マスターな乾巧がサーヴァントと云々   作:うろまる

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ジャック・ザ・リッパー・ウォント・トゥ・スポイル・イット

 

 

 ジャック・ザ・リッパーは暇を持て余していた。

 未成熟な幼い身体つきを覆い隠している、擦り切れた黒い外套からちらつく足取りは、自分の興味を惹いてくれる物を絶え間なく探しているせいか酩酊者のように頼りなくふらついている。あまりの退屈さに湧き出る欠伸をぐっと噛み殺し、浮き出た涙を拭う様はどこからどう見ても、かつて19世紀のロンドンを震撼させた伝説の殺人鬼――切り裂きジャックとは何の関係のない幼い童女にしか見えない。それはジャック・ザ・リッパーという英霊の霊基に“誰でもあって、誰でもあり”、“誰でもなくて、誰でもある”という極めて複雑怪奇な可能性が秘められているからなのだが。

 それはさておく。

 平素通りの彼女ならば、カルデア内に設置されてあるレクリエーションルームをうろつき回っているか、おかあさんを探し回るか、ナーサリーやサンタ・オルタ・リリィあたりと一緒にいるのだが、今日はどれにも食指が動かなかったらしい。これまで持て余した事の無い退屈への処分に対して、悩ましげに眉を歪めていた少女の顔が、唐突に華やいだ。水子の集合体である彼女たちの精神年齢はほとんど子供のそれに近く、遊び場と友人以外で暇を潰せる場所といえば、「おかあさん」であるマスターの自室しか思いつかない。そして確か、かなりの無精者である「おかあさん」は、この時間帯はまだ寝ぼけているはずだと彼女たちは記憶していた。

 つまり、胎内に帰る事が出来る。

 そうと決まれば話は早く、行先にあてが無く頼りなかった足取りは、スキップじみた軽さに変わった。ふんふんと微妙に外れた鼻歌すら奏でて考えているのは、いかにうまく腹を掻っ捌いて、母親の臓物の奥に潜り込むかという事だ。恐ろしい事この上ないが、思考回路に邪なものは一切無く、その笑顔は極めて純粋無垢な明るさに満ちている。

 ぼやけた記憶を辿りながら歩いていると、やがて見覚えのある扉の前にたどり着いた。ジャックは高鳴る心臓を抑えながら、万が一にも気づかれないよう、音を立てずにそっと扉を開けた。覗き込むように少しだけ顔を出して、隙間から室内を見渡す。

 ――いた。

 こちらに背を向けて、何やらごそごそやっている丸っこい猫背。期待通り居てくれた嬉しさと、起きていた物珍しさから思わず、おかあさん、と叫びそうになった口を危うく閉じ、限界まで気配を遮断して近づいていった。取り巻く無限の霧を思う。距離、もはや半歩も無い。懐から分厚いナイフを取り出し、じっくりと狙いを定めていく。気配すら悟らせず、確実に切り開ける確信があった。手の中で器用に柄を回し、滑ったように鈍く光る歪な切っ先を、無防備な背中に向けた。

 そして少女が殺意なき刃を、無音で振りかざした瞬間。

 ――崩れ落ちる灰になる、男の寂しげな背中を見た。

「だめっ!!」

「あぶねえっ!」

 ジャックはナイフを床に放り捨て、加速度的に勢いを増していく崩壊を止めるべく、細い腕を懸命に伸ばした。もちろん、身体の崩壊は単なる幻覚である。だが、ワイシャツのアイロン掛けに没頭していた巧にしては、一体何がどうなっているのか分かる筈も無い。精々が突然背後に出没した誰かに体当たりを食らったぐらいしか理解できず、手に持ったアイロンから、その顔も見えない誰かを庇うだけが精一杯だった。

 無理な体勢のまま、どうにかアイロンを明後日の方向に投げ飛ばした瞬間、安堵した精神が張り詰めていた全身を緩ませる。途端、支える力を無くした巧の上体は、飛び込んできたジャック諸共ベッドから転げ落ちた。それも頭から。

 轟音。

「いっ―――つぅ」

 二人分の重量を伴って打ち付けられた後頭部から、火傷のような爛れた痛みが、熱を持って全身に伝わる。耐え難い痛みに丸まるよりも先に、この理不尽な状況に対する怒りがこみ上げた。こんな真似をするのはどこの馬鹿だ。半ば反射的に怒鳴ろうと起き上がった瞬間、胸元に縋りつく白黒が入り混じった物体が目に入った。

「――おまえは」

 声にも気づかず、ジャックはまるで食い止めるようにして、巧の腹に引っ付いている。引き剥がそうと試みたが、サーヴァント特有の膂力がそれを許さない。ほとんど悲鳴に近い声を聞かされながら、肩を強く揺さぶられるのは、一種の責め苦に近かった。

「おかあさんっ! だめ、だめだよっ! 死んじゃやだよっ!」

「おい」

「ねえっ、大丈夫っ? どこが痛いの? おなか? それともあたま?」

「聞け」

「これからちゃんといい子にするからっ! おかあさんのいうことちゃんと聞くからっ! だから、わたし達を置いてかないでよぅっ!」

「だから、聞けって」

「おかあさんがいなくなっちゃうなんて、そんな、そんなの――やだよぅ」

 嗚咽混じりの呟きが、掠れた調子で室内に響いた。

 力の込められたジャックの小さな手が、死人めいた青白い色へと変わっていく。巧は、その手をゆっくりと引き剝がしながら、落ち着かせるようにして震える肩に手を置き、ひたすら青褪める少女に視線を合わせた。

「あのな」

「……うん」

 ずび、と鼻を啜る音。一拍置いて、

「まだ死んでないし、当分死ぬつもりもない」

「……ほんと?」

「ああ」

「ほんとにほんと?」

「しつこいぞ」

 投げ掛けられた言葉をどうしても信じられないのか。ぺたぺたと何かを確かめるように、ジャックは男の荒れた頰を触った。巧は、振り払おうとしたが、潤んだ瞳が目に入って辞めた。やがて少女の相貌に戸惑いが浮かび、それから感極まったかのように顔を緩ませて、勢いよく抱きついた。

「お、おいっ」

 僅かなしゃくり上げと共に胸が熱く濡れそぼっていく。身動きすら許されないこの時間が一刻も早く過ぎる事を、巧はただひたすらに願った。

 

 

 ○

 

 

 渡したハンカチは一瞬でぐちゃぐちゃになった。

「落ち着いたか」

「うん……」

 気遣いから引っ込められようとしたハンカチを無理やり取り上げて、見上げる視線にそっぽを向きながらポケットの中に突っ込んだ。たちまち濡れていく気味の悪い感触は無視しながら、ベッドに座り込んで俯くジャックの隣に腰かける。スプリングが軋む鈍い音が、薄らがかった静寂を破る。巧は銀色のつむじを見下ろしながら、案ずるように問いかけた。

「いきなり、どうした」

「……」

「――言いたくないなら、良いが」

 投げ掛けられた巧の言葉に、少女がふと顔を上げる。そこには、隠し切れない躊躇いが、あからさまに見えた。巧は催促もせず、ひたすら待っている。やがて、視線に耐え切れなくなった少女は、逡巡しつつも意を決し、秘めていた胸の内をたどたどしく明かした。

「あのね、あのね。わたし達、おかあさんのおなかに入ろうとしてたの」

「…………」

 聞きたくなかった。巧が、露骨に顔を歪めた瞬間、ふたたびジャックの翡翠の瞳が潤む。あ、と思わず性根が見え透いた声が漏れた。とはいえ、後戻りはできない。首を振って、続きを促す。

「……でもね。わたし達、できたんだけど、やれなかったんだ。おかあさんが、そのね。……砂みたいに消えちゃうところをみちゃったから……」

「……そうか」

 小さく呟きつつ、巧は己の掌を見た。荒れ果てて筋張った、男の掌。そこに、無数の灰がこびりつく光景を幻視しかけて、眼を瞑った。

 いつ来ても、おかしくはないと思っていた。

 あまりにも急激な進化に対し、人間の細胞はその脆弱さを極める事しか出来なかった。魂の奥底にまで刻み込まれたオルフェノクの紋章――オルフェノクレスト。それがじわじわと範囲を広げる度に、ここまで無理に生き永らえさせられていた生体機能は、その強さにとうとう耐える事が出来なくなり、結果、身体に逃れられないガタが訪れる。

 無数の咎、幾多の死を存在に詰め込まれた“ジャック・ザ・リッパー”だからこそ、乾巧に待ち受けている必然の死を幻視する事が一瞬だけでも出来たのだが、それをこの二人が知る由は全く無い。

 巧は灰色の幻影を振り払うと、思いのほか柔らかな口調で告げた。

「大丈夫だ。俺は死ねない――まだな」

 ほんの小さな嘘をつく。ありのままの真実など、言える筈が無かった。

 力強い断定に安心したのか、ジャックはうん、と小さく呟き、浮かんでいた涙を拭った。そして、床に落ちた白いワイシャツを見て、申し訳なさそうに眉を歪めた。

「……ごめんなさい。おかあさん。なにかやってた途中だったんでしょ?」

「ああ……まあ、どうでも良いだろ。……つか、なあ、俺はおまえのお袋じゃねえだろ」

「でも、おかあさんはわたし達のマスターでしょ?」

「らしいな」

 だったら、とジャックは花が咲いたような笑顔を見せた。

「――だったら、おかあさんはおかあさんだよ。やっぱり」

「……もうそれで良い」

 めんどくせえ、と吐き捨てなかったのは、僅かに残った良心か。その代わりに大きく鼻を鳴らして、巧は落ちていたコートを拾い上げ、再び白い机の上に置いた。放り投げた時に外れたコンセントを元の位置に指し込み直し、アイロンの電源を入れた。袖口から肩に沿って、ゆっくりと重心をかけていく。仄かな熱さを感じながら、巧はかつて同居人だった男の言葉を、思い出していた。

 ――父さんが言ってたんだ。アイロンがけも出来ない人間は、ロクな奴じゃないって。

 少しは、様になっただろうか。

 柔らかい郷愁に駆られながらアイロンを往復させていると、不意に、視線が突き刺さった。背中がたまらなくむず痒い。無視しようと決めたが、堪え性のない巧はとうとう我慢できなかった。勢いよく振り向く。そこには好奇心をありありと漲らせた少女の姿があり、無垢な瞳と視線がかち合った瞬間嫌な予感がして、巧は無意識に腰をずり下げた。

「何ジロジロ見てんだ」

「なにやってるの?」

「アイロン掛けだ」

「あいろん?」

「……服を綺麗にしてんだよ」

 それ以上説明が面倒臭くなって、おざなりに答えた。その態度に逆に興味を掻きたてられたのか、ジャックは一層身を乗り出した。 

「――わたしもやりたいっ」

「そうか」

 顔を背けて、作業に没頭する。フリをした。あからさまに用意された面倒事に、関わりたくなかった。誰だってそうだ。近寄るな。男の儚い願いを通り抜けて、興味津々な様子のジャックは、ちょこちょこと巧の周りにまとわりつき始めた。

「やりたいのっ」

「勝手にやってろ」

「……」

 ジャックはじめついた抗議の視線を送るが、巧はひたすら無関心を貫き続けた。

 やがて我慢できなくなった少女が、巧の背中に勢いよく圧し掛かった。

「――もおっ。おかあさんっ! おんなごころがわかってないっ!」

「やめろ。危ない」

 どうとでもするがいい。ゆらゆら控え目に揺らされる彼の背中は、全てを受け入れる準備を整えていた。やがて強請りが通じないと知ったジャックは、目元を掌で覆って泣き出したフリをした。

「うぁ~ん、おかあさんがいじめるよう」

「……」

「ねこじた。ぶあいそ。とーへんぼく。だれとくつんでれ」

「――おまえ、それ誰から教えてもらった」

「旗もってる黒いおんなのひと」

 あいつ、いつかぶん殴ると心の中で決意した。

 しばらく続く嘘泣きに、巧はそれでもとり合わずにいたが、それ以上続くと先に参るのは自分だとわかったのか。クソ、と呟くと、渋々といった様子で振り返った。

「おい」

「うぇ~ん」

「その下手くそな泣き真似をやめろ。教えないぞ」

「ほんとに教えてくれるのっ!」

 塞いでいた両手を退けた下には、いっそ清々しいぐらいの満面の笑顔が隠されていた。分かっていた事だが、脱力する。溜息を吐きながら机を移動させ、すぐ横に座ってきたジャックに啓太郎から教わった――耳にタコが出来るまで教えられた――アイロン掛けの極意を教え始める。すべて受け売りに過ぎなかったが、それでも少女は「おかあさん」と一緒に何かを出来る事が嬉しいらしく、てかてかと目を輝かせて、巧を見上げている。

 しばらく続けていると、ジャックがぼそりと呟いた。

「ね、おかあさん」

「なんだ」

 どこか、遠い故郷を見ているかのような表情で、ジャックは続ける。

「いつかね。わたし達も、誰かのせんたくものを、洗えるようになるかな?」

 儚く笑ってみせた少女の姿に、巧は何も言えず、そっと唇を噛み締めた。少女の素性を詳しく知っている訳ではないし、これからも紡がれるであろう少女の過酷な運命に、何かが出来るわけでもない。それでも、自分が思いつけるだけの言葉を、やっとの思いで吐き出した。

「知ってるか。真っ白な洗濯物はな、人を幸せにしてくれる。らしいぜ」

「……」

「幸せになっちゃいけない奴なんて、この世にいないんだ。だから――おまえも、いつか出来るようになるだろ」

 それ以上言うのは照れ臭くなったのか、粛々と作業をし始める巧に、ジャックはにへらと笑いかけた。そして、心無しかぴったりと寄り添って、机を行き交うアイロンを見つめる。静謐とした空間に、服が掠れる音と吐き出される蒸気の音だけがずっと響いている。

 不意に、この空間をたまらなく心地よく感じて、今はまだ、帰らなくてもいいやと。

 ジャックは眼を瞑りながら、そう思った。

 

 

 

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