狼誇がナメクジに飲み下され、彼女を飲み込んだナメクジは、新しい獲物を探すように、目玉のついた触覚で辺りを見回す。
周りに写るは多くの灰色と化した人々、誰一人ナメクジの存在に気付くことは無い。
ナメクジはその灰の人々を舐め回すように、不気味な目玉をぐるぐると回しながら観察し、しかしめぼしい獲物がいなかったのか、最初に現れたスーパーマーケットの屋上へと戻り始めた。
ズルズルと気色悪い音は、静寂となった世界で響くのを止めず、例のマーケットに到着したのならば、ナメクジは壁面を地上と同じように這い登る。
ナメクジの通ったあとは、テラテラと光る真っ黒な粘液が残っているが、やはりこれにも誰も気付かず、踏んでしまう者もいたが、何故か踏んだ者の靴にそれが着くことは無かった。
まるで今ナメクジがいる世界が、皆がいる世界とは別の世界であるかのように…
そうして屋上へと完全に登ったナメクジは、再度同じようにあたりを見回し始める。
ぐるりぐるりと触覚をあちらこちらへと向け、向けては目玉も忙しなくギョロギョロ動き回る。
何度か見る方角まで変えて、ナメクジが獲物を探しまくるが…
その努力が実ったのか、ある方向を見て固まる。
そこには2人の人間、月桂冠雛と川内日向が並んで歩いていた。
この2人どうやらまだ帰宅途中で、何やら笑いながら雑談をしている。
2人とナメクジの距離は数字にして3~4キロ、しかしナメクジの移動速度からすれば目と鼻の先。
2人を獲物として定めたのか、そこからのナメクジの動きは速かった。
ズァッと蠢く肉体を宙へと投げ出し、やがてその巨体は重量に引かれ地に落ちる。
ドシンッとアスファルト舗装された地面を、速度の乗った自身の体重で叩き割り、普通ならば死んでいてもおかしくない高さからの落下だがナメクジは何事も無かったように一気に加速する。
灰色と化した人々や車に、当然といえば巨体故に当たることもあるが、何故か灰色となった人々や車がナメクジと接触しても吹き飛ばされることはなく、むしろナメクジ体液と同じように体を通り抜けていく。
そして通り抜けたことにすら気づいていないようだ。
そんな人々を差し置いて、ナメクジは一直線に雛と日向へと、途中にある建物などを飛び越えたり這い登ったりして突破していく。
そうして2人の前に到着すること1分足らず、2人の眼前に現れる。
しかし2人も灰色に染まっていて、ナメクジのような怪物が眼前にいることに気付いていない。
だがナメクジはそれを確認した後、その頭のような部位を天高く上げて、一気に叫びあげた。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!」
この世のものとは思えないおぞましく冒涜的な絶叫が、町全体に響き渡る。
その叫びを聞いて、町が混乱に包まれることは無いが、代わりに赤い夜空に浮かぶ碧色の月が揺らいだ。
まるで水面に一滴の雫を垂らしたかのように、波紋を産み、揺らぎ揺らぐ。
揺らぎは徐々に大きくなり、しかしやがて収まると、今度は灰色に染まってた2人に変化が起こる。
色がなくなり灰色だったのが、徐々に色が戻り始めたのだ。
最初は足から、つま先からゆっくりと這い上がるように、灰が色とりどりに鮮やかに染まっていく。
しかしそれは2人にとっては恐怖の始まり以外何物でもない。
色が腰あたりまで戻り始めた瞬間、2人は強烈な違和感を感じる。
それは狼誇も感じた、自分がさっきまでいた所から、ズレてしまったかのような感覚。
「ねえ、日向…なんか変じゃない?」
「雛もかい?」
2人が互いに顔を見合わせ、それについて話し出す時には、既に色は首元まで染まっており、ついには全身元の色に戻ってしまった。
その瞬間、2人は目の前にそそり立つ黒のナメクジにようやく気付く、気づいてしまったのだ。
「は?」
「え?」
2人が声を上げるのはほぼ同時であった、それは一瞬の現実逃避、人間が持つ防衛本能。
認めたくない事実から目を背けることで、一時的に精神を保つ。
しかし認めざるを得ないことが目の前にあることを、2人が受け入れるまでの時間は、既に用意などされてなかった。
「■■■■■■■■■■■■■■■■■■■!!!!!」
ナメクジの咆哮が、静寂の世界にまた響き渡る。
しかし今度の咆哮は先のような、ただ声を上げただけのようなものではない。
それは確かな勝利を感じた咆哮、餌を目の前に出されて、待てをされた空腹の犬が、ようやくOKを出されて餌にありつける、そんな感情のようなものが乗った咆哮。
「き……キャアアアアアアア!!」
真っ先に悲鳴を上げて恐怖を表したのは雛であった。
目の前にいきなり気色の悪いナメクジの怪物が現れれば誰だってこうなるだろう。
その悲鳴を聞いて日向が動き出す。
怪物と雛の間に割って入り、雛を庇うように立つ。
しかしその足は震えていた。
「ひ、雛!逃げるんだ!!」
恐怖を押さえつけ、幼なじみを守るためにナメクジに立ち向かう日向。
しかし雛は動かない、ゆっくりとその場に座り座り込み、絶望の表情を浮かべていた。
その行動に困惑を示す日向だが、続く言葉でそれが驚愕に変わる。
「日向……こ、腰抜けた…」
瞳からいくつもの大粒の涙を零して、彼女は震える声で伝える。
この状況で冗談など言える存在はいない、となれば雛の言葉は真実であるというのが分かる。
絶望が2人の間に走る、合わせて日向の脳内に現れる葛藤。
雛を背負って逃げるのか、それとも見捨てて逃げるのか。
雛が逃げれるのであったのならこうして命を張ることが出来た、だが逃げれなくなっているのであれば話は別。
見捨てて逃げるのであれば、自身の生存率は間違いなく上がるだろう、それが僅かであっても。
逆に背負うとなるならば、二人揃って死ぬ確率が大きくなる。
雛の体重は平均的な女子高校生のものと殆ど変わらないが、それを背負って自身の最高速のダッシュを出せるのかと言われれば、否と答える人が大多数。
日向もまたその否と答える人である。
ならば生きることを考えれば見捨てる方が賢明であろう。
仮にここで二人揃って死んでしまえば、自分たちを襲った怪物が、この町に存在していることを証明する人物がいなくなる。
たとえ信じて貰えなくとも、聞いてもらうことが重要。
情報があるのならばやりようはあるだろう。
その情報が消えてしまう。
だが、それが果たして正しいのだろうか。
もしここで雛を見捨てれば、日向の心には【幼なじみを見捨てた】という深い後悔が残り続ける。
たとえ逃げきれなくとも、その後悔は死ぬ直前まで自分を苦しめるだろう。
咄嗟に、本能的にとはいえ1度自らの命を投げ捨てて助けようとした雛の命、動けないというのを知ったから見捨てるというのは、はたしてどうだろうか。
日向は考えた。
迷うほどの時間が無いため、長くは考えられなかったがそれでも考えた。
結果、彼は雛を背負うことにした。
今更見捨てることが出来なかった、それに自身が逃げ切れる保証もない。
ならば自身に悔いと後悔のない選択を、それが彼の答えだった。
「日向ぁ…」
雛の悲しげな声が、彼の背中から聞こえる。
恐らく、彼の生きる可能性を狭めてしまったのが悔しいのだろう。
こんな時に自分が腰を抜かしていなければ、私は何をやっているんだろうか。
己への憎悪が雛を支配するが、日向はそれを宥める。
「気にしないで雛、これが僕の選択なんだ…」
そう言って、走り出すため準備をする。
靴紐を整え、背負った雛が落ちないようにしっかり足をつかみ…しかしここで日向の思考に疑問が走る。
そう言えば……
雛を背負っている間にも、ナメクジは自分たちを襲うことは出来たのではないか。
そうでなくとも、こんな走り出すのにも準備が必要な自分たちを捕まえるなど容易いはず。
感じた違和感は大きく、日向は先程から注意していなかったナメクジへと視線を向けた…
するとそこには…苦しそうに呻き、触覚を元気なさげに垂らしたナメクジの姿があった。
何がと口に出そうとした日向だが、それが言葉として出る前に、ナメクジに大きな変化が訪れる。
突如ナメクジが非常に苦しげにのたうち回り始めたのだ。
腹と思われる部分を晒し、右へ左へ転がりまくる。
ブロック塀へと体をぶつけ、しかしそれでも落ち着かずひたすらに暴れる。
まるで塩でもかけられたかのようだ。
「な、何よ今度は!」
背負われた雛の言葉に日向も同意する。
しかしナメクジがそれに回答するような能力は持ち合わせておらず、2人の疑問に答えるものはいない。
ひたすらに暴れ転がり、悲鳴のようなものを吐き続けるナメクジ。
収まることを知らないと思われたが、しかしそれはさらなる驚愕の形で止まることになった。
それは、ナメクジの腹を突き破って、何が現れるのと同時であった。
色の黒い血が撒き散らされて、ナメクジの腹が内側から引き裂かれる。
ブチブチと、肉の繊維が千切られ、細胞が潰れ、生命が死ぬ音が辺りに響く。
黒の血液が、赤い夜空が染める町を黒く染める。
真っ先にその黒の液体の中から姿が見えたのは腕、それは人の手のようで、しかしどこか獣のよう。
白い体毛が生え、爪は金にほのかに輝き鋭利。
続けて出てくる体や頭部もまた人に近く、しかし人ではない。
白い毛は新雪を彷彿とさせるほど透き通り美しいが、それに相反する容姿。
頭部から生える一対の獣耳は、狼を彷彿とさせる鋭く尖ったもの、瞳は黄金にランランと輝き、瞳孔は紅に染っている。
口内に並ぶ歯は全ての鋭く、ナメクジの体内を喰らいちぎったのか黒い血液で染っていた。
首から下は同じく白い体毛に包まれ、しかしその白も今は黒の血液に穢れていた。
脚部はいわゆる獣脚と言えるもので、踵から足底まで非常に長い。
それらを含めても、見た目からわかるフォルムは女性的であった。
「Woooooooo!!!」
雄叫びと同時にナメクジの腹から飛び出し、宙で2、3回転しながら地に脚をつける。
ズサッと聞こえる着地音は、雛と日向の間。
2人とナメクジを遮断するように、狼のような物体は立つ。
前傾姿勢で、いつでもナメクジへと飛びかかられるように。
唸り声を上げて、両手から生える金の爪を研ぎ澄まさせて。
「何、何なの!」
若干パニックになりながら雛が叫ぶ。
無理もない、たて続けに怪物が現れて、殺されかけて、かと思えば新しい怪物が。
そんな人生に一生味わうことの無いものがやってくれば誰だってこうなるだろう。
日向もそうなりかけていたが、雛が先にパニックになってくれたおかげで、少し冷静になることが出来た。
自分がパニックになったら、雛が死ぬかもしれない。
その思いで、ただひたすらに冷静であろうとした。
その冴えた思考は、この場から助かる方法を教えた。
「このまま逃げるよ、あの怪物はナメクジの怪物と戦うみたいだし!」
背に負った雛へと伝えて、返答を聞く前に走り出す。
決して早くはないが、それでも人を背負って出すには十分すぎる速度である。
火事場のバカ力というものだろうか、日向は今この時は全てを忘れて走れていた。
まるでそれを待ってたかのように、狼は逃げていく2人を首だけ向けて見ていた。
そうして完全に見えなくなる頃、苦しげにのたうち回り、腹から出血していた、ナメクジの怪物は復活していた。
腹に空いた大きな穴は、驚異的な再生力でもあるのか、既に傷跡を残して消えていた。
腹を引き裂かれ、自身の目の前に立ち、更には獲物を逃がす原因となった存在。
この狼の怪物を、ナメクジの怪物は許せなかった。
何としてでもこの狼の怪物を殺してやると、殺気を膨らませ、全身から触手を生やす。
ヌラヌラと妖しげに輝く触手が、狼の怪物へと切っ先を揃えている。
対する狼の怪物もまた、ナメクジの怪物を殺さんと、膨大な殺気を放ち、その牙と爪で、いつでも切り刻むことが出来るように構えていた。
一食触発、まさに導火線に火種のついた爆薬庫。
この静かなる甘露町にて、誰も知らない、怪物対怪物の