心が痛む。それでもどうか。
分かって欲しい。理解してと。
【カエデとタカトシ】
「うう……ん」
光に刺激され、五十嵐カエデは意識を取り戻した。閉じていた眼をゆっくりと開くと、眩しい照明が目に入る。
どうにか意識を覚醒させたカエデが真っ先にした思考は、なぜ自分が倒れていたのかという事と、ここはどこなのかという疑問だった。
「あ、あれ?」
おかしい。どうにも気を失う前までの事が思い出せない。とりあえず起き上がろうとして――――
「ああ、よかった。やっと起きてくれましたね」
――――自分の間近から、声がした。しかも、自分が忌むべき男性の声。
「……あ!」
つい大声を上げてしまうカエデ。どういうわけか、自分の顔を覗き込むように見下ろしている津田タカトシの顔があった。
「い、あ、う、あ……つ、津田君! なんで!?」
取り乱すカエデ。ここで、ようやく自分の状況に気づく。
ここは、コーラス部の合宿のために訪れている旅館。風呂に入るためにこの場へ訪れたのだが、どういうわけか浴室から見覚えのある男子の後輩が姿を見せたのだ。
男性恐怖症の彼女にとって、男とはただ恐ろしいだけの存在でしかない。勇気を振り絞らなければ、会話の1つもまともにできない有り様である。
そんな存在が、よりによって風呂場と鉢合わせをするなど、誰が予想できたのだろう。混乱の極みに達したカエデは、そのまま気絶してしまったのである。
そして、今。彼女は脱衣所と廊下の出入り口を挟んだ休憩所の長椅子の上に、身体を横たえていた。身体にはバスタオルの上に、予備として常備されている浴衣がかけられている。
「や、やだ、やだ、津田君……何をしているのっ! こんな事をする人だったなんて!!」
脊髄反射で上半身を起こそうとするカエデ。だが、途端にクラリと頭がフラつく。
まるで貧血にでもあったような感覚に、再びカエデの頭は枕代わりにしているタオルの上に。
「落ち着いてください。今起きたばかりなんですから」
「うう……!」
話しかけてくるタカトシに対して、本当は拒絶をしたいのだろう。だが、確かに身体は覚醒したばかりのために目の前がクラクラする。
「大丈夫ですか?」
「そ、それよりも……どうして津田君がここにいるんですか?」
目が険しくなっていると、タカトシは思う。実を言うと、自分もカエデがここにいる事が不思議なのだが、今は質問に答えようと思った。
「えっとですね。実は――――」
タカトシは今日の事を、出来るだけ事細かに説明した。生徒会役員を中心とした海水浴が行われた事。酒癖の悪い横島ナルコが酔いつぶれてしまったため、やむを得ず一泊するハメになった事。
カエデは半信半疑のような表情のまま聞いていたが、天草シノたちと一泊しているという所には過剰に反応する。
「じ、じゃあ今現在……天草会長たちと同じ部屋で……男女の外泊を!?」
「まあ、そうなりますね」
そればかりは誤魔化しようがないので、頷くしかないタカトシ。そこで、カエデの目の色が変わる。今度はふらつく事もなく普通に起き上がった。
罪人を見る目で、カエデは椅子に座ったままのタカトシの前に立つ。その迫力は、タカトシも無意識に背筋を伸ばしてしまうほどのモノだった。
「見逃せません。生徒会役員とあろうものが、このような不埒な行為を!」
「いや、ですからその辺りの事情は……」
「事情は分かりましたが、見てしまった以上は不問にするわけにはいきません」
副会長の反論を、風紀委員長はピシャリと跳ね除ける。
「そして、なにより……」
キッとカエデはタカトシを睨みつけた。
「貴方がこの女風呂に入っていた事への説明には全くなっていません!」
「ここは露天風呂で、混浴ですよ?」
普段のツッコミの調子で、タカトシは言った。
【カエデとタカトシ2】
膝を床につき、長椅子の上に突っ伏しているカエデ。さっきから、グッタリしたまま動かない。
「……」
カエデは沈黙。自分が間違えて入ってきてしまったという事実から立ち直れていないらしい、とタカトシは思った。
まあ、無理もない。そう考えた彼だが、一言だけ言っておく。
「気づかなかったんですか?」
タカトシの問いかけに、カエデが身を起こした。涙目になり、顔も首筋まで真っ赤だ。
「…………………………はい」
無念そうに、カエデは頷く。
「お風呂場がある、としか友達から聞いていなかったものでして……」
なるほど。何かの拍子で、話を途中までしか聞いていなかったという事はよくある。彼女も、ご多分に漏れなかったというわけだ。
「と、とにかく!」
無理やり話を戻す。どうにかして会話の主導権を奪おうと必死になっているらしい。
「津田君が言った事、きちんと証明できるんですか!?」
「混浴の露天風呂に入っていた事の証明ですか?」
「違います! あなた達が男女で外泊をしているなどという不埒な事です!!」
天然な返しをしてしまったタカトシに、さっきとは別の意味で顔を赤くするカエデ。
「……言ってはおきますけれど」
「な、なんですか」
ふと、雰囲気が変わったタカトシに、カエデは僅かに後ずさりする。彼が真剣に反論をしようとしている、と彼女は何となく思ったのだ。
「先ほども説明した通り、俺達はやましい事など一切してはいません。どうしてもと言うのなら、俺の目をちゃんと見ていってください」
椅子から立ち上がり、カエデの目をしっかりと見て言う。その視線は、相手の恐怖症への遠慮など一欠けらもない。
当然である。自分だけではなく、会長達の名誉がかかっているのだから。
「なぜ、目を逸らすんですか?」
「……そ、逸らしていません。私だって、洞察力には自信があるんです」
「だったら、俺の目を見てください。そんな逃げ腰にならず、しっかりと」
「の、望むところです」
再び先ほどとは違う意味で、顔を真っ赤にするカエデ。しかし、今度は彼女も目を逸らさない。
「……」
「……」
静かにカエデの目を見るタカトシと、口を貝のように閉ざしながらも目だけは逸らさないカエデ。当人たちにとって、とてつもない緊張が走り続ける数分間。
「……っ」
結局のところ、根を上げたのはやはりというかカエデであった。露骨に顔を逸らし、羞恥とほんの少しの悔しさを噛みしめる。
「わかりました……嘘は言っていないようですから。あなたの言い分を信じます」
「そうですか。ありがとうございます」
「……」
途端、パッと明るい笑顔でお礼を言うタカトシ。何となく負け気分になるカエデ。
「ただし、津田副会長」
「はい?」
これだけは譲れないという口調で、カエデは言う。
「今後、本当にやましい行動をとるような事があったら、その時は覚悟してくださいね」
「しませんよ。そんな事」
「そうある事を願います」
ムスッと頬を膨らませて、休憩室から廊下へ続く出口へ向かおうとするカエデ。そこで、タカトシは慌てて声をかけた。
「い、五十嵐先輩。そっちは出口ですけど」
「ええ、そうですよ。もうここにいる理由はありませんし。大浴場の場所も教えていただきましたので、そちらを使いたいと思いましたから」
「いえ、そうではなく……脱衣所に着替えが残っているんじゃ?」
「あ」
しまった。着替えを脱衣所に残したまま出るところだった。どうやら緊張の連続で、すっかり平常心を失っているらしい。
おまけに、今の彼女はバスタオル一枚の姿だ。タカトシが気を利かせて身体に掛けてくれた予備の浴衣は、自分が立ち上がった時点で床に落ちている。
羞恥で、再び顔を真っ赤にするカエデ。こればかりは、気づけなかった自分が悪い。彼は自分を介抱してくれていたのに。
「し、失礼しまし……」
慌てて床に落ちている浴衣を拾おうと、身を屈めるカエデ。
「あ、俺が……」
そこを代わりにタカトシが拾おうとしたところで――――
ハラリ、と。
彼女の身体に巻いていたバスタオルが、床に落ちた。
【カエデとタカトシ3】
「ふむ。確か、この辺りだったはずだな」
旅館の廊下を歩くのは、天草シノ生徒会長。浴衣を身に付け、着替えを手にしたまま心なしか忍び足。
混浴風呂があると聞いて、いてもたってもいられなくなったのである。もしや、男女のアレな光景が見れると期待して。何とも彼女らしいと言えば彼女らしい理由であった。
「お、あそこか」
白い壁の廊下の先には、ゆと書かれた暖簾が確認できる。間違いない。
心なしか、心臓がドキドキする。まるで道端に落ちているエロ本をこっそりと読む小学生男子のように。
あと、5メートル。もう少しで、場合によっては桃源郷の入り口かもしれない場所へ近づこうとしている。
と、そこで――――
「きゃああああああああああああああ!!!」
「おわっ!」
仰天するほどの悲鳴が、風呂場の中から発せられた。暖簾を潜り抜け、中から姿を現したのは……シノもよく知っている少女だった。
「い、五十嵐っ!?」
「いやあああああっ!!」
突然、同級生が姿を見せた事に驚くシノ。なんだ。なぜ、風紀委員長がここに?
それだけではない。彼女はなぜか浴衣一枚の格好で、しかもひどく乱れている。そのため、彼女が下着をつけていない事が一目でわかってしまった。
顔を真っ赤にし、目には涙を流している。流石に只事ではないと直感したシノは、彼女を呼び止めようとした。
「お、おい五十嵐! いったい何が……」
五十嵐は返事をしない。というか、シノの存在にも気づかないまま、反対方向の廊下の奥へと走り去っていく。あっという間に姿が見えなくなった彼女に、シノは呼び止めるそぶりを見せたまま、その場に立ち尽くすしかすべがなかった。
呆然と立ち尽くす。いったい、この混浴の露天風呂で何があったのだろうか。
「……」
戦慄と共に、シノはゆっくりと露天風呂への入り口を踏みしめる。さっきまで桃源郷だと思っていた場所は、実はとんでもない魔境の入り口だったのではないだろうか。
暖簾をくぐった先は、脱衣所ではなく休憩所だった。その場にいたのは……
「……あれ、会長?」
津田タカトシ1人だった。手には、女性の身体を包めるほどの大きさのバスタオルが1枚。
「……」
顔を引きつらせ、シノは沈黙した。
そして、その夜。
女子生徒達の要望によって、タカトシは彼女たちから離れて寝る事になったという。
追い出されなかっただけマシだよな。タカトシは、そう自分に言い聞かせるのであった。
【カエデとタカトシ4】
朝日が街中を照らす頃。生徒会役員達は目を覚ました。
女性陣は朝のシャワーを浴びるために大浴場へと向かう。その間にタカトシは着替えを済ませ、顔を洗った。
眠気が取れたタカトシは、時計を確認する。時間は、6時25分。旅館を出発するのは、7時30分のはず。
帰る途中で、お詫びの意味も込めてナルコが朝食をおごってくれると言う。タカトシたちは、遠慮なくそれを受ける事にした。
時間が、中途半端に残っている。なんとなく、このまま部屋で時間が過ぎるのを待つのは勿体ないという気がしていた。
財布と携帯電話をポケットに入れ、部屋を出るタカトシ。最後に、海の近くでも歩いてみようかという気になったのだ。
フロントに外出する旨を伝え、外の空気を浴びる。程よい暑さが、今の季節を物語っていた。
ここからなら、海までは歩いて10分程度で到着できる。海岸線を歩いていれば、いい暇つぶしになるだろう。
早朝とはいえ、ジョギングの老人や散歩中の犬を連れた若者とすれ違う。空は晴天。強い日差しなのだが、なんとなく悪くないと思えてしまう。
しばらく無言で歩き、たどり着いたのは青い水平線。昨日あれほど戯れた海は、今も相変わらず自分を歓迎してくれた。
やっぱり綺麗だな。素直にそう思う。
潮の香りがする風を浴びつつ、海岸線を歩き続けるタカトシ。
と、そこで少し離れた場所に1人の少女が立っているのが分かった。
女の子は、ジッと立ったまま海を見続けていた。自分に気づいた様子はない。
五十嵐カエデ。
昨日、あんなに迷惑をかけてしまった少女が、そこにはいた。潮風に吹かれて、彼女の三つ編みの髪が揺れている。
彼女も、散歩をしていたのだろう。荷物を持っておらず、ワイシャツにズボンという格好をしている。
気が付くと、一歩足を踏み出していた。何となく、このまま去るのもどうかと思えたのだ。何より、自分はまだ昨日の事を謝っていない。
「五十嵐先輩」
「っ!」
ビクリと肩を震わせ、ようやく彼女はこちらに気づく。
「津田、副会長……」
思わず顔を向けた先には、彼女が誰にも見せた事のない肌を見せてしまった人物。
カエデは反射的に身を引こうとするが、タカトシは近寄ろうとする。
昨日の事は、顔から火が出そうなくらい恥ずかしかった。男性恐怖症という事を差し引いても、健全な乙女ならば到底容認できない出来事。
昨日の夜は、ほとんど眠れなかった。目を閉じると、風呂場での出来事が頭をよぎってしまうので。
コーラス部のみんなは、まだ眠っているだろう。みんなも、それなりに疲れているのだ。今の時間、起きて外に出ているのはカエデしかいない。
だからこそ、少し落ち着きたくて散歩をしていたというのに。
なのに、この場にはよりによって悩みの原因である男が姿を現した。彼女の心臓が、音を立てて鼓動する。理由は羞恥か、恐怖か。
何か言わないと。カエデは焦り、碌に考えずに言葉を吐く。
「何か用ですか……」
結局、出た言葉はそれだけだった。我ながら、拒絶しようとしているのが丸わかりだと内心で思う。
それでも、生徒会副会長はめげる様子を見せなかった。2歩程度の距離を取って、タカトシは言う。
「いえ、ちょっと五十嵐先輩に言っておきたい事があって。会えてよかった」
「言っておきたい事?」
「まずは、謝らせてください。昨日の事、本当にご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
軽く頭を下げるタカトシ。
「ただ、言い訳みたいになっちゃいますけれど、ただ倒れた先輩を放っておけなかっただけなんです。あんな事になってしまったのは本当に不可抗力で……」
「……いえ、私の方こそ」
「え?」
震えているカエデの呟くような声に、思わず顔を上げる。
「分かっていますから。その……バスタオルの事は……本当に、自然と取れてし、しまっただけだと……」
口にするたびに彼女の頬が朱に染まり、俯いてしまう。
「だ、だから……その話は、これで止めにしましょう。元々は、貴方が倒れた私の面倒を見てくれていただけですので」
何度かつっかえながらも、最後までそう言い切ったカエデ。それは、つまり許してくれるという事なのだろうか。
「あ……ありがとうございますっ!」
今度は、勢いよく腰を深く曲げてお礼を言う。今の彼にできる、精いっぱいの感謝であった。
「い、いえ……」
目を背けながらも、困ったように返事をする風紀委員長。そんなに、自分の事を気にしていたのだろうか……?
「よかったぁ……このまま嫌われたまま夏休みを過ごしていたら、2学期にどんな顔をして会えばいいのか分からなかったんです」
「あ、あはは……まあ、次に会うのは夏休み明けでしょうし」
確かにそうだ。謝罪をするなら、今しかない。休み明けに言われたとしても、その時には彼女はタカトシの事を覗き男と評価を固定したままになっていただろう。軽蔑や無関心を心に抱いて、学生生活を続けていたのかもしれない。
「そうですよ。実は、今日の7時半に旅館を出るんです」
「あ、そうだったんですね。私は、明日の朝に合宿が終わるんです」
「昨日は、どんな練習を?」
「午前中は自由時間の後に軽い勉強会を。午後は浜辺に部員が揃って、課題曲の訓練でした」
「こちらは、親睦を深めるための海水浴でしたからね。でも、色々とあったったんですよ。遠泳をしようという話になった時に、俺たち萩村に追い掛け回されて――――」
「それは、皆さんも悪いですよ。でも――――」
時は、穏やかに過ぎる。
わだかまりが消えた2人の笑顔は、どこまでも楽しそうだった。
つづく