【夢の終わり】
夕暮れの桜才学園。
世界がオレンジ色に染まる世界の中、3人の男女が向かい合っていた。
津田タカトシ。五十嵐カエデ。
そして、天草シノ。
元生徒会長であるシノの表情は、愕然。いつもは誰もが見とれるほどの凜とした瞳は大きく見開かれており、口も半開き。かといって、それを指摘する者などこの場にはいない。
ベンチに腰掛けたままのカエデは、目を伏せている。そのどこか気まずそうな顔からは、申し訳なさといたたまれなさが浮かんでいた。
翻って、タカトシの表情は驚き。2人だけの時間を過ごしていると思っていたところに、予期せぬ人物が姿を見せたのだ。しかもその相手は、よりにもよってシノ。
目の前で立ち尽くしている彼女は、時間が止まってしまったかのように動かない。
それはそうだろう。自分とカエデの関係など彼女に教えたことなどないし、これからもそうするつもりであった。少なくとも、自分達から能動的に関係を公にする必要など無いのだから。
言葉が出ない。何か言い訳めいた言葉が出ようとして、結局言葉として口から出てこなかった。そもそも、何をどう言い訳をするというのか。
自分がカエデを付き合っているのは誤魔化しようのない事実だし、それを否定するつもりもさらさら無い。
代わりに言葉が出たのは、タカトシではなくシノ。彼女は震える唇で、どうにか声を出すことが出来た。
「・・・・・・いつ、からだ」
一拍の間。遅れて、今は自分が話をしなければ行けないと気付くタカトシ。同時に、その短い問いが何を意味するのかも。
何をやっているんだ、俺は。こういう時こそ彼氏らしく、彼女を守るべきだろうが。
「今年の、夏頃からです」
今度こそ、シノは声が出なくなった。まさか、そんな前から交際がスタートしていたなんて。
その反応に、カエデはチクリと胸が痛む。まさかと思っていたが、やはりシノはタカトシの事を・・・・・・
だが、かといってどうすることも出来ない。彼女に出来ることは、膝の上でつくっている握りこぶしに、より力を込めることだけだったのだから。
「わ、私は・・・・・・」
次に出た声色は、先ほどよりも僅かだけハッキリと出すことが出来たとシノは妙に冷静な思考で思った。もっとも、視線はあらぬ方向を向いていたが。
「私は、津田と明日、話がある、と・・・・・・」
「・・・・・・」
「ずっと、私の右腕として助けてくれていた、お前を・・・・・・」
ああ、そうか。タカトシの心に納得の文字がストンと落ちた。話というのは、まさにその事だったのか。
心が動く、などと言うことはなかった。無神経な自分は、ただ彼女の嗚咽に似た言葉に応えてあげることは出来ない。
視界の隅で、不安そうにこちらを見ている恋人の瞳が映る。夕焼けの光を反射した目は、一瞬だけこの場のいたたまれなさで造られた糸を解いてくれた。
だから、と。自分が出来る事は、これだけしか思い浮かばなかった。
立ち上がるタカトシ。そのまま一歩だけシノに対して距離を詰める。
真剣な目をしたまま、頭を下げる彼の姿。慇懃に腰を曲げるその姿は、まるで在りし日のカエデが学園生活で生真面目に仕事をしている時のようだった。
「すみません、天草先輩」
「え・・・・・・」
「俺は、カエデさんが好きなんです」
誤魔化しようもない、堂々とした想い。それを、タカトシはずっと世話になった尊敬する先輩に突きつけた。
【キミへの罰】
「何を言っているんだ、お前は」
泣かれるかと思っていた。怒るのかと思っていた。
けれども、自分の足元しか見ていなかったタカトシに返ってきたのは、そんな呆れ果てたような調子の声。
思わず顔を上げると、目の前には白けた表情の先輩が自分を見下ろしている。
腕を組んで堂々と彼の前に立っている姿は、まるでいつもの日常の中、生徒会長として校門で服装チェックをしているときのよう。タカトシは一瞬、目の前の女性が別人に成り代わったのかと疑ってしまったほどだった。
彼の頭に、はじめて自分達が桜吹雪の舞う中で出会った光景が浮かぶ。違うところは、今がオレンジ色に彩られた夕方であるという事くらいだろうか。
「いつ、私がお前に思慕を向けているなどと言ったのだ。恥ずかしい勘違いをするな」
「・・・・・・」
「謝罪をする必要など・・・・・・いや、あるか。今や生徒会会長ともあろう男が、率先して校則違反をしていたとは」
「それは・・・・・・」
「運が良かったな、津田。明日が卒業式でなければ、お前は停学処分になっていたぞ」
その苛立ちを含んだ口調は、どこか事務的にも聞こえるものであった。質の悪い騒動を起こしてしまった客に対し、怒りを抑えた店員が咎める時のように。
タカトシも、カエデも何一つ口を挟めない。ただ、黙ってシノの震えた声を聞いている。
「だいたい、なぜ私がお前に対してそんな気持ちを持たなければならん。どうやら、少し勘違いをさせたようだな」
「勘違い?」
「卒業式に話がある、と伝えていたことだ。一言、礼を言おうと思っていただけだぞ」
「・・・・・・」
「ふん。まあ、この有様ではそれも必要は無くなったようだが」
「それは・・・・・・」
たまりかねて、カエデが声を出そうとする。しかし、それはシノの視線だけで遮られた。
「来年度からの桜才学園の行く末が不安だが、まあ今更生徒会長を変えるなど出来るはずもない。せいぜい、これ以上は違反行為などしないように心がけることだ」
一歩、シノがタカトシに近づく。厳しい視線で自分を貫く瞳に、彼は人形のように動けなかった。
「だが、けじめくらいはつけてもらおうか」
右手を、スッと挙げる。あたかも授業で挙手をするような仕草であった。
何をされるかを理解したタカトシは、驚くこともなく目を閉じる。覚悟はしていた事なのだから。
一拍の間の後――
――タカトシの頬で、乾いた音がした。
【遠くなっていく背中】
そうして、天草シノはタカトシ達から背を向けた。何の迷いもなく、堂々とした背中が小さくなっていく。
その姿をタカトシと、ベンチから立ち上がったカエデは瞬きもせずに見つめていた。
そして、2人は頭を下げる。校門を通り過ぎ、姿の見えなくなったシノに向かって。
――尊敬と、感謝の思いを込めて。
ありがとうございます、と。
言葉などいらない。津田タカトシと五十嵐カエデは、お互いに顔を見合わせた。
そして、そっと互いの腰に腕を回す。
「・・・・・・幸せになりましょう。2人で」
「・・・・・・はい」
涙を頬に流しながら、強く背中を押してくれた1人の女性を思いながら。
【ガラスの未来】
訪れてほしい未来があった。
昼休みに、勇気を出して彼の教室に行った時。
今日、話があると言った彼女の胸は、張り裂けそうなほどに鼓動が鳴っていた。
彼の瞳。彼の声。不安と期待に押しつぶされそうになりながら、彼からの返事を待った。
そんな彼の口から、断りの言葉が来たときは、心から落胆してしまう。なんでも、今日はあまり時間がとれないらしい。
ならばと、放課後はどうかと提案するも、やはり答えは変わらず。
約束があるんです、と心からの申し訳なさそうな顔に、逆にこっちが慌ててしまった。
相手の都合も考えずに、何を言っているのか、自分は。時間なら、卒業式の後でもいいではないか。
だけど。それでも。
放課後の時刻になってもなお、学園から家に帰ることが出来ずにいた。
何の用もないのに。明日は卒業式なのに。
顔を上げる。遠くの景色の奥へ近づいていくオレンジ色の日の光。
これから先、この学園の生徒として、この校舎で夕焼けを浴びることはもう無い。たとえ何年経っても。いつかおばあさんと呼ばれるような時が過ぎたとしても。もう、2度と訪れることは無い。
長い3年間。それでも、瞬きのような日々を過ごしたと思う。
寂しさ。そして、達成感。
何より、これからの未来への思い。
その全てにひとつの区切りをつけるため。
己の中に芽生え続けていた心に、ひとつの結果を出そうと決めなければ。
そう。2年の間、共に己を支え続けてくれた彼に。
想いを伝えるだけ。明日の卒業式になってしまったが、その時こそ必ず伝えたい。
そう、思っていた。
――――なの、に。
「津田・・・・・・」
目の前には、想いを伝えるはずだった人。
「五十嵐・・・・・・」
目の前には、彼の頭を膝に預け、共に唇を捧げ合っていた同級生。
「これは・・・・・・どういう事だ」
目の前には、彼の心が別の女性に奪われていたという・・・・・・変えようのない現実があった。
辺りが薄暗くなり始めた。そうシノが感じたのはLEDの公園照明が照らされた事に気付いたからだった。
彼女は1人、年季の入った公園のブランコに腰掛けている。もう、数十分はそうしていただろうか。
それでも、シノは帰路につく気は無かった。長い髪を垂らし、ずっと俯くばかり。
この公園に、何か思い入れがあるわけではない。腰を休められる所なら、どこでも良かっただけだ。家にまっすぐ帰るだけの気力が無かっただけで。
近くの自動販売機の機械音が、僅かに耳に届く。つまり、それほど周囲は静寂に包まれているのだ。
だからこそ、遠くから来たエンジンの駆動音が公園の入り口で止まった時、シノは僅かに反応できた。誰かが車で公園前に停車した証拠だ。
こんな時間に、車で公園に何の用だろうか。もう子供が遊ぶ時間は過ぎているというのに。
いつものシノなら、カップルが人目のない場所を探してきたとでも考えていただろう。だが、頭には純粋な疑問しか浮かばなかった。
その車から降りた人物は、まっすぐに自分の方へと歩いてくる。薄暗くなり始めた風景の中で、公園照明が相手の姿をハッキリと映し出す。
相手は女性。いつもはおっとりとした瞳を心配そうに細めて、シノを見ている。元生徒会長は、ずっと世話になっていた親友の名前を呼ぶ。
「アリア。なぜここに?」
「遠目で、シノちゃんがここに1人でいたのが見えたから」
黒いタートルネックのセーターに、白のロングスカートのシンプルながらもシックな着こなしはお嬢様である七条アリアらしい。
私服でいるところを見ると、家の仕事関連で手伝いでもあったのだろう。彼女の後ろには、運転手をしていたのであろう出島サヤカが相変わらずの無表情のまま付き添っている。
何か言うのかと思っていたシノであったが、アリアは黙って隣のブランコに腰をかけた。
そのまま、沈黙が続く。何かを悟ったような親友の横顔に、シノはつい静寂を破って訊ねてしまう。
「訊かないのか」
「何を?」
「私が、こんな所で1人になっていた理由」
アリアは長い髪を揺らしつつ微笑む。春が近づいているとはいえ、やはりまだまだ肌寒い風が吹いている。まして、今はもう夜中だ。
「シノちゃんが話したくなったら、いつでも訊いてあげる」
「・・・・・・そうか」
偶に、この友人には勝てないと思い知らされることが、これまでの付き合いの中ではあった。もちろん、胸だけの話ではないが。
なんとなく、自分よりも一回り年上かもと思ってしまう。肉体的ではなく、精神的に。
夜空に輝く星がいくつか増えていく中で、ただ時間が過ぎていく。そんな静寂を破ったのは、アリアの方だった。静かに小さな唇を動かす。
「明日で卒業だね、シノちゃん」
「・・・・・・ああ」
そう。色々とあった。
入学してから、不安と期待に翻弄されて。それでも周囲から数多くの大切なことを教えてもらいながら、生徒会長という立場を2年間も成し遂げた。
「3年間なんて、終わってみればあっという間だったよ。私たち、これから別々の場所で頑張っていくんだよね」
「アリアとは、ずっと肩を並べていたからな。まだ少しだけ実感が湧かん」
こうして、星の数を数えているだけでも思い出す。古谷サチコを始めとした生徒会メンバーで、アリアと共に1年間を乗り切ったこと。
生徒会長の肩書きに不安を覚えながらも、迎えた2年生の春。
萩村スズ。そして、あいつとの出会い。
この2人と共に生徒会を執行する日々は、毎日が目まぐるしかった。
忙しくて辛かった、という意味では断じてない。本当に楽しく、新しい発見や驚きの連続で。
視野が広まり、新しい目線を発見したことなど、両手と足の指を使っても足りないほどだ。偶に起きる意見のぶつかり合いすら、心のどこかでは楽しんでいて。
そして、身を挺して守ってくれたことも。あの夜の学園で起きた事件は、あいつがいたから助かったのだから。
そんな彼は今、なぜ自分の傍にいないのか。
「実はな、アリア。さっき、私はフラれてしまった」
気がつけば、泣き言を漏らしていた。
「・・・・・・そうなんだ」
アリアはそれだけを言う。なんとなく、予想はしていたと言いたげな様子だった。
「それでも、告白は出来たんだ?」
「・・・・・・言いたい事は、伝わっていたと思う。ハッキリと好きだと言ったわけではなかった。どうしても、言葉が続かなかったからな」
「・・・・・・」
「それでも、あいつは言っていたよ。いつもは全然鈍感だというのに。腰を曲げて、私に断りの返事をした」
みっともない事をするなと、いつもなら叱責しそうな姿だった。だが、それこそが彼の何よりも誠実な姿だと分かっていたから。硬直したまま、何も言えなかったのだ。
「・・・・・・その後のことは、ほとんど覚えていない。ただ、なんとなくあいつらに酷いことを言ったことくらいしか、な」
みっともない、などという話ではない。これでは、完全に嫌われてしまったのかもしれなかった。
「まあ、嫌われたというのなら、それでもいいかもしれんな。あいつらも、完全に両想いのようだし、私の小言なんてすぐに忘れているだろう。そうとも。こんな負け犬の遠吠えなど――」
「シノちゃん」
その静かな声は、シノの自棄になったような声を遮らせる。いつの間にかアリアは立ち上がり、シノの前にしゃがみ込んでいる。
いつもは穏やかな瞳が、今は真剣にシノの瞳を見つめている。生徒会元書記は、上着のポケットから取り出したハンカチをそっとシノに手渡す。
「泣かないで」
「・・・・・・?」
泣く? わたしが?
不思議に思い、自分の指でそっと頬を指で擦ってみた。指先には、確かに透明の水。僅かな水が公園を薄暗く照らしている光を反射している。
そこではじめて、シノは自分が泣いているのだと気付いた。
「あ、あれ。おかしいな。いつから、私は・・・・・・」
「最初から。私がここに来た時は、ずっと泣いていたよ」
それを見とがめて、通りすがりだったアリアはサヤカに車を止めさせた。もう、2人が桜才学園の生徒として気軽に会える時間は、とうに過ぎ去りかけているのだから。
一度自分の感情を理解してしまってからは、もう涙は止まらない。頬を伝い、顎から落下する涙。
「どうしよう・・・・・・止まらないよ」
地面が、ボトボトと濡れた。渡してくれたハンカチを目に当てても、じわりと濡れていく。
アリアは何も言わず、そっとシノの頭を抱きしめる。優しく頭まで撫でてあげた。
アリアの無言の優しさが、今は何よりも有り難かった。本心を知られるのは辛いから。
「実はね、シノちゃん・・・・・・」
「・・・・・・何だ?」
しばらく2人でジッとしていた後、身を離したアリアはソッと口にする。
「私は、知っていたんだ。2人が付き合っているって」
「・・・・・・そう、か。知らないのは私だけだったのか」
「でもね、私・・・・・・それを知ったとき、思ったんだ。本当に、この2人はお互いを大切にしているんだなって」
アリアに恋愛経験は無い。それでも、これだけは言おう。タカトシとカエデが、お互いを見ているときの表情を見て、どう思ったのかを。
「あの2人は、真剣にこれから先のことを考えているの。将来を見据えながら、どうやって一緒に生きていくのかを」
「・・・・・・」
「そんな2人のことを、私はちゃんと応援したいと思ってるよ。卒業しても、何か出来る事があるなら、ちゃんと手を貸してあげたい」
「そう、か。アリアは強いな」
素直な言葉だったのだが、アリアはシノの呟きに首を左右に振る。
「私は、強くなんかない。わたしとシノちゃんの気持ちは違うから」
アリアは人としての情。
シノは男女としての情。
それは、明確な線引きがされている感情なのだから。
アリアは友情だからこそ、こうしてタカトシ達に歩み寄ることが出来る。シノは恋慕だったからこそ、己自信の届かない想いに歩み寄ることを阻まれる。
「結論は急がなくていいって言いたいところだけど、明日はもう・・・・・・ね?」
「そう、だな」
明日は、とうとう桜才学園とお別れの日。明日を最後に、もうあの学園の生徒ではなくなるのだ。
もう一度、目に溜まった涙を拭く。今度は、もう溢れなかった。
「私は、いつまでも落ち込んでいる女になる気はない。自分の気持ちなど、自分で決着をつけてやるからな」
【卒業式】
春の柔らかい日差しの中、微風が桜の木々をサワサワと揺らす。あと半月もしないうちに、花びらが舞い落ちるようになるだろう。
桜才学園――――卒業式の日。
タカトシ達在校生は、卒業生が体育館を退出していく後ろ姿を追うように出口へと歩いていく。
学園長の言葉。この学園を愛する、深みのある言葉だった。新しい世界へ向かう卒業生達の背中を押す、実に温かくも心強いメッセージ。
卒業生の言葉。代表は、当然のようにシノ。生徒会長としてこの学園に尽力を傾けた者として、当然の立場だった。生徒会長としてではない、この学園の卒業生としての願いと期待を伝えてくれた。
在校生の言葉。代表は、津田タカトシ。これからの桜才学園を担う肩書きを持つ、共学化して初である男子の生徒会長。シノから託された願いを、タカトシは誓いと希望を持って返す。その時に見せたシノの顔は、間違いなく笑顔であった。
卒業証書授与。3年生の全てが、桜才学園で学ぶべき過程を全て修了した証。話をしたこともない3年生の全てを、タカトシ達は目に焼き付けた。
当然、彼女達の姿も。
畑ランコ。ジャーナリストの卵として、学園というひとつの社会の中、あらゆる情報を集め続けていた少女。将来への夢へたどり着くために、今後も彼女らしく歩みを止めずに、頑張っていってほしい。
七条アリア。誰よりも友達思いな心の持ち主。上流階級の生まれを感じさせず、自分達と同じ等身大で接し続けてくれた先輩。たとえどんな遠い世界にいようとも、ずっとあなたの活躍を応援しています。
天草シノ。思えば、彼女との出会いが全ての始まりだった。自分にも、他人にも厳しい後ろ姿は、多くのことを学ぶことが出来た。そして、どこまでも前を見据えた真っ直ぐな瞳。もしかしたら、どこか遠い可能性の話では、もしかしたらシノにこそ惹かれる世界もあったのかもしれない。
そして――――五十嵐カエデ。
生涯にかけて手を取り続けることを決めた、1人の女性。
卒業証書を手に舞台から降りる姿は、どこまでも堂々としていた。将来への不安など微塵も見せず、背筋を伸ばしている。近くの男性教師ともすれ違うが、彼女の足取りに変化はない。
今や、自分以外の男性に対しても平気になったのだろう。それがタカトシは嬉しく、また少しだけ残念だった。
靴を履き替え、グラウンドに出る。校庭には、すでに大勢の先輩達がそれぞれの相手と話をしていた。友人達や、在校生の後輩達と一緒に。
楽しそうに。寂しそうに。
中には、涙を流している者もいた。卒業式に涙を流せるというのは、本当にこの学園を大事に思ってくれていたんだなと、少しだけ在校生として誇らしく思ってしまう。
周囲を見回す。彼女の姿はすぐに見つかった。コーラス部の先輩達と話をしている。時折、かすかに笑い声が聞こえた。
お邪魔をしては悪いのかもしれない。今は部活仲間同士で時間を作ってあげるべきだ。そう考えたタカトシは少しだけ意識してコーラス部の輪から離れようとする。
声が背後から呼びかけた。
「津田。本当に立派になったものだな」
タカトシは振り返るまでもなく、声の主が誰なのか分かっていた。彼女は桜の木に背を預け、顔をこちらに向けている。
「ああ、天草先輩。ご卒業おめでとうございます」
「津田君。最後の挨拶を、と思って」
「七条先輩も。ご卒業おめでとうございます」
シノの隣に立っているのは、アリアだった。微風に煽られて、2人の美しい髪が揺れる。
「これからは、お前がこの学園を担うのだ。後のことは、任せたぞ」
「はい。先輩達の跡継ぎとして、頑張ります」
良い返事だった。これならば何も心配はいるまい。シノは穏やかな瞳で、彼を見つめる。
「ほら、シノちゃん」
タカトシに聞こえないように、耳元でシノに呟くアリア。途端、背筋を露骨に伸ばしてしまうシノ。
「あ、ああ。そうだったな。あまり時間はなさそうだし・・・・・・」
チラリと、シノはコーラス部の団体に視線を向ける。
「津田よ。よければ、少しだけ付き合ってもらえるか」
「え? でも・・・・・・」
タカトシもカエデの方へ視線を向けた。それを遮るように、元生徒会長は現生徒会長の制服の袖をつまむ。
「す、少しだけだ。手間は取らせん」
「津田君。ほんの少しだけで良いの。シノちゃんのお願い、聞いてもらえないかな?」
「・・・・・・まあ、少しだけでしたら」
その真剣さを帯びた声を断れるほど、タカトシは冷たい男にはなれなかった。なんとなく、2人が本気でお願いをしているように感じたのだ。
――――すみません。少しだけ待っていてください。
心の中でカエデに詫びつつも、タカトシは2年間も世話になったシノと共に、校舎裏へ歩みを進めることになった。
アリアは追わない。後は2人の問題なのだから。
こうして、七条アリアはそっとその場を去った。最後に、同級生へ最後のお別れをするために。
【彼女がつけたピリオド】
卒業生の声が遠くなっていく。校舎の裏に向かっている間、シノとタカトシはゆっくりと歩いていた。
顔を向ければ、見慣れた白い校舎。いつもなら溢れかえっている生徒達も、今は校庭に集まっている。
「何度も見た光景だが、飽きたことはない。私は、この学園が本当に好きなんだ」
「俺もです。本当に、この学園に入って良かったと思っています」
そこにゆっくりと到着するまで、2人は少しずつ会話を挟んでいた。
雑木林を横目に歩き続け、校舎の周囲を回るように歩く。2人の足音が、淡々と聞こえた。
「津田、覚えているか。あの春の日、私たちはこの校舎の中で出会った。お前が五十嵐を助けた時、お前の目を私は見た」
「目ですか?」
「真っ直ぐな目だった。何の下心もなかった事が、一目で分かったほどだ。あの時から、私はお前に興味を持っていたんだ」
「・・・・・・人助けをする時に、おかしな気持ちになんてなりませんよ。ただ、助けようと必死だっただけです」
「そうだな。お前はあの時からそういう奴だった」
少しだけ笑うシノ。そういう所が、こいつの何よりの魅力だというのに。
「これまでの2年間、本当にご苦労だったな。津田」
「ええ。先輩こそ、この3年間お疲れ様でした」
遠くには、体育館裏の隅で男女が話をしているのが見えた。邪魔をする気はないので、会話が聞こえない程度に距離を取っておいた方がいいだろう。
足を止めた場所は、桜の木。その下で、2人は向かい合う。
「それで先輩。なぜ、こんな所に?」
「・・・・・・」
シノは目を伏せた。自然とお互いに無言になる。
そのまま、少しだけの沈黙。再び、髪を揺らす程度の風が吹く。
「津田」
囁くような声。小さな唇が、ほんの少しだけ動いた。
「耳を、貸してくれないか」
「え・・・・・・」
一瞬だけ迷う。それでも、タカトシは言った。
「別に、いいですけれど」
シノの手が目の前の彼の肩に置かれ、タカトシも少しだけかがむ体勢に。
少しだけ、背伸びをする彼女。
そして――――
彼女の唇が、彼の口に触れた。
「――――」
「――――」
一秒にも満たない、短いキス。それでも、2人の中ではとても長く感じた。
「天草先輩・・・・・・」
唇を離したシノの頬は、うっすらと赤く染まっていた。まるで、これから咲く桜のように。
「昨日は、心にも無いことをいってすまなかったな。一晩中、ずっと後悔していた」
「・・・・・・いえ」
知っていた、とは言わない。ただ、タカトシは彼女の次の言葉を待つ。
「今のが・・・・・・私の素直な気持ちだ」
「・・・・・・先輩。それでも、俺はカエデさんが」
「ああ。知っている。昨日、散々見せつけられた」
悲しそうな顔になることも無く、シノは静かに言った。
「お前達の仲を、邪魔するつもりは無い。気付かなかった私が悪かっただけだ。あの時は八つ当たりしてしまったしな」
「・・・・・・」
「ただ、最後の悪あがきぐらいはしたかった。それだけだ」
なんと言っていいのか分からない。結局、タカトシは最後の最後までこの先輩には敵わないと知ってしまった。
「では、津田。これで・・・・・・しばしのお別れだ」
シノはタカトシから、一歩引く。その表情は、確かに笑っていた。そして――――彼に背を向ける。
「・・・・・・はい。ほんの少しのお別れです」
だからこそ、タカトシも笑った。結ばれることこそ無かったが、この素敵な先輩の姿を忘れないように。
そして、この2年間。
彼女から教えてもらった全てを糧にしながら、自分はこれからも学園の柱として生きなければならない。
それでも、彼の心に不安は無かった。
目の前で歩く天草シノの背中は、いつもと同じように堂々としている。自分は、それを追うように歩いていて。
でも――――いつか追い越してみせる。そうタカトシは、この瞬間に誓った。
シノの背中をずっと追っていたところで、出来上がるのはシノのまがい物。だからこそ、津田タカトシはシノよりももっと先を見据えていこう。
そう。自分は一人ではない。
今もなお、心にあるのは一人の女性。愛すると決め、心を通わせた彼女がいるのだから。
ほら。
一緒に強くなろうと誓い合った彼女が、遠くから手を振って笑っていて――――
【卒業】
「え。告白されたんですか?」
「はい。それでも、俺はカエデさんが好きですって言いました」
シノと一緒に校舎裏から出てきたことを、タカトシは何を隠すこともなく正直に話した。カエデに隠し事などしたくはなかったし、やましいことなど何もなかったからだ。
「でも、これが最後ですよ?」
少しだけ頬を膨らませるカエデ。少しだけ怯んだように眉根を寄せる生徒会長。
「他の人とキスするなんて、恋人としては浮気なんですからね。次にそうなったら、絶対に許しませんから」
「す、すみません・・・・・・ただ、その時だけは力尽くで拒むというのも、なんだか違うような気がして。気がついたら、終わっていたというか」
「えい」
「痛っ」
言い訳を並べる男の二の腕を、カエデは力強くつまみ上げる。痛そうに顔をしかめるタカトシ。
その反応で、とりあえずは不問にすることにした。彼女とて、そこまで怒っていたわけではないのだ。
お互いに、この話はこれでおしまいという視線を交わした。咳払いをしつつ、タカトシは改めて告げる。
「本当に、卒業おめでとうございます。カエデさん」
「ありがとう、タカトシ。卒業式の送辞、本当に格好良かったです」
お世辞ではない言葉に、タカトシもつい照れてしまう。いつものエッセイよりもずっと時間をかけて作った送辞だったのだ。恋人の賛辞なら、嬉しくないはずがない。
「周りの人たちも、泣いている人がいましたよ。先生方も。あ、もちろん私も」
「そうですか。本当に安心しました。実はアレ、カエデさんに向けて作ったんです」
「えっ」
あまりにもあっさりと言われ、カエデは目を瞬かせる。まさか、卒業生に向けるのではなく、個人に向けて言っていたとは。
「当然ですよ。送辞は誰かに向けて伝えるんです。俺はどうしても、カエデさんをイメージして作ったんですから」
「そんな・・・・・・他の卒業生の方達に、申し訳が」
カアッと頬が熱くなるカエデ。凜々しさの中に穏やかさを持つ彼女の顔は、うっすらと桜色に染まっていく。
そんな姿も、本当に愛おしい。タカトシは素直にそう思った。
「カエデさん」
「きゃ・・・・・・」
彼女の顎を優しく上向きにすると、タカトシはカエデの柔らかな唇にそっとキスをする。彼女は驚いたように目を見開くと、そのままゆっくりと目を閉じた。
――――やっぱり、カエデさんとの方が嬉しいな・・・・・・
――――この人のは、私だけの唇なんですからね。天草さん・・・・・・
と、そんな気持ちを再確認した瞬間。
パシャリ、とシャッターの音が聞こえた。ついでに、フラッシュの光も2人に浴びせられる。
慌てて唇を離した2人が、壊れた機械のように首を同じ方向に向ける。
視線の先。校舎の角から姿を見せているのは、言われるまでもない畑ランコ。彼女は愛用のデジタルカメラを構えたまま、こちらを見ていた。
その後ろには、なんと他の卒業生の面々がゾロゾロと姿を見せてくる。どうやら、一部始終を全て覗き見されていたらしい。
そして、その中には当然のように見知った人物もいた。
「まったく。ついさっきのことを忘れて、もうコレとは」
腕を組んで仁王立ちしているのは、天草シノ。五十嵐の唇で消毒という意味か、失礼な・・・・・・と、小さい声でブツブツ呟いている。
「仕方がないよ、シノちゃん。正妻のカエデちゃんじゃあ」
クスクスと笑いながらフォローするのは、七条アリア。最後まで、彼女はタカトシとカエデ、シノの事を支えてくれていた。
「いやあ、最後の最後でようやくこの瞬間を撮ることが出来ました。コレは早速、大学に入学したら初めの記事にしなければ」
画像を遠巻きに周囲へ見せるのは、畑ランコ。卒業生の前に飛び込んでくるのは、2人が安らいだ顔でお互いに唇を捧げ合っている瞬間。きゃあっ、と他の卒業生達から黄色い声が上がる。
「あーあ。実際にそういうシーンを目の当たりにするのは初めてだけど。やっぱり、カエデって本当に変わったよね。まっ、お2人はお幸せに」
適当に拍手をするのは、カエデの友人である成田ナオミ。一見軽く見えて何よりも友達思いな彼女は、カエデの幸せを素直に応援する。
「まったく・・・・・・最後の最後で」
「油断しました・・・・・・」
2人そろって頭を抱える。まあ、2年生に見られなかった事だけが、せめてもの慰めかもしれない。
そんな2人に、卒業生から笑い声が起きる。ついでに、はやし立てる声も。
――――ずっと噂だったしね、あんた達って。
――――みんな気付いていたよ。遠くから見ていて面白かった。
ケラケラと笑う卒業生一同。まったく、やはりこの学園は色々な意味で逞しい人間が多い。
「ところで、話は変わりますが。ご両人」
「その前に、データを消していただけます?」
「いいですよ」
意外にも、あっさりと承諾する。彼女らしくない態度に、思わずタカトシとカエデは首を傾げた。
「ただし、皆さんの集合写真を撮らせてくれたなら。もちろん、津田君もご一緒に」
「あ・・・・・・それだけで良いんですか?」
「ええ。次世代を担う生徒会長と卒業生の図を撮れるチャンスは、今をおいて他にありませんので」
意外そうにタカトシは言った。要は、記念写真ということなのだろう。
ふと、彼は気付く。そういえば、自分の気持ちに迷いを見せていた時も、背中を叩いてくれたのはランコだった。彼女なりに、遠回しな応援をしてくれているのかもしれない。
そう。自分達だけではない。卒業生全員に向けて。
今、この瞬間をカメラに収めて。いつか年月が経った後も、この瞬間に心が戻れるように。
「そうですね。それじゃあ、お願いします」
「い、いいんですか?」
乗り気になった彼に、戸惑ったような目を向けてくるカエデ。大丈夫ですよと、タカトシ彼女の肩に手を回す。
彼女も少しだけ視線を泳がせた後、仕方ないですねと身体を彼に預けることで応える。
シノを先頭としたみんなも、我も我もと2人の周囲に集まっていく。カエデの逆隣にシノが立つのはお約束。その横に、アリアも立つ。
「ほらほら、お2人とも。準備は良いですか?」
誰かが、はーいと返事をする。
ランコはカメラを構え、シャッターボタンを押す――――瞬間。
一筋の、風が吹いた。
ふわ~り、と彼女達のスカートが捲れる。
「あっ」
天草シノ。お尻の部分にレースがついている、ピンク色のショーツ。慌てて、スカートを両手で押さえる。
「あら」
七条アリア。布部分が少ない、ピンク色のTバック。普段は下ネタに強い彼女も、この不意打ちには顔を赤らめてしまった。
「おや」
畑ランコ。カメラを構えたまま、微動だに出来ない。スタンダードな、フリルの付いた水色。皮肉にも、彼女だけが他の者達と向かい合っているので、彼女だけが唯一卒業生全員の目に嫌でも入ってしまった。
「やっ」
そして、五十嵐カエデ。華の刺繍が入った、純白の紐パンティ。シノと同じようにスカートを押さえるものの、それでも僅かに見える下着までは隠しきれなかった。
風が過ぎ去った後、その場にあるのは沈黙。
「・・・・・・」
撮られた。
間違いなく、撮られた。
ジリ、と誰かが詰め寄る足音がした。もちろん、目の前のランコに向かって。
ジリ、と後ずさりするランコ。カメラを宝物のように抱えて、無表情のまま。
ジリ。
ジリジリ。
ジリジリジリ。
いつの間にか、競歩のように距離を詰めようとする卒業生女子達と、バックダッシュをはじめているランコ。
「・・・・・・っ」
それにも限界が来たのか、突如踵を返して校門の方へと駆けだしていった。砂埃を巻き上げる姿は、どこかの古い漫画のよう。
「あっ、逃げた!」
「止まれーっ!」
「データをよこしなさーい!」
口々に罵りながら、女子達一同はランコを追い始めた。ランコのよりも比較にならない砂埃が桜才学園の隅に舞い上がる。
あっという間に、校舎裏に立っているのはタカトシとカエデだけになった。思わず2人で顔を見合わせる。
「なんだか・・・・・・最後までこういうノリでしたね」
「はい・・・・・・こういう時くらいは、それらしい雰囲気で終わりたかったんですが」
遠くからは、誰かの声と突撃音のような響きが聞こえる。どうやら、学園の外周をぐるぐると回っているらしい。全く、どこまでも元気な面々だ。
「・・・・・・それじゃあ、そろそろ行きますね」
「はい。これからも色々と、よろしくお願いします」
別れの挨拶は、短かった。
けれど、それでいい。伝えたいことは、もうずっと前から伝え合っているのだから。
こうして、五十嵐カエデは聞こえてくる喧噪から背を向けて。
3年間、過ごし続けてきた学び舎。
桜が舞い散るなか、女子生徒だけの入学式を迎えたあの日。コーラス部で歌を歌い始めたときの、あの緊張。
不思議と馬が合った、友達との出会い。そして、風紀委員長に任命された時。やがて男性を受け入れることになるなんて、思いもしなかった日々。
そして、彼との出会い。
そのひとつひとつが目の前に浮かんでは、泡のように消えていく。
今、彼女が向かっているのは、新しい明日。
五十嵐カエデの瞳には、その明日へと進むべき道が、もう見え始めていた・・・・・・
つづく
次回が、おそらく最終回です。