咆哮と同時に、肉厚の刃がファイズエッジを吹き飛ばした。
じん、と重苦しい衝撃が腕を伝わる。舌打ち。得物を失った巧――ファイズを、獣人の剥き出した粘っこい悪意が包み込む。横殴りに振るわれた鈍器をぎりぎりで躱し、がら空きになった脇腹に、左のフックを叩き込んだ。分厚い肋骨を折る鈍い音が、拳を伝わって骨を這い上がる。しかし獣人は怯まず、下段から、掬い上げる一撃。かろうじて反応した反射神経が、倒れ込むように身体を仰け反らせた。
凶悪な風音が目の前を通り過ぎたと同時に身体を引き戻し、体毛に覆われた肩を引き寄せ、鳩尾に膝をぶち込む。苦悶の声と同時に吐き出された反吐を避けず、突き出された顔面に、追撃の右。豪速で振るわれたそれは、降伏の意思を示す事すら許さず、獣の頑丈な顎を打ち砕き、鋭い牙をへし折った。
思ったよりも鈍い手応えに、後一歩だと判断し、ファイズはバックステップ。痺れる右を軽くスナップしながら、意識と戦意を失い、心体共に揺れている敵の土手っ腹に、容赦のない蹴りを入れた。内臓ごと潰す気で放った一撃は、完膚なきまでに、相手の戦闘能力を叩き潰した。
崩れ落ちた敵を最後まで見ず、ファイズは更なる敵を求めて、刃矢が飛び交う戦場を駆け始める。
「は、はは、ははははは――!」
流れる視界でふと目についたのは、煮え滾る炎で獣人の群れを焼き払う、漆黒の甲冑を纏ったサーヴァント――竜の魔女、ジャンヌ・オルタの姿だった。嗜虐の哄笑を奏でる少女を、見なかった事にしようとして、思わず動きを止める。背後に微かに見えた、弓をつがえる獣の姿。猶予はない。ファイズは、足元に落ちていた取っ手の折れている槍を蹴り上げると、束の間宙に浮かんだそれを掴み取り、ロクに前も見ずに投げ放った。
人智を超えた膂力を生み出すフォトンフレームが、単なる一投を高速の銃丸へと変貌させる。即席の弾丸は、ジャンヌの耳元を掠めていくと、一直線に敵の喉仏を刺し貫いてみせた。
「……」
断末魔と共に大量に噴き出した血液をモロに受け、ジャンヌの白銀の髪が、鮮やかな紅色に染まっていく。やがて突き刺さる、抑えきれない激怒の視線。常人なら血管が沸騰したのち粉々にブチ切れかねないその視線を受けてなお、巧は、鋼鉄の仮面の下で、どこ吹く風といった面をしていた。良い度胸である。
ジャンヌはぷるぷると口端を震わせながら、どうしても我慢ならない存在を目の前にしているような、憤怒の表情を浮かべていた。
「アンタ――さっきのわざとでしょ」
「気のせいだろ」
木を鼻で括ったような巧の言葉に、ジャンヌは青筋を立てつつ、抑制するような口調で話し続ける。
「へえ。という事は、顔のすぐ真横を狙った事も、声を掛ければ済んだのに槍投げてきた事も、ドロドロの血塗れにした事も。全部、わたしの気の所為ですか」
「ああ」
巧、ひたすら適当な返事。ぷつん、と何かが切れる音が、唐突に響く。
臨界点を越えたジャンヌは、万人が見惚れるような、聖女の如き微笑みを浮かべた後、
「――ンな訳、無いでしょうがっ!!」
ほとんど無拍子で放たれた旗の横薙ぎが、後方からファイズに飛びかかろうとしていた獣人の脇腹をしたたかに打ち据えた。衝撃に堪らず標的が地面へ叩きつけられる瞬間、振り向いたファイズの蹴りが顎を捉え、再び宙に浮かんだ死に体を、ジャンヌの上段からの振り下ろしが迎えた。
間髪入れず、激しい殺気。無言で飛び退いた瞬間、二人が今居た場所に、鉄矢の群れが降り注いだ。野生の獣人には有り得ない、明らかに組織立った行動に訝しむも、ひたすら降り注ぐ矢の雨が思考をこそぎ落としていく。避けながら、彼我の距離を推察。一方的にやられるのは、一番気に喰わなかった。
だからこそ、
真正面から、潰す。
ファイズは即座に態勢を立て直したと同時に、ろくな防御もせず、弾丸のように低姿勢で駆け始めた。一歩踏み出すごとに、弾かれた土塊が宙を舞い、黄金に光る眼光が歪な流線を刻む。手負いの獣の如き獲物を仕留めんと、再度死の雨が放たれた。だが、ファイズは止まらない。串刺しになる騎士を夢想し、獣達の眼に残虐な光が宿った瞬間、
――全てを、紅蓮が包み込んだ。
焼き尽くされた矢の残骸が、灰燼と化して宙を舞う。煌々と燃え盛る炎の向こうに見えるのは、心底嫌そうな顔をしながら、己が力を存分に奮うジャンヌの姿。掌から吐き出される業火の壁が、渦巻きながら哀れな獲物達目がけて押し寄せる。
その狭間で、
――『Start Up』――
断罪の鐘が、静かに終わりを告げた。
凍りついた炎の壁。それを、リストウォッチ型コントロールデバイス“ファイズアクセル”を換装したファイズが、超高速形態――アクセルフォームと化して突き破った。銀色のシルバーストリームが、空中に残影を残す。まるで、銀色の流星の如く。五感は音速を突き抜けた時から消え去り、戸惑う意識すら追い抜いて加速。この瞬間、ファイズはこの世の誰よりも孤独になった。無数の標的を、鮮血と炎が入り混じったレッドアイが、静かに補足する。十秒あれば、充分だった。ファイズは更に加速を深め、一気に跳躍。大地を叩き割り、宙で旋転を繰り返した結果、数えるのも馬鹿らしくなる程のポインターが、空間その物に刻まれた。右足に、電撃の意思が込められた。逃がしはしない。赤く輝く右足に印されたΦの刻印が、ファイズに呼応するかの如く、光り輝き、
「――――――――!」
裂帛の意思と共に、解き放たれた。
ファイズ、必殺の一撃。
―――アクセル・クリムゾンスマッシュ。
刹那の瞬きすら許さない連撃が、獣人の胸を一瞬で貫いた。注入されたフォトンブラッドが細胞を食い尽くし、苦悶の叫びすら上げず、灰の山がひたすら積み重なっていく。
『――3、――2、――1、――Time Out』
やがて、『Reformation』の電子音と共に、開かれていた胸部装甲――フルメタルラングが閉じ、銀色の身駆が赤く遡っていく。静かに降り立ったファイズの後方に、最早生命の吐息は無かった。
○
煤けたベルトからファイズフォンを抜き取った瞬間、赤色の白光が全身を包み込み、ソルメタル製の装甲が解除される。その下の巧の顔は、これ以上無い程に、ゲンナリと歪んでいた。いくら超金属の装甲を纏っているとはいえ、自ら高熱の炎の壁を突き破れる程、開き直れるわけではない。そもそもから言って、巧は度を超えた極度の猫舌である。
ひりひりと痛む舌に、顔を顰める。それを見たジャンヌが、ざまあみろと、あからさまな嘲弄を白皙の相貌に浮かべた。
弓なりに曲がる黄金色の瞳を睨みつけると、逃れようのない確信を得たように、巧は呟く。
「おまえ……わざとだろ」
苦虫を噛み潰したような問いに、ジャンヌ、それはもう良い笑顔。放っておけば、スキップでもしかねない程の機嫌の良さで答えた。
「あら。それこそ気のせいです。サーヴァントが、マスターに危害を加える訳が無いではありませんか。ええ、わたしは、とおっても、貴方を大事に思ってますから」
他人の不幸は蜜の味でしかなく、更に言えば、気に喰わない奴の不幸は人生唯一の愉悦である。ジャンヌが欠片も思っていない事をほざきつつ、ニコニコ満面の笑みを浮かべているのを見ると、毒すら吐きかねない形相で巧は告げた。
「ヘラヘラすんな。気持ち悪い」
「性根が安っぽいと、挑発まで安くなるのですね。ふふふ。今のアンタが何を言っても、負け犬の遠吠えにしか聞こえないのよっ!」
巧の鋭い視線に動じず、ジャンヌは揺るがない価値を誇示するかのように、高らかに笑った。放っておけば、手の甲を口の前に持っていかねない。正直言って、死ぬほどムカつく。
おーほほほほ。延々と響く高笑いに、巧はとうとう我慢が出来なかった。
「バカ」
「……何ですって?」
「バカだって言ったんだ。バカ、バカ、バーカ」
一瞬固まったジャンヌであったが、自分が身体的にも精神的にも有利な位置にある事に気付き、吠え返そうとした口を噤んで、今にも剥がれそうな余裕をぺたぺたと張り付けた。
「ふん。精々ワイバーンのようにみっともなく吼えてなさい。お似合いですよ」
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ!」
「……あのね、アンタガキじゃ」
あるまいし、と言い掛けたジャンヌの精神の均衡を、巧の鋭い舌鋒が易々とぶち抜いていった。
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカ! 突撃バカ女」
「――あんですってえっ!?」
一瞬で沸騰したジャンヌに、もはや優位に立つ者特有の驕りは無い。それを目敏く確認した巧は、とどめを刺すように、はっ、と鼻で笑ってみせた。
「突撃バカって言ってんだ。猪みたいに所構わず突っ込みやがって。まさか、体型までそっくりじゃ無いだろうな」
「い、い、いのっ、いのしっ!」
「いや、猪に悪いか」
その言葉に、かろうじて保たれていた精神の糸がブチ切れた。
「――っの、バカ無神経っ! バカ無愛想っ! バカ猫舌っ!」
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカバカバカバカバカ!!」
「バカ、バカ、バカ、バカ、バカバカバカバカバカバーカっ!!」
子供でももう少し頭を捻る。
ともすれば取っ組み合いにまで発展しかねない二人の間に、背後からそっと忍び寄った痩身の男が、人好きのする笑顔を浮かべながら挟まった。
「まあまあ、お二人さん。そこらで一旦打ち止めにしときましょうぜ。帰りが遅くなりゃ、あの怖ぁいご婦人に怒鳴られまさァ」
男――新宿のアサシンは、そう二人に告げる。暫しアサシンを挟んで野良犬のごとく睨み合う二人であったが、やがてお互いがひどく不毛な争いをしていた事に気づき、不満たらたらな表情のまま渋々引き下がった。それを確認したアサシンが、仕切り直すように掌を合わせた。
「さっ! 用事は済んだんだ。帰って仲良く酒でも酌み交わしましょうや。ひひひ、拳闘の後に飲む酒は格別だからなあ。楽しみだ」
「何馬鹿げた事をほざいているのですか? 貴方達と食事を共にするぐらいなら、便所隅の鼠と仲良くした方がまだマシです」
「ツレないお嬢さんだねえ。マスター。あんたから言ってやって下さいよ。俺ならともかく、懐かれてるマスターならまだ芽があるでしょ」
「はあっ!? 誰がこんな情けない猫舌男にっ! 大体っ、さっきの有様を見てどこをどう見れば懐いてるように――!」
騒ぐ二人を余所に、巧は殆ど第六感に近い何かで、突き刺さる害意を感じていた。獣のように荒れ果てた粗雑な殺意ではなく、明らかに精錬された、戦士の殺意。だが、何処にあるのか分からない。周囲を囲む木々の群れが風にそよぐ度に、殺意は蜃気楼のように気配を消す。感覚を尖らせていく。握り締めたファイズフォンが、音を立てた。
そして、影。
無理だ。
間に合わない。
はためく襤褸切れが視界の端を横切った瞬間、巧は目の前の黒い背中を蹴倒していた。相手が戦車砲の直撃にすら耐えるサーヴァントだという事は頭から消え去っていた。後方からの突然の衝撃にもちろんジャンヌは反応出来ず、無様に顔面からこけた。熱した怒りも度を超えればかえって冷める。ただ、冷たい殺意が脳髄を支配した。立ち上がって振り返ったジャンヌの眼に躊躇の色はなく、この瞬間、彼女はこれ以上ない程にキレていた。
そして、眼に入ったのは、嘲笑の姿でも無ければ、激怒の姿でも無く、
自分を庇い、内臓を抉られ、片身を半ば無くした己がマスターが、糸の切れた人形のごとく倒れ込む姿だった。
○
熱々のお湯を入れたコップが、長い手足を生やして追いかけてくる夢を見て、思わず巧は布団から上体を起こした。自分の荒れた呼吸が無性に腹立たしく、同時に、あの光景が夢だったことにたまらなく安堵を覚えた。クソ、と呟き、再び横になる。ひりひりと、僅かに痛む脇腹に、自分がどうしてここにいるのかを思い出した。どうやら腹を抉られて意識を失った後、医務室に運ばれてしまったらしい。すん、と動かした鼻に、医務室特有の薬品臭い香りが漂う。それにしては、不格好に包帯が巻かれている、自分の腕がやけに気になった。
まあ、いいか。
手持ち無沙汰なまま、しばらく天井を見上げていると、やがて扉が開かれる軽い音が響く。そして、
「――頭は冷やせましたか」
時間が凍った。
巧の身体に降り注いだのは、言葉の隅々を絶対零度で数時間凍えさせたような、硬く鋭く容赦の無い女の声だった。巧は、一瞬で声の主に思い当たると、思いっきり顔を顰めた。うんざりだ。あからさまなそれに気づいているのかいないのか、声の主――ナイチンゲールは、気丈な表情を動かさないまま、かつかつと大きく靴音を立てて寝転んだ巧に近寄った。
「前線に出撃するのは、確かに許しました。しかし、無謀まで許した覚えはありません。勇気と蛮勇を履き違えば死ぬ――そう何度も教えた筈ですが。司令官」
「……」
「油断は傷を生み、傷は病を呼び、病は死を引きこみます。何も、一度も傷つくなと言っている訳ではありません。戦いには、必ず犠牲と死傷が付いてきます。心身共に傷つかぬ争いなど、この世には存在しません。ですが、無為な犠牲は最も忌避すべきです。わたし達サーヴァントは死んでも次はありますが、人間である貴方に――次は無いのですから」
「……ごちゃごちゃ言うだけなら帰れ。眠れねえだろ」
「司令官」
巧は布団を引き上げて潜り込むと、外界の全てをシャットアウトし、僅かに通る明かりが照らし出した、灰色の壁を見つめた。
次なんて無い。それは、巧自身が一番よく分かっている事だった。刻々と時間が過ぎる度に、砂時計のように緩やかに減っていく己の寿命。朝を迎える度に自分の掌が灰と化していないかを確認しては、安堵する日々。抗い切れない苦痛よりも、優しく流れ落ちていく灰の方が何よりも恐ろしかった。誰よりも近くに死という物は忍び寄っていて。それは、ふとした瞬間に巧にすり寄って、こう囁くのだ。次はお前の番だと。何も為せないまま、呪われて死んでいくのだと。
だからといって、それが、誰かを助けない理由にはならなかった。
「――もう、いいから。俺のことはほっとけ」
「司令官……」
張り詰めたようなその声色に、ナイチンゲールは何かを言おうとして、止めた。よく分かっていた。真に確固たる信念がある者が、他人の言葉で揺らぐ筈が無いのだ。かつて戦争で死んでいった、あまりにも無力で、誰よりも勇気のあった戦士達のように。止める為には、それこそ殺す以外に方法は無い。彼女は自分を棚に上げて、はあ、と溜息を吐くと、思いの外柔らかな口調で告げた。
「……とにかく、しばらく安静にして、睡眠をきちんととっていれば、貴方なら数日で回復するでしょう。ただし、それなりに重傷ですから、しばらくはレイシフトは禁止します。抗議はわたしが黙らせます。どんな正論が出てきても、必ず黙らせます。わたしの患者に手出しはさせません。何を以ってしても。――それで構いませんね」
「願ったり叶ったりだ」
ふん、と鼻を鳴らした巧の背を見て、ナイチンゲールは無意識に笑みを浮かべた。そして、弛んだ頬を触りながら出て行こうとした彼女に、巧は振り向く事無く尋ねた。
「これやったの。おまえじゃないだろ」
「――ええ。貴方が運ばれてきた時には、既に。恐らく彼女でしょう」
「……だったら、一つ頼みが」
「嫌です」
望みをばっさりと切り落とされた巧は、身体から不平を垂れ流し始めるが、ナイチンゲールは意にも介さない。なんでだよ、と響いた言葉に、彼女は力強く答えた。
「それは、自分で伝えて初めて、形になる物ですから」
今度は笑顔を浮かべる事なく、そして、ナイチンゲールは医務室を後にした。
○
明かりの消された医務室は、隙間なく暗闇で塗されている。それでもその闖入者は、まるで昼間に出歩いているかのように、迷いなくベッドに歩いていく。やがて立ち止まり、静かに吐息に耳を潜ませた。乱れが無かった事を確認すると、密かに安堵のため息を吐き、闖入者がそのまま何事も無かったように出て行こうとした瞬間、巧は寝るフリを辞めた。
「――おい」
「―――ッ! ―――ッ!」
本気で驚いたのか、漏れ出そうとした悲鳴を抑えようと躍起になっている様子が、暗闇から伝わってきた。しばらく待っていると、やがて落ち着いたのか、普段とは比べ物にならない程の小声でジャンヌは怒鳴った。
「アンタ、起きてるんなら言いなさいよっ! ほんっと悪趣味な奴ね」
「おまえこそ、ノックぐらいしたらどうだ? そっちの方が趣味悪いぜ」
「アンタね――じゃなかった。そうよ、そう。こんな場所に来てまで、貴方と愚痴愚痴言い合ってる暇無いのよ。わたしにはっ」
「おまえから吹っ掛けて来たんだろうが。大体、こんな時間に何しに来たってんだ?」
妙に高いテンションのジャンヌに、巧が平素通りに話しかけた。ジャンヌ、行き場を無くしたかのように凍りつく。急に言葉数が少なくなった事に何の疑問も持たず、巧は布団に包みこまれながら、ふあと大きな欠伸をした。
「あ――えと」
ジャンヌは激しく動揺しながら、どうにか筋の通った理由を探そうとしたが、肝心な時に限って脳味噌は役目を果たさなかった。思い浮かぶのは罵倒と痛罵と毒突きばかり。これでは突撃女とバカにされたって文句は言えない。ただ、気に喰わない男が自分を庇って内臓を抉られ医務室に運ばれていった瞬間が頭に焼きついて離れないから。という極めて自分らしくない理由を正直に話すぐらいなら、死んだ方がマシだった。幸いにも、男は少女の動揺の裏に隠れている真意を見抜ける程、人の機敏に目敏い訳ではなく、ただひたすら眠たそうに目を瞬かせている。
「そうっ! その、何で来たかってのはね。――そうよっ。わたしはアンタを、その。……見下しに来てやったのです」
「はあ?」
「サーヴァントをわざわざ庇って馬鹿じゃないのってアンタに言いに来たのよっ! わたし達サーヴァントは死んでも座に本体さえあれば、幾らでも復活する事が出来るのですよ? それに、カルデアでは霊基だけを現地に送り込んでいるから、死んでも別に問題は無いのに――それを、貴方は」
フラッシュバック。撒き散らされる鮮血。飛び散る臓物の破片。何かが抜け落ちたように倒れ込んだ身体。命が亡くなる瞬間など、数え切れないほど見てきた。かつてジルに作られた、自分ではない自分――復讐の裁定者だった頃の記憶は、男の様相などよりも遥かに血と痛苦に塗れていた。だから血生臭い光景にはとっくに慣れていた。はずなのに。
「――とにかく、あんな真似は二度としないでくれる? 目の前で血反吐を吐いて死なれるのは、心底迷惑でたまりません」
こんな言い方しか出来ない自分が、恨めしい。それでもどうしようもなかった。暗闇で相手の顔が見えない事を、心の底から安堵する。そのまま早歩きで立ち去ろうとしたジャンヌの背に、案じるような巧の声がかかった。
「おまえだろ。これ、やったの」
眼には見えないが、何を指しているのかはすぐに分かった。怒りと後悔と歓喜と諸々が入り混じる複雑な感情を持て余し、血まみれになりながら無我夢中でやった応急処置だ。一度もやってみた事は無かったが、幸いにも大本になった聖女サマはそういった手当はお手の物だったらしく、多少は手間取った物の、概ね水準の出来ではあったような気がする。ただそれも、この医務室に陣取る赤色の婦人には遠く及ばない物だ。
「何。文句でもありますか?」
当然、文句のひと言でも飛んでくるかと思った。
――が。
「――ありがとう」
その言葉に、今度こそジャンヌは崩れ落ちそうになった。
この男は、この男は、この男は――。
その瞬間、ジャンヌは目の前の男を焼き尽くしたくてたまらなくなった。身体が熱く煮え滾っている。炎の波が一気に押し寄せて来たような感覚だった。かつて、言ったあの言葉――地獄なら一緒に堕ちてやるとほざいてみせたこの男の魂を、自分の物にしたくてたまらない。それこそ、全てを敵に回してでも。身の底に焼きついて離れない、復讐者ゆえの破壊衝動。それを必死に抑えて、ジャンヌはばかじゃないの、と震える声で呟いた。そこが限界だった。
ばたん、と勢い良く閉められた扉に呆気に取られながら、巧は礼を言ったにも関わらず、急に不機嫌そうになったジャンヌに、女に対するどうしようもない不可解さを感じ、布団に潜り込んだ。元から疲れていたのか、たちまちすうすうと寝息を立て始めた巧は、明日以降のジャンヌ・オルタがどのような態度を取ってくるのか、まるで分かってはいない。起きている時はいつも不機嫌そうに歪められている眉は、ありのままの姿になっていた。
願わくば、彼が明日も良い夢が見られることを。