それでも心を支えるべきは、大切な誰かからの心があって。
あなたが信じる瞳こそが。
僕の足を動かし続けている。
【お前が犯人……なのか?】
「つまり、この手紙があった事に気づいていなかったと」
「はい。部屋を見回しながら荷物を置いていたんで。俺もさっき初めて知ったんです」
津田タカトシに割り当てられた部屋。今は彼自身の私室だ。その部屋に、今回のミステリーツアー参加者が勢ぞろいで集まっている。
椅子に座っているタカトシの前で、同じように椅子に腰掛けているのは天草シノ。机に肘をつき、顎に手の甲を乗せている姿はドラマに出てくる取調べの警察官を思わせた。
まあ、実際に行われているのは取調べなのだが。
その名も、天草シノの下着盗難事件。なんとも酷い事件である。いろいろな意味で。
酷い、といえばタカトシの今の状況も充分に酷いと言えるものであるのかもしれない。何しろ、上半身を罪人のようにロープで縛られているのだから。
「まあ、あんたらしいドジよね。手紙に気づけなかったとか」
ちなみに、ロープの端を掴んでいるのは萩村スズ。彼女はどこか、面倒くさそうな表情だったのだが。
「おおかた、部屋の中を見回しながら荷物を置いたせいで……ってところかしら」
さすがはスズ。タカトシの性格や行動パターンも把握している。それとも、相手が彼だからだろうか。
「ええっと……いいんでしょうか。このままだと、タカトシが犯人で終わっちゃうんじゃないかと」
「うーん。それだと初日でツアーが終わっちゃうし……まあ、2泊3日の予定だから、残った時間はこの館で遊ぶって事になるのかな」
「いや、俺は何もしてないですってば」
七条アリアと五十嵐カエデは、揃ってベッドに腰掛けている。なんとなく口出しが出来る空気ではないので、傍観に徹することにしているらしい。
そして、取調べ中だというのに律儀にツッコミを入れるタカトシ。もちろん、それで場の空気が変わるわけでもない。
「まあ、確かにこんな序盤からアリバイが無くて、あっさり犯人がタカ兄っていうのも推理ものとしては面白くないよね」
出入り口のドアに背を預けている津田コトミが、扱く真っ当な事を言ってくる。格好つけて腕を組んでいる仕草がなんとも彼女らしいが、誰もそれには触れなかった。
「そうですね。私はタカくんを信じます」
タカトシが腰掛けている椅子の後ろに立っている魚見チヒロが、彼の両肩に手を置く。そこで、タカトシの耳元で呟いた。
「タカ君。今夜、一緒に寝ても良い?」
「なっ!」
「だ、ダメです!」
仰天するシノの横の後ろで、眉を吊り上げたカエデがベッドから立ち上がる。そのまま肩をいからせながら、チヒロに詰め寄った。
「魚見さん、どさくさに紛れて何を言っているんですか! 私が断じて認めませんからね!!」
「あ、えーっと……とにかく私の目が黒いうちは、そんな事などさせないぞ!」
先を越されて怒るタイミングを完全に逃したシノだが、どうにか言い切った。チヒロは相変わらずの無表情のままで。
「私は、タカ君を信じています。でも、シノっちは下着泥棒として疑っているんでしょう?」
「ぐ」
言葉に詰まるシノ。それに構わず、チヒロは言葉を続ける。
「でしたら、私が一緒にいて彼を監視していますから。これ以上被害を出さないためにも、そうした方がいいかと」
「……だったら、私も一緒にいます」
静かな声で、それでも有無を言わせぬ声色。五十嵐カエデは何の照れもない顔で、チヒロに言った。
「だったら私もだ。疑いをかけてしまったのは私だし、何よりもう狙われる心配などない」
「それでしたら、私も」
遅れてたまるものかと、シノとスズも立候補する。
「うーん。私も参加しようかな。なんだか仲間はずれみたいになっちゃうし。七条先輩は?」
「私も仲間はずれは嫌だな。それじゃあ私も」
残ったのは、スタッフのサヤカと、館のご主人。2人はどうしたものかと顔を見合わせる。
「……」
「……」
沈黙する面々。そして、なんだか妙な空気に。
「えーと……」
タカトシは途方に暮れる。結局、犯人探しはどうなったんだ……?
【監視者・シノ】
すったもんだの末、タカトシは監視付きで自分の部屋へと入れられる事になった。あっという間に下着泥棒の容疑者として軟禁状態となった生徒会副会長だが、周囲の女性陣はそのことに関しては二の次になっているらしい。
しかし、彼としてはそうもいかないかなという気持ちだった。曲がりなりにも、自分が犯罪者の烙印を押されかねない瀬戸際なのだ。しかも、かなり恥ずかしい罪状で。
よって、さっきはやり損ねた弁明をする事にした。椅子に座ったままお互いに向き合っている、シノに向かって。
「ええっと……一応言っておきますけれど、俺は知りませんよ?」
犯人ならみんなそう言うんだ。そんな返しが待っているような弁明だったが、本当に身に覚えがなかったのだ。
「心配するな。そうだろうとは思っている」
しかし、シノは本当にタカトシの事を疑っているわけではないらしい。いつもの凛とした瞳で、タカトシを見返している。さっきまで疑っていたのはツアー参加者としてのポーズだったのかもしれない。あるいは、いつもの悪ノリか。
それが分かっただけでもタカトシは嬉しかった。つい、学園にいる時の調子で頭を下げる。
「信じてくれるんですね。ありがとうございます」
「かたいな。お前は」
「え?」
かたい。何がかたいのだろうか。
「学園内ではなく、今はプライベートだ。会長ではなく、名前で呼ぶべきだろう」
「あ……でも」
胸に手を当てて催促するシノに、タカトシは思わず嬉しく――とはならなかった。
この時彼の心に生まれた感情は、尊敬する先輩から名前呼びを求められた喜びではない。むしろ困惑と申し訳なさであった。
「……何故そんな表情をする」
「いえ、別に。それよりも……名前の事、でしたね」
「うむ」
話を逸らされたが、今は良しとしよう。シノはそう思った。
「ええっと……天草、さん?」
「かたすぎる、お前のは!」
つい口調が強くなる。ズイッと目の前のタカトシ(獲物)を逃がさないように詰め寄る。彼女の視界で、彼のうろたえる顔がグッと大きくなった。
というか、シノがタカトシの頬を両手で挟みこんでいる。離れようにも、相変わらず身体を縛られているので逃げられない。
「か、会長。近い近い!」
「あ。すまん」
我に返り、彼女の顔が少しだけ赤く染まる。しかし、
「それで、だ。私の事は――」
と、ここでドアからノックの音が聞こえた。返事を待たず、ドアが開く。
入ってきたのはスズだった。どこか不機嫌そうに、2人を見ている。
「会長、交代のお時間です。津田の監視は30分だと決めたでしょう」
「あ、いや……」
「ところで、密室をいいことに何をしていたのか詳しく聞かせていただけますよね?」
ふと、この状況を考える生徒会長。シノは椅子から身を乗り出してタカトシの顔をつかみ、顔をこれ以上ないほどに近づけていて。
……うん。見方を変えれば自分がタカトシにキスをしているようにも見える。しかも、無理矢理。
「ち、違う!」
あらぬ誤解をされてはたまらない。冷や汗をかきながらも、シノは毅然と言い返す。
「大事なところには肉体的な接触などない。監視者として聞きたい事があったので、質問をしていただけだ」
「言い訳は別室でお聞き致します」
一刀両断に切り捨てたスズはシノに近寄ると、彼女の両手を腰で固めた。そのまま容疑者のように部屋の外へ連行する。
「や、やめろ。話せば分かる!」
「話せば分かると言う相手には、問答無用と返すのが礼儀です。とにかく時間切れですので、見張りは交代ということで」
あえなく、シノとの時間は終了となった。タカトシは1人、安堵の息をつく。
「……」
「あ」
ドアが閉まる刹那。
妙に表情のないカエデと目が合った事が、猛烈に彼の不安を煽った。
【彼女の目】
カエデ視点。たまたま通りがかった彼女が、部屋の奥から聞こえてきた声。
「ええっと……天草、さん?」
「かたすぎる、お前のは!」
カエデの顔が凍りついた。
【監視者・スズ】
さて、次に監視の役割になったのはカエデ――ではなく、妙に不機嫌そうな顔をしたスズであった。おそらくは、さっきの一件が尾をひいているのだろう。
「……」
「……」
沈黙。ただ、沈黙。
やはりタカトシは相変わらず椅子に縛られている状態のままで。目の前には、スズが椅子に座っていて。
腕と足を組み、自分をジッと睨んでいる。そのまま、もう何分もこの状態だ。
「え、えっとさ、萩村」
「津田」
「え」
先に言われてしまった。弁解をしようと思っていた矢先に。
「な、なに?」
「災難だったわね」
心なしか落ち着いた声で、スズは腕組みを解く。
「その様子なら、本当に会長と何かあったわけじゃあなさそうだし。それよりも、いきなり犯人扱いされて災難だったわねって言ったのよ」
「あ、うん。それはもう」
自分でも、顔が綻ぶのが分かる。なんだ。下着泥棒の事も、会長と何かあったのかという疑問も、彼女は全部信じていなかったのだ。
「萩村。信じてくれるんだ」
「当たり前でしょう。あんたにそんな甲斐性があったら、とっくに……」
「とっくに?」
「……なんでもない」
目を点にするタカトシに、スズは顔をプイと逸らした。
「でもさ」
「なに?」
目を合わせないまま、スズは答える。
「結局、下着泥棒って誰だったんだろう」
「そう、ね。それは私も気になっているけれど」
アリバイが無いのはタカトシ1人。そうなると、アリバイのある証言者の中に嘘をついている人物がいるということだ。
参加者の中に犯人がいるとは、スズもタカトシも考えたくは無かった。しかし、実際に主催者から犯人役を指名する紙切れが存在している以上、その可能性もでてくる。
2人して、うーんと唸ってしまう。今のままでは判断材料が少なすぎる。
皆が風呂に入っている時に盗まれた。という事は、アリバイが無い自分が疑われるのは当たり前。さらに、あの犯人指名の紙。自分はうかつにも、それが用意されてある事に気づかなかった。
一方でスズも、もちろんタカトシと同じ思考をしていた。時折ブツブツと呟き、自分の思考に沈んでいく。
「あ、あのさ。萩村?」
「へっ?」
ふと気づくと、タカトシと目が合った。我に返ると、目の前に縛られたまま座っている彼の姿が見える。
「考えているところ悪いけれど……これ、やっぱり解いてもらえるかな?」
少しだけ身じろぎする生徒会副会長。立ち上がれないのは、当然ながら縛られているから。
「あー……っと。分かったわよ。さっきも言ったけれど、みんなも本気であんたの事を疑っているわけじゃないから」
スズが近寄り、結び目を解こうとする。しばらく弄っていると、眉間に皺がよった。
「なによこれ。けっこう固く結んでいるわね。指が痛くなってきたわ」
「そんなに?」
「あんた、けっこうその状態のまま身動きしようとしていたもんね。その時に、かえってロープが食い込んじゃったんじゃない?」
参ったな、と思う。それなら、道具を持ってこなければいけない。ガイドのサヤカに頼むしかなさそうだ。
スズも同じ結論に達したらしく、椅子から立ち上がる。
「それじゃあ、ちょっと待ってて」
そう言って、スズは部屋を出て行く。やれやれ。迷惑をかけちゃったなと苦笑いするしかないタカトシ。
待っている間、周囲を見回す。シンプルながらもヨーロッパの上質さを思わせる部屋。ベッドはひとつに、アンティークな家具。
出入り口からドアひとつ分離れた壁には、洗面所と浴室が見える。大浴場以外にも風呂があるところは、どこかホテルの個室を思わせた。
いや、もとよりここはホテルを改造した建物なのかもしれない。それとも、ある程度ツアーの客足が少なくなることを前提に、ここをホテルとして再利用するつもりなのか。どちらにせよ、さすがは七条家の規模は違うという結論になるのだが。
「タカ兄っ!」
と、勢いよく部屋に姿を見せたのはコトミ。続いて、シノとチヒロも。
「あれ、どうかしたのか?」
「どうかしたか、じゃないよ!」
「ちょ、ちょっと……!」
遅れて姿を見せたスズが止めに入ろうとするが、コトミの方が口を開くのが早かった。
「タカ兄がスズ先輩にロープを強く縛られて、痛いくらいに身体に食い込まされてから器具プレイまでする事になったって本当なの!?」
「誰だああああ!!」
「私はそこまで言ってない!!」
副会長と会計の、渾身のツッコミであった。
「……」
うん。だから無言はやめて、カエデさん。誤解なんだってば。
【続・彼女の目】
ホールにいたカエデ達が、唐突に部屋から出てきたスズから聞いた説明。
「すみません、五十嵐先輩。津田のロープを固くしちゃって、食い込ませちゃったんです」
「!?」
だから切る物を貸してくれませんかという言葉は、彼女達にはまったく聞こえていなかった。
【監視者・チヒロ】
視点を移して、広間にて。
「さて。次の監視役は、誰だったかな」
シノは何気なく周囲を見回す。この場には、容疑者であるタカトシともう1人以外が全員いた。
目に入るのは、アリアやスズといった面々。いずれも椅子に座っているか、柱に背中を預けている。
「魚見さんですよ。会長」
「うむ」
スズの指摘に頷く。姿が見えないのはチヒロ。今は彼女が監視役なのである。
それよりも、気になっているのは……
「……」
「なあ、五十嵐」
「えっ?」
腕を組んで椅子に座っていた風紀委員長は、大げさに驚く。声をかけられ、肩をビクリと震わせた。おおよそ、いつものシノが知っている彼女らしくない。
「話、聞いていたか?」
「す、すみません」
やはり、らしくないと思う。先ほどから、妙に腰が落ち着いていないというか、どこか苛立っているようにも見える。
「何かあったのか。さっきから妙にソワソワしているが」
「い、いえ。結局、本当の犯人は誰なのかなって考えていました」
「ふむ」
いささか取って付けたように聞こえなくもなかったが、シノは突っ込まないでおいた。実際、自分もそこは気になるところだったので。
「確かに。津田が犯人でないとなると……」
「入浴から出た後で、誰かが盗んだってことかな?」
アリアが推測を口にする。それに対し、シノ達は少し難しい顔をした。
「どうとも言えんな。確かに、こんな事が起きるとは思わなかったから盗まれる隙はあったのだろうが、いくらなんでも私のすぐ傍で犯行というのは考えにくい」
「それに、それだと私たちも容疑者になっちゃいますよ。お風呂に入っていたのは私たちなんですから」
スズが付け足す。やはり、この説は無理があるようだ。
「……」
一方で、カエデは生徒会役員達の会話には加わらなかった。時折、視線が2階へ続く階段に行くだけ。
「カエデ先輩。本当にどうしたんですか?」
なんだか、さっきから彼女だけが心ここにあらずだ。今は下着ドロの事を考えるべきではないだろうか。
「ああ、すみません。実は……さっきから、誰かに見られているように感じてしまって」
「え」
僅かに深刻さを帯びているその言葉に、スズの顔が凍りついた。
「いえ。下着泥棒やタカトシの事は確かに気になるのですが……お風呂に入る前で辺りから、どうも視線を感じるんです。この館って、本当に私たち以外の人がいないんでしょうか?」
そう。さっきからカエデが挙動不審な態度なのはそのためであった。いや、もちろんタカトシと生徒会役員の女子たちの関係は気にしているのだが。
正確に言うと、この館に入る少し前からである。もっと正確に言えば、サヤカが館の主人と交渉している頃から。
あの時辺りから、妙に視線を感じる。だが、自分の嫌いな粘っこい視線とは違う気がする。男性恐怖症のカエデだからこそ、誰かの視線には敏感なのだ。
いや、そもそも自分を見ているのだろうか。ここにいる誰かに向けられているのかも。どちらともいえない。この場の全員を気にしているようにすら思える。
「い、五十嵐先輩……こ、ここって人気のない森の中ですよね。もしかして、まさか……」
「あ……」
しまった、と思う。スズは怪談話が苦手なのだった。
「いえ。そういう意味では……」
「そ、そうですよね。気のせいです!」
わざと明るく言うスズ。しかし、足元が妙にガクガクと動いている。
「萩村さん?」
「気のせいです気のせいです気のせいです!」
「あの、すみません……」
完全に怖がらせてしまったようだ。申し訳ない気持ちになりつつも、シノの視線を感じて、これ以上の話はやめておくことにした。こうなると、しばらく放っておくしかないらしい。
「……」
なんとなく会話が途切れ、カエデは椅子に座ったまま天井を仰ぐ。2階分の高さの天井に吊るされている豪華なシャンデリアが、否が応でも目に映る。
「話は変わるがな、五十嵐」
いつもの生真面目な口調のままのシノは、改めてカエデに語りかける。
「今年のクリスマスは、何か予定があるのか?」
「予定ですか……今のところは、友達とどこかへ出かけたいと思っていますけれど」
「ふむ。実はアリアからの提案でな、予定のない者たちを誘って、アリアの別荘でクリスマスパーティーを開こうかと企画中なのだ」
「パーティー、ですか」
「ああ。去年は生徒会の皆で行ったのだが、今年はウオミーや五十嵐もどうかと思ってな」
「えっと……」
どうしようか、と思うカエデ。確かにそれは楽しそうだし、友達を誘っても良いのかもしれない。
迷う必要は無い。だが、この時のカエデは僅かに躊躇いを覚えてしまった。クリスマスを生徒会のみんなと過ごす事に対して。
「?」
間を空けてしまうカエデに、シノは笑顔のまま頭の上に疑問符を浮かべている。何か、分かり辛い事でも言ってしまったかと思っているのだろう。
しかし、幸運にも。その沈黙が気まずいものに変わる前に――ガタン、と音が聞こえた。
重いものが倒れる、大きな音。明らかに、只事ではない。
「!?」
反射的に、一同は音がした方へ顔を向けた。言うまでもなく、津田タカトシと魚見チヒロがいる部屋だ。
椅子から立ち上がり、急いで階段を上る。なんだ。今度は、何があった。
ドアの取っ手を捻り、中へ入る一同。
「あ」
その間の抜けた声を発したのは、果たして誰だったか。
目の前には、部屋の中で床に倒れ掛かっているチヒロに、彼女の肩を片腕で抱いているタカトシ。備えられているテーブルが倒れているが、おそらくそれがさっき聞こえた音の原因だろう。
しかし、そんな事は今の彼女達にはどうでもいい。カエデを初めとした女性人の目が遠くなっているのは――顔を背けているチヒロの格好が、バスタオル一枚だったからだ。
そして、こちらを見て顔を引きつらせているタカトシの手に持っているのは……小型のナイフ。
「……」
「……」
空気が硬直した。
【信じる女】
容疑者の部屋。
タカトシの部屋のドアにでかでかと張り紙が貼られて、そこに書かれてある文字がそれだった――などという事はなく、タカトシの部屋のドアには他の扉と同じように何もない。
しかし、まさに今の彼の部屋は、下着ドロどころか、性犯罪者の部屋と呼ばれても過言ではない状況であった。真実がどうあれ。
現在、タカトシは部屋に軟禁されている。さすがに少し女性陣らも、彼と少し距離をとりたいと。それを言い渡された時のタカトシの顔は、しばらく忘れられそうになかった。
シノ達は、もう自室に戻っている。サヤカに頼んで、タカトシの部屋には外側から鍵をかけてもらったのだ。無論、ドアの特性上は内側から開ける事は容易であるが、勝手に出た場合は周囲からの疑いが深くなるので、むやみに出る事はできない。
その辺りを考慮して、監禁ではなく軟禁であった。さすがに出入りを許さない監禁までするのは忍びないという事で、食事などの場合は出ても構わないという。
そんな部屋の前に、カエデは1人歩いていった。周りはシンと静まり返っており、照明も最低限の数がオレンジ色に光っているだけ。それでも、どこに何があるのかは見て取れる。
少しだけ躊躇った後、カエデは申し訳程度にドアをコンコンとノックした。上質な木製のドアの音は、自宅の部屋よりも音がかたく聞こえる。
「……はい」
ドア越しに、タカトシの声が聞こえる。よかった。眠っていたわけではなかったらしい。それとも、さすがに眠れないのだろうか。
「タカトシ。私です。カエデです」
「あ……カエデさん、ですか?」
バタバタと音がして、彼が近寄ってきているのがドア越しでも分かった。さすがに扉は開けられないのだろうが、彼が傍に立っている事が分かっただけでもカエデは僅かに胸をなでおろす。
「少し心配になったので、来てみたんです。その……大丈夫ですか?」
「あ、はい。なんとか。別段、何かされたというわけでもなかったですし」
「災難でしたね」
「まあ、そうですね。いきなり下着ドロの犯人にされてしまって。それに、さっきは、ああの……」
言いたい事は分かる。さっきのチヒロの一件だろう。カエデは努めて落ち着いた口調で言う。
「分かっていますよ。タカトシは何もしていません」
「え?」
カエデの頭に、目を瞬かせているタカトシの顔が浮かんだ。てっきり、彼女が自分を疑っているとでも思っていたのだろうか。
だとしたら、そっちの方が傷つく。自分はそんなに恋人を信じられない女と思われていた事になってしまうではないか。
「事の発端は、魚見さんから聞いています」
「はあ」
「タカトシを縛っているロープを切るために、魚見さんが厨房から果物ナイフを持ってきた、と。その後、タカトシを開放できたのは良かったんですけど、少し汗をかいたのでタカトシの部屋のシャワールームを使って汗を流したんですよね?」
「そうです」
あっさりと認めるタカトシ。少しの違いもなかった。
「そこで、あろうことか……バ、バスタオル一枚で出てきて……」
「待って。落ち着いて」
「私は落ち着いています。と……そこで、魚見さんがテーブルにぶつかって、転びそうになったところをタカトシが支えた、と」
「はい。テーブルの上に果物ナイフを置いていたので、それが衝撃で落ちそうになってしまったんです。危ないので、床にぶつかる寸前だったお姉ちゃんを支えて、ナイフも手に掴んでおきました」
これが真相だった。要するに、タカトシとチヒロにはやましい事など何もなかったのである。
シノたちも、チヒロからこの事実を聞いている。彼女達も、やはりタカトシが性犯罪者になったなどと心から信じているわけではなった。
今、シノ達が彼の監視を止めて軟禁状態にしているのは、別にタカトシを犯人と断定しているからではない。本当に、彼女達が眠気を覚えていたからだ。
なにしろ、ツアーとしてこの館に来てから、早々に下着ドロ事件や仲間同士で疑い合っていた事もあって、彼女達も知らず知らずのうちに疲れが溜まっていた。特にスズに至っては、夜の9時以降は眠くなる体質なので途中から早々にグロッキー状態。
そして、今は深夜と言って差し支えない時刻。疑いが晴れるというわけではないだろうが、明日になれば疲れが取れた彼女達も、タカトシにいつも通りに接する事ができるだろう。
とはいえ、タカトシにとってはそう楽観的に事を構えてはいられないらしい。ドア越しに聞こえる声も、いつもと違ってどこか憔悴しているようにも感じる。
無理もない、と思う。あの瞬間、シノやスズから完全に疑いの目で見られたのだから。
彼女達の名誉のために付け加えておくと、シノ達がそう思ってしまったのも無理はない。何しろ、あの状況では誰がどう見たってタカトシが誤解される。
ただ、今は冷静になるべきだ。そう意味も込めて、シノ達はいったん就寝することにしたのである。
「タカトシ……」
「やっぱり、会長と萩村は分かってくれませんでしたか?」
「……いえ。少なくとも、完全に疑いが晴れたわけではないでしょうが、明日からはいつもの姿勢で接してくれると思いますが」
「……ありがとうございます。気休めでも少しだけ楽になりました」
カエデはさっきまで考えていた考察を口にしたのだが、タカトシはいまひとつ効果が無かったらしい。沈んだ口調は相変わらずだ。
つい思い切って、カエデは言ってみる。
「私の言葉では、信じられませんか?」
「い、いいえ。カエデさんが言ってくれるなら、それで良いんです。カエデさんに信じてもらえなかったら、さすがに俺も立ち直れそうにないですから」
その返事が聞けて、本当に良かった。カエデは思わずクスリと笑ってしまう。
一度だけ深呼吸。よし、覚悟は決まった。
「あの、タカトシ」
「なんです?」
「部屋……入っても良いですか?」
「えっ」
タカトシの声が硬直する。そこで、慌てた口調が返ってきた。
「あ、はい。今、鍵を開けますから」
ガチャリ、とロックを外す音が聞こえた。ドアが開くと、どこか緊張した表情のタカトシが部屋の照明を逆行に立っている。もっとも、自分もまったく同じ顔をしているのだろうが。
「ど、どうぞ」
「し、失礼します」
そそくさとカエデはタカトシの横を通り過ぎ、部屋に入る。背中で、彼がドアを閉める音がした。
「今更ですが、すみません……こんな夜分に」
「いいえ。俺、嬉しいです。ちゃんと、俺のことを信じてくれて」
セーターにミニスカートの格好のカエデは、どこか緊張したように太腿をこすり合わせる。
「初めから……」
「え?」
「初めから、疑っていたわけではありませんでした。タカトシ君のこと」
「……」
「そんな事をする人じゃないって信じていましたし。けれど……」
カエデは、少しだけ言い辛そうに彼の顔を真っ直ぐに見た。頬が桜色に染まっており、瞳も潤んでいる。
「天草会長と一緒にいた時の状況とか、魚見さんの事とか……やっぱり、いい顔はできませんでした。本当にキスをしていたんじゃないかって、一瞬だけそんな考えがチラついちゃったんです」
今の彼女の姿を、どこかで見た気がする。タカトシは場違いにもそう思った。
あれはたしか、夜の校舎の中。保健室で、森ノゾミとの関係を疑われた時と同じ、今にも泣きそうな彼女の顔。
気づけば、タカトシはカエデをそっと腕の中に抱きとめた。
「カエデさん……俺が浮気するような男だと、本気で思っていたんですか?」
「だって……」
誤解されるような所ばかり見てしまっていたんですから。そう抗議しようとすると、彼の手がそっと頬に触れる。
「んっ」
なにをしたかなど、語るまでもない。彼の舌は、何の遠慮もなくカエデの口内に絡み付いてくる。
カエデはそっと目を閉じて、タカトシの唇を受け入れていった。彼の首に腕を回し、対抗するように舌を絡ませていく。
十数秒ほどそうしていただろうか。やがてお互いがゆっくり唇を離すと、切なげな視線が交差する。
「カエデさん」
彼の一言で、彼女は全てを察した。腰に回ったタカトシの腕に導かれるように、2人はゆっくりと歩く。
向かう先は、シャワールーム。躊躇いなんかない。ずっと、この時がくる事を望んでいたから。
――しかし、2人は“その時”を迎える事はなかった。
「ぬわあああああああああっ!!」
脱衣所に足を踏み入れた直後、廊下から部屋の中にまで響く悲鳴によって、空気をぶち壊しにされてしまったので。
第2の事件の始まりである。
つづく