あれは今からどのくらい前のことなのだろう。思い出すことができるのは声だけ。顔も名前も思い出せないのに、胸が焼かれるほどに愛しい。
ねぇ、貴方は誰?
リリリリリリリン。鼓膜が破れてしまいそうな程の大音量に顔をしかませ、音源を叩く。途端に静寂が訪れるが、それも束の間だった。
「叶!アンタいい加減に起きなよ!今何時だと思ってんの!?」
「……しちじ……」
「バーカ!八時だよ!?」
姉のその一言に、一気に目が覚める。先程思いっきり叩いてしまった時計の針を見れば、只今の時刻は八時二分前。嫌な汗が背中を伝った。
「……学校遅刻するじゃん!?」
「だから何回も起こしてやったのに……」
姉はぶつぶつと文句を言いながら部屋を出ていった。俺は急いで制服をクローゼットから取り出した。少なくとも学校までは二十分は掛かる。しかも俺には走っていく体力がない。絶望的な状況だが、まぁ、なんとかするしかないだろう。
「あー、朝ごはんどーしよ。いっか、持っていけば」
なかなか止められないスカートのホックをつけ、階段を駆けおりる。そして駆け上がる。
「リュック忘れるとか最悪かよー!」
こうして俺は最悪な一日のスタートをきったのだった。
この日の最悪な出来事がこれで終わってくれたのなら、俺は幸せだった。神様はどうやら俺を不幸にしたいらしい。
キーンコーンカーンコーン。
「セーーーフ!」
「おいおい、副会長がそれでいいのかよ?」
遅刻かどうかを判定するチャイムが鳴り出す、コンマ一秒前に俺は教室についていた。隣の席のウザイ男子がニヤニヤしながら聞いてくる。
「るっさいな。仕方ないでしょ、朝弱いんだから」
「天下の生徒会様がそれで許されていいのー?」
「生徒会は全校生徒のことを指します」
お得意のフレーズで返せば、ウザッという声が隣から聞こえた。荷物を机の横に掛け、椅子に腰かけた瞬間に扉が開いた。担任の先生がおはようと言いながら入ってくる。
「ほら、朝学習しろー」
「ねぇ、叶。理科の宿題終わった?終わってたら見せてくれないかな?」
「あ、いいよ。昨日やってき、た……ない!?」
「叶煩いぞー」
前の席に座る、毬の要求に応えようとリュックの中身を漁るが、お目当ての理科ファイルは出てこない。もしかしてもしかしなくても……
「わ、忘れた……え、信じたくないんだけど」
「ドンマーイ」
「え、大丈夫?今日提出だよ?」
うん、大丈夫じゃないね。俺はもはや魂が身体から離れてしまった気がした。もう、今日はついてない日だな……
「先生に後で言ってくるわ……」
「あーーーーーーー」
「叶、邪魔」
「だって舞ー。今日は本当に最悪だったんだよ?」
先生に謝りに言ったらちょうど虫の居所が悪く、こっぴどく叱られた後にトイレ掃除。しかもホースに穴が開いてるなんて知らなくて、水を撒こうとしたら顔面にぶしゃー。制服は何処かになくなってるし、濡れたままで残りの学校生活を過ごすはめになった。これを最悪と言わず、なんと言おう。
「まぁ、流石にぃ、今回の叶は可哀想だったかなぁ」
「光もそう思うでしょ!?」
同じクラスで全てを知っている光は哀れみの目を向けてくる。若干心が痛いが、同情してもらえているだけまだマシだ。
力が笑いながら話しかける。
「此処なら流石に何も起きねーだろ。良かったな」
「ホントだよ。もう今日は帰るときまで此処からでなーい」
「それは無理だな」
俺の言葉に異を唱えたのは生徒会長である、翔だった。俺は睨み付けながら問いかける。
「なんでだよ?」
「先生に俺とお前が呼ばれてっから」
「マジで?」
深い溜め息を思わず吐いていた。よりによってこんな日に呼ばなくたっていいではないか。
「ほら、いくぞ」
「はぁい」
「すっげぇ大したことじゃなかった。ウザッ」
「いやいや、いつもあんなことしか言わないだろ」
帰りの階段を下っている時、翔が笑い飛ばすように言ったが俺のイライラは収まらない。更に文句を言ってやろうと後ろにいる翔を振り返ったが、途端に違和感を感じた。
その時見たものはなんだっただろうか。
驚愕の表情から、必死な顔をする翔?それとも天井?
宙に浮いた身体が、地面へと叩きつけられた。
「……まだ、君は此処に来るはずではないのに」
誰かの泣いているような声が聞こえた。
「早く、戻って……じゃないと」
じゃないとなに?どこにわたしはかえるの?
「君と出逢えない」
世界を動かす時計の針は、規則正しく一瞬の狂いもなく刻んでいく。
ギギィ。重々しく、やけに鈍い音を立てた。それと同時に逆へと回る。
世界の時刻が、少し戻された。