいい。だが、時折こちらを見つめては、目が合いそうになると逸らすのだ。
まるで、警戒されているかのように。
それが、タカトシにとっては暗雲たる思いを抱かせる――かと思えば、そうでもない。絶対に誤解を解くと決めたのだ。いつまでも落ち込んでなんかいられない。
「おっと」
と、そんな内心を知らないシノが、少しだけフラつくような様子を見せた。さすがにタカトシも意識を向け、気遣う様子を見せる。
「ああ、すまない。ちょっと酔っちゃったかな……」
少し髪をかきあげ、思わせぶりに流し目をする生徒会長。その横顔はなかなかに色っぽいものがあった。
「そりゃあ車内で地図見てれば……って言うか、余裕あるじゃないですか」
普通の対応のタカトシである。
一方、カエデとアリアと言えば。
「カエデちゃん……そんなに気になるんだったら、話しかけに行けばいいのに」
「だ、だって七条さん……タカトシ、あんなに天草会長と楽しそうに……」
似たものカップルだなあ。そう思いつつも、間を持たせるために会話を続ける優しいアリアであった。
【耐えられるから】
それぞれがどんな思いであろうとも、時間は過ぎる。
始めこそ緊張と期待感があったものの、ツアーガイドのサヤカによるカラオケ大会や余興クイズといった催しを押してくれたため、いつしかバス内の空気は穏やかでありながらも盛り上がっていった。
相変わらずカエデとは少しばかり距離を感じるものの、それでも当初の気まずさはそれほど感じない。というのも、カラオケ大会が開催された時点で、彼女の声に聞き惚れたからだろうか。
コーラス部に所属しているカエデは、さすがというか歌が綺麗だった。誰もが彼女の歌を聞き逃すまいと静かになり、いつしか独壇場のような高揚を覚えさせてくれる。
それをきっかけに、バス内は騒がしくも楽しい時間を過ごす事になり、タカトシもまたカエデとデュエットをする事に成功する。他の生徒会役員に紛れてではあったが、それでも彼としては構わなかった。
恋人同士としての会話は無い。それでも、会話はしている。楽しい時間を一緒に過ごしている。
それだけでも、このツアーに参加してよかったと思う。やっと、タカトシは素直にそう思うことが出来た。
そして、一方ではカエデも。
「本当に、2人は隅に置けませんねー」
うりうりと、サヤカにそっと肘でつつかれるカエデ。
「い、いえ。そんな。それは、きっかけをくれた出島さん達には感謝していますけれど」
「気まずい空気は、盛り上げる空気でかき消してしまうのが一番。初心なカップルのフォローの基本ですので」
「でも、本当に良かった。このまま黙ったままなんて、気まずいだけだから」
「うう……気を使わせてしまって、すみません七条さん」
気を使われてしまった。それを本当に申し訳なく思う。もっとも、当の2人はむしろ面白がっている面が強そうではあったが。まあ、タカトシとカエデの空気を見かねた2人の、ささやかなお節介である。
こういう時、アリアは本当に大人の女性だと思う事がある。同い年だというのに、どうしても彼女が姉か何かのように思えてしまうのだ。あるいは、大人だけが持つ物腰とでも言おうか。
それを伝えると、アリアはどこか照れたように――ではなく、少しだけ真剣さを見せた目でカエデを見返す。
「それは違うよ。少なくとも、私はカエデちゃんの方が大人だと思う」
「そんな。私なんてタカトシに会うまで、男の子の言動にいちいち怯えてばかりいた子供ですし」
「自己評価を低くしないで聞いて。カエデちゃんは、私にできない事が出来ているから。だから、もう私よりも大人なの」
「できない事?」
「人を好きになって、その人と恋愛を成就させているから」
アリアはキッパリと言った。
「少なくとも、今の私にはできていないもの。誰かを好きになる事自体が。恋愛経験無いんだ、私」
「でも……」
何か言おうとして、言葉に詰まる。それは、確かにアリアに先んじて達成できた事なのかもしれない。それでも、カエデは何かを言いたかった。
「七条さんは、その……色々な経験をしているし。それに、これはあまり言いたくない事ですが」
「なるほど。確かにお嬢様は経験のみならば皆様と何歩も先を行っているといっても過言ではないでしょう。この私が保証いたします」
そこで、サヤカが補足する。カエデが純情な少女である事を悟り、代わりに口にしたのだ。
「な、なぜ出島さんが保証を?」
「まあまあ。それで、出島さんが言っている経験の話だけど」
アリアが笑いながら続きを話す。
「私はカエデちゃんとは違って、好きな人に捧げる目的でしているわけじゃあないよ。ただ、そういう“色々な行為”があると知って、その上で興味を持ったからしているだけ。小さい頃から、ずっとね」
「こ、行為……ですか」
「ええ。お嬢様は膜こそ守っていますが、それ以外はほぼ――」
「具体的な解説は結構です」
鏡を見るまでもなく、顔に熱が帯びるのが自分でも分かるカエデ。早くも、この話題を降った事を後悔しはじめる。
色々な行為と言うのは、もしやあんな事やそんな事なのだろうか。いやいや、何を考えているのか自分。
だんだんと居心地の悪さを感じるカエデ。だがその反面で、どこかいい加減な気持ちで聞いてはいけないと感じ始めている事もまた事実であった。とりあえず、黙って耳を傾けておく。
「とにかく」
そこで話が脱線すると思ったのか、アリアが軽く咳払いをする。主人の意図を察し、サヤカもすぐに静かになる。
「興味を持って、したいからしている事。心から好きになった人に捧げる事。それは、まったく意味が違うと思う」
「それは……」
それはそうだ。カエデとて子供ではない。
性行為をしてみたいから、その過程で純潔を捨てる。
好きな人に受け入れてもらいたくて、その証に純潔を捧げる。
行為は同じ。だが、それに込められる気持ちはまったくの正反対。
「カエデちゃんには捧げたい人がいるんだよね。でも、私にはいないから」
「捧げたい人って……」
「津田君以外にいないでしょ?」
「……」
はい、とは言えない。いや、言うべきなのだろうが、喉から声がまったく出てこなかった。
「怖いのですね。それは当たり前の事です」
と、サヤカ。バスガイド姿の使用人は、いつもの静かな口調で指摘する。
「確かに、痛みは伴います。それは当たり前の事」
ですが、とサヤカは続ける。
「それは、女ならば必ず耐えられる痛みです」
「……耐えられる痛み」
どういうわけか、サヤカとアリアの言葉はカエデの中にストンと落ちていった。図らずも、その言葉は彼女の心の中にずっと燻っている何かに、ひとつの刺激を与えたような気がしたのだ。
誰かに恋焦がれ、いつしか結ばれたいと思うのなら。
綺麗なままではいられない。
誰かを傷つけもせず、誰に迷惑をかけることもなく、ただ純粋なまま共に時間を過ごし続けるなんてできない。
例え、自分に近しい誰かが傷つこうとも。
卒業という、ひとつの終わりが近づいているとしても。
その事実を反芻し、カエデはチラリと斜め後ろに座っているタカトシに視線を向けた。
いや、向けようとしたのだ。
――ガタン!
大きな音と共に、彼女達の乗ったバスが止まった。
【事件の始まり】
周囲の風景が雑木林に切り替わる頃、まるでエンストでも起こしたかのように車内が揺れた。
先ほどまで談笑していた参加者も、何事かと緊張の色を見せる。初老の運転手が乗客に顔を向けた。
「申し訳ありません。エンジンが故障したようで」
「あら、大変」
対して驚いてもいないようにチヒロが言った。これもまた、ツアーの演出だと思っているのだろう。
そこで、サヤカがいま気づいたように窓の外に指を指す。
「あ、みなさん。あれを見てください!」
皆が目を向けると、薄暗い森の中に建つ洋館があった。富豪が暮らしているかのような規模の建物の窓に、内部からの照明がこちらを照らしている。
ああ、なるほど。これからが始まりですね。
この場の参加者は、声に出さずにそう思った。
こうした流れによって、彼らのミステリーツアーは始まりを迎えたのであった。
【歩み寄ってくれたキミ】
ヴィクトリアン・ハウス。ヴィクトリア朝時代に建設された家を思わせる建築物である。その屋敷が、今回のミステリーツアーの舞台だったのだ。
到着した館の外観は、2階建てらしい。一行が足を踏み入れた頃には、すでに雪が降り始めていた。
サヤカの案内する最中、タカトシは露骨にならない程度に周辺を見回す。
門をくぐると、手入れのされている木々や庭が確認できた。昼間ならば、さぞかし贅沢に整った自然を閲覧することが出来ただろうが、今は夜ということもあるのか若干の不気味さを嫌でも感じざるを得ない。事実、スズなどはすでにタカトシの袖を強く握っている。
「夜分に申し訳ありません。私達、実は――」
「なんと。それは、夜分遅くに災難でございましたなあ」
サヤカが重厚な扉をノックすると、中から返事がくる。ドア越しだからなのかくぐもった声だが、なんとなく男の声らしい事はタカトシにも分かった。
扉を開くと、中には執事のようなスーツを着こなした、白髪の老人が建っている。何の事は無い、バスの運転手だ。ようするに、どうやら人手不足らしい。
しかし、それさえ除けばこの建物内がいかに本格的かを知ってしまう。
背後には道路ほどの横幅のある階段が2階へと続いており、その上をワインのように赤いカーペットが折り目正しく設置されていた。
これは、確かに雰囲気がある。一同は誰もがそう思う。自然と気持ちも、今は自分たちがミステリーの世界にいるのだと再確認させられた。
「館の主人です。寒い中大変だったでしょう。お部屋にご案内いたします」
「申し訳ございません。突然押しかけてしまい、恐縮です」
「いえ、そう畏まらずに。こういう時はお互い様なのです」
サヤカの腰の低い演技に、主人は恭しく返す。歩きながらそれを見守りつつ、一行は2階の割り当てられた個室へ向かうことになった。
カーペットは上質で、足音がまったく聞こえない。これも後々、ミステリーのトリックに関わってくるのだろうかとタカトシは想像してしまう。
「大浴場もあるので、ご自由にお使いください」
「大浴場か。後で入ってみるかな」
主人の説明に、興味をそそられるシノ。女の子としては、やはり綺麗好きでいたい。
「それじゃあ、女子の皆で一緒に入りましょうか」
「いいですね、スズ先輩」
コトミも同意する。どうやら、女性陣は皆で入浴が決定したらしい。
「それじゃあ、上がったら教えてくださいね」
自然と、タカトシの入浴は最後になる。彼は大人しく、自室で待つことになった。
客室は参加者があまり気を使わなくてもいいように配慮されているらしく、外観に比べるとやや簡素な印象を受ける。それでも、どこかの洋式ホテルの一室を思わせる雰囲気が感じられた。
なんとなく場違いさを感じるのを押し殺しつつ、荷物をアンティークな机の上に置く。
窓に近づき、上品な素材の赤いカーテンをそっとめくる。外は、すでに宵闇の世界。そして、雪が降り始めている。
白い結晶が張り付く窓の向こうに見える繁華街の光が見えた。それが自分たちのいる館を囲む森の暗さを強調させている。
これは確かに、陸の孤島ともいうべき場所だ。ミステリーツアーの舞台としてはうってつけだろう。
なにが起きるのか分からない。気を引き締めてかからなければ。カエデの事は気にはなるが、今はこのツアーに集中しよう。
それに、一緒に謎解きに取り組んでいれば自然と話もできるようになるだろうし。
「あ」
ふと気づくと、部屋の出入り口のドアの裏に、一枚の紙が貼ってある。近寄って見てみると、それは図であった。
正確には、館内の見取り図。きっと、他の部屋にも同じものが用意されているのだろう。
ちょうど良い。時間つぶしに、館の構造を把握しておこうか。タカトシはそう考え、しばらく内部の位置取りを脳内に記憶し始めることにした。
洋館は基本的には2階建てで、1階には大きな玄関ホールを囲われている。実際、上を見上げれば、コの字の形で二階の廊下が見えていた。
そこで両階段が合わさって一階に続く大きな階段を降りれば、左には食堂や大浴場といった生活するうえでは欠かせない部屋が羅列してある。さっき会長たちが向かった通路だ。
右には娯楽室と書かれている大部屋。おそらくは、ビリヤードやダーツを主とした遊びが用意されているのだろう。近代の西洋では定番だ。
パッと見た限りでは、大まかな部屋は脳内に記録した。あとで、実際に足を運んで観察してみるのもいいだろう。
さて、と言わんばかりにタカトシは椅子を引き、腰掛ける。
そもそも、このミステリーツアーはどういう事件が起きるのだろうか。もちろん、それを考えるのも醍醐味のひとつだとシノも言っていた。
ミステリーといっても、何も殺人事件の謎を解くことに限った話ではない。あくまでも、謎を解くことが重要視されるだろう。それこそ、暗号の謎を解いて宝探しという線だってある。
起きる事件は、スタッフが死体役になって殺人事件という可能性。一番ありえそうだ。
盗難事件。館の美術品が盗まれる事件。これもありえる。
さっきも考えたが、暗号解読。この問題を解かないと、特定の部屋に入れないといったパターン。考えられない話ではない。
とにかく、なにが起きてもいいように心構えはしておこう。頭を働かせなければいけない段階で、何も出来ずにうろたえているだけでは冗談にもならないのだから。
腕時計を確認すると、室内に入ってから30分になる頃だ。どうやら、少しだけ長く考え事をしすぎたらしい。
そこで、コンコンと音がする。ドアをノックされたのだ。
どうぞ、と言うとドアの向こう側にいた人物は、若干の間を開けて中へと入ってくる。まず初めに目が行ったのは、ある意味では意外な人物であった。
「突然すみません、タカトシ。ちょっとお話があって」
「あ、いえ……構いませんよ。カエデさんなら大歓迎ですから」
少しだけ不安そうな顔で入ってきたのは、ずっと話をしたかったカエデの姿。ここに来て、タカトシの心に動揺が走る。
無理もない。どのタイミングで話をしようかと考えていた矢先に、彼女の方から来てくれたのだから。
無意識に背筋を伸ばし、机をはさんだ対面の椅子に座るように促す。彼女は静々と応じてくれる。その物腰から、どこか期限を悪くしているという雰囲気ではない。
彼女は今、いつもの三つ編みをしていなかった。前に一度見たことのあるストレートの髪に、艶めいた髪が室内灯の光を反射させている。
なにより、彼女の身につけている白いバスローブが、どうしようもなくタカトシの心を揺さぶった。どこか、アメリカ映画の女優を思わせる色香に似ているのだ。
「お風呂の方は、どうでしたか?」
とりあえず、会話を続けるために訊いてみる。
「快適でした。僅かばかり長風呂になりそうだったので、私だけ早めに出てきたんです」
「確か、カエデさんって最近は会長とよく銭湯に行くそうですね。それと比べて、どうでした?」
「まあ、少なくともこちらのほうが広くて眺めも良かったです。どこかのホテルみたいで、気持ちよかったので」
「それじゃあ、今から楽しみですね」
こんな風に話をしている間も、カエデのほのかに赤らんだ肌が嫌でも彼女の体を意識させる。話が続かず、いつのまにかタカトシは黙ってしまった。
カエデもそんな彼の困惑を感じ取ったのか、自然と口数も少なくなる。互いに目を合わせられず、俯いてしまう。
そんな沈黙を破るように、タカトシは若干慌てた様子で言葉を続ける。
「あ、あのっ」
「は、はいっ」
目を白黒させながら、カエデはつい背筋を伸ばす。どうやら、緊張していたのはカエデも同じだったらしい。
「そ、その……話というのは?」
「そ、そうでした。いえ、別に大した事ではないのですが」
カエデは少しだけ躊躇うようなそぶりを見せると、話を始める。その顔が先ほどよりも赤くなっているのは、風呂上りのせいではないだろう。
「……」
タカトシは、自分の心臓が急激に運動をしたことを感じる。今のカエデは、ハッキリ言って凄まじい。色々な意味で。
火照った肌。濡れた髪。潤んだ瞳。そして、自分を見る切なそうな視線。
そして、ピンク色の小さな唇。
今すぐ、滅茶苦茶にキスをしてしまいたい衝動に駆られる。しかも、舌を入れた濃厚なものを何度も。
そして、そのまま背後にあるベッドに――
「わ、私……本当に」
「……っ」
彼女の震えた声に、我に返る。そして、またよからぬ妄想が頭を支配する。
喉が渇く。目が充血していることが鏡を見なくてもわかった。
心の中で、邪な心が笑う。大丈夫だ。こんな格好で男の部屋に来たんなら、もうカエデも準備OKってことだろ。やっちゃえやっちゃえ。
もう一方で、理性の心が囁く。やめろ。こういう時こそ理性的になれ。まずは優しくキスをして様子をみるんだ。カエデが抵抗しない事を確認してから、次の段階に入れ。
……カエデと付き合ってからというもの、俺の心はこんなにも弱い。
そんな恋人の内心など知る由もなく、カエデは次の伝えるべき言葉を告げようとする。
そんな空気は……
「わあああああああ……っ!!!」
全てをぶち壊しにする悲鳴が階下から聞こえた事で、終わりを告げたのであった。
【調査と容疑者】
「下着ドロ?」
「そうなんだーっ! パンツ盗まれたーっ!!」
一階の客間。バスローブから私服に着替えたシノが、すっかり取り乱した様子で言った。周囲には、チヒロやスズといった面々が立っている。
「酷い事件ですね」
同じく、私服に着替えたカエデがこめかみを指で押さえる。これがミステリーの事件という事で、頭痛でも感じているのだろう。
とはいえ、事件は事件だ。自然と、皆が互いを監視するように視線を向け合うようになる。サヤカだけはツアー側の人間なので、いつものように目を閉じたままの表情だが。
「とにかく、事件の捜査を始めよう」
アリアがタカトシの肩を叩く。要するに、彼が探偵役になれという事なのだろう。
まあ、別に構わないが。
「それじゃあ、会長」
「む。なんだ?」
「盗まれた下着って、どんなデザインなんです?」
「!?」
――傍から見ると、変態の質問……
この場にいた女性陣は、言葉に出さずに思った。
そして、その質問をされたシノは明らかにうろたえる。真剣な目で見つめられたまま、タカトシにそんな事を答えなければいけないのかと頬に手を当てる。
「あわわ……」
顔が熱い。なんとなく、シノはランジェリーショップに行ったカップルのような空気を連想してしまう。
1度だけ唾を飲み込み、意を決して答える。
「そ、その……し、白の……フリル、だが」
言い切った。語尾が消え入りそうだったが、それでも言い切った。真っ赤になって俯くシノは、先ほどのカエデと同じように目が潤んでいる。
「そ、そうですか。ありがとうございます。見つけたら、必ず教えますので……痛っ」
「あら、すみません。ちょっと虫がいるのかと思って」
「カ、カエデさん?」
なんとなく妙な空気になっている事をようやく察したタカトシの代わりに、チヒロが提案する。
「でしたら、今度はみんなのアリバイを調べてみては?」
「ああ、なるほど。私は言うまでもなく被害者だが……ずっと萩村と五十嵐の3人で入浴していたぞ」
「間違いありません。私だけ少しのぼせてしまい、少しだけ早めに上がらせていただきました」
「そうです。お風呂から上がった後、会長の下着がない事に気づいて」
シノの証言に、カエデとスズも乗っかる。続いては、コトミだ。
「私はお姉ちゃんと一緒に」
チヒロも無言で頷く。アリアとサヤカはずっと一緒だったらしい。
そうなると、残っているのはタカトシだ。全員の視線が彼に集中する。
「俺は1人で部屋に……あ」
全員が、やっぱりという顔をする。タカトシにだけアリバイがないのだ。
「津田。部屋で何をしていたのよ。まあ、疑っているわけじゃあないんだけれど」
案の定、スズが問い詰めてくる。とはいっても、彼としてはただ正直に話すだけなのだが。
「ずっと部屋で、考え事をしていたよ。今回のミステリーのこととか、館の構造を覚えたりとか」
「ま。それがあんたらしいわね」
あっさりと矛先を引っ込める生徒会会計。実際、彼がシノの下着を盗むなど、到底想像できなかったのだが。
だが、そこでシノの眉がピクリと動く。
――待て。まだ肝心な事をこの男は話してはいないのではないか?
「本当にそうか?」
「え?」
途端、真剣な目になったシノに、タカトシは目を白黒させる。何故、自分が睨まれなければならないのだろうか。
「津田。お前、ここに来る時に五十嵐と一緒に来ていたはずだが?」
「あ、はい。でも、それが?」
首を傾げるタカトシに、シノの声が僅かに尖る。
「一緒に来ていたな? 津田の部屋から、五十嵐と一緒に」
「……ええっと」
口調が濁る。そこで、周囲の疑惑の目が深まった。誰もが訝しげな目で、タカトシを見はじめる。
「いえ、ですから誤解です。俺は本当に部屋にいただけで」
この空気はまずい。そう思ったタカトシだが、身の潔白を証明するものが何一つない事を思い出す。なにしろ、1人でいる事を証明できるものなど、どこにもないからだ。
焦りを感じるタカトシだが、そこにチヒロの声がかかる。
「それじゃあ、カエデさんは何故タカくんの部屋に?」
ここで、カエデに話が振られる。この中で唯一、彼に不振な視線を向けていなかったのが彼女であった。
カエデは少しだけ迷うようなそぶりを見せた後、正直に答える事にする。
「実は、入浴から上がった後に、タカトシ……君の所に行っていました。ちょっと話がありましたので」
「ほほう。お話とは、何のですか?」
「ただの世間話です。バスの中では、あまり話せなかったので」
それが事実とは少し違うのだろうという事は、なんとなく理解している者がこの場にいた。しかし、そんなに離れてもいない証言だったので、強く追求をするのはやめておくチヒロ。
「しかし、それでは津田はやはりアリバイがないという事になってしまう。念のため、部屋の方も確認させてもらおうか」
これはもう、完全に容疑者扱いだ。しかし、くどいようだが否定する材料がない事も事実。
こうなったら、気が済むまで調べてもらおう。そうすれば、すぐに疑いが晴れるはず。
「ええ、構いませんよ」
タカトシは、堂々と言った。
そして――数刻後。
「おい、津田」
シノ。
「これは、どういう事かしら?」
スズ。
腰に手を当て、もう片方の手でタカトシに突きつけているモノ。それは1枚の紙切れ。
口をあんぐりと開けて硬直しているタカトシは、凍りついた身体のまま瞳だけを動かす。
視線をたどれば、目の前の紙切れに書かれた短い文章。そこには、サインペンのようなもので書かれた、デカデカとした文字。
そこには、こう書かれてあった。
――あなたが犯人役となりました。
つづく