向かう先は違っても。
たどり着く先で、また一緒になることを願っている。
その時こそ共に。
肩を並べてずっと歩いていこう。
そう。
たとえ。
そんな2人を見つめる瞳があったとしても。
【蕾の下で】
3月に入った。新年度への息吹は、誰もが感じ始めている。
誰もが不安と期待に身を焦がしつつ、目的の場へと足を進めていた。
周りで共に歩くのは、名前も顔も知らない者達ばかり。それも当然だ。数多くの他校の生徒達もまた、同じ目的で向かっているのだから。
そう、将来の学び舎になるかもしれない場所へ。
五十嵐カエデが向かうのは、東京學堂大学。今年度の桜才学園において、東京學堂大学を受検した者は、カエデを含めても数名しかいない。桜才学園ほどの名門校ですら、難関と言われているレベルなのだ。
「・・・・・・」
ほんの少し空を仰げば、白い雲が目立つ。それでも、その切れ間に青空が見えている天気。周囲のザワザワとした声や足音も、どこかカエデには遠く感じられた。
不安が無い、といえば嘘になる。それでも、どこか今の彼女には他人事のように感じた。
入試試験が終わって、2週間近くが経つ。学園生活中にあれほど勉強した日々が、どこか遠い昔のようだった。どんな日々も、終わってしまえばあっという間だ。
合否が発表される今日、何度も確認した自分の受験番号があるかどうか。
吐く息が白い。どんなに不安を覚えていても、すでに合否の結果は覆らないのだ。
白い建物。これまで通っていた学校とは比べものにならない規模の校舎。その門にて設置されている掲示板。
その掲示板に張られているのは、それぞれの学部とその合格者受験番号が記されている。すでに同じ受験者の人だかりが出来ており、カエデはできるだけ邪魔にならないように意識しながらその中に入っていく。
集まっている人の中から、はしゃぐような声が多方から耳に入ってくる。合格した者の歓声だろう。無言で俯いて立ちすくんでいる者は、言うまでもない。
カエデが受験したのは、教育学部。その合格者の一覧が記されている番号の羅列を、上から下へ確認していく。
やがてカエデは、身につけているコートのポケットからスマートフォンを取り出した。
【記者の卵にヒビが入り】
「うっ、うっ・・・・・・うおおおおう・・・・・・!」
「は、畑さん。流石に大袈裟すぎますよ」
困ったような様子の津田タカトシに向かい合って、新聞部部長の畑ランコはボロボロと涙を流していた。ただし、例によって無表情のまま。
現在は昼休み。桜才学園元副会長はさりげなく周囲を見回す。生徒会室前の廊下は人通りが少ないものの、誰かに見られたら自分がランコを泣かせている構図としてみられてしまう。
実際、ある意味では泣かせていると言っても過言では無いのだが。
彼女の手に持っているのは、タカトシから渡された原稿用紙。今回、最後の桜才新聞に載せるためのエッセイを読んでもらっていたのだ。そのあまりの完成度に、新聞部は物書きのプライドも全てを丸投げして、ただ感動の涙を流していた。
「ああ、この私・・・・・・津田君のエッセイに改めて教えられてしまいました。卒業とは別れ。そして、旅立ち。それをここまで心に思い知らせるなど・・・・・・これはもはや、卒業後にエッセイ集を編集しなければ」
「人の原稿に何を・・・・・・と言いたいところですが、今は止めておきます。それじゃあ掲載の方、よろしくお願いしますね」
「はい。寛大なご処置、感謝いたします」
そそくさと原稿を制服の懐に入れる。ふと、タカトシはランコに気になっていたことを訊いた。
「そういえば畑さん。大学受験の方は?」
「ええ。おかげさまで第一希望の立証大学(りっしょうだいがく)に受かりました。ちなみに社会学部です」
「よかった。本当におめでとうございます」
タカトシの顔に、安堵の色が浮かぶ。この人も、しっかりと大学に合格していたのだ。
「いえいえ。やはり、私とマスコミは切っても切り離せませんので」
「立証大学ですか。あの情報関係に強いことで有名でしたよね」
「そうですね。あそこはかなり実践形式で学ぶそうですので、私にも必ず合うと思ったんです」
日頃の彼女の行動力を考えれば、凄まじい説得力であった。卒業生の多くはかなり大手の出版社に就職するそうなので、ランコならきっと凄腕のジャーナリストになれるだろう。
「応援しています。最後の高校生としての新聞、楽しみにしていますから」
「おや、これはご丁寧に。ですがね、津田君」
「はい」
「これは仕事の話ではありませんが、五十嵐さんとの事で」
「カエデさん?」
ズイッと、一歩前に詰め寄るランコ。
「カエデさんとは、どこまで行きましたか?」
「畑さんが卒業したら教えます」
「いえ、決して情報はバラしません。情報源が特定されることは書きませんから。アナタ達の場合は、フニャチ○とビッ○と書くので」
「なめるな」
こちとら20㎝はあるし、カエデさんは○ッチじゃねえ。
と、そんなことを口には出さなかったが、ランコには返すニュアンスでバッチリと理解したらしい。
つまり、タカトシとカエデはお互いに純潔を捧げ合った仲で、今でも関係は良好なのだと。
「なるほどなるほど。いやはや、おめでとうございます」
「オフレコでお願いしますよ。本当はあまり教えたくは無かったのですが、畑さんには背中を押してくれた借りがありますから」
それに、こうしてランコに困らされるのも、おそらくはこれが最後になるのだろう。最後の同じ学園生としての生活はこれから先、もう経験することは無い。そう思うと、少しくらいは情報のサービスをしてみようかという気になっていたのだ。
「たっぷりと恩に切ってほしいものです。それはそれとして、少し質問を変えましょう」
コホン、と咳払いをするランコ。
「五十嵐さんの処○のご感想は?」
「生涯忘れな――――言わせんな」
「冗談です。カエデさんの大学希望先は、ご存じでしょう?」
「もちろんです。教育学部に入って、大学教授を目標にしているんですよね」
「ええ、ええ。しかし、津田君はそれで良いのですか。大学が別々になれば、あまり会えなくなってしまうのでは」
「お互いが進路を明確に決めているのですから、これでいいんです。俺が知らないような遠くに行ってしまうわけでもありませんし」
「遠距離恋愛は覚悟済み、と。頻繁に会えなくなるというのに、余裕ですねえ」
ランコの呟きに、タカトシは顔を引き締めた。黙って頭を振る。
「余裕ではありません。正直言って、不安に駆られることはほぼ毎日です」
「おや」
「それでも、俺とカエデさんが決めた将来のためですから。会える時間が減るからこそ、会った時は今以上に深く触れあいたいんです」
一切の羞恥も無く、堂々と言い切った。ランコは、つい目を瞬かせる。
「なるほど。つまり・・・・・・」
メモ帳にペンを走らせる将来のジャーナリスト。
「会えない時は、オ○禁と思うことにした、と」
「将来のためって言いましたよねぇ?」
【地に足をつけて】
ランコと別れて教室へと入る。クラスメイト達がザワザワと仲が良いもの同士で話をしていた。
自分の席に座ると、クラスメイトの柳本ケンジが声をかけてくる。それに気付いて、近くの席の三葉ムツミと轟ネネも参加してきた。
「よう、津田。少し遅かったな。そろそろ午後の授業が始まるぞ」
「柳本。ちょっと廊下で畑さんと会ってさ」
「畑先輩に何か用事でもあったの?」
首をかしげるムツミ。あまり接点のない先輩なので、用件が想像できないらしい。
「新聞に載せる原稿だよ。次回で桜才新聞も最後になるから、そのエッセイを提出してきただけ」
「わあ。津田君が書く話って、本当に凄いからね。今回は、どんなのを書いたの?」
「見てのお楽しみってことにしておくよ、轟さん」
笑いながら席につくタカトシに、ネネは口を3の字にする。どうやら、相当気に入っているらしい。こちらに聞き耳を立てていたクラスメイトのみんなも、同じ反応をするのがなんだか可笑しかった。
「それにしても俺たち、来月には最上級生か。3年になったら、受験のことも考えなきゃな」
「受験勉強だったら、2年生のうちに始めておくもんだぞ。萩村なんか、もう入試の過去問に手をつけているらしいし」
「さすがに萩村と比べられるのはなあ」
呆れた調子で柳本が言う。IQ180と比較するのは酷なことかもしれないが、それを差し引いても受験勉強は2年生の夏頃に対策を立てておいた方がいいと感じた。実際、タカトシはそうしている。
「私は、柔道の成績次第では上の体育大学を狙えるって先生に言われたかな」
「最近は文系の伸びが悪くなっているのが心配。1年生の頃は結構上位に名前があった記憶があるのに」
ムツミはともかくとして、ネネは確かに心配だろう。ロボット部の部長として大会にも出場しているのだが、部活動や特殊な趣味に没頭しているので、2年生になってからは成績が落ち目になっているのだという。できる限り萩村スズやタカトシが友人としてフォローはしているが、今ひとつという結果だ。
それでも、3年生になれば理系の選択科目が増えるだろうし、それほど不安になる事もないはず。終業式で渡される成績表が不安だが、そこはもう試験が終わったこともあり、彼女の今後を祈るばかりだ。
「三葉って、確か全国大会に行ったんだよね」
この柔道部主将は、去年の秋に都道府県の代表の1人として全国に出場したらしい。その成績があれば、確かに体育大学から声をかけてもらえるだろう。
「うん。準決勝で負けちゃったけどね。次は3年生で最後のチャンスだから、今度こそは優勝したいな」
「それでも優勝候補を倒したんだよね。私、聞いてびっくりしたよ」
ネネがその時の興奮を思い出したのか、目をキラキラさせてムツミに詰め寄る。照れくさそうに頭を掻く姿は、いかにも純情な少女といった姿だ。
「あの時の疲れがなかったら、もう少しはいい試合が出来たかもしれないけどね」
「絶対に優勝できていたよ」
本当かなぁと、どこかまんざらでもなさそうに柔道部主将は笑う。
きっとムツミはムツミのまま、3年生になる来年度も変わらない学園生活を過ごすのだろう。そしてそれは、タカトシも含めて誰もが思っているに違いない。
3年生、か。みんなと話を合わせつつも、思考は少しだけ別の所に逸れる。
最上級生。とうとうここまで来た、などという達成感は湧かなかった。すでに、心は卒業後の未来にあるからなのかもしれない。
将来を具体的にどう進んでいくかを、タカトシだけではなく過半数以上の2年生がすでに決めているのだ。
大学へ行き、さらなる分野を深く学ぶか。社会に出るまでに、手にした生業で何を生かさなければならないのか。
それとも、卒業後には直接社会に出るか。エリート校である桜才学園は、就職後のためのサポートとしてあらゆる資格を今のうちに身につけておくことも出来る。それを武器に、一足早く就職を狙うか。
学ぶか。就職か。どちらを選ぶかで、今後の人生が大きく変わる。いつまでも夢見る子供のままではいられないのだ。来年で18歳になれば、運転免許証を取ることも出来るし、結婚だって認められる。
そんな時期になってもなお、将来への道順すら決められないようでは未来がない。
「・・・・・・っ」
タカトシはそこで思考を打ち切り、ポケットからスマホを取り出した。マナーモードに設定しているので、バイブレーション機能が作動している。
「ごめん。電話だ」
みんなに一言告げると、廊下に出る。ディスプレイには現在、合格発表を確認しに行っている、あの人の名前。
「はい、俺です。タカトシです」
はやる気持ちを抑え、あえて冷静に言った。電話越しの彼女の声に混じって、ガヤガヤと騒がしい声が雑音として聞こえてくる。おそらくは、他の受験生達がいる中で電話をしているのだろう。
それでも、何を言っているのかは聞き取ることが出来る。どういうわけか、試験結果に関しては何一つ触れようとはしない少しだけ嫌な予感を感じたが、タカトシはできる限り聞き手に回ることにした。
少しだけ話が逸れ、カエデは今日の夜に会えませんかと誘ってくる。もちろん、タカトシに断る理由などあるはずもない。
「・・・・・・はい、分かりました。それじゃあ、その時間に学園で」
結果に関しては、一度会って直接言いたい。それがお互いの希望だった。その後も短い話を交換しながら、通話を切る。なんとなく悶々とした気持ちが拭えないものの、今は会う約束をしたのだから耐えるしかない。
しばらく握りしめたスマホを見ながらぼんやりしていたが、そっとポケットの中にしまい込む。立ち尽くす自分を尻目に廊下を通る同級生達の声も、どこか遠い。
さて教室に戻ろうとドアに手をかけたところで、横から声がかけられた。一瞬だが反応が遅れ、彼の肩が僅かに上がる。
顔を向ける前から、慣れ親しんだ声で相手が誰なのかは分かっていた。2年間世話になった元生徒会長の天草シノが2年生の教室の前に立っていたのだ。
「すまないな、津田よ。驚かせてしまったか」
「いえ、別に。それよりもどうしたんですか。2年生の教室の前で」
「そ、そのだな・・・・・・大したことではないのだが」
いつものようにスパッとしたシノらしくない。視線が彷徨っている上に、頬もどこか赤い気がする。
やがて意を決したように、シノは真剣な目でタカトシに向き合った。
「実は、津田・・・・・・少しだけ話せないか?」
「えっ?」
【貫禄のある瞳】
「それじゃあ、今日の授業はこれで終了よ」
担任の横島ナルコがそう締めくくり、今年度最後となる2年生の英語の授業は終わった。同時に、ほぅと誰かが安堵の息をつくのが分かる。
このタカトシやスズがいるクラスの担任はナルコなので、そのまま引き続きホームルームに入った。本来なら持ち込んでいる担当教科の教科書を職員室に戻すのだが、彼女は偶にその辺りを省略する癖があるのだ。
もっとも、わざわざそれを注意する者などいない。生徒としても、その方が手っ取り早く帰れるからである。
「さて、それじゃあ明日は卒業式だけど。細かい手順とかは、もう説明するまでもないよね」
ナルコがチラリとタカトシとスズの2人に視線を向ける。細かい手順も何も、一般生徒は教職員や生徒会役員の誘導に従っていればいいだけだ。
むしろ、在校生の中で一番忙しいのは当のタカトシ1人。彼は在校生代表として、卒業生へ贈る言葉をステージで語り、その後も裏方として仕事が待っている。
「それじゃあ、明日は遅刻をしないように。起立。礼」
ありがとうございました、と最後の生徒の礼。これにて、桜才学園2年生の最後の授業は終わったのだ。
途端、ざわつくクラス。開放感に溢れたそれぞれの生徒達が談笑を始める。
「タカトシ君。明日、在校生代表でステージに立つんでしょ?」
近くの席から、三葉ムツミが話しかけてくる。タカトシは鞄に教科書を詰める手を止めて答えた。
「大したことじゃあないよ。でも、俺も今は生徒会長だから」
明日は卒業式。ずっと2年間もお世話になった先輩達をこの先へと送る、最後の恩返し。
「・・・・・・三葉、どうかした?」
「ううん。なんでもない」
タカトシの目をジッと見つめてくるムツミ。心なしか、顔が赤い。妙に思って訊いてみるが、彼女は何でもないと繰り返すだけ。
「なあ柳本、轟さん。俺の顔に何か付いている?」
「さあ? 強いて言えば、早くも新しい生徒会長の貫禄が付いている、かな」
「やはりかリア充」
「?」
【茜空の抱擁】
夕暮れの時刻に変わるのは、本当に早い。
オレンジ色から、ゆっくりと夜の色に塗りつぶされていく桜才学園の校舎。それを五十嵐カエデは1人、ジッと見守っていた。
校門の前には、彼女ひとり。在校生は明日の卒業式のため、早めに帰宅している。学園の名前が彫られている柱に背中を預け、並木道の桜が花びらを舞い散らせる風景を眺めた。
まだ少しだけ冷たく感じる風が、柔らかく吹く。春の風になるのもきっと間近だろう。
彼の声が、敷地内から聞こえた。カエデは顔を向ける。早めに近寄ってくる彼の姿は、どこか不安と期待を半々にしたような様子だ。
「すみません。遅れてしまって」
「タカトシ。早めに来たのはこっちですから」
カエデは制服に白のコートを着込んだ姿であった。温かくなり始めてきたとはいえ、まだまだ吐く息は白い。
「待ち合わせの時間には早かったでしょうか?」
「カエデさんを待たせるわけにはいかないと思って。でも、結局待たせちゃいましたね。すみません」
「もう。早く来たのはこっちだって言っているのに」
立ち話もなんなので2人は校門をくぐり、中庭へ入る。学園の白い校舎が、今は夕日のためにオレンジ色へと染まっていた。
グラウンドから裏庭に続く道を歩きながら、カエデが切り出した。
「タカトシ」
「はい」
「試験の方は、どうでしたか?」
「カエデさんこそ、受験の方は?」
一瞬だけ見つめ合い、沈黙する。そして、まるで照らし合わせたかのように――――
満点、です。
合格、です。
満面の笑顔を浮かべ、2人はお互いの腰に腕を伸ばした。愛おしく、包み込むように。
「ははっ・・・・・・」
「ふふっ・・・・・・」
そして、愛し合う恋人同士は笑った。嬉しくて、何よりこの瞬間が楽しすぎて。
抱きしめあった2人は、しばらくの間離れることはなかった。
【茜空の誓い】
立ち話をする気は無かったので、2人はグラウンドの隅に設置してあるベンチに腰をかけた。影が伸びる時間の中、茜空が眩しく感じる。もう少しで、一番星が見える頃になるだろう。
「本当に、おめでとうございます。萩村さんと、また同点だったんですね」
「ありがとうございます。でも、俺はカエデさんが合格してくれたことの方が嬉しいですよ」
将来に関わることですから、とタカトシはカエデの腰に手を回す。彼女は彼の温かい腕の中に身を預けた。
「タカトシが、一緒に頑張ってくれたおかげですよ。今でも感謝しています」
「でも、カエデさんが卒業してしまえば、こうして頻繁に会うことも出来なくなるんですよね」
それは当然だ。進学者と在学者という明確に立場が別れてしまえば、2人だけの時間を取ることも難しくなるだろう。そうして自然消滅してしまうカップルなど、世間には当たり前のように存在しているのだ。
それでも。
「そう、ですよね。私が先輩なんですから、当たり前の事です」
少しだけ不安になったのか、カエデの声が詰まる。タカトシは慰めるように彼女の頭を自分の胸に押しつけた。
「でも、これは当たり前の事です。目指したいものがあって、それに向かって学ぶ。寂しいと思いますけれど、卒業したくないなんて、絶対に口にしてはいけないんですから」
「俺たち、新年を迎えてから、ずっとそんな話をしていましたね」
離れていても会えなくても、お互いを信じられる気持ち。これから先、隣に立てることが当たり前ではない時間は、必ず2人の前に立ち塞がるだろう。
それを迎えた時、その壁を乗り越えられる強さがなくては、いつか必ず破綻してしまうだろう。離ればなれになって、お互いの温もりがなくなったとき。彼と彼女は、傍にある別の温もりに縋ってしまうことになるのかもしれないから。
津田タカトシは五十嵐カエデを愛している。
五十嵐カエデも津田タカトシを愛している。
今、この思いを生涯大切にしていきたいから。たとえ離れていても、想いが通じ合っていられるように。
そして、いずれはお互いが社会に出た頃。共に人生のパートナーとしていられるために。
これは、決して別れではない。ひとつの始まり。
「きっと、寂しくなるかもしれませんね」
「俺もです。何度も、カエデさんの事を思い出します」
「会いたいって、泣きたくなる日が来るかもしれません」
「他の男が言い寄っていないか、不安になるでしょうね。俺、こう見えて独占欲強いんですよ」
「それは知りませんでした。でも・・・・・・」
スッと、カエデはタカトシの瞳を見つめる。
「私たち、そんな時間を乗り越えて、はじめて言えると思うんです」
――――結婚しよう、って。
その言葉は口にしない。いつか、本当にその日が来た瞬間のために。
「求め合うだけの時間じゃなく、信じ合う時間。今の俺たちには、それが何より必要ですもんね」
先に言われちゃいました。タカトシは悪戯っぽく笑う。
「でも、カエデさん・・・・・・なんだか一足先に大人になっちゃいましたね」
「あ、言いましたねっ」
頬を膨らませ、ポカリと拳で彼の額を叩く。力が入っていないので、全然痛くなかった。
「おっと。でも、そんなカエデさんを俺は愛しているんです。俺も負けていられないって、そう思うんですよ」
「そんな。タカトシは充分に大人です。私の方こそ・・・・・・んっ」
そっと、タカトシはカエデの小さな唇にキスをする。愛しく、凜々しい恋人に。
甘い唾液の味が、2人の口内に広がる。舌を絡め合わせ、口を離してもなお白い糸が繋がっていた。
「俺、今よりももっと大きくなります。今のカエデさんに置き去りにされないためにも」
「大袈裟です。私なんて、まだこれから・・・・・・」
「卒業まで、一人前の生徒会長として精一杯やっていきます。絶対に、医大にも受かりますから」
「・・・・・・頼もしい、ですね」
「必ず医者になって・・・・・・でも、その時にはカエデさんはきっと立派な教師になっているんでしょうね。だから、俺も」
「タカトシ」
諫めるように呼ばれ、タカトシは熱の入っていた感情が冷めるのが分かった。目の前には、仕方が無い人ですねと言いたげな彼女の顔。
「私はですね、タカトシ。何も、無理に医者になって欲しいとは思っていないんですよ」
「カエデさん。それは俺の昔からの夢で」
「どんな職に就いていても、タカトシはタカトシなんです。私は、今のタカトシを愛しているんです。医者にならなければ自分じゃないなんて、思わないでください。夢なんて、それこそ星の数くらいあるんですから」
「でも、それくらい立派にならなくちゃ、カエデさんとは釣り合わない。カエデさんが自分の夢を叶えようとしているのなら、俺も昔からの夢を叶えた上でカエデさんと、その、一緒に・・・・・・」
さっき、暗黙の了解で口にしなかった言葉を言おうとして、タカトシは黙ってしまう。そんな彼に、カエデは万感の思いを込めてキスをする。さっきのお返しのように。
「ありがとうございます。そこまで真剣に考えてくれて、本当に嬉しいですよ」
でも、とカエデは続ける。
「無理だけは、して欲しくないんです。タカトシが一生懸命に夢に向かって走り続けて、何かのきっかけで倒れて欲しくないんです」
「カエデさんに心配をかけたくはないですから。俺は大丈夫です」
「はい。医大に合格できるように、ずっと応援しています」
不意に、タカトシが身体を動かす。ベンチの上で身体を横にして、頭をカエデの太腿の上にのせた。ミニスカートから伸びる黒のストッキングに包まれたカエデの脚を、タカトシは遠慮無く独占する。
そんな突然の行為も、カエデは動じない。安らいだ笑顔で、そっと彼の頭を愛おしく撫でた。
カエデの顔は、夕日の逆光でうっすらとしか確認できない。それでも、タカトシにとっては充分だった。愛しい彼女と、視界いっぱいにどこまでも広がっている茜空。この景色を、彼はきっと2度と忘れることはないだろう。
彼女の手で撫でられる感触が心地よい。いっそ、このまま眠ってしまえそうだった。
それでも、ほんの少しだけ。会えなくても信じ合える時間を作ろうと言った矢先だというのに、最後の抵抗を。
「大学に行っても、休日になったらデートはしましょう。俺から誘います」
「もう」
頭を撫でる手を止め、お返しに細い人差し指でツンとひと突き。
「当たり前です。全く会えなくなるわけじゃないんですから」
「もしかしたら、毎週誘っちゃいますよ?」
「遊びすぎて、受験勉強が疎かにならない程度なら付き合えます」
「冗談です。でも、誘うときは泊まりも覚悟しておいてくださいね。その分、俺も自分磨きを徹底するつもりですから」
「期待しています。浪人生のタカトシなんて見たくありませんから」
「それは怖いですね」
油断していれば、本当にそうなってしまう。恋や愛に溺れてばかりいては、幸せな未来なんて望めない。恋人の激励に、タカトシも気を引きしめ直す。
「私も・・・・・・です」
「え?」
「私も・・・・・・タカトシに負けないように頑張りますから」
「・・・・・・」
「置き去りに、しないでくださいね?」
偉そうなことを言ったけれど、不安なのはカエデとて同じ。瞳が僅かに揺れているのは、きっと気のせいではあるまい。
「しません。もしそうなったとしたら、俺がカエデさんの手をずっと引き続けてあげますから」
「それじゃあ、年上の面目がありませんね」
私も頑張りますと、もう一度キスをする。今度は、2人が同時に顔を近づけて。
そっと、触れた。
【真実】
そんな、誰もが入る余地のない2人の空間。
その近寄りがたい空気に、ひとつの音が割り込んだ。
ドサリ、と。
その音に我に返った2人。タカトシは反射的に上半身を起こし、カエデは強ばった顔で背筋を伸ばす。
音がしたのは、すぐ近く。まるで、鞄を落とした時のような感じだった。
2人の視界には、3メートルほど離れたグラウンドに近い地面。案の定、鞄が落ちている。
そして、女子生徒の脚。鞄を落とした生徒だ。しかし、それはどうでもいい。
視線を上げる。自分達と同じように夕焼けの光に照らされたのは、いつも見慣れていた女子生徒。
そう。生徒会室で、当たり前のように時間を共にしていた人。ずっと尊敬し、世話になっていた先輩。
その彼女が今、自分達を愕然とした表情のまま立ち尽くしていた。
足元に落とした学生鞄を拾うことも忘れ、眼前の男女の名を口にする。自分が見たこともない顔で見つめ合っている、2人の名前を。
「津田・・・・・・五十嵐・・・・・・」
震えた声は、おおよそ普段の凜とした彼女からはほど遠い。しかし、それも無理はなかった。
「これは・・・・・・どういう事だ」
天草シノの受けた衝撃は、それほどまでに凄まじいものだったのだから。
つづく
8/5
最後のシーンを加筆修正しました。