アイドルマスターの世界で、信仰対象としてアイドルを 作:だんご
佐藤七枝(さとうななえ)
神々に愛され系主人公。最近、親が自分の像を作ろうとしていたのでやめさせた。
プロデューサー
346プロダクション所属。最近、大切な友人が洗脳された。
韮崎孝江
クトゥルフ神話TRPG2010に記載のシナリオ、『もっと食べたいの』キーパーソン。
二十代後半の美しい女性。具体的にはAPP(容姿の状態)が17。人類の最高峰が18だと考えると、街中にいたら誰もが振り返るスーパー美人である。
男は目を覚ますと、自分が今いる場所が寝所では無いことに気がついた。
暗く、湿った風が髪を撫でて後ろに過ぎ去っていく。
異様な涼しさ。大きく広がる謎の空間。頭上の岩盤から滴る水の音が、空間の中で反響し広がっていく。混乱する頭であたりを見渡すと、どうやら自分は大きな洞窟の中に立っていることが解る。
周囲には自分以外には誰もいない。ただ一人、孤独に彼はこの不可思議な空間に存在していた。
「私は……いったい……」
困惑しながらも状況を整理していく。ゴツゴツした岩壁はどこまでも高く、視界の広がりははるか先にまで広がっている。ぱっと見るだけでも、東京ドームほどの大きさはあるように思えた。
自分は寝室で眠りについたはず。何故に自分は今ここにいるのだろう。
「夢、でしょうか」
夢にしては、どうにもはっきりした夢だ。
意識もはっきりしており、思うように体が動かせる。男は夢の世界で自由に動けるという明晰夢の存在を知っていた。ひょっとするとこれがそうなのだろうか。
「だとしても……不気味ですね」
こんな光も届かないような洞窟の中で、何故か辺りを観察できる謎。どんな話にも聞いたことのないような巨大な空間を持つ洞窟の存在。
夢と言ったら話はそれまでだが、だとしたらどうして自分はこのような夢を見るのだろう。
言葉に例えられない違和感を覚えた、その時。
「……武内P?」
しんとした空間に響く女性の声。
思わずばっと後ろを振り向くと、そこには決して忘れることの出来ない少女の姿があった。人を超えた美しさ。人体のすべてのパーツが奇跡の名のもとに組み立てられ、完全な造形の基に完成された美女。
何故、どうして。葛藤が心の中で渦巻き、嵐のように男の平静を奪い去っていく。
「佐藤……七枝……」
島村卯月が紹介した友人、佐藤七枝。
記憶に刻まれた彼女は、その日のうちに自分の夢に現れたのだ。
足の底からおぞましい何かが全身を駆け巡り、まるで金縛りにあってしまったかのように体が固まる。
胸に苦しさが湧き上がり、激しい鼓動が彼の体を揺さぶる。それは彼の頭を漂白し───
「え、なんで呼び捨てッ!?」
───が、自分以上に混乱した声を張り上げた少女の存在を前に、彼の平静は取り戻された。
「す、すいませんでした。さ、佐藤さん」
「いえいえいえいえっ! えっと、こちらこそすいませんでした……?」
生来の人の良さが表れたのか、状況を理解してコンマ数秒ですぐに謝罪できる社会人の極み。それは彼を縛っていたすべての緊張から解放してしまった。
そのあり方を前にした佐藤も、すぐにぺこぺこと頭を下げながら何故か謝り返してしまう。根が小人な彼女に、大柄な男からの謝罪を受け入れないという選択肢はなかった。
そんな動揺して風貌を崩して謝る彼女を前に、男は益々この夢が夢であると確信した。
言っては何だが、彼が出会った少女と目の前の少女とではギャップが大きすぎたからだ。
彼の出会った少女からは怪しげな魅力と優雅さ。優しく、温かさを感じさせる微笑み。話し方も落ち着きがあり、高い知性が会話のところどころから伺える。
そして年に見合わぬ妖艶な色気がほんの少しの仕草からも感じられ、いつの間にか目が離せなくなっている自分に気がつく。ああ、そこに危険性と恐怖を自分は常に感じていたのだろう。
しかし今、彼の目の前で何度も何度も頭を下げる少女はどうだろう。同じ姿にも関わらず、同じような怪しげな魅力があるにも関わらず、にわか認定を友人に受けてしまった自称ロックアイドル並みの残念さを感じてならない。
そう、夢の中の佐藤は、あの魔貌の少女と全く別物に見えた。別の存在と言っても過言ではないほどに。
「……やっぱり、夢でしょうか」
「……夢? あ、そうですよ。これは夢です」
「なるほど。夢の佐藤さんがそう仰るのであれば、これは夢なのでしょうね」
男は夢だと分かって安心したこともあり、落ち着いて観察し、物事を考える余裕が生まれてきた。頭に手をやり、どうしてこんな夢を見ているのだろうと疑念を感じるようになる。
「はい。プロデューサーの言う通り、これは夢なんですよ。でもどうしてここにプロデューサーがいるのでしょうか。もしかして、あの時に繋がりが何らかの方法で生まれたのでしょうか。或いは、何者かがここに……」
佐藤は頭を抱えながらブツブツとつぶやき、「ぐぬぬぬ」と唸り声までこぼし始めた。危うい雰囲気を出し始める少女を前に、男は「この彼女であれば是非、スカウトしたいのですが」とついつい達観した考えを抱いてしまう。不自然な完璧さが消え去り、彼女本来の温かな魅力が感じられる。それはアイドルに不可欠であり、いちばん大事な素晴らしい素質であると彼は考えている。きっとこの彼女は人を笑顔にできる良いアイドルになれるだろう。
「しかし、どうして私の夢に佐藤さんが……」
「へ? いや、違いますよプロデューサーさん。これは私の夢でもあるのです」
「佐藤さんの、夢……?」
佐藤は静かに男に向き直ると、困った様子で口を開く。
「おそらくですが、眠りの中で旅立った意識が私に結びついてしまっているのです。プロデューサーは一人では絶対にここにはこられません。かといってあなたがここに呼んでもらえるほど、本来は彼らとの繋がりはないはずです。何か原因が、或いは意図的な意思が感じられます」
「意図的な意思……ですか?」
「はい。ただここの主はプロデューサーさんを呼ぶような存在では……ッ!」
瞬間、佐藤の目がパッと見開かれた。
何かに気がついたのだろう。佐藤は男の後方を凝視。すぐに男に向かって叫んだ。
「いけませんッ! すぐに目を閉じて耳を塞いでくださいッ!」
余裕は心を保つ大事な要因の一つだ。しかし反面、それは危機を鈍らせる要因でもある。
男は夢だとわかり、余裕を感じていた。当初の危機感を失っていたのだ。
しかし余裕とは習慣と慣れと理解から生まれ、生物本来が持つ危機を感じる感覚からは程遠いものであることを彼は知らなかったのだろう。
無理もない。平和な日本でそれは本来不要なものだ。
ああ、だが、ここ地下世界ではそれは絶対に欠かすことの出来ない生命線であったのだ。
彼は振り返ってしまった。
そしてすぐに、自分のその反射的な行動は大きな間違いであったことを理解させられた。
『───ァァァァ』
それは黒い液体であった。
『───ウガア』
いくつもの大きな黒い水たまりが視界に点在していた。
腐った沼のような悪臭。黒曜石のような光沢。トロリとしたその液体は流動性を持って天へと沸き立つ。
『───ウガア・クトゥン』
やがて液体は一つの塊となり、伸びる。
絶え間なく動き、形作られていく液体の先端には、木の杭のようないくつもの白く鋭い何かが並び立つ。それは真っ黒な底の見えない穴を中心に不揃いに生えていた。
その奥からは、これまで聞いたことのない、どんな生き物の鳴き声とも異なる不気味な音が聞こえてくる。
ああ、あれは口であると男は理解した。蛇のように鎌首を持ち上げて見えたヤツメウナギのような口腔からは、何かを呼び、何かを称えるような悍ましい言語が生まれ続ける。
男は何かを感じている。その感情はこれまでの人生で経験した何よりも激しく男の心を蝕み、平静と理性を奪い去っていく。
荒い呼吸が開けっ放しの口から吐き出され続ける。目をそらしたいのにそらせない。視界が歪んでいる。焦点が合わなくなっていく。それでも、男は目の前の非現実的な光景から目を離せないのだ。
『───ウガア・クトゥン・ユフ』
下腹部には十本もの短い足。体のあちこちからはギラギラと光を発する目。とろとろと体から滴り続けるしずく。男はその音が、岩盤から滴る水の音と最初に思っていたものと全く同じであることに気がついた。
空間に充満する悪臭に鼻が麻痺し、目からは涙が自然と流れる。体の震えが止まらない。額の汗が涙と混じり、顔の皮膚を伝って地面へと落ちていった。
『───ウガア・クトゥン・ユフ』
体から生えた黒い液体の触手が、空中で何かを探すようにまさぐる。
自然の摂理を無視したその体で、それはぐじゅぐじゅと音を立てながら立ち上がった。おそらく身長は二メートルを大きく超えており、巨大な口は獅子の頭よりも大きかった。そんな化物が男の視界いっぱいに広がっている。何匹も、何十匹も、何百匹も、何千匹も……。
『ウガア・クトゥン・ユフッ!!』
そしてそれは一斉に咆哮を上げ、巨大な洞窟をまるで地震を起こしたかのように震わせたのだ。
衝撃に男は呆然と尻をついて倒れ込み、佐藤はそんな男をかばうように前に進み出た。佐藤の顔には隠しようもない焦りの色。
「『無形の落とし子』……ッ!? 招かざるもの、捧げられざるものを前に姿を現したのですか……」
佐藤は未だ後ろで座り込んでいる男を振り返る。
男の目は瞬き一つ無く絶え間なく動き、激しい発汗と震えが見て取れた。前世の経験値から判断するに、SAN値チェックからのアイデアロール、一時的発狂。内容は恐らく恐怖症だろう。不定の狂気にはなっていないと信じたい。
何れにせよ、これではもう耳や目を塞いだりはできない。かといって精神的治療を行っている余裕もない。
それにこれ以上危険な光景を見せたり、精神を蝕む声を聞かせてしまってはプロデューサーが廃人となってしまう。
何よりも一番の問題は、この空間の持ち主はもうすぐ姿をここに現すことになるということだ。この『無形の落とし子』の主、人類以前の地上の支配者たちが崇拝した古代の神である。
佐藤の歌や踊りを捧げられることを待ち望んでいた、偉大なる旧支配者の一柱があと少しで姿を見せる。
その神は他の旧支配者に比べれば危険は少なく怠惰であるが、恐ろしく強大な力を持つ存在である。この光景を見た時、いったいどのような行動を起こすのかまったく想像もつかない。
というか、何か行動を起こす前にプロデューサーの精神は死ぬ。人の身であっては、たとえ見ただけであっても、あまりの存在の大きさに精神が耐えられないのである。
佐藤の決断は早かった。
「プロデューサー、ごめんなさい」
佐藤のどんなハンターでも見逃すような素早い手刀が、プロデューサーの首に流れるように叩き込まれる。
もし運が悪ければ、そのままスパンと首が切断されるような鮮やかな手刀。それは確かにプロデューサーの意識だけを綺麗に刈り取ったのだ。
これから取るどんな選択肢も、プロデューサーの心に傷を残してしまう。ならば気絶させた方が、自分の罪悪感だけで話は済む。
「これは使う予定は無かったのですが……。ああ、仕方がありませんね」
四方八方。頭上からも迫りくる『無形の落とし子』たちを前に佐藤は右手を天に掲げる。その顔の頬は興奮か、或いは別の感情によって赤く染まっている。
その手に出現するのは一冊の本。多くの旧支配者のおもちゃであるが故に与えられたお遊び。
怪しく、淡く光るそれは、たとえ一節読み上げるだけでも人を狂わせる。まさに魔の至高にして禁忌の原本。佐藤が魔本を開いた瞬間、激しい輝きと共にページは自動で捲り上げられた。
佐藤は精神を集中して歌う。唄う。謡う。そして───
『────────闇に呑まれよッ!』
人類最強、レベル100の「やみのま」が全ての『無形の落とし子』を呑み込み、佐藤の顔は羞恥で真っ赤に染まり、宇宙、いや、地球のどこかで無貌の古き神が腹を抱えて大笑いした。
『韮崎メンタルクリニック』は、心療内科・精神科を併設する病院だ。
苦しみ悩む人々の心に寄り添い、カウンセリングを中心に精神病の疾患や心の問題を起点とした心身症に関わる。
その評判は実に良いものであり、他の病院でさじを投げられた患者が、ここにきて立ち直ることができたというケースが多いことも興味深い。
またその院長である『韮崎孝江』は特に国内外で有名であり、ある分野では世界一とまで評される心のスペシャリストであった。
そんな心のスペシャリストである韮崎は現在。
「えーと、教主様?」
「佐藤でいいです。韮崎先生」
「せ、先生など……。教主様、韮崎と呼び捨てになさってください。真理と神を知る大いなる教主様に、そのように呼ばれる資格は私にはございません」
非常に困惑していた。むしろメンタルケアが今一番必要とされるぐらいに混乱しきっていた。
目の前にいる見目麗しい黒髪の少女は、韮崎の信じる神の使徒。神の認めし者。神の写し身である。
崇敬の対象であり、己の命を差し出すことすら喜びを感じる存在。世界と少女、どちらを選ぶかと問われたら、一瞬の迷いもなく少女を韮崎は選ぶ。
これは韮崎にとって当たり前の選択だ。眠いから布団に入る、小腹が空いたからお菓子を食べるぐらいに当たり前の話だ。
この考えを人に伝えた時、恐らく韮崎はその正気を疑われることだろう。
「佐藤でいいです」
「さ、佐藤様?」
ああ、何も知らない人間共はきっとこう言うに違いない。
若く、幼ささえ残している少女を神であると信じ、崇拝するなど馬鹿げている。
そもそもこの現代社会において、神の存在を信じること自体がおかしな話だ。
しかも世界を滅ぼし、命を捧げるだなんて、君はきっと頭がいかれている。
君は妄想に取りつかれ、幻覚を見ているに違いない。統合失調症ではないか。大きなストレスでホルモンバランスが崩れているんだ。医者に見てもらったほうがいい。精神病院にいって、診断とメンタルチェックを受けなければならない。人へ危害を与える危険性が高ければ、精神病棟への入院も考えるべきだ。
きっとこのようにして韮崎は心配されるに違いない。
しかし韮崎の考えは、そのような愚者たちとは全く異なっている。
私の話を作り話と疑うか。なるほど、彼らは私の言葉を気を違えた人間の取り憑かれた妄想だと思い込み、「ああ、なんと馬鹿げた事を言う女だ。もう普通の生活を送れない、可哀想な人間なんだ」と憐れむに違いない。
しかし私からすれば、憐れむべきは真実と真理と神を知らない人々である。
「佐藤」
「あ、え、その……」
「さ・と・う」
「……佐藤さん?」
「はい、それでオッケーです。それでお願いいたします」
科学に対する盲目的なまでの信頼、いや、信仰というべき盲信が、人が持つべきであった神と通じる素質を鈍らせてしまった。
唯物論者達を始めとする人々は神に対する恐れを感じられず、敬いの心を忘れてしまっている。
きっと彼らは神と繋がり、声を聞くという怪しげで非科学的素質。そしてくだらない恐怖や畏敬の感情は、現代において全く意味も必要もないものだと決めつけているに違いない。
だが私は知っている。
彼らの先に待つのは破滅である。そしてその先に訪れるのは絶望である、と。
彼らは世界の裏にある歴史と、人類が辿る結末を知らない。
彼らは復活を待ち望みながら、人々に語りかける神々の悪意に気づけない。
そして私達の平和と思い込んでいる日常が、薄い氷の上に成り立つものであると、何も知らずに生きているのである。
哀れだ。そして嘆かわしい。
私を狂っていると弾劾する人々よ。
普通の生活を送れないのだと、社会の認識に添えなくなった私を人生の落伍者と考える人々よ。
ああ、君たちは正しいのかもしれない。私は確かに狂っているのかもしれない。
私ははじめに親と友への愛を失い、ついには人類への友情と親愛、敬意がすっかり消え去ってしまった。
教主様を除いた人間の価値は、全て同じものに感じるようになってしまった。
だが私は狂気に陥っていることこそ、神々からの慈悲であると考えている。
鈍感なあまり恐ろしい最期を迎えることになっても正気のままでいたのならば、それはどんなに残酷で苦しく、悲惨な有り様なのだろうか。
神々が我々を憐れみ、慈悲をもって狂気を与え、我々に語りかけてくる。そしてそれが素晴らしいものであると気づき、感謝し、従うことができた私はどれほど幸福なのだろう。
狂える幸福を幸福と気がつけない貴方たちこそ、哀れに思えて……。いや、憐れに思われるべき人々なのである。
「教主様が電話を────」
「佐藤」
「……さ、佐藤さんが当院に電話をくださるなんて、夢にも思っておりませんでした」
「あ、ごめんなさい。もしかして、予約に割り込んでしまっているのでしょうか」
韮崎はそれを丁寧な口調で否定した。だが実際は佐藤七枝の突然の電話により、カウンセリングのスケジュールは大きく狂っていたのである。
佐藤は知らなかったのだが、韮崎のメンタルクリニックは芸能人や著名人も利用するほどに名が知られている。さらに評判も他のクリニックに比べて、患者や業界の人間から異常とも言えるほどに評価が高い。
その院長である韮崎のカウンセリングの効果は、なんと日本だけではなく海外でも有名であった。
特に摂食障害の患者に対して行う彼女のカウンセリングによる治療は、奇跡と称されるほどに劇的な効果がある。なんと摂食障害の患者の十割、つまり全ての患者が彼女の治療により症状が回復していたのだ。
テレビや雑誌といったマスコミ報道により、今や世界中の摂食障害の患者が彼女のカウンセリングを受けようと躍起になっている。そんな中で韮崎のカウンセリングを直接受けられるなど奇跡に等しい。
佐藤はそんなことは全く知らなかった。韮崎さんすごいなぁと漠然とした思いしか感じておらず、普通に予約を取ろうとしていたし、仮にその予約が少し先の話であったとしても、一般の常識に沿って待つ腹積もりであった。
「佐藤さんは私の全てです。何もお気になさらないでください」
韮崎は全部の予定をキャンセルした。診療、カウンセリング、取材、発表、テレビ撮影。全てを一切合切キャンセルした。医療スタッフを含めて悲鳴が院内に響いたが、韮崎の心には全く響かなかった。
韮崎がここまで佐藤に入れ込むには訳がある。
韮崎孝江は、元々は普通の中小企業のOLであった。
しかし重度の摂食障害、さらには過食嘔吐により心も体も疲弊し、仕事を辞めざるを得なかった。病院に通うもお金だけが飛び、生活もままならなくなっていく。
自信があった美貌も肌が荒れて頬はこけ、今では見る影もなくなってしまった。
茫然自失のまま、何の希望もなく病院の帰り道を歩く。死ぬことすら頭に過ったその時。彼女は街の骨董屋にて不思議な置物と出会った。そしてそれに触れようとしたとき、自分を導く美しい少女に出会ったのである。
あの時、ただの人間であった自分が旧神の像に触れていれば、自分は神の玩具として命を終えてしまっていたと思う。彼女に導かれ、病を癒やし、彼女の教団の支援がなければ、このような病院の運営や社会的な立場、今の名声も自分には得られなかっただろう。
今、自分の周りにあるもの、そして自分の存在すらも佐藤様によってもたらされたものである。
佐藤様の魅力と偉大なる力、そして恩に報いることに最早なんの躊躇いもない。
佐藤様に従い、生きることこそ我が喜び。我が運命。我が人生。自身はたとえ髪の毛一本であっても、佐藤様からの授かりものと考えて韮崎は生きている。
そんな佐藤のお役に立てる。これ以上に嬉しいことはない。
患者とか病院の用事だとか、たとえ総理大臣の婦人からのお願いであっても、それに比べれば耳くそ同然。金の束をどれだけ積まれようとも邪魔なもの。
佐藤より連絡があった時、天にも昇るような歓びを韮崎は感じた。佐藤より会いたいと伝えられた時、神の使徒から頼りとされているのだと知って、心がとろけそうになった。
「それで、佐藤様は……」
「佐藤でいいです。韮崎先生」
「な、何度も申し訳ございません。しかし私には本当に恐れ多いことなのです。せめて、佐藤様と……」
「佐藤でいいんです。お願いします、もういろいろ辛いんです」
涙ぐんでいる。神の使徒が涙ぐんでいる。道路に捨てられて雨に降られた子犬のように、不安と焦燥に打ちひしがれている。
なんですか。どうすればいいのですか。助けてくださいツァトグァ様。貴方の写し身が、そして信者の私がピンチです。
「わ、わかりました! わかりました佐藤さん! 申し訳ございません!」
神の使徒の顔が晴れた。一週間ぶりに嵐から晴れた太陽を見るような目で私を神の使徒は見ている。
そう思うと、あまりの嬉しさに韮崎の顔は綻んでしまうのだ。
「本題に入りましょうか。佐藤様、いえ、佐藤さんは私に相談したいことがあると……」
韮崎は笑みを深める。そこには一種の残虐な色も含まれていた。
韮崎は医者であるが、同時に教団においてツァトゥグァという旧支配者の祠祭を担当している。いわば教団のスーパーエリートなのである。
強力な魔術を扱い、旧支配者の神殿に住まう超常的存在である、『無形の落とし子』を用いての戦闘も経験した文武両道。仕事の関係もあり、財界や芸能界の大物とも渡りをつけられる社交性。
そしてたとえ殺人を命じられても、忠実に実行するだけの漆黒の覚悟を彼女は持っている。
さぁ、思う存分命令してくださいと、韮崎は期待に目を暗く輝かせた。
「私をカウンセリングしてください」
……カウンセリング?
「……え? あ、あの、申し訳ございません。もう一度よろしいでしょうか?」
「私のカウンセリングをしてください。具体的には愚痴を聞いてください」
誰にカウンセリング? 目の前の偉大なる教主様にである。
それ私がやっていいのだろうか。神の写し身にカウンセリングって、え、どうしたらいいの。助けてツァトグァ様。
「夜に眠っているときも、旧神達と精神感応が行われています。つまり夢の中でも私は起きていて、ずっと神様の話し相手になったり、神様の遊び相手になったり、歌ったり、踊ったりしてるんです。気が休まらないんです。リアル二十四時間働けますか状態なんです。心の疲れが取れないんです。じゃあ昼間はのんびりできるかといったら、そんなわけがありません。日中は下手すれば暴走しがちな阿呆共を抑え込んで、学校に教団の運営に宿題に書類の作成に……」
止まらない。どれだけのストレスをこの小さな体で感じていたのだろうか。
三十分を超えても出てくる言葉は留まるところを知らない。
「……宿題や書類であれば、私がさせて頂くことも出来ますが」
「宿題は自分でやるものです。あと下手に他の祠祭に教団の運営や書類任せたりしたら、善意でとんでもないことするじゃないですか。もしくは馬鹿が勝手に対抗心を燃やして変なことしでかしたり……。一年前に南極で『ガタノゾーア』を目覚めさせたの、まじで今でも根にもってますからね……」
『ガタノゾーア』は旧神の一柱である。なお、目覚めたら世界は間違いなく滅ぶ。当然滅ぶ。
「な、なるほど。お役に立てず申し訳ございません」
「いや、韮崎先生は常識がある方なんですが、周りが本当に考えなしばっかりで……。昨日、ツァトグァの慰労に歌を歌いに行ったら、何故か346のプロデューサーがいましてね。あのクソッタレ旧支配者からもらった魔本のおかげで、なんとか助けることはできました。ただ精神への影響は絶対に残るから、もうどうしようかと思っておりまして」
そういえば、今日の朝はツァトグァ様の機嫌が大変によろしかったのを覚えている。お祈りをするなかで、上機嫌にお言葉をかけて頂けたのは、佐藤様のコンサートが行われたからだろう。
「それで悩んでる私の原因を知った連中が、何を仕出かそうとしたと思います?」
「……誘拐、でしょうか」
「よりによってプロデューサーに『ティンダロスの猟犬』をけしかけようとしやがったんですよ! 阿呆か! 周りへの被害考えろよ! というか殺そうとするなボケェ!」
『ティンダロスの猟犬』は単細胞生物しかまだ地球にいないころから生きているクリーチャーである。角から現れる性質を持ち、どこまでもどこまでも追いかけてくる。
なお、周囲に人がいたら標的以外も普通に襲う。たくさん人が死ぬ。しかも見るだけでSAN値が減るような死体が残る。……隠蔽? 彼にそんな知能ないです。
「半分以上がプロデューサーを消す方向で動こうとしてました。残りも洗脳だったり誘拐だったり、異次元に飛ばそうとしたり、会社を裏から支配して取り込もうなんて話もありました。あっはっは、穏便に言うとるやろがー!」
下手に力がある分、下手に闇が深い分、やること考えることがえげつないのが教団の幹部達である。
佐藤がいなければ、神に対する暴走から内部分裂して日本が沈んだらまだいい方。悪い方は世界が滅ぶ。というより佐藤がいなかったら十中八九、世界は既に滅んでいる。
「アイドルのみんなを旧神たちに関わらせたくないんですよー。普通にアイドルマスター目指して、友情を育んでもらいたいんですよー。あと卯月ちゃんとショッピングしたり、学生として遊んでたいのですよー。そのために頑張ってるのに、周りにいるのSAN値ゼロの狂信者ばかりで嫌になるんですよー……」
佐藤は机に突っ伏している。声は涙声になっていた。
「プロデューサーさんが夢だと思ってくれていればいいのですが、あそこまで強烈なクリーチャーを見ているとそうもいかないでしょうし……。あーもう、どうしたら……!」
「つまり、佐藤様と対面したそのプロデューサーさんが、夢の記憶を忘れてしまえばいいのですね?」
韮崎の言葉に、佐藤は涙と鼻水で酷いことになっている顔をあげる。その目は不安に満ちていたが、同時に一筋の希望を見つけたように見えた。
韮崎はその縋るような視線を確かに受け止めると、ポケットから取り出したハンカチで佐藤の涙を拭う。
「カウンセリング、そして心の調査と称して346プロダクションに潜入しましょう。そしてアイドルのプロデューサー達とも面談する機会を作り、記憶を忘れてもらいます。私の立場とつてを使えば難しいことはありません。体重の減量に悩むモデルやアイドル、芸能人たちのメンタルケアと改善のために、同じような仕事を何度かこなしており、不自然ではありませんからね」
「に、韮崎先生……」
「佐藤様が島村様と仲がよく、気にかけていることを耳にしておりました。もしかしたら何かお役に立てるかもと思い、それらの仕事やテレビでの出演でコネを作っていたのですが……間違いではなかったようです」
韮崎は佐藤の顔をハンカチで整えながら、人の心を安心させる笑みを形作る。熟練のメンタルケアの技法により、佐藤の荒れた心はたちまち静まっていった。
ちなみに、この涙と鼻水で汚れたハンカチは、韮崎の大切な宝物として永久に保存されることを佐藤は知らない。
「私と部下達にお任せください。佐藤様のお心の苦しさのために、どうか私達を役立ててください」
「に、韮崎さーん!!」
抱きついてくる佐藤。抱きしめる韮崎。恍惚の表情の韮崎は、女性がしてはいけないような顔で頬を吊り上げる。
「くひ、くひひ」
表面が意思を持って取り繕える狂人ほど、精神はより深く、より深く狂いに狂っているものである。
佐藤という縁により、幾度となくツァトゥグァという偉大なる神に対面し、魔術を授けられた人間がまともであるわけがない。何故なら旧神達と対面し、普通の人間の精神が壊れないわけがないのだから。
彼女は佐藤のお願い通り、その意図を明確に理解して願いを叶えようとしている。
しかし、それは願いに込められた佐藤の想いまでも正確に理解しているということ。
一度皮が剥ければ、佐藤の願いを絶対に叶えるために、たちまち彼女はその狂気に塗れた正体を現すことになるだろう。
「敬愛する主ツァトゥグァよ、夜の父よ。このような機会を与えてくれたことに感謝を───イア、イア、グノス=ユタッガ=ハ。イア、イア、ツァトゥグァ 」
別の世界線において、数多の人間をツァトゥグァに捧げ、破滅に追いやってきた信者が、今346プロダクションへと動き出したのだ。
すごい久しぶりだけれど、某先生のクトゥルフ神話を読んで再燃。なのでクトゥルフ要素多めです。夢の中では精神体なので、彼女のありのままの姿が見れます。だから好感を武内Pは素直に感じられたという裏話。
他の二次ものんびりですが書いております。
ちなみに、韮崎さんの公式プロフィールにおけるSAN値はゼロです。ゼロです。