夜も深まり、満ちた静寂を響く遠吠えが時折破る頃になってようやく近場の街に辿り着いたが、夜更けに門を開けてくれる街は、あまりにも貴重なものなのかがその時の巧には分かっていなかった。扉にかかった円環の音に叩き起こされた門番の、腐った卵黄のように濁った目つきが今でも鮮明に思い出される。何度か交渉を交わしたが、結局、住人に迷惑をかける訳にはいかない、という理由から村の近くで野宿する事が決まった。
他はどうだか知らない。だが、巧は、あの門番の瞳の奥に宿る、得体の知れない異邦人に対する憂鬱、嫌悪、不快……そういったあからさまな負の光に気づいていた。別に邪険に追い払われた事に対して、文句は言うつもりは無かった。本来なら立ち寄る事さえ許されない時間に訪ねてしまったのは巧達の方だ。それに野宿なら一人で旅をしていた頃に嫌というほど経験していたし、幸い、寒空を凌ぐ為の火種となる物はそこらからいくらでも見つけられた。問題は、あの悪意が溢れんばかりの眼だった。
有り触れた、それこそ日常の何処にでも見出せる、ほんの小さな悪意。しかし巧にとってあの眼に宿る微細な光は、滅んでいなければならないくせに、今もこうしてのうのうと無様に生き残ってしまっている自分を、責めている物のような気がしてならなかった。勿論、それがほぼ被害妄想だとは承知しているし、いつまで経っても引きずり続ける自分が悪いのも分かっていた。
この世には結果しか残らない。生きてしまった以上は、自分にやれるだけの事をやるだけだというのに。
どうしても、割り切れない自分がいる――
「マスター」
案じるような調子の声に、霧散しかけていた意識を引き戻された。ふと横を見ると、微かに揺れる焚き火によって、顔に端正な陰影を刻まれた紫紺の女――源頼光が、神妙そうな面をした巧を慮ったのか、かすかに湯気立つマグカップを差し出していた。
人ならざる意思の介入さえ感じられる、均整の取れたしなやかな体躯。理知的な光を宿す切れ長の瞳。夜露に浸されたように滑らかな黒髪が、闇に緩くたゆたっている。絵画のごとく艶やかなその光景に見惚れる事無く、巧は気だるげに手を振って、不要の意を表してみせる。だが、女は微動だにせず、にこにこと可憐な笑みを浮かべた。それを見た巧、ひどく鬱陶しそうに顔を歪ませた。
「いらねえ」
「いいえ。飲んでもらいます。束の間とはいえども、身体に区切りを覚えさせておくことは大切ですよ?」
「いらねえ、って言ってんだろ。しつこいぞ」
そっぽを向きながら強く示された断絶を、頼光はたおやかな笑顔と共に切って捨てた。
「大丈夫ですよ。こおひぃ、という名の南蛮の物品だそうですが……ちゃんとふうふうして、適度に冷ましておきましたから」
「だからな……」
そういう問題では無かった。
巧はなおも拒否しようと努めたが、なおも絶やされない女の笑顔に根負けし、断る方が面倒くさくなるだろうと判断して、渋々受け取る事に決めた。もっとも、否定し続けていたとしても、無理やり飲まされていただろうと思う。奪い取るようにしてカップをかっさらわれたにも関わらず、頼光は不貞腐れていても手は決して離さない我が子を見るような目つきで、巧を見ていた。もちろん、巧は気づいていない。
「……」
冷まされたと言われても、まだ油断は出来ない。茶褐色の表面を睨みながら、ゆっくりと口を縁に近付けていく。そして、唇の表面に僅かに訪れた、生温い感覚。すっかり安堵した巧はずずず、と控え目に飲み始めた。たちまち、なんともいえない苦味が口の中に広がる。しかし、ちょうどよく収まっている熱さは、寒々しい夜気に冷えた身体によく効いた。
じわじわと上がる体温に目を緩ませていると、それを目敏く見つけた頼光が、口元を綻ばせた。
「――おいしいですか?」
「……」
無視を決め込む巧の様子に対し、頼光は屈託の無い笑みを浮かべながら、得心がいったかのように頬に手を添えてみせた。
「……まだ何も言って無いぞ」
「何を言うのですか。わたしは、貴方の母なのですよ? 何を感じ、何を思っているのか。それぐらい、手に取るように分かります」
「あんたのガキになったつもりはない」
吐き捨てるように呟いた巧にも構わず、頼光はいつの間にか自分の分を注いで口をつけていた。一瞬舌打ちしかけたが、いくらこの女に抗議しても暖簾に腕押しだと途中で気づき、胸の内に湧いたどうしようもない諦観を飲み干すように、カップを傾けた。思えば、赤の他人の子供におかあさん呼ばわりされたり、クリスティーヌとかいうもはや原型を留めていない名前で呼ばれたり、散々だった。いっそ、名前なんて無くしてやろうかとさえ巧は思う。
放り込まれた薪が炎に巻かれて、軽快な音を響かせている。元々巧はあまり口を利ける方では無いし、頼光もまた、目の前のマスターの性質を充分理解していた為、しばらくはお互い黙り込んだままの、なんともいえない無言の行が続くかと思われた
――が、
「ええい、さっさと歩けこのウスラトンカチめっ。せっかく主殿の為に拵えた首が台無しになってしまうではないかっ」
「しかし義経様。年頃の男子がみな首級を望んでいるというのは、酷く偏見に塗れた見方な様な気が拙僧してならぬのですが」
「何を言うか、阿呆。主殿が後方支援を主としているのなら話は別だが、此度の現界における主は、戦火飛び交う英霊たちの前線を、摩訶不思議な力を以て見事切り開いてみせる勇士なのだぞ? きっと諸手を挙げて喜んでくれるに違いないっ」
「ううむ、どうも的が外れているような……」
がさごそと草むらが賑やかな音を立てて、そこから飛び出した少女――牛若丸がそれを打ち破った。その背後から、のそりと現れた長身の男――武蔵坊弁慶の肩には、巨木の幹ほどの大きさはある、首の無い獣が粛々と鎮座していた。
獣耳をぴょこぴょこと動かし、全身を粘っこい鮮血に染め上げた牛若丸は、断末魔に歪んだ首を樽のようにひっ抱えながら、巧のすぐ目の前に腰を落とした。飛び散る生臭い血に、巧の眉間に皺が寄った。
「主殿っ! 不肖牛若丸、ようやく罷り越しましたっ! 無論獲物もこの通りっ!」
「ああ」
血に塗れながらきらきら輝くその笑顔に対して、巧は実に素っ気なく返すのみだった。そこに、削げた頬に引き攣らせたような笑みを浮かべて、弁慶が入り込む。
「まあまあ、マスター殿。義経様もここ数日は良き獲物に巡り会えず、運動不足解消と称して拙僧の首を狙う無為な日々が続いておられた所に、ここまでの大物首をお獲りになったものですから。その体型と同じように、軽やかに弾んでしまうのも致し方無き事。出来れば拙僧の首が飛んでしまう前に、ほんの少しでもお褒めになられては如何か。いやむしろ拙僧を助けると思って」
目は離さなかった、と思う。微かな風切り音と同時に両手を上げて、額から冷や汗を垂れ流す弁慶。そのごつごつとした首筋には、いつの間にやら抜かれていた刀の切っ先が、寄り添うようにして突きつけられていた。牛若丸、実にいい笑顔を浮かべる。
「そんなに獣と同じ末路を辿りたいか、弁慶? ん? もしや仙人は首を失っても動き続けるのか? それは興味深い! 実はわたしも、幾度も刎ねられる都合の良い的を探していた所なのだ」
「灯台下暗しというやつですな」
言ってる場合ではなかった。
「なあに、心配する事は無い。牛若丸渾身の八艘なます切りを心ゆくまで堪能させてやる。嬉しかろう?」
「拙僧はあまり肉付きの良い方ではありませんぞ!」
「戯け。新たな獣をおびき寄せる為の餌と成るに決まっているだろう!」
すわ血を血で洗うスプラッタが繰り広げられるのかと、巧がそろそろと下がろうとした瞬間、黙り込んでいた頼光が無音で立ち上がった。
まるで屹立する日本刀のように雄々しい、英霊と呼ばわるに相応しい立ち振る舞いだった。女性にしては長身な身体から放たれているのは、遠雷のように計り知れない気配。牛若丸と弁慶の顔に、やらかした、の五文字が深く刻まれているのが巧にはよく見えた。
「貴方達……」
煮え滾る感情を必死になって抑えた、低い声がやけに耳元で轟いた。振るう先を探しているように握り締められた拳は、絶え間なく震え続けている。俯いた顔には森の深い闇が塗り込まれていて、表情の判別は稀に見ないほど難しい。ただ一つ、背中しか見えなくても、巧にも分かる事があった。
――キレている。
ごくり、と誰かが喉を鳴らした音が鮮明に響く。三人はほとんど無意識で、頼光との間合いを計っていた。一歩間違えば己の首が堕ちる。囮を押し付け合う二人を尻目に、巧はベルトを納めてあるスーツケースを手に取り、本格的な逃げ腰へと入っていた。
すう、と大きく息が吸われた瞬間、巧達の足に力が込められ――
「――よくぞご無事に、戻られましたね」
思いの外やわらかな声につんのめった。
困惑が入り混じる微妙な空気を、巧と牛若丸に促された弁慶の窺うような咳払いが打ち破った。
「そのう……頼光殿?」
「はい?」
「……御怒りになっては、いませぬのか?」
恐る恐るといった弁慶の様子が可笑しくてたまらないとばかりに、頼光は口に手を当てて、少女のように微笑んだ。
「称賛こそあれ、何を叱る事がありましょうや。これほどの大物は、生前でも滅多にお目にかかれませんでした。加えて、実に見事な太刀筋――源氏の雄々しき血筋は絶たれていなかったのだと、わたしは誇りに思いますよ」
「さ、左様でございますか」
一応は遠ざかったらしい危機に露骨に安心した弁慶の、無残な空笑いが虚しく響く。さすが源氏の棟梁は器が違う。己が主君と色々な部位を比べつつ、彼が思わず胸を撫で下ろした瞬間、
「ですが――血抜きはしっかり済ませておかなければなりませんね」
いかづちを纏った鞘鳴りが、木霊した。
○
その夢はいつも、両親の笑顔から始まった。
巧がまだ幼かった頃――年に二度。誕生日とクリスマスの日に、両親は近くの高級ホテルに外食に連れて行ってくれた。子供の背丈では見上げる事さえ苦痛なほど巨大な高層ビルの、瀟洒な意匠を施された回転扉をくぐるのが楽しみでならなかった事を憶えている。苦笑した父に窘められ、穏やかな母に手を引かれながらホテル内に足を踏み入れた巧を待っていたのは、ただひたすらに明るく、ただひたすらに幸せに満ちた光景だった。吊るされた巨大なシャンデリアが、昼間と見紛うばかりの暖かな光が降り注ぐ風景。すれ違う度に、友人と過ごす時間への幸福、家族と過ごす時間への幸福、恋人と過ごす時間への幸福をありありと感じた。種類は違っていても、大切な誰かと共にいるという、平凡だがなによりも尊ぶべき幸せが確かに存在していたのだ。
二人の手を握り締めながら、子供ながらに思った――自分はなんて幸せなんだろうかと。厳格だが誰よりも優しい父がいて、穏やかだが誰よりも頑固な母かいて。
ずっと、この幸せは続くのだと、巧は何の疑いもなく思っていた。
有り触れた光景。
――その全てを、炎が押し流していった。
巻き起こった阿鼻叫喚に、幼かった巧はついていけなかった。混沌という名の狂気に飲み込まれた人々は、誰かを思いやる気持ちをかなぐり捨てて、自分のみが生き残る資格があると言わんばかりに、剥き出された己の生存本能に従った。黒煙と同時に立ち込める聞くに耐えない罵声と怒号。炎の波が迫る度、必ず蹴落とされる誰かの痛苦が木霊した。逸れた父と母を捜して人の波に抗う巧は蹴飛ばされ、押し退けられ、殴られた。それでも、巧は両親を捜し続けた。「見つかりさえすれば、きっとまた元通りになれると。けれど、とうとう残骸すら見つける事は叶わず、その最悪な後味を引きずって起きるのが常だった。
しかし、今日は違っていた。
巧が意識を取り戻した瞬間、目の前には茫漠とした暗闇が広がっていた。上下左右に限りは無く、声を張り上げても、応えるものはいない。じっとしているのは性に合わず、不機嫌に眉を歪めながら、巧は闇の中を歩いた。
不思議な心地だった。まるで雲の上を歩いているかのように、踏みしめる地面に手応えを感じられない。何処へでも飛んでいけそうだと、巧は根拠も無く思い、勢いよく地を踏みしめようとした瞬間。
「――巧」
誰かに腕を掴まれて、巧は振り返った。
一見、先程とは何も変わらない闇が、広がっているように見える。だが巧には、誰が虚無に近い暗闇の中から自分の腕を掴んでいるのか、はっきりと分かっていた。
「巧」
頑なな男の声と柔らかな女の声が混ざり合っている。目に見えなくても、炎の中に消えてしまった両親の声だと、はっきり区別できた。思わず、声がした方向に手を伸ばした。
「巧」
穏やかな声。ようやく見つけられたと、巧は深い安堵に包まれた。
「――俺は」
「巧」
そして、
問い掛けるような、母親の声が、巧の真横から響いた。
「どうして、お前なの?」
世界が一瞬で変貌した。
ひたすら続く漆黒に白い亀裂が走り、そこからぷつぷつと小さな気泡が生じ始めた。思わず立ち竦む巧を取り囲むと、やがてその気泡はゆっくりと膨れ上がり、その中でも一際大きな気泡が、唐突に血走った眼球へと変化した。同時に、大小様々な気泡も例外なく眼球へと変貌していく。数えるのも馬鹿らしくなるぐらいの無数の眼が、この無限に広がる闇の中、乾巧だけを見ていた。それを呆然と眺めていると、不意に一つの眼が大きく歪んだ。
憎悪。
呼応するかの如く、他の眼もまた血走ったそれに憎悪の光を宿らせていく。逃げ道は無かった。進むべき道も無かった。巧は、立ち止まる事しか出来なかった。
炎の臭いがする。眼球の隙間を見れば、暗闇を覆すかのように、彼方から火の波が迫り来ていた。逃げなければ。そう思っても、足は言う事を聞いてくれない。やがて巧は、その場に跪いた。
「どうして?」
――判らない。
「どうして?」
――判るはずが無い。
「どうして?」
――判りたくも、無い。
込み上げた酷い吐き気に身体を丸めて、その場で嘔吐した。それでも視線はずっと巧の背中に突き刺さっている。振り払いたかった。今すぐこの無数の目玉を握り潰して、押し寄せる火に背中を向けてしまいたかった。
それを乾巧が出来ないという事は、誰でもない自分が一番わかっていた。
全てを飲み込む火炎が渦を巻き、ゆっくりと闇を焼き尽くしていく。
炎に包まれ焼き焦げていきながらも、眼球は巧を睨み、両親の声はずっと、問い掛け続けていた。
「――どうして?」
その答えを、巧は今も出せずにいる。
○
虚ろに響き渡った自分の咆哮で目を覚ますのは最悪の気分だった。
思わず飛び起きかけた身体をぐっと優しく抑えられるが、無意識に弾き飛ばそうと両手を暴れさせた。しかし、なおも押さえつけてくるそれは、まるで慈しむかのように、やんわりと巧の身体を包み込んでいく。
「――あ、あ」
幻覚。
やがて、混乱に煮え立っていた精神がゆっくりと落ち着きを取り戻し、後頭部に当たるふくよかな感触に気がついた。朧げに霞む目を擦ると、見下ろしてくる女の顔が目に入った。
「酷く、魘されていましたから」
見下ろす女――頼光は言い聞かせるようにして静かに囁いた。垂れ下がる前髪の奥に隠れる、黒褐色の瞳には、深い慈愛の色が込められていた。その体勢でようやく、自分の後頭部にある物が、女の膝だということに気づいた。
「――おま、え」
乾いた喉を無理に動かそうとした瞬間、すっと陶磁器のような白い指先が、巧の髪を撫でた。振り払おうと力を込めた腕は、全く微動だにしない。
「あの門番がかけた呪詛の影響でしょう――本来ならこの一帯に近づく事を忌避する程度の威力しか無い筈でしたが……おそらく、魔獣の血臭が貴方の精神を緩めてしまったのですね。わたしの失態で、要らぬ迷惑をかけてしまいました」
心底申し訳なさそうに呟かれた言葉が、しんしんと降り積もる。誰かに、心の底から案じてもらえるという事が、これほど安心する物だと初めて分かった。いや、今まで分かっていながら、避けていたのかもしれない。誰かに信じられるという事が怖いから、俺には荷が重すぎると跳ね除けて、逃げ続けていたのだ。きっと。
深く、もう一度目を閉じる。しかし、訪れた暗闇の奥には、悪夢の残滓が残っていた。焼け落ちた大量の眼球、黒く焦げた焼死体、散らばる瓦礫、無限に落とされる怨嗟の叫び。それでも、今はただ目を閉じていたかった。
「無理に向かい合う必要は無いのですよ? この程度の呪詛、しばらく大人しくしておけば抜け落ちます」
「ほっとけ」
心地のいい感覚だった。やわらかな光。できれば、ずっと沈んでいたい。だけど、それは多分、今の自分には許されない物なのだと思った。
渾身の力を込めて、どうにか身体を上げた。等間隔で響く拍動がやけに五月蠅い。全身は、鉛を塗りたくられたかのごとく重かった。伸ばされた手を振り払い、どうにかして起き上がる切っ掛けを掴んだ所で、不意に肩を引き寄せられた。
元々呪詛で弱っている巧が、万全の状態――しかもその身はサーヴァント――である頼光の膂力に勝てるはずもなく、あえなくさっきと全く同じ体勢に戻された。
「おい」
「いけませんよ、動いては」
「離せ」
「離しません」
「離せって!」
「いいえ、離しませんとも。我が子の無意味な無茶を止めないほど、わたしは愚かではありませんから」
その言葉に、巧の視界は一瞬白く染まった。
「――あんたの家族ごっこに、俺を付き合わせんな。迷惑なんだ」
そう吐き捨てた瞬間、胸の中にどす黒い靄が湧き出た。目の前の女が、何故まったくの赤の他人である巧を、「我が子」と呼ぶのか。特異点を回り、生前の記憶を見せつけられれば、嫌でも察せられた。それでも、どうしても我慢できなかった。ぐらりと視界が歪む。殺されたって、文句は言えないはずだった。
――しかし、
頬に手を添えられた巧は、頼光のまっすぐな瞳に魅入られて、動けなかった。
「――では。今だけは、貴方の母としてではなく、一人のサーヴァントとして、あなたと向き合います。――どうか、休んでください。マスター。かつてあなたは、金時と共に我が秘めたる邪悪を打ち破ってくれました。その時の借りをどうか、わたしに返させて頂けませんか? それとも貴方は――従僕に借りを返させないほど、臆病な男なのですか?」
「――」
声を出せなかった。あまりにも力強い意志は、人の口を噤ませる物なのだと今知った。おそらく本気で言っているのだろう。女の眼の中に普段渦巻いている熱情にも似た情念は消え去り、そこにはただ、巧を案じる、純粋なまでの思慮があった。茹だった脳はそれでも否定の言葉を発しようとしたが、かつて見た母の微笑みを思い出して、留まった。身体と精神が乖離しかけていた。立ち上がれると叫ぶ身体と、疲れ果てたと崩れ落ちる精神。今、どちらを選ぶべきなのか。巧は逡巡の末、ようやく選び出した。
「――勝手に、しろ」
「はい。勝手にしますから」
目を閉じていても、頼光が柔らかく笑っていると巧には確信できた。そういう声だった。
再びの暗闇。その奥にこびりついた残滓が、たちまち巧を取り囲む。響くのはやはり、恨みを募らせた暗い声音。絶えず降り注ぐそれに眉を顰めた瞬間、砂漠に束の間訪れる一筋の雨のように、その言葉は差し込んで来た。
眠れ 眠れ 母の胸に
眠れ 眠れ 母の手に
こころよき 歌声に
むすばずや 楽し夢――
思わず、苦笑した。結局女は、霊基に染みついてしまっている歪み切った狂信の愛情を、変える事など出来はしなかったのだ。それは多分、この世界が終わりを迎えても、決して変わる事は無いだろうと巧は思う。人ではあらず、さりとて魔性でもない源頼光が、源頼光であり続ける限りは。
礼は言わない。大体、巧はそういうガラではなかった。
それでも、今だけは。
この温もりに、有り難く浸っていようと思う。
いつか、あの問いに対する答えを出す事を夢見て。
乾巧はゆっくりと、訪れた眠りに沈みこんでいった。