【森ノゾミ】
春風が吹く中、彼女は駅のホームへと下りた。
周囲には、入れ違いに電車の車両へと足早に入っていく老若男女。彼女は着慣れたスーツを身に纏い、駅の階段を上っていく。
都心にほど近いため、故郷の駅よりも人通りは激しい。それでも彼女は息苦しさを感じることも無く、改札を抜けて温かい日差しを一身に浴びた。腰の近くまで伸びた髪も、いつもより一段とツヤが出ている気がする。
大学進学のために都心へと上京した記憶も、今となっては懐かしい。そのおかげと言うべきか、都会の中でも名の知れた会社に就職することが出来た。
今となっては、こうして一人暮らしの生活にも慣れを覚えている。昨日は後輩の仕事を手伝っていたために帰るのが少しだけ遅くなってしまったが、これも円滑な人間関係のためだ。
忙しくも、やりがいのある日々。充実している社会人生活。
とはいえ、明後日の会議に使う資料作成をそろそろ終わらせなければ。もう8割ほど出来ているのだから、今日中に終わらせるつもりで挑むとしよう。
バスの停留所に並んでいると、スマホがバイブレーションを起動していることに気付く。確認すると、画面には見慣れた通信アプリが表示されてあった。
相手は、高校時代に当時の生徒会長だった先輩からだった。相変わらずの特徴的な言い回しで、近々遊びに行こうというお誘いのメッセージ。思わず、クスリと笑ってしまった。
魚見チヒロを始めとしたメンバーの役員達とは、高校を卒業してもなお交流は続いている。お酒を飲める年齢になってからは、付き合い方もより深くなっていて。
チヒロは大学へは行かず、学園を卒業してすぐに就職した。
地元の事務職として働いており、安定した社会人として毎日を生きているのだという。偶に地元のソフトボールチームにも顔を出しており、助っ人として試合に出る時は決まってノゾミも応援に駆けつけていた。
少しだけ考えて、ノゾミは返事を入力する。了解と、空いている日時を伝えた。
バスが来る。ノゾミは他の乗客と並んで乗り込んだ。後ろの座席に向かおうとすると、声をかけられた。
見れば、会社の同僚だ。ノゾミよりもやや遅れて列の最後尾に並んでいたらしい。
他愛のないおしゃべり。周囲の乗客の迷惑にならないように、もちろん小声で。
それでも、話は弾む。バスの揺れを感じながら、2人は会社へと向かっていった。
今はもう、遠い日々。英陵高校の生活は、記憶の彼方。
それでも、あの3年間で出会った人々は、今もなお繋がっている。
森ノゾミは新しい大空の下、新しい出会いに囲まれてながら今日も毎日を歩いている。
少しだけ、街のどこかで温かい風が吹いた。
【三葉ムツミ】
そして、ある日の夜。
「ごめん。お待たせ!」
ビル街の外れに位置する、古くからの住宅や居酒屋が軒並み続いている下町の一角。その一軒の飲み屋に、1人の女性の声が響き渡った。
響き渡った、といっても周囲から咎める声はない。元々お酒を使う店というのは大声を上げる酔っ払いの扱いに慣れているものだし、なによりこの女性と店主はすでに顔なじみだ。
「おす、ムツミ。こっちこっち」
店の奥のテーブルを囲むように座っているグループの1人が、手を振った。それを確認すると、三葉ムツミはアルバイトらしい店員とすれ違いつつ席に移動する。
「本当にごめんね。いつもの人が休んでいたから、片付けが1人だけになっちゃったんだ。お詫びに、ここのお題は私が持つよ」
「別にいいよ。それよりもせっかく久しぶりに会ったんだし、今日は飲もうね」
そうムツミの肩を叩くのは、かつて一緒に柔道部を盛り上げたチリ。高校時代まではベリーショートにしていた髪も、今では肩に掛かる程度まで伸びている。
生ビールのジョッキがテーブルに置かれる。実は、あらかじめ注文しておいたのだ。店員も分かっているのか、ムツミが席に座ったと同時に運んでくる。
仕事が終わった後の、飲み会が始まった。全て、桜才学園の柔道部の者達である。
「インストラクターの仕事って、そんなに忙しいんですか?」
ムツミの真向かいに座っている友人が、素朴な疑問をかけてくる。彼女はこの中で唯一、ブルゾンにジーンズという私服姿だった。
何でも学園卒業後は大学へは行かず、実家の家業を継いだのだという。今度、何の仕事をしているのかを訊いてみるのも良いかもしれない。
「ううん、どうだろ。忙しいと言うよりは、好きなことをやっているから楽しい、かな?」
別方向から、素朴な疑問が来る。少しだけ考えて、ムツミは素直に答えた。
「身体を動かすのはずっと好きだし。会社も副業を認めてくれているから、忙しいと感じたことはないよ」
「うっわ。いいね、毎日楽しそうで。私なんて夜遅くまで毎日パソコンに向かうばかりだってのに」
妬ましく思ったのか、半眼になる女子数名。一部にはうっかりブラック企業らしい就職先になってしまった者もいるらしい。不満に思うのも無理はなかった。
「やっぱり、今日はムツミにおごってもらお。じゃあ、今日は朝まで飲むぞー」
「おー!」
有無を言わせず、勝手に盛り上がる周囲。いつの間にか、焼き鳥や刺身といった食事が追加されていく。
「えーと・・・・・・」
止めるそぶりを見せるムツミだが、もう遅い。これでは、本当に自分1人が支払うハメになるのかもしれない。
副業をやっていても、財布に痛いものは痛い。新しいダンベルを買うのは、当分諦めた方が良さそうだ。
「あーっと・・・・・・私たちは、自分で払うから」
「右に同じ。ご愁傷様です」
チリと私服の女性が、同情的な目を向けてくれている。それだけが、ムツミの慰めであった。
それでも、彼女は肩を落とすなんて事はしない。ほんの少しだけ、出費が多くなろうとも――――
「・・・・・・ま、いっか!」
――――こうやって、笑い飛ばせるのが三葉ムツミなのだから。
【萩村スズ】
そして、ある日の何処かで。
テレビのチャンネルはどこも、七条グループの話題で持ちきりだった。
2年ほど前に建築された新築のビル内。小規模ながらも業界からは注目が集まり始めているオフィスのロビー。
休憩所も兼ねているその場所で、萩村スズは備え付けのモニターを眺めていた。目の前には、かつて学園の先輩だった女性がシックなスーツを身に纏い、七条グループの一員として活躍している様が映っている。
相変わらず、七条グループは発展している。自分が七条アリアと出会った時から、より一層。
かつて先輩と呼んでいた彼女が本格的に事業の一端を担うようになってから、どれくらい経ったのだろうか。その事だけが、なぜかハッキリと思い出せない。ロビーに設置されている自販機のコーヒーを飲みながら、スズはぼんやりとそんな事を考える。
ガラス張りになっている壁の外からは、青い空と見慣れたビル街。今日も、部下の社員達が思い思いにくつろいでいる姿が見える。
会社の敷地内には小規模ながらもベンチや噴水などがあり、一般開放されているスペースも存在していた。そのため、家族連れや子供達のグループも気軽に姿を見せている。
この会社は、従来の会社とは少しだけ違う。何が一番違うかというと、業務環境だ。日本のように時間管理を徹底するスタイルではなく、できる限り社員を束縛しない事が社則として決められている。
好きな時間に食事に出かけても良いし、良いアイディアが生まれそうにないときは机を一旦離れて、敷地内に設置されている休憩所で軽いスポーツや談話を楽しみ、気分転換を図る。
成すべき事をしていれば、後は自由。その社長の方針に深く同意する社員は、満場一致でこの会社をホワイト企業として認めているほど。そのため、入社を希望するものが後を絶たない。
アメリカなどに取り入れられている業務方針だ。根底に連携の意識を強く根ざし、会社を成長させたい。社員のモチベーションを重視する。それがこの会社のポリシーなのだ。
オフィスチェアに腰掛け、手にしているコーヒーの缶をゴミ箱に捨てる。一度だけ背筋を伸ばすと、背後に立っている女性に声をかけた。
「午後の予定は?」
スズの声に、そのスーツ姿の女性は手元のスマートフォンに目を落とし、淀みない口調で告げる。
「はい。2件ございます。昼食後は例の自動車メーカーの件。前回のシステムの件で改めて招待がしたいというご依頼。そして、今回の七条グループとの取引成功における祝賀パーティーのご依頼。こちらは、七条アリア様直々のお誘いです」
七条先輩との直接の誘い、か。スズは思う。最後にあったのは、半年前だっただろうか。
「分かりました。では準備を」
「はい。社長」
久しぶりの再会に心を躍らせつつも、表面上はしっかりと会社のトップの顔でロビーを歩き出した。秘書の女性も、それに続く。
「・・・・・・ところで」
「はい」
「もう少し離れて歩いてほしいって、前に言わなかったかしら。アナタは背が高いから、周りから見くびられそうなのだけど」
「萩村社長を見くびる人など、この会社には存在していませんので」
しれっと、有能な秘書は言った。
【天草シノ】
「・・・・・・そうです。私が殺しました」
女性は深い苦悩の思いを込めて、その罪を白状した。
周囲の者達は、沈痛な思いで項垂れる。その中で、彼女の犯罪を暴いた男だけは、静かな目で目の前の女性を見つめていた。
「認めるのですね。自分が罪を犯したと」
「はい」
「動機については・・・・・・やはり?」
「そうです。おっしゃるとおりです」
動機。それは何か。その疑問には答えないまま、女性は懐から一丁の拳銃を取り出した。
それこそが、今回の犯行の凶器であったのだ。周囲から悲鳴が上がる。
銃口の先は、他の誰でもない自らのこめかみに。止めに入ろうと動く男。
それでも、間に合わなかった。どう見ても、彼女が引き金を引く方が早かったので。
「さようなら・・・・・・」
女性の瞳から流れる一筋の涙は、まるで水晶の如く――――
「はい、オッケー!」
そんな場の空気を一新させる声が、この場の全員に届いた。それを聞いて、女性を始めとした全ての者達が安堵の息をつく。
都心の郊外に位置するこの場所は、年季の入った洋館。周囲が森に覆われていて、見るからに雰囲気があった。
だからこそ、この場所を撮影用のロケ現場として選ばれた訳なのだが。
「まずは第15シーンの撮影、お疲れ様。このペースなら、なんとか明け方までに撮影は終了するはずよ。みんな、気を引き締めてちょうだいね」
主演女優の声が、共演者達を鼓舞させる。その女優は芸能界では大御所と呼ばれており、その声の重さもひとしおだった。
ただし、と女優は続ける。その言葉に、一斉にスタッフを含めた全員の背筋が伸びた。
「小林さん。そして、宮牧さん。最後のシーン、少しだけ遅れが出ていたわね。次からは気をつけなさい」
緊張しながらも、言われた2人は頭を深々と下げる。続いて女優は、もう1人の新人に声をかけた。
「それと――――天草さん」
「はい」
「初めてのドラマ撮影にしては、まあまあだったわ。これからも、この調子でお願いね」
「あ、ありがとうございます」
女優ほどの人間から褒め言葉をもらっても、浮かれることもなく背筋を伸ばしている天草シノ。その姿に、女優は内心で感心する。
もっとも、それ以降は女優も話を続けず、メイク直しをするためにスタッフを連れて廊下に出る。他のスタッフや共演者の休憩時間を削る気はないのだから。
女優よりも遅れて、出演者達は廊下に出ることになった。どのみち、撮影環境が整うまではやる事もない。
道中、シノの女性マネージャーが駆け寄ってくる。彼女は、若干興奮した調子で言った。
「凄いじゃないですか、天草さん。初めての出演で、あの人から褒められるなんて」
「いえ、私のような新参者なんて、まだまだです。初めてだったからこそモチベーションが下がらないように、あえて声をかけてくれたんだと思いますから」
「そんな事ないです。あの滅多に人を褒めないことで有名だった方が・・・・・・」
あまり持ち上げられると、こちらが困る。シノは少しだけ強引に話を逸らすことにした。
「でも、早いですよね。私が、まさか芸能界に入ることになるなんて」
「ですよね」
そう言ったのは、マネージャーではなく同じ共演者の女性であった。年齢がシノに近いこともあり、2人はよく休憩中に話をするようになったのだ。
そう。天草シノは現在、女優の卵として活動していた。
きっかけは、大学から帰宅中に街中で声をかけられたこと。当初は何かの詐欺と警戒していたが、話を聞くところによると、どうやら本物の芸能事務所の関係者らしかった。
しかも、巷で話題になっているトリプルブッキングというアイドルグループが所属している事務所に。
シノは元々、モデルとしてスカウトされた。初めは不慣れだったことも、2ヶ月も経てばすっかり慣れ、雑誌の表紙に出ることも珍しくなくなったほどに。
やがて事務所の社長がシノの声を見込んで、歌のレッスンを始めさせた。デビュー曲の『恋愛のすゝめ』は飛ぶように売れ、間もなくアイドル歌手として一躍有名になる。
次々と新曲やアルバムを発表し、国民的アイドルとして活躍を続けるようになったシノ。
そして、今。
「あと3シーンを取り終われば、ノルマは達成します。もう少しだけ、お願いしますね」
「ええ、分かっています。視聴率は、20%以上が目標ですから」
「天草さんが出演してるなら、きっと行けますよ」
悪気なく言うマネージャー。あまり、他の出演者に喧嘩を売るような発言は控えてほしいものなのだが。今は大御所もいるのだし。
人当たりが良いのは確かなのだが、もう少し考えて発言をしてほしい。いまいち危なっかしいこのマネージャーには、後で遠回しに注意をしておくとしよう。
他の共演者達は、別に気にもしていない顔でメイク直しを受けている。スルーしてくれているらしく、シノは密かに内心で安堵する。
そういえばと、ふと思う。そんな風に、こうして日常的に誰かの欠点をする行為は、随分と久しぶりだと思った。
芸能界に入るようになってからは、むしろ下から這い上がらなくてはならない立場だった。それが人気を取るために仕事を積極的に受けているうちに、いつの間にか恐れ多くも数多くのファンに囲まれる毎日になってしまったから。
誰かの先輩となり、誰かの後輩になっていく毎日。自分のような危なっかしい人間がそんな日々を続けることが出来るのは、ひとえにあの学園の経験があったことが大きいのだろう。
生徒会長としての日常。有能な部下に囲まれて、刺激を受けていく毎日。変わった後で、また変われる自分自身。
シノはそっと、目を閉じる。傍目には、それがヘアメイクを受ける準備のような仕草に見えたことだろう。
ほんの少しだけ、在りし日の自分達に心を飛ばす。瞼の裏に浮かんでは消えていく、あの桜才学園の人々。そして、生徒会役員達。
――――みんな。私は今も、こうして頑張っているぞ。
【未来の彼女】
都内に存在するビルの、大会議室において。
「――――以上が、研究内容の結論です。これにて、発表を終了したいと思います」
何か質問事項のある方はどうぞ。そう告げるスーツ姿の女性に対し、その発表を見届けた者達から、いくつかの挙手があがった。そのうちの1人を示し、傍の職員が持っているマイクを渡す。
確か、あの方は早稲川大学(わせがわだいがく)の准教授でしたね。記憶の中にあるその人物の名前を思い浮かべながら、彼女は彼の質問内容を受け入れた。
発表された論文のある一文に対し、もう少し詳しく教えてほしいという内容。彼女は想定された質問に、想定した返答をする。
その准教授は納得し、次の挙手者にマイクが渡った。次の質問も、女性は淀みなく答えを返す。
やがて質問がなくなったことを悟った職員は、今回の発表会を修了した。途端、そばに座っている名のある講師や教授が、それぞれ論文の発表中に記録していたメモを片手に話を始める。
「ご苦労だった、講師よ」
初老の男が、女性に声をかけてくる。大学時代からの恩師である彼はこの日、彼女の論文発表を見るためにこの場所に足を運んでいたのだ。
「学長。またお会いできて、光栄です」
腰を曲げ、頭を下げる女性。大学院卒業後はほとんど会わなくなっていたが、こうして姿を見せてくれることは彼女にとって本当に嬉しかった。
「うむ。学生時代から、君の評判は良く聞いていたからな。あれほど勉強熱心な学生も珍しかった」
「恐れ多いことです。思えば在学中から、学長は私のことを良く気にかけてくれていましたから」
「今回の論文は、なるほどと頷かせられたぞ。だが、まだあのテーマを研究しているのかね」
「は、はい。学生時代の延長と言われてしまうと、返す言葉もありませんが」
「いや、なに。アレも今の社会では未だに数多くの教授達が答えを求めておる。存分に続けると良い。ただ、学生時代よりも深く掘り下げてあるので、感心したのだよ」
「あの時のままではいられませんから」
呆れられたわけではなさそうだ。彼女はそっと安心した。他にテーマは無いのかと言われるのではないかと、内心でヒヤヒヤしていたのだ。
こういう時、自分の性格が出てしまうなと思う。一つのことに没頭すると、できる限り深くまで大真面目に取り組んでしまうのだ。今でも、その癖は抜けない。
しばらく話をしていると、遠巻きに自分達を見ている男達がいた。何か言いたそうにしている様子から、どうやら論文の話なのかもしれない。
「おっと、いつまでもキミを独占していては申し訳ないな。それでは、私はこれで失礼するよ」
「はい。学長も、お疲れ様でした」
最後に深々と頭を下げると、彼らに近寄っていく。まだ年若そうな男達が、挨拶をし始めた。
学長は大会議室の扉を開ける前に、一度だけ振り向いた。視線の先には、僅かに緊張した清潔そうな男が話しかけている。それを一歩引いた場所で立っている、何人かの中年の男女達。
「あ、あの・・・・・・講師。この後、お時間などは?」
「はい?」
確か、あの者達は中央塔大学(ちゅうおうとうだいがく)に所属している教授達と、最近になって講師になったばかりの若者だったか。
遠目でも分かる。若手の講師は、明らかに彼女を食事に誘っているようだ。
無理もない。彼女は学生時代から大学の男達に人気があった。浮ついた気持ちのない気真面目さと、人当たりの良い人格。そこいらの遊び慣れた学生達など、比較にもならない。
それは社会人になってから、より一層輝きを増している。優秀な成績と、学生としての殻を破った女としての魅力は周囲の男が放っておかない。
若者が言い寄り、周囲がそれを押す。そんな中、彼女はただ困ったような反応をするだけ。明らかに、脈がなかった。
まあ、何も気付いていない若者の誘いに彼女が乗ることはないだろう。学長は思った。結果の分かっている光景にはそれ以上目をくれず、学長は秘書を連れて会議室を出る。
なぜなら、彼女の左手の薬指には――――
【未来の彼】
これから冬にさしかかる季節の頃、関東の空港にドイツ発の旅客機が舞い降りた。
家族連れの旅行者やカップルが次々と日本の土地を踏みしめながら、安堵と懐かしさの息を吐く。
雪の気配が感じられる時期といえども、ドイツの空とは比べるべくもない。昼下がりに吹く穏やかな風は、日本の気候がいかに恵まれているのかを再確認させられた。
数多くの空の旅を共にした乗客達。入国審査を通過した後は、それぞれが思い思いの方向へと向かっていく。
「あ。あのビル、完成したんだ」
空港を出た後、1人の青年が街の変化に気付く。日本を離れたのは1ヶ月前だったが、高層ビルの建築中だった風景は良く覚えていた。
キャリーバッグを引きながら、ビジネススーツ姿の青年は出口へと向かう。第3ターミナルを抜けると、数多くの車が止まっている駐車場へ出た。
流石に都心の空港だけあって、常に満車に近い有様だ。今でこそ旅行シーズンではないために若干の余裕があるものの、クリスマス前ともなれば駐車スペースの取り合いが本格化することだろう。
彼は敷地内をしばらく歩き、自分の車のロックを解除する。お金が貯まり始めた頃、思い切って購入した愛車は、大切な人と一緒に決めたものだ。お互いに派手すぎない、落ち着いたデザインの車が好みに合ったのである。
スマホの時計を確認すると、まだ2時を過ぎた頃だ。先に仕事先に行って、上司に書類と報告を済ませてくるのも良いかもしれない。
青年はエンジンをかけ、車を発進させる。一ヶ月ぶりに動かした車は、慣れたような動きで彼の目的地へと向かった。
目指すは、東京都心に位置する国際医療研究センター病院。青年の所属する病院の名前であった。
【ただいま】
論文の発表会は、終わった。ビルの出入り口にはまだ話し足りない者達が何人かのグループに分かれてお互いの理論を交わし合っている。エレベーターが開き、彼女が姿を見せると彼女に気付いた何人かが会釈をしてきた。
彼女はまだ講師だ。准教授や教授に頭を下げられるのは流石に萎縮してしまいそうになる。しかし、それを態度に出してはならない。
彼女は毅然とした様子で頭を下げると、そのまま玄関を出た。
途中、さっきまで声をかけてきた若者がこちらを見てくるが、若い女性講師は気付かないフリをした。もうこれ以上は話す事もなかったので。
外はすでに、オレンジ色の世界に変わっていた。夕暮れの中、彼女は腰まで伸びている髪を揺らしながらビルの敷地内を歩く。
生い茂った植え込みを横目で見ながら、彼女は黄昏の中で道路へと向かう。紅葉が彩る並木道に目を向けた。
門の前では、すでに何人かの教授がリムジンやベンツといった車に乗り込んでいる。迎えを呼んだのだろう。
「あ・・・・・・」
そして、その中に一台だけ見慣れた車が彼女の目に止まった。
一ヶ月ぶりに会えた、その姿。心なしか、また一段と凜々しい顔になっているように見えるのは、きっと気のせいではないだろう。
腕を見込まれ、海外の国際病院に派遣されることになった彼の姿。迎えに来ると伝えていなかったのは、きっと自分を驚かせるために違いない。
だって、彼の自分を見る目はどこまでも優しくて。どこまでも頼もしくて。
出会った頃からずっと惹かれていた、彼の存在。
胸は温かくなり、そして熱くなって。
その衝動に導かれるままに、彼女は駆けた。
彼は、おいでと告げるかのように腕を広げる。
彼女――――カエデは彼のたくましい腕の中に飛びついた。
彼――――タカトシは彼女の細い身体を抱き留めた。
黄昏に反射して、2人の薬指に存在する指輪がキラリと光る。それこそが、他ならぬ男と女の関係。
津田タカトシと、津田カエデ。
2人が歩み続けるのは、Ifの世界。
きっとこの先の未来にも、2人の物語は続いていく。
どんな困難でも。
どんな運命でも。
きっと、この2人ならば。
強く、楽しく生きていけるはずなのだから。
終わり
最後までご愛読、本当にありがとうございました。
Pixiv時代から、すでに2年以上もの時が過ぎ去っていましたね。時代も平成から令和に移り変わりました。
一つの可能性を生き抜いている、津田タカトシと五十嵐カエデの姿。読者の方々は賛否両論あるかもしれません。何より、自分自身もまだ書き足りなかったことや省略してしまった場面を作品に取り入れることが出来なかったことが、こうして後書きを書いている最中も悔やまれてなりません。
それでも、今は一つの物語を書ききったという現実だけで、とりあえずは形だけでも満足に似た気持ちで溢れております。今後も、原作にてカエデさんやタカトシ君を始めとした生徒会役員の活躍を一ファンとして応援し続けたいと思っております。
【今後の活動】
少しだけ間を開けた後、しばらくイベントSSに専念しようかと考えております。
といっても、近いうちにイベント時にのみ更新をするのではなく、好きな時にいつでも投稿するスタンスに変えようかと検討中です。
【それぞれのキャラクターの今後】
気が向いたら、近々活動報告辺りにでも設定資料として書き留めるつもりです。
それでは、最後に。
これを読んでくれた読者の皆様。
本当に2年以上もの間、この作品を読んでくれて本当にありがとうございました。
また、いつかどこかで会えることを心から願っております。