頬に、不思議な感覚を覚えた。柔らかい何かが、自分の頬をしきりに突っ突き回っている。ぼんやりとした意識のまま、むずがるように顔を背けるが、正体不明のそれは、その仕草をあからさまに面白がる気配を纏って、しつこくついて回ってきた。やがて何もかもがひどく鬱陶しくなって、乾巧はレスポンス無しで目を開けた。
そこには、常識外れた世界が広がっていた。
艶やかな桃色が視界の隅々を覆い尽くし、その中天に座しているのは、琥珀色に塗れた満月。鼻腔に漂うのは、顔を思わず顰めてしまうほどむっとした、滴るような女の臭い。寝起きの頭痛に歪んだ視線を空とかち合わせた瞬間、巧を見下ろす満月が、溶けてしまいそうなぐらい、滑らかな半月を描いた。
「――随分遅いお目覚めじゃない。ま・す・た・あ?」
「――おまえは」
ぼんやりとした意識が、覚醒と同時にゆっくりと焦点を合わせていき、やがて桃色の幕が垂れ落ちる髪の毛で、満月は見つめる眼球だということに気づく。無理やり起こされて憮然とした巧の様子に、恋多きコノートの女王――メイヴは、くすくすと悪戯を成功させた童女のような無垢な微笑みを浮かべた。圧し掛かってくる肢体はシルクのように柔らかく、かすかに触れ合っている皮膚の下には、男の情動を煽る色気がはち切れんばかりに押し込められている。だが、想像を絶するほど鈍感かつ唐変木な巧に、女の行動に含まれた意図が分かるはずもなく、ただひたすらに迷惑そうな面を晒していた。それを見たメイヴの顔が、愉快そうに歪んだ。
「ダメじゃない、こーんなに隙だらけの格好してちゃ。ちょっと目を離したらふわふわ消えちゃいそうな貴方が、こんなに無防備になってるのを知ったら、あの三人組が黙ってないわよ?」
「いいから、どけ。邪魔だ。重い」
「あら、女王にそんな口利くなんて、フケイ、ってヤツね。打ち首、獄門、晒しちゃおうかしら」
「勝手にやってろ」
素っ気なく吐き捨てられた言葉にメイヴは面食らい、やがてふふふと、とうとう堪え切れなくなった笑いを零した。あまりにも似つかわしくない無邪気なその笑顔に、嫌な予感が巧の背筋を走り抜けた。
「何がおかしい」
「だって、わたしはコノートの女王。無数の勇士達と情を交わして、伝説に残る戦争を興した女なのよ? それなのにあなたったら! わたしが召喚されてしばらく経っても、ずーっとしかめっ面の無愛想で、そのうえ、素っ気なくて乱暴で猫舌のまんま! ――これがおかしくないわけないでしょう?」
「……猫舌は関係ねえだろ。何の用も無いんなら、いい加減どけ」
蠱惑的な女の気配に微塵もたじろがず、巧は心底から鬱陶しそうな態度を貫いて、邪魔な荷物を押し退けるような手つきでメイヴの肩を押した。そのあまりの雑さに、さすがに頭に来たのか、殊更造った女の媚を纏って、彼女はふらっとしな垂れかかった。
「おいっ!」
「ふふっ、ほんっとにツレない男」
白魚のような細い指先が、何かを確かめるように、巧の胸板をつつ、となぞる。やめろ、と半ば怒声に近づいた男の声を無視して、メイヴは掌を広げた。分厚く、雄々しく、逞しい。さすがに、クー・フーリンやフェルグスとまではいかないが、それでも皮膚を透かして見える重ねられた年季は、並大抵の物ではない。巧自身はトレーニングとは一切無縁の人生を送ったが、争い続けた身体には、必ず闘争の痕跡が刻み込まれるものだ。
――優れた勇士、素敵な男を、あまねく自分のモノにしたい。
それは、英霊メイヴの霊基に深く刻み込まれている、拭いきれない癖のようなものだ。もちろんメイヴは自分のそれを悪癖などと思ったことは一度も無いし、聖杯にかける願いからもそれとなく知れるように、何度召喚されようとも、この根幹が揺らぐことは決してないだろうと思う。
そして、揺らがないからこそ。
――狂った朱色の槍を持つ男が。
――生涯振り向くことは無かった男の心を振り向かせた、自分ではない自分が。
否――違う。
自分に靡かない男の存在が、どうしても我慢ならないのだ。
ゆっくりと、メイヴの顔がにじり寄ってくる。巧は、なんとかして振り払おうと試みるが、いくら人間の進化系であるオルフェノクとはいえども、変身もせず、英霊相手に力比べで勝てるはずもなかった。それを無言の肯定と受け取ったのか、メイヴは頬に朱を走らせて、ん、とか細い吐息を漏らした。
「――おまえ、っな」
巧の顔、既に赤黒い。この状況に我慢ならず、渾身の力を全身に込めた瞬間。
「――――――え」
がたん、と何が落ちる音。
巧とメイヴの視線が、音の方向へ同時に重なった。そこには、凍ったように立ち尽くす、清姫の姿があった。からからと、床上で落とされたタブレットが、控えめに身体を揺らして抗議している。しかし、貴重な備品であるはずのそれすら気にならないほど、少女の意識は目の前の光景に、釘付けになっていた。
個室。男女が二人きり。片方が押し倒されていて、片方は頰を紅潮させている。
状況を理解するにつれて、ひくひくと口元を踊り始めさせた清姫を見て、メイヴは誰もが見惚れてしまう、満面の笑みを浮かべながら、巧の身体をそっと抱き締めた。
「なっ、なっ、なっ、ななな――――――」
様々な意味で、爆発する寸前。
今日は厄日でしかないと、巧は心の底から思った。
○
「そりゃあ、オタクが満場一致の有罪で閉廷でしょ。情状酌量の余地ナシ。罪状はさしずめ、女誑しの罪ってかい? ニクいねえ」
「待ちなよグリーン! 我らがマスターに、女誑しなんて器用なこと出来るわけないじゃないか。頑張っても、鈍感猫舌罪が良い落とし所だ」
「おっと、そりゃそうか。悪ィなマスター。オレはまだまだアンタを見くびってたらしい」
「殴られたいのか、おまえら」
表情に露骨に不愉快さを示した巧の顔を、炎に巻かれた薪が照らし出した。控えめに揺れる焚き火を突っ突きながら、緑衣を身に纏った弓兵――ロビンが控え目に告げる。
「大体ねえ。アンタが無防備に部屋ァ開けっ放しにしてたのがそもそもの発端でしょうが。腹空かせた肉食獣の目の前に、丸焼きにした肉を置くようなモンですって。せっかくあの別嬪な画家さんが用意してくれたもん無駄にした天罰っすよ天罰」
「ええっ、君鍵掛けてなかったの? 西部だったらやりたい放題じゃないか! そりゃ、マスターの方が悪いよ」
焚き火を囲むもう一つの影――ビリーは、大げさに両手を挙げて驚いて見せた。そのわざとらしい仕草に、巧の腹の中の苛立ちが掻き立てられる。
「だろ? まったく、我らがマスターは一体何考えてんだか。前の一件で学ばなかったのかねえ」
「ほんとに殴るぞ」
ぎろりと視線を向けた途端、二人は引き際を心得た兵士のごとく、そろそろと話題を撤回した。そして、荒野の夜に無言の時間が訪れる。三人は特段沈黙を苦にする人種ではなかったし、自然と、ぱちぱちと薪が弾ける音だけが、断続的に響いた。
あの後、思い出すも憚れるほどの面倒事が起きた結果、巧はほとぼりを冷ますために、素材集めを兼ねたレイシフトの刑を喰らっていた。シフトするたびに起こる、船酔いにも似たあの気持ち悪い感覚は苦手だったが、カルデアに残って死ぬほどめんどうな後処理をするぐらいなら、吐き気を覚えた方が幾分かマシだった。
なぜ、メイヴがあんな事をしでかしたのか。
今も巧には、全く見当がつかないでいる。まさか、生理だからというわけでもあるまい。そもそも、既に死した身であるサーヴァントに、生理などあるのだろうかと疑問に思うが、巧はそのうちめんどくさくなって考えるのを辞めた。どうせ、自分に女の気持ちなど分かるわけがない。ただでさえ、同居人の機敏にすら、鈍感を貫いていたのだから。
ただ、自分の圧し掛かっていた時の、あの瞳の微細な揺らぎだけが、妙に焼きついて離れない。
「――そういえば、知ってるかいロビン。特異点での僕達が残した記憶はね、召喚された僕達にとってほとんど他人事に近いんだぜ」
「へえ。ってこたァ、アレですかい? せっかく全てを賭けて、好きな男を振り向かせられたってのに、相手は覚えてないわ自分じゃない自分が意中の相手の視線を奪ってる記憶もあるわで、もう散々な女がいるかもしれないってわけか」
「さすがグリーン! 話が分かるねえ」
二人は身を寄せ合って、話の種を見つけた主婦のように、ぺちゃくちゃと盛り上がっている。火の番のために俯いているから見えないが、厭らしい笑顔が自分に向けられていると考えると、巧は今すぐなにもかもが木端微塵に爆発しないか、と切に願った。
「……あのな」
「おや、マスターも話に入りたいんですか? どうぞどうぞ。ケチなアーチャー同士のくだらねえ戯言ですが、寄ってってくださいよ」
「コイバナってやつだね! いやあ、僕そんなのとは無縁の人生だったから楽しみだよ」
巧、ひたすら渋い顔。それに気づきながらもなお、二人はぺらぺらと思ってもいないことを話す、清々しいまでの虚無の時間が流れ始めた。帰りたい。だが、カルデアには面倒事が待ち構えている。前門の虎、後門の狼。同じ獣ならどちらがマシか。
巧は、はああ、と深く長い溜め息をついて、鉛のように重い腰を持ち上げた。夜も深くなっている。ポケットに突っ込んでいたファイズフォンを取り出し、5821、と素早くコードを入力する。首を左右に振ると、ごきごきと鈍い音が鳴った。
ロビンが、予想と同じくニヤニヤと笑いながら、巧に問いかけた。
「小便ですかい?」
「野暮用だ」
用件だけ告げて、さっさと立ち去ろうとした巧の背に、ビリーが声を投げかけた。
「メイヴなら、ここを真っ直ぐ行った先にいると思うよ」
「――」
振り向いて、焚き火を見つめる小柄な背中を見た。突き刺さる視線にもたじろがず、かつて悪漢王と呼ばれた少年は、ひらひらと手を振った。
「今夜は獣のにおいがする。気をつけてね、マスター」
「――余計なお世話だ」
遠く響いた、エグゾーストノイズ。今度こそ巧は振り返ることなく、その場を後にした。
○
目当ての人物はすぐそこにいた。
バジンを走らせるまでもなく、歩いて数分の場所に、メイヴは何をするわけでもなく、一人で立っていた。茫漠と広がる夜の荒野を見つめる瞳に、乾いた月光が反射して、琥珀色の輝きが一層増している。巧は、黙ったまま数歩だけ近寄ると、真似るように押し黙りながら、同じく荒野に目を向けた。
「――もしかして、夜のお誘いかしら? マスター」
振り返りもせずに、言った。
「そういうガラじゃないだろ。俺は」
「それもそうね。あなたみたいな唐変木は、その仏頂面がいちばん似合ってるわ」
「馬鹿にしてんのか」
「褒めてるのよ? これでもね。女王直々に褒められるなんて、光栄に思いなさい!」
「アホか」
ばっさりと会話を切り捨てて、再びふたりは空を見上げた。寂れた風が、力強く吹いている。荒野の空に遮るものは何一つない。あるのは恐ろしいほどに輝く月と、無数に散りばめられた星屑の群れだけだ。天蓋のごとく空を覆い尽くすそれらに魅入られてしまったかのように、メイヴは微動だにせず、ただじっと空を見上げていた。巧は頭を掻くと、何を思ったか反転して近くのオ―トバジンに戻り、掛けてあった毛布をひったくると、メイヴの隣に並んだ。
意識さえ向けないメイヴに、巧は無言のまま、腕の中の毛布を差し出した。メイヴはほんの僅かに一瞥して、いらない、と呟いた。
「腹壊すぞ」
「他ならともかく、わたしはそんな無様晒さないわよ。それに、夜はわたしの時間なんだから――。……用件はそれだけ? だったら」
「あのな」
巧は、そこで言葉を断ち切って、幾分か柔らかい語調でゆったりと告げた。
「だったら、その腐った面をやめろ。鬱陶しい」
「――なに、それ。わたしは、別に」
突き刺さる言葉に呆然としたメイヴが、ようやく顔を向ける。が、既に巧は背を向けて、止められた鉄騎の元へ帰っていた。不意に伸ばしかけた手を、震えながら下ろす。一体、あの言葉足らずが過ぎるマスターは、何がしたいのか。メイヴにはわからなかった。下ろした手は、小刻みに震えている。それはきっと、北米の乾いた風のせいではないだろう。
――割り切っている、つもりだった。
今の自分ではない「メイヴ」が第五特異点の主だった頃。彼女は魔術王と名乗る男から、万能の杯――聖杯――を与えられたらしい。曰く、願えばどんな巨大な望みでも一瞬で手に入るという、垂涎ものの代物。けれどメイヴは誰もが手を伸ばすそれを、ただ金色に輝いているだけな杯としか思えなかった。元より全ての至宝は自分の物なのだから、聖杯とやらが自分の手にあるのも当たり前。それに、誰かの手によって叶う願いなんて、面白くも何ともない! わたしの願いは、わたし自身で叶えてこそ輝くのだから――。だからこそ、今のメイヴには信じられなかった。かつての自分が、あんな願いを叶えたことが。どんな気持ちで、「メイヴ」は無数の選択肢の中からそれを選んだのか。理解できなかった。自分の事は、自分が一番よく分かっているつもりなのに。
コノートの女王。永久の貴婦人。無垢にして清楚。淫蕩にして悪辣。この世全ての勇ましき愛を、手に入れられる女。
そして――たった一人の男に、とうとう生涯振り向いてもらえなかった、哀れな女。
逃れようのない毒が、じわじわと爪先から、全身に浸透していく。らしくないのは分かっている。だが、自分自身だからこそ、我慢できない物もあった。俯き、唇を噛んでいるメイヴの目に、長く伸びてきた光が、低い轟音を連れて来た。弾かれたように振り返ると、そこにはメットを被る己がマスターが、上げたシールドの下から、じっとメイヴを見つめていた。
「……なによ」
「乗れ。帰るぞ」
くい、と親指で後部座席を後ろ手で指して、男は何も言わずシールドを下げた。メイヴはしばし、透明な膜に映る自分と睨み合っていたが、やがて諦めて、雑に投げ渡された毛布を受け取って、唸る鉄騎の後部座席に座り込んだ。巧はそれを確認すると、スタンドを蹴り、グリップを握り込んで、アクセルを勢いよく開けた。
ごつごつとした岩道を、オ―トバジンのタイヤが噛み締める。切り裂く夜気は冷たく、羽織ったコートの隙間を通り抜け、巧の体温を剥ぎ取っていく。しばらく無言のまま、指定されたアクセスポイントに向かって走り続けていると、不意に背中が叩かれた。振り返らず、なんだ。と呟く。
「……ひょっとして、ずっとわたしの後ろにいたの?」
「そんなに暇じゃない」
素っ気ない男の返事から、メイヴはようやく、目の前の男が、弱音を吐くまいと堪えていた自分を、じっと見守っていた事に気づいたのであった。自分の恥部を見られたような感覚に、メイヴは頬を赤らめて、勢いよく巧の背中を引っ叩いた。いてえ! と響いた叫び声など無視してやっても構わない。相手はクー・フーリンでもないのに、まさか自分のあんな姿を見せてしまうとは。
つまり、一生の恥でしかなかった。
それなのに、男は不器用なまでに、知らない振りを突き通そうとしてくれている。それが何故か無性に恥ずかしくもあり、恨めしくもあり、――嬉しくもあった。
「―――もおっ! この、ばかっ! 大ばかっ! 無愛想っ! 猫舌っ!」
「暴れんなっ。振り落とされてえのかおまえはっ!」
べちべちべち、と目の前のヘルメットをメイヴが叩く。巧の頭が、怒りに震える。しばらくしてから、女の甲高い笑い声があたりを包み、そこに男の憮然とした文句が重なって、それらすべてを低いノイズが持って走り去っていく。
目撃していたのは月と、星屑と、荒野の風。二人と一騎はそれに気づかず、ぎゃあぎゃあ叫びながら疾走し続ける。
何処までも遠く、残響が鳴り響いていた。