されど神に祈らない   作:アグナ

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神無き人

 ―――宗教とは何か?

 

 神学者パウル・ティリッヒは「究極的関心である」と言った。

 

 神学者フリードリヒ・シュライアマハーは「絶対依存の感情であり、神と言う無限に対する憧れである」と言った。

 

 社会学者エミール・デュルケームは「同じ道徳的共同社会に帰依する全ての物を統合させる信念であり行事である」と言った。

 

 宗教……その呼び名は様々だ。宗旨・宗法・宗門・教門・聖道など古くは様々な呼び方で呼称されていたものの、今では一括りに宗教と呼ばれる。こと、日本。世界初の無差別化学テロが近代によって起こったかの地ではその首謀者たちが正に宗教組織であったことから並々ならぬ宗教への忌避感を持ち得るが、世界的に見ても寧ろ、何らかの宗派に属していない方が珍しい。それほど、宗教とは世界的に見て当たり前のものなのだ。

 

 三大世界宗教を中心に民族宗教・新宗教と神を奉じ、教えを説く一派はとても多く存在している。無宗教、というのはある意味、貴種であるといよう。かくいう日本も口々には無宗教と謳いながらも占い、墓参り、初詣と神事に関わる行事には参加するし、例えば学生身分の人間ならば大切な試験を前に神社や寺に祈りを捧げる。

 

 そも信仰とは何も明確な神と厳粛な教えがなければ成立しないものではない。信ずる対象が居り、その心にささやかな感謝と祈りを抱いて、神前に立てばそれはもう宗教であるといえよう。そこに同じ神と同じ祈りを宿すものが集えば宗教となる。

 

 言ってしまえば、信ずるものと祈りの心さえ持ちえればそれは既に信仰と呼べてしまうのだ。ゆえに無宗教、というのは本当に貴種である。人間は弱く、それゆえに何かに縋りたい。大切な勝負や大切な日に神なる己の上を往くにものに頼るのはある意味正常で、寧ろ神を信じず一人で地に足を付ける無頼漢こそが以上であるといえる。

 

 さて―――世間一般において宗教とはまず○○教とあり、その教に対する教え、即ちは聖書と言うものが存在し、それを守り、神に祈りを捧げるもののことを言うが、聖書とはそもそも何であろうか? 無論、答えは明白だ。信ずる者にとっての教えであり、神に接するための所作である。だが、万人が万人同じ宗教を心に宿しているわけでもなく、すると、一重に聖書といっても違う見方をする人間も現れるだろう。

 

 宗教学。という学門が存在する。これは神学・教学・宗学という信仰者の立場から研究を行なう学者と異なり、宗教の歴史・教理を客観的な観点から研究するという学門である。「特定の信仰に依存しない」という彼らは聖書に対して別の見方を持っている。

 

 ―――即ちは「聖書とは倫理であり、哲学であり、教科書であり……歴史である」と。

 

 

*

 

 

「きゃああああああああああああッ!!」

 

 

 その悲鳴を聞いて、彼は舌打ちと共に目覚めた。時刻は午後、被労働者側の人間としての疲れを癒すため、エジプトの民達の目を縫って、昼寝をしていた彼……アロンはもう一度まどろみに浸かりたい欲を振り払い即座に()を向ける。

 

 ここから四軒ほど家屋を跨いだその先に押し倒される女と欲情に眼を血走らせる男を視て、アロンはため息と共にガリガリと頭を掻く。全く、日々を奴隷が如く過ごすストレスを発散するにしても別の手があるだろうに。

 

「獣じゃあるまいし」

 

 立ち上がり、昼寝していた家屋から飛び降りる。距離はそんなに無い。女性も女性で抵抗しているのでアロンが彼らの前に立つまでの時間には十分間に合う。つまり、助けられるということだ。

 

「チッ、しゃらくさい。もっと遅くに気付けば良かったのに」

 

 そうすれば助けに行かずに済んだ。などとおよそ人でなしな発言をしながらアロンは歩みだす。近辺には自分らヘブライ人を監視するエジプトの人間が居るはずだが……ふと微かな興味で()を向けると街の近郊で魔獣相手に大立ち回りしている監視兵たちが目に付く。

 

「成る程。奴隷間の性暴力よりもそりゃあ街守る方が遥かに重要だわな」

 

 肩を竦めながら、歩いて一分も掛からずアロンは現場に辿り着いた。およそボロ布のような衣服を欲情する暴漢によってさらに乱された女性は目じりに涙を浮かべながら未だ決死の抵抗をしていた。その、決死の抵抗が男の加虐心煽っていると気付かずに。

 

「はあ、おい!」

 

 いよいよ疲れたようにため息を吐きつつ、張りのある声で二人に声を投げる。女は天からの助けを見た様に、男は獲物を前にハイエナを見た肉食獣のようにアロンに眼を向ける。

 

「日が出てる内から騒々しい。夜やるか余所でやれ、たわけ」

 

「あぁん! んだよてめえ!!」

 

「聞こえなかったか。失せろ、と言ったのだ。今、俺は虫の居所が悪い。大人しく去るなら追わんが、このまま続けるなら相応の八つ当たりを受けると知れ」

 

 粗野な言い回しはとても女性を助ける正義漢には見えない。寧ろ、縄張りを侵されたチンピラのような言い方だ。女性は若干、顔を引き攣らせており、他者からどう見えるか如実に示している。そしてその言い回しは事態を沈下させるどころか火にガソリンを注ぎこむようなもので。

 

「テメエ! ガキがふざけんじゃねえッ!!」

 

 獲物を前に邪魔された挙句、自分よりも十は下の子供に煽られたように聞こえたであろう男を激怒させる結果となった。女性を乱暴に投げ出し、だらりと脱力したまま面倒くさげに立つアロンに殴りかかる……だが、

 

「遅ぇ。ま、女相手に時間掛けてることからお察しだが」

 

「な、っと!?」

 

 振り被り、下ろした拳は目標を捕らえず。男は前のめりに倒れ掛かる。ひらりと呆気なく拳を回避し、簡単に懐に入り込んだアロンはそのまま。

 

「大方、日々の鬱憤を晴らしたくなった馬鹿ってところか? 小物だな」

 

 ふん、とそのまま男の腹部に容赦の無い膝蹴りを入れる。

 

「おぶ!」

 

「どうせ暴力をぶつけるなら普段、見張りと称して女を選んでアレやこれやをしてる監視官共にやれ、感謝されてヒーロー気分で万々歳だろうよ。もっとも? それやった瞬間にその場で首落とされて終わりだろうが?」

 

「ガッ!?」

 

 鳩尾に予期せぬ一撃を貰い、腹を抱えてへたり込む男に容赦の無い頭蓋へのかかと落とし(追撃)。アロンが巧いのか男が貧弱なのか綺麗に脳を揺らされた男はそのまま意識を失う。対するアロンは「石頭、石頭」などと入ってぷらぷらと振り下ろした右足を振っている。

 

「あ、あの~……」

 

「あ? まだ居たのオタク。失せろ、といったはずだぞ? まさか聞こえなかったのか。別に俺はアンタを助けに来たんじゃない。ご近所トラブルを沈め(・・)に来たんだ。終わったし振り払ったし、ようも済んだし感謝も要らん。とっとと消えろ」

 

「あ、ありがとうございますぅ~!?」

 

 凄まじく不機嫌で目つきの悪い目で睨まれた女性はわたわたと悲鳴染みた感謝を叫びながら走り去っていく。その背中を見送って、三度アロンはため息を付いた。

 

「……これで何件目だ?」

 

「三十四件目! いや~、相変らずツンデレさんですね! 弟くんは!!」

 

「居たのかよ。姉貴」

 

「いやん、お姉ちゃんって呼んでよ。弟くん!」

 

「死んでもゴメンだ」

 

 如何にも面倒くさいそうな奴が来たとばかりにゲッソリするアロンにやけにテンションの高い女性が絡む……アロンの姉たるミリアムはくるくるくるくるとダンスでも踊るようにその両手に弟を抱えながらステップを踏む。

 

「止めろ、離せ、鬱陶しい。後、普通に眼が回る」

 

「人助けをした弟くんに御褒美さ!」

 

「これの、何処が?」

 

「お姉ちゃんの胸に抱かれる! わお、嬉しい!!」

 

「……貧相なむ」

 

「あ゛!?」

 

「見麗しいお姉さまに抱かれて僕幸せですー」

 

「うんうん、いいよいいよどんどん幸せになりたまえ!」

 

 若干、弟の性格に似つく顔も浮かべながら天真爛漫、傍若無人に振舞う様はベクトルはどうあれ、我が道を行くアロンに何処か通じるものがある。成る程、確かに彼と彼女は姉弟であった。そして、本当は……。

 

「てか、居たなら姉貴が助けてやれば良かっただろ」

 

「やーよ、というか無理よぅ。私だってか弱い乙女よ?」

 

「か弱い? ハッ!」

 

「鼻で笑われた!?」

 

「親父とモーセ(・・・)と俺を拳一つで制圧できる女を俺はか弱いとは呼べねえ。それをか弱いと呼ぶなら俺は女性不信に陥る自信があるね」

 

「ふふふ、姉に叶う弟など居ないのだ! だからお姉ちゃんは弟くんたちには強いけど他の、特に暴漢なんかを目の前にしたらただのか弱い乙女なの」

 

 よよ、と泣くミリアム。

 

「だったら親父は」

 

「さあ帰ろう! どうせ、今日の労働はもうサボりでしょ? なんでかしらないけど弟君は人の眼を躱すのが異常に巧いからねえ」

 

「聞けや」

 

 我が家で最も権力が無い寂しい背中の中年に若干の憐れみを覚える。

 

「さあさあ行こう。すぐ帰ろう! 帰って家族の絆を確かめ合おう!!」

 

 うっきゃあーと相も変わらずテンション高めなミリアム。騒ぐのは一向に構わないが自分を抱えたまま騒ぎまわるのは勘弁してくれと内心思いつつ、アロンは姉の本心を察して何も言わない。代わりに、

 

「ならさっさと帰るぞ。回され過ぎて本格的にキモチワルイ」

 

「あ……」

 

 姉の手を取り、先導する。

 

俺はここに居る(・・・・・・・)。だから安心しろ。そして帰るぞ姉さん」

 

「ッ……うん!」

 

 アロンの言葉に一瞬、ミリアムは呆けて、次いで自己申告の通りの、本当にか弱い顔を浮かべた後、その痕跡の一切を拭い去るようにしていつもの、天真爛漫な姉に戻る。

 

「ありがとね」

 

「……何のことだか分からん」

 

「ふふっ、ツンデレさんツンデレさん」

 

「止めろ突くなウザイ」

 

 

………

……………

…………………。

 

 

 紀元前1300年。其は未だ神代。神と人とが極めて近かった時代である。これよりも遥か千年と少し前に偉大なる「人の王」によって人類は神との明確な別離の運命と背負っているが、未だその息吹きは色濃く、神秘の色も文明の誕生と共に薄れ始めてるとはいえ、健在。預言者や救世主の存在がそれを証明している。

 

 ヘブライ人の少年アロンが生まれたのは正にそんな時代であった。ヘブライ人、人類最初の預言者「信仰の父」によって導かた流浪の民の名である。オリエント地方に絶大な力を持つ帝国を築き上げたバビロニアの民族の弾圧から逃れ、約束された地を目指した放浪の一族であり、一神教という新たな信仰の形を構築したものたちでもある。

 

 「信仰の父」によって彼らは神に与えられた約束の地を目指した。とはいえ、その道中は過酷極まり、道半ばで倒れるもの、民族から離反するもの、逸れるものと脱落者が少なからず出た。そしてその脱落者こそが他ならないアロンを含む現在のエジプトに存在するヘブライ人たちである。

 

「つっても奴隷も同然の身分だが」

 

 エジプトの民草の労働を代理するもの。実質の奴隷が今のエジプトに居るヘブライ人の現状であった。現在にファラオによって発令された「ヘブライ人男児抹殺令」など、まさにヘブライ人が被支配者であることを示した一例といえよう。

 

 そしてミリアムが家族に対し過剰とも言える親愛を向けることこそ、この「ヘブライ人男児抹殺令」に関わるものであった。というのも少し前に生まれた我が家の末っ子、モーセもまたこの男児抹殺令の対象となったのだ。

 

 暫くは何とか隠し、育てていたが外の眼は厳しく、日ごろの鬱憤をため常に弾圧の対象を探している同族も全く頼れない。ゆえに身を斬る思いでついに母はモーセを川に流し、捨てた……しかし我が姉はアレで極めて賢い。彼女の機転によりなんと、モーセはエジプトの現王女、ファラオの娘に拾われ養子として引き取られた。

 

 現在は言葉巧みに誘導したミリアムのお蔭で乳母という立場だが、母はモーセの元に居ることが出来ている。まあ、その所為で今家にいるのは自分と姉、それから家庭内立場の無い父だけなのだが。

 

「運命とはホント、クソだな。神も、何もかも」

 

 モーセの生存はまさに賢姉が起こした奇跡のように思える。家族を思うその心がモーセを生かしたのだ―――などといえたらどれだけ幸せなのだろうか。

 

 偶々、川の下流でファラオの娘。エジプトの王女が水浴びをしていて。

 偶々、彼こそ幸運の子であるなどと我が姉はとっさの機転を利かせて。

 偶々、モーセはその命を拾った。まさに家族を思う姉が起こした奇跡。

 

「なわけねえよ。クソが」

 

 偶然は二度も三度も続かない。であれば何故、弟は生き残った? 答えは明白だ。我が弟はここで死すべき人間では無かった。それに尽きる。

 

 モーセにはやるべきことがある。受難の民を救い。最初の預言者の意図から外れた民をもう一度約束された地に導くという先導の役目が。都合の良い神の代行者、預言者として彼らを救済するという役目が。ゆえに奇跡ではない。彼の生存は必然だったのだ。

 

「かくあれかし、ってか―――ハッ、クソったれ」

 

 『虹』の瞳で虚空を見据える。遥か彼方、遠い何処か、神を謳い、人を玩弄するクソを見て、アロンは罵倒を口にする。

 

 意に沿わぬ人。というのはこの時代において極めて少ない。神の被造物としての名残が色濃い人々は未だ支配者、神の名の元に多くが彼らに帰属している。ゆえに王国の王族どもはその見に流れる神の血を強調し、己の国の技術を悉く奇跡と謳い、異能者を保護して参加とし、彼らの奇跡を顕示する。

 

 偉大なる「人の王」によって両足で立つことを覚えた人間である者の、その知恵と理性は獣に近い。先刻、アロンが女性を助けた事例がそれこそごまんとある現状がそれを物語っている。遥か先、文明の行き届いた極めて完成に近い人間には縁遠い話であろうが、ようは倫理観が薄いのだ。アレをしてはいけない。これをしてはいけない。そういった社会を成り立たせるための無意識下のルール、倫理。

 

 獣に近く、未だ獣性を飼いならしきれて居ない人間。だからこそ、神に帰属する必要があり、神に支配される必要性があった。聖書とは正にそれ、神が人間にも分かりやすいように倫理を説いた教科書である。

 

 そして―――より完成し、それの完成を神が後押しすることによってその信仰を絶対にしようと目論むものこそ、アロンを造り(・・)、モーセを選んだ。神を語る俗物である。ゆえにモーセはまだ死ねない。まだ死なない。彼が死ぬ時は役目を果たした時。受難の民を導き、役目を全うしたとき、彼は神の信仰を絶対とするために殺される。

 

 偶像崇拝を許さぬ一神教において神を語る化身は在ってはならず、他の神の存在も無論許されない。本人が意図せずともその器足り得るモーセはどうあっても死なねばならないのだ。神を絶対とするために。だからこれは既に決まっている。モーセは約束された地にたどりつけても入れず、神の怒りを買ったがゆえに殺されると。

 

「本当に、誰が考えたのかってぐらい悪辣なシナリオだ。遠き日の英雄王が神を嫌う理由が何となく分かる。今ならトモダチになれそうな気分だ」

 

 偉大なる「人の王」は何故、神と人とを区分したのか。その真意、愚者である己には皆目見当など付かないが恐らくは人を信じただけではあるまい。嫌ったのは神の性根か。或いは……。

 

「考えても意味の無いことか。どうせ、まだ星が動く時は遠い。今はまだ、ただの平凡な家族をやるさ。じゃなきゃ、姉さんが報われないって」

 

 『虹』の眼を閉じる。『代行者』としてのアロンは眠り、ミリアムの大切な弟であるアロンに眼を覚ます……まったく滑稽極まりない家族ごっこだ。

 

「でもまあ、気に入ってるし。このまま、続けばどれだけ幸せか」

 

 叶わぬ星こそ、いと美しい―――過酷で、喜劇役者が如く演者として定められた大切な弟と運命に遊ばれる姉を思い、アロンは静かに瞑目した。

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