されど、潮風は心地よく。
青空にも負けぬ蒼が、目の前に広がっている。
これは僕らが一緒の頃、初めて手に入れた思い出の時間。
【海水浴の日】
桜才学園は夏休みに入り、生徒会役員達は人気のない早朝に校門前へと集まる。
天気は雲一つない晴天。萩村スズと七条アリアの2人は、やってきた津田タカトシに声をかけた。
「おはよう。しばらくぶりね、津田」
「おはよう津田君」
「おはようございます。結構早く来たつもりだったんだけど」
頭を掻くタカトシに、スズは腕時計を確認する。
「まだ集合時間10分前よ。それより、会長を見なかった?」
「待たせたな、みんな」
スズの言葉に答えたのは、たった今この場に姿を見せた天草シノだった。サングラスにゴムのシャチを抱えている、妙に気合が入りすぎている格好。
「……気合入ってますね」
「はっはっは。当然だろう。これも大事な生徒会としての仕事だからな」
どう見ても楽しみたいだけというのは明らかなのだが、さすがにそこまでは言わない。返す言葉が思いつかないでいると、車の止まる音がした。
5人乗りの車だ。運転席のドアが開き、顧問の横島ナルコが姿を見せた。
「おつー。さあ、乗った乗った。時間は待っちゃくれないよ……って」
ナルコが、シノの持っている空気の入ったゴムのシャチを見る。
「……それ、入らないから空気抜いてくれる?」
大変珍しい、ナルコのツッコミであった。
車で2時間弱。とある有名海岸に到着した頃には、既にほかの海水浴客で賑わっていた。駐車場に車を止め、更衣室で着替えをする。
その際、またアリアが貞操帯の鍵を無くしかけるというハプニングがあったものの、それ以外は問題なく水着姿で浜辺に姿を現した。
彼女たちが更衣室を出るころには、すでにタカトシはパラソルとレジャーシートを準備して、荷物の管理をしていた。こういう事は男の役目だという暗黙の了解を守る彼である。
シノは、赤いビキニ。白い肌を際立たせ、よく似合っていた。
アリアは、白いビキニ。高校生レベルを超えたスタイルを映えさせる姿。
スズはピンクのワンピース。見た目相応に、よく似合っている。
夏の陽射し。飛び散る波の滴。波打ち際で戯れる親子連れやカップル。子供たちが時折波に襲われ、楽しそうに肩まで濡らしている。
「おお、津田。この子の用意もしてくれてたのか?」
空気を抜いていたゴムのシャチに、いつの間にか空気が入っている。シノは大事そうにそれを抱えた。
「はい。空気を入れるのって体力を使うので、先にやっておきました」
「感謝するぞ、津田。やはりお前は、私の大事な右腕だ」
「あ、あはは……」
これくらいで大事な右腕といわれても困る。そう言いたかったが、会長の機嫌に水を差すのもどうかと思い、愛想笑いで誤魔化した。
「それじゃあ、先生。一応引率ですし、遊ぶ前に何か一言お願いできますか?」
スズがパラソルの下で体育座りをしているナルコに言う。彼女も黒のビキニを着ているが、上にパーカーを着ているので泳ぐつもりが全くないらしい。
「あー、そうね。みんなあまり羽目を外しすぎないようにね。ハメるのはいいけど」
「教師としてそれでいいのか」
ともあれ、これで堂々と海水浴が開始された。シノは早速シャチの浮き輪を抱えて海へと走っていく。やや遅れて、タカトシやアリアもそれを追う。
彼らも高校生。夏の海を前にして、気分が高揚しているのは間違いないのだ。
足首に冷たい海水を感じ、さらに膝から腰まで。
タカトシはクロール。アリアは背泳ぎ。思い思いの泳ぎ方で海を楽しむ。スズは浮き輪に腰を乗せ、悠然と青空を見上げていた。
シノは、浮いているシャチの浮き輪に乗ろうとして――
「わー……おぶふっ!?」
――浮き輪が波で回転し、その上に乗った会長が海に放り出されていた。それでもめげずに上に乗ろうとするが、ビデオを再生しているかのように同じ光景の繰り返し。
「あ、あんまり楽しくないーっ!」
せっかく楽しみにしていた道具が使えず、シャチを持って波打ち際にまで引き返すシノ。流石に気の毒になったアリアは、彼女の肩を叩く。
「それじゃあ、みんなで沖まで競争しない?」
「あ、いいですね。俺もやります」
アリアの気遣いに乗る事にしたタカトシ。せっかくの海水浴なのだから、嫌な事は楽しい事で忘れなければ。
「……そうだな。そう言えば、こういう運動関係で競った事はあまりなかったな」
元気が出たシノだったが、今度はスズがそれに異を唱えた。
「私は足が届かない場所では泳がないタチなので、遠慮します」
「……ああ」
「……そうだね」
「……うん」
3人が、スズを優しい目で見る。その視線に、生徒会役員共が何を考えていたのかを悟ったスズは……
「ビニールプールを想像した奴ぁ前に出ろおおおおお!!!」
マジ切れしたスズから逃げるように(というか逃げた)、3人は一斉にスタートした。
【海の時間は続く】
そんなトラブルもあったものの、ある程度泳ぎを楽しんだ後は、休憩も兼ねて海の家で昼食をとる。こういう所で出される食事というのは、大した味ではないはずなのになぜか美味しく感じてしまう。
学校や、今後の夏休みの予定などをきっかけに会話は進む。スズに宿題はもう終わらせたのと訊かれると、タカトシは終わらせたよと自信を持って言えたのが、少しだけ気分が良かった。
「そういえば会長達って、どこの中学に行ってたんです?」
タカトシが訊いてみる。スズはイタリアのジュニアハイに通っていたのだろうが、シノとアリアについてはまだ聞いていなかったのだ。
「わたしは新百合ヶ丘中学だったが」
「わたしは秦野中学だったよ」
シノとアリアは普通に答える。どちらも有名な私立中学だ。
「凄いですね。あそこって名門じゃないですか」
「いや、それほどでもない」
少しだけ満足そうな顔をしながら、シノが言う。彼女もその中学の出身であることに誇りを持っているらしく、どこか自慢げだ。
「そういうあんたは、どこ通ってたのよ」
スズは紙コップのジュースを飲みながら言う。聞くだけ聞いて自分だけ話さないというのも失礼だ。
「俺は、聖城中学ですよ」
「ほう。確か、あそこも名門と聞いているが」
「やっぱり、津田君を生徒会に誘ったのは正解だったね」
「うむ。半端な気持ちでは生徒会役員は務まらないからな」
アリアとシノが言うと、タカトシはジト目になる。
「……前にも言いましたが、いきなり放送で呼ばれて、生徒会に入れられた気がするんですが」
「はっはっは」
「会長。笑い方がワザとらしいですよ」
スズが呆れたようにツッコミを入れる。タカトシも、今となってはどうでもいいですけどと、笑って流す。
しばらく雑談が続くが、いつまでも席を占領するというのも失礼だ。会計を済ませてパラソルへ戻る。
時間を確認すると、まだ2時前だ。もう1度泳ぎに行こうという話になり、彼らは思い思いに遊ぶことにした。
タカトシはシノと一緒に、遠泳の続きをする事になった。午前中に行った泳ぎでは、タカトシが1番だったのだ。
「今度は負けんぞ」
「また勝たせてもらいますよ」
お互いに不敵な笑みを浮かべて、横に並ぶ。
「じゃ、いきますよ。位置について――」
ジャッジはスズ。片手をあげ、真下に降ろす。
「よーい、ドン!」
2人は、波の中に飛び込んだ。彼らの海水浴は、まだまだ続きそうである。
海水浴客は、時間が過ぎるにつれて人数を増していく。アリアはなるべく人にぶつからないように、浜辺を歩いていた。
お花摘みを済ませた彼女は、一旦パラソルまで戻るつもりで歩いていた。その途中、肩に軽い衝撃が走る。
「きゃっ」
「おっと」
顔を斜めに向けると、いつの間にか近くに見慣れない若い男が立っていた。肌が黒く、髪は染めているのが分かる金色だった。
ともあれ、ぶつかったのは確かなので、謝らなければならない。
「ごめんなさい」
頭を下げ、通り過ぎようとする。そこで、腕をその男に摑まれてしまう。
「ちょっと待てよ。いきなりぶつかっといて、それはないんじゃないか?」
「えっ……でも」
対して強く当たったわけではないはずだが、男はなぜか突っかかってくる。
「こういう時は、もうちょっと態度で謝るのが常識じゃねえの?」
ニヤニヤ笑っている。男と接する機会が少ないアリアでも、この相手には内心で眉根を寄せた。
ナンパだ。しかも、かなり強引なタイプの。
かといって、このまま逃げる事はできそうにない。男はどう見ても体を鍛えていて、また自分を逃がす気もないようだった。
「ほら、来いよ。俺、人が少ないスポット知ってるからさ。詳しい話はそこで――」
「や……っ」
腕を引っ張られ、ついていくしかなくなってしまうアリア。心の中に不安がよぎる。
周囲の人たちは、顔を顰めつつも止めようとする者はいない。みんな、関わりたくないのだ。
そんな2人に、1つの声がかかった。
「アリアさん。ここにいたんですか」
聞き覚えのある声。男も、思わず足を止める。
声をかけて近づいてきたのは、タカトシだった。全身が濡れているところを見ると、遠泳が終わった後で、直接こっちに来たのだろう。
「すみません。彼女、俺の恋人なんです」
「ああ?」
顔を歪め、闖入者を睨みつける男。一方で、アリアも後輩の発言に驚きの顔をする。
「そういうわけですので、手を離してもらえますよね」
言うが早いが、タカトシは男の手をアリアの腕から離してやった。逆にアリアの手を握り、優しく手を引く。
「あっ! てめえ、なに持っていってんだよ!!」
せっかくの上玉を奪われて、頭に血が上った男。タカトシの肩を掴むと、そのまま顔を殴ろうと拳を振りかぶる。
「っ!」
あまりの剣幕に目を強く閉じるアリア。まさか、ここまで乱暴な男だったとは。
――だが、タカトシの目は冷静だった。
アリアの手を離し、男の向かってくるパンチを片手で受け止めた。同時にもう片方の腕で、相手の腋の下をすくったまま肩を掴む。
あっという間に背負い投げが決まり、男は砂浜に背中を打ちつけてしまった。
男に怪我はほとんどない。地面が砂浜なので、タカトシは遠慮なく投げる事が出来たのだ。
悲鳴1つあげられないまま、仰向けになってしまう男。周囲から、おおーという感嘆の声が上がる。
「聞こえなかったようだから、もう1度言いますね。彼女は俺の恋人なんです。ナンパでしたら、他の人に声をかけてください。それでしたら、俺も邪魔はしませんので」
念を押すように見下ろしつつ、キッパリと言い放つタカトシ。流石に手ごわい相手だと悟った男は、悪態をつきながらも体を起こす。
「ちっ。わかったよ。男連れじゃあしょうがねえな」
「どうも」
この場から去る口実をもらった男は、背を向けて人ごみの奥へと消えていく。そこで、タカトシはアリアに顔を向けた。
「大丈夫だった、アリアさん?」
「え、あ、うん。津田君が助けてくれたから」
気後れしつつも、どうにか返事を返すアリア。本当に無事らしいことを悟ったタカトシは、大きく息を吐く。
「よかった。それと、すみません」
「?」
「とっさとはいえ、恋人のフリなんかしちゃって」
「あ……」
言われて、ようやく思い出した。彼は自分からあの男を引き離すために、ワザと恋人のフリをしてくれていたのだ。
アリアはパタパタと手を振る。とんでもない。そのおかげで助かったのだから。
「ううん、そんな事ないよ。それよりも、助けてくれてありがとう」
「本当ですか? よかった……」
ここで、ようやくタカトシの顔が綻んだ。もしかして、アリアに不快な思いをさせたとでも思っているのかもしれない。
――――本当にありがとう、津田君。
そのまま、周囲のニヤついた視線に赤面しながら、2人はパラソルへと戻ることになったという。
【彼の末路】
「ったく……もったいなかったなぁ」
海の沖で、大の字で浮かびながら青空を見ている青年。さっきアリアに言い寄ろうとした男である。
彼はあの後、他にナンパをする気も起きないまま、1人になっていた。あんな人目がある周囲の輪の中で、醜態をさらしてしまったのだ。流石に気まずくなるというのも当然だろう。
彼は地元の大学に通っている学生である。せっかくの夏休みなので、彼女を作るためにこの海へ来たのだ。
だというのに、結果はこの有り様。
「大学の女を誘おうにも、ブスばっかだしなぁ。たまにいい女がいても、彼氏持ちだし……」
よほど女運に恵まれていないらしい。彼の口から出るのは、ため息ばかりであった。
だが、この時の彼はある意味では運に恵まれていたのかもしれない。
彼の身体を、海の奥から狙っている人影があったのだ。
人魚ではない。れっきとした人間だ。獲物を狩る、ハンターの目で。
別段、取って食おうというわけでは……ある。
刻一刻と男に来たづいてくる人影は、女だった。年下好きな、1人の結婚適齢期真っ盛りの女。
名を、横島ナルコ。
異性を捕まえるためにこの海に来ていたのは、彼1人だけではなかった。むしろ、そんな目的で来る者など今時珍しくもない。
ナルコもまた、それが目的だったというだけなのだから。
男は、運に恵まれていた。不運もまた、運の1つであることに違いはないのだ。
そして今、ナルコは1人の年下の男を見つけた。あとはただ、狩るのみ。
「……っ?」
嫌な予感がしたのか、男が背筋を震わせる。
なんだ。まるで、サメか何かが自分を狙っているかのような……
と、そこで男の意識は途切れた。視界の左右から突如、2本の腕が出現したのだ。
驚愕の声を上げる間もない。一瞬で全身を拘束された男は、海の中へと引きずり込まれていった。
【夕暮れ】
日中はあれほど騒がしかった海水浴場も、夕方になれば人気はなくなる。
オレンジ色に染まる海と空。その美しい光景を生徒会役員達は揃って眺めていた。
「海、楽しかったな」
「そうですね。来てよかったです」
シノが感慨深げに言う。タカトシも頷いた。
「私も、来てよかったよ。津田君の格好いいところも見れたし」
アリアが嬉しそうに言う。それを聞いたシノは、タカトシを見る。
「ああ。私も感謝しているぞ。親友を守ってくれたのだからな」
「当然のことをしただけですから」
謙遜ではなく、本当にそう思っているタカトシ。その横で、スズが眠そうにウトウトしている。流石に疲れたのだろう。
「さあ、早く帰ろうか。家に着いたら、ゆっくり寝れそうだ」
そして、一行はパラソルのところへ。着替えは終わっているので、後はレジャーシートとパラソルを片付けるだけなのだが……
「ぐー」
レジャーシートの上で、ナルコがぐっすりと眠っていた。周囲には、ビールの空き缶が複数。
ナンパ男の心に深い傷をつけたナルコは、狩りが成功した祝杯を挙げていたのである。涎をたらし、時たまニヤニヤと笑っていた。
「……」
沈黙。4人は顔を見合わせた。
「宿、探すか」
「そうですね」
生徒会役員共、まさかの1泊2日決定。
【旅館にて】
ナルコのとんでもない失態により、あえなく一泊する事になった生徒会一行。
酔いつぶれたナルコを背負っているタカトシは、とある旅館のフロントで手続きを取っているシノを見ていた。話を聞くところによると、この面々は全員姉弟という事にしているらしい。
まあ、教師と生徒たちなどと馬鹿正直に教えては、さすがに人目を忍ぶ羽目になりかねないだろう。そのため、他の面々は黙って手続きが終わるのを待っている。
「それでは、こちらに宿泊者のお名前を――」
「はい」
さすがはシノというべきか、慣れた調子で手続きを済ませていく。
「ねえ、タカくん。この旅館って、お風呂24時間利用できるって」
「へえ。疲れてたし、ちょうどいいな。姉さんが酔いつぶれちゃったときは、どうなるかと……」
姉さんというのは、ナルコのことだ。本人が聞けば泣いて喜ぶのだろうが、これはあくまでも体裁のためである。
「本当に一部屋だけでも、取れてよかったわね。お・に・い・ちゃ・ん」
「うん……なんか、本当にごめん」
暗い笑顔で、タカトシを見上げているスズ。タカトシも、こればかりはなんと言っていいのか分からなかった。
スズは、小学生の末っ子という設定である。タカトシと同い年だというのに、何とも気の毒な事だった。
「うぅん……遠慮しないでもっと遊びましょうよぉ……」
なんとも嫌な寝言だった。ナルコをおんぶしているタカトシは溜息をつきたくなる。
「ナルコ姉さん……夢の中ぐらいしっかりしてほしいな」
「おおう……」
ナルコの背中が、ブルリと震えた。お姉さんと呼ばれた事が、夢の中にまで影響を受けたのだろうか。
「う、うへへ……しょ、小学校の前にあたしが○貞卒業させてあげるわよぉ……」
「……」
船酔いしそうな顔になるタカトシとスズ。そんな姿を、どこか楽しそうな目で見る妙齢の女将がいた。
「愉快なお姉さんですね」
「あ、いや……お恥ずかしい限りです」
初対面の人間にからかわれた。そう感じ、タカトシは頭を下げる。
「かまいません。職業柄、宴会などで酔った人間の世話をする事はよくありますから」
「ああ、なるほど」
道理で迷惑そうな顔をしないわけだ。タカトシは納得する。
「こういうお客様は羨ましいですわ。ショ○コンなんて、私と気が合いそうで」
「あんたもそっち系の人かよ」
よく見ると、他の和服の従業員も同感だと言わんばかりに頷いている。思春期脳は妹や桜才学園の専売特許ではないらしい。
どうしよう。今からでも他の旅館を探せないだろうか。少し考え、無理だという結論になる。
いくつかアテを探して、ようやく見つかった旅館なのだ。自分が野宿する分にはまだ耐えられるが、シノを始めとしたほかの面々まで巻き込むのは申し訳がない。
取れた部屋は、小奇麗な和室だった。全員が荷物を置き、タカトシはナルコを畳の上に横たえる。
シノとアリアが部屋の隅に布団を出してくれたので、その中に寝かせた。タカトシは、ようやくそこで一息つく。
「はあ……さすがにちょっと疲れたな」
海水浴で疲れていたうえに、今度は成人女性を背負って歩き続けたのだ。肩を回すと、関節の鳴る音がする。
「津田。風呂に入ったら、早いとこ寝た方がいいわよ」
スズが荷物をあさりながら言う。これから風呂に入る準備をするのだろう。
「そうさせてもらうよ。あ、でも」
思い出したようにタカトシは言った。これを確認するのを忘れていたのだ。
「あの、先輩方って……男と同じ部屋になるというのは問題じゃないですか? なんでしたら、俺は車で寝ますけど」
「まさか。そんな事をさせるはずが無かろう」
「そうだよ。津田君がちゃんと安全な人だって私たちは分かっているから」
「まあ、あんたなら変な事はしなさそうだしね」
シノ、アリア、スズの順で肯定の意をもらうタカトシ。正直、その申し出は嬉しいのだが、やはり女性のために一歩引いた方がいいのではないだろうか。
それを真剣に考えているうちに、シノたちは着替えを持って部屋を出ていく。残されたのはタカトシと、泥酔しているナルコだけだった。
「……ま、いっか」
彼女たちが気にしていないというのなら、そうなのだろう。そう納得する事にして、タカトシも風呂へ向かう事にした。
女湯の大浴場で、シノたちは湯に浸かっていた。周囲には家族連れと老人が数名いる。
肩まで浸かった湯が、何とも心地よい。海水浴で疲れていた筋肉が、優しくほぐれていくのを感じる。
「おおう……足を伸ばせる風呂が、こんなに気持ちがいいとはな」
シノは、特に嬉しそうだった。今は周囲に人がいるから自重しているのだろうが、気持ち的には思いっきり泳ぎたいのだろう。
しばらく、思い思いにゆったりとした時間を過ごす。
今日は、本当に色々とあった。海水浴で泳いだことは楽しくて、しつこいナンパもいて少し怖い目にもあったが、副会長が助けてくれた。そして、今はこの旅館でようやく息をついている。
「今まで気づかなかったが、津田の奴随分と鍛えていたんだな」
シノが何気なく言う。
「もともと体格がいいとは知っていたが、あそこまでの運動神経とは思わなかった。昔、何かやっていたのか?」
遠泳の時も、結局自分は副会長には1度も勝てなかった。少しだけ、今日はそれが心残りだったのだ。
「あ、私あいつに訊いたことがあります」
スズが片手をあげて言う。以前、シノとアリアが修学旅行に行っていた時、好奇心で尋ねた事があったのだ。
「小学校は野球をやっていて、中学ではサッカーをしていたみたいです」
「ほう。男の子だな」
「男の子だね」
やはり、あの男はスポーツマンという事か。感心する2人だが、シノがある事に気づく。
「む? 確かアイツは、出身校が聖城だったと言っていたが」
昼間の、海の家での会話を思い出す。確かに、そんなことを言っていた。
「そんなに有名なんですか?」
少しだけ意外に思うスズ。彼女はイタリアの中学卒なので、いまいちピンとこないようだ。
「そうだね、結構有名だよ。レベルも私たちの中学と同じくらいで、スポーツにも力を入れているって」
アリアが解説をする。
「全国大会に出ている選手も結構いて、去年はバスケットに陸上に、それと……あれ?」
指折り曲げて数えていたアリアが、シノと同じ事に気づく。
「あ、そういえば……去年の聖城中学のサッカー部って、全国に出ていたんだっけ?」
「うむ。やっと思い出したぞ。確か、新聞でも掲載されていたな」
関東大会優勝という見出しで地元の中学の名前が載っていたので、よく覚えている。まさかあの男が、その大会に出ていたとは。
「それは知りませんでした。あいつが、そんな成績を残しているやつだったなんて」
「道理で、人気があるわけよね」
どこか楽しそうに言うアリア。そこに、なんとなく引っ掛かりを覚えるシノ。
「アリア。人気とはどういう事だ?」
「うふふ。実はね、津田君って結構学園の女の子に人気があるの」
「む」
言われて、なんとなく過去の事を思い返してみるシノとスズ。確かに、タカトシの噂はたまに耳にする。
成績は自分達のフォローがあったとはいえ、上位に食い込んでいる。性格も落ち着いていて、チャラチャラした今風の男など比較にもならない。妹がいるせいか面倒見もよく、至って真面目。ルックスだって悪くはない。むしろいい方だ。
生徒会の仕事も、自分達と同じレベル。運動神経にいたっては言わずもがな。
「……」
「……」
津田タカトシという男のポテンシャルを真剣に考え込む2人に、アリアはあらあらと楽しそうに笑っている。
「そう言えば、この旅館って混浴もあるらしいよ?」
「ほほう」
そろそろ話を変えようと考えたアリアの言葉に、シノの目がキラリと光る。案の定といっていいのか、そっち系の話を想像させる話に食いついた。
「そうと分かれば、放ってはおけんな」
湯から上がり、足早に大浴場を出るシノ。行き先は分かっているので、いまさら止める気もない。
「さ、私たちも出ようか」
「そうですね」
湯汲は充分に満喫した2人。あとは部屋に戻って、ゆっくりするとしようか。
【風呂場での再会】
熱めの湯に肩までつかり、タカトシは大きく伸びをした。固くなっていた筋肉が伸ばされ、心地よく感じる。
ここは露天風呂。男性用の大浴場ではなく、れっきとした混浴の風呂場である。
別段、タカトシは下心があって混浴の風呂にいるのではない。大浴場に足を運んだところ、男性用の方は故障中だと聞かされたのだ。
なんでも、他の宿泊客の子供が悪戯をして、設置されている鏡を壊してしまったという。破片が至る所に飛び散っていて危険なので、混浴の方を使ってほしいと従業員に言われたのである。
別段、現状に文句はない。タカトシ自身、美しい夏の夜空を見入りながら湯を楽しんでいた。
周囲には他の宿泊客の姿はいない。もったいない。こんなにいい夜空だというのに。
彼は、星が好きだった。街中ではほんの少しの星しか見えないが、空気のきれいな場所に行けばそれこそ図鑑でしか見た事が無いような数の星が見える。
田舎の祖母の家では、遊びに行った時の夜に輝く星空を見て、とても感動したのを覚えている。妹と揃って、いつまでも飽きずに空を見上げていたものだった。
そう言えば、家の物置に天体望遠鏡があったっけ。ふと、そんな事を思い出すタカトシ。
今は夏休みだし、一度思い切って徹夜をして星を眺めるというのも悪くないかもしれない。
心地よい温泉の中で、贅沢にも独占できたプラネタリウム。ナルコの不真面目さには苦労させられたが、こんな一時を味わえたというのなら、そう悪くはない1日だったのかもしれない。
とはいっても、いつまでも風呂に入っているわけにはいかない。あまり長居していると、のぼせそうだ。
湯から上がり、腰にタオルを巻いて脱衣所のドアへ近づく。ドアを開こうとしたところで、向こう側からドアが開いた。
自然、相手とタカトシの目が合う。相手の顔は、驚き。タカトシも、同じ顔をしている。
「……」
「……」
硬直したまま、お互いが相手の顔を脳内で確認。タカトシの前に立っているのは、1人の女の子。
彼女は、胸元から太ももまで白いバスタオルを巻いている。これから風呂に入るのだろうから、当然だが。
タカトシは続けて相手の特徴を確認。天然の茶髪で、髪は腰まで伸びている。普段は三つ編みにしている髪を解いているので、僅かに大人びた印象に変わっていた。
「津田……くん?」
少女が、自分の名前を呟く。無意識に言ったのだろうが、つられて自分も相手の名前を同じ調子で口にした。
「五十嵐……せん、ぱい?」
タカトシは、知らなかった。
風紀委員長である五十嵐カエデが、コーラス部を掛け持ちしているという事を。そして、この日はその合宿のために宿泊している事。
さらに、彼女がうっかり大浴場と間違えて混浴である露天風呂に来てしまっていた事を……
つづく