日曜日。空は生憎の曇天で、時刻は午前五時の早朝であるため、外は暗い。起床したばかりの僕は洗面所で簡単に洗顔と歯磨きを済ませると、パジャマ姿から青色のジャージへと着替えた。ジャージの下には黒いタンクトップと短パンを着ている。
あまり少女らしくはない簡素な部屋にある姿鏡を前に、最低限の身嗜みを確認する。どうせ、これから運動して乱れるのだから身嗜みを確認しても意味はないのでは、と自分でも思ったが、女性なのだからどんな場合でも確認はするだろう。女性と鏡と御洒落は、切っても切り離せない関係だと思う。
両親が眠る家を静かに出て、出歩く人のいない静かな住宅街を十数分ほど歩く。外気は肌寒い。
海岸沿いの歩道に到着すると、そこで準備運動を念入りに行う。運動で一番怖いのは勿論怪我だ。速水奏に怪我は似合わない。
「……よし」
準備を終え、ゆっくりとした速度で走り出す。少しずつ体を運動行為に慣らし、体が温まってきたと判断した段階で一定速度を少し上げる。またその速度に体が適応したのを見計らって、速度を上げる。それを繰り返し、無理しない程度に自分の体力の限界付近に挑戦する。
「はっ……はっ……」
息が上がるが、肩に力は入れない。走り方を乱してはいけない。右手で海の景色が流れる中、しっかりと前を見据えて足を動かす。走ることに意識が集中し、心が少し無心になれた。
普段、考えすぎる性格であるため、こういう何も考えずに没頭できることは貴重だ。心が安らぐ。このままどこか遠くまで走って行きたい気分になるけど、僕の居場所はここだ。速水奏として、正しく生きなければならない。
願望ではなく、これは義務だ。
一頻り走り続け、空はすっかり明るくなっていた。
上げていた速度を最初のゆっくりとした速度まで落とし、最後は数分間歩く。
汗が肌から滲み出て、ジャージの内側に着た黒いタンクトップと張りついていた。
「暑い……」
歩きながらジャージのチャックを下ろし、胸元にヒヤリとした外気を取り入れる。
「……ふぅ」
心臓が鼓動し、汗を噴き出し続ける火照った体が冷めていく。
心地よさに目を細めて歩道の端を歩いていると、正面から走ってきたランナーと思しき男性がやけにじっと僕のことを見つめてきた。すれ違った後に何だろうと思って振り返ると、まだ僕のことを見ていた男性は慌てた様子で速度を上げて走り去っていった。
何だろうか、と思ったところで僕は理由に気がつき、「あっ……」と声を上げた。
ジャージのチャックを下ろしたことで、タンクトップから胸の谷間が丸見えになっている。このタンクトップは胸元がゆったりとしているのだ。運動で掻いた汗が浮かび、自分で見ても直視してはいけないと思えるほどの妖艶さを放っていた。
「……失態だ」
慌ててジャージのチャックを上げて着直す。
胸を見られていた。その事実に、僕はため息をつく。
油断していた。普段は大丈夫なのに、少し気が緩むとこれだ。
「はぁ……」
最近、ため息が増えた気がする。学校で男子生徒からラブレターを貰った際には必ず一回はため息をついている。たまに下級生の女子生徒から告白された後にも。どうして同性なのに同性に真面目な顔で告白するのだろうと、僕の頭を悩ませる。
「すみません。今、お時間よろしいでしょうか」
運動後のストレッチを行っていると、少し緊張を含む男性の声が背後から聞こえた。
「え……?」
振り向くと、二十代前半に見える黒いスーツを着た男性がいた。短くした黒髪と中肉中背の体格。顔立ちは少し整っているほうで、柔和な微笑みが似合いそうだった。やっぱりというか声に含まれた緊張は表情にも滲み出ていて、肩に力が入っているのがわかる。
「何か……用ですか?」
何かしら、と自然にため口が出そうになったのは、速水奏ロールプレイの賜物だ。でも、さすがに相手は選ぶ。大学生くらいの人にならため口は許されると思っているけど、明らかに社会人の人にため口を利くのは少し躊躇いを覚えてしまう。世間は意外と狭いから、最初は通りすがりの人でも、今後の人生にも繋がりがあるかもしれないのだ。愛想悪くするのは悪手だと思った。
でも、やっぱり速水奏を忠実に演じて他者と対応すべきだろうか。それとも、速水奏の将来を考えて、ロールプレイはある程度譲歩すべきなのだろうか。どうするのが正しいのだろう。
一瞬考えて、今はそれどころではないと思考を戻す。
男性は肩に下げた通勤鞄から何かを取り出そうとしている。しかし、焦っているのか上手くいかないようで、僕を見ながら愛想笑いを浮かべていた。
「あっ……」
そんな声と共に男性は鞄を地面に落とし、中に入っていたボールペンなどが転がる。
「す、すみません……」
僕は足元まで転がってきたそれを拾って渡すと、男性は申し訳なさそうに頭を下げた。
そそっかしい人だけど、悪い人ではなさそうだ。少なくとも、数人掛かりで囲って無理矢理遊びに誘ってくる若者のような要注意人物ではない。
気を取り直して、男性は鞄から透明な袋に包まれた冊子を取り出した。
そして、懐から革製の定期入れのような入れ物を出すと、一枚の紙を手にした。
その入れ物が名刺入れであり、その一枚の白い紙が名刺であることがわかった。
「私、
そう言って、青野さんという方は名刺を両手で僕に差し出した。
「ぁ、はい……」
僕はというと、相手が名乗ったプロダクション名を聞いて頭が真っ白になっていた。ぎこちない動作で名刺を受け取り、紙面の内容に視線を走らせる。
346プロダクション。アイドル事業部所属のプロデューサー、青野さん。本人が名乗った通りの肩書きだけど、改めて僕の心にその文字が浸透する。
「346プロダクション……」
そのプロダクションの名前はよく知っている。
芸能事務所、346プロダクション。老舗の企業で、芸能界では知らない者はいないだろう。人気俳優や歌手などを多く抱えていて、二年前にアイドル事業部を設立したばかりだけど、既に多くのアイドルが所属している。老舗ということで強力なコネクションがあり、たったの二年でトップアイドルと呼ばれる域に達した者も存在する。
何故ここまで詳しいのかと言うと、その346プロは僕、速水奏と関りがあるからだ。
346プロは、速水奏が所属する予定となっているプロダクション。ソーシャルゲーム『アイドルマスターシンデレラガールズ』がアニメ化され、そのアニメの中でアイドル達が所属したのが346プロだ。アニメの中で登場した時期は遅いが、速水奏もしっかりと登場している。
目の前の青野さんはアニメには名前のある人物として描写されてはいなかったはずだけど、どこかにいたのかもしれない。現実となったゲームの世界で現実の人間として、今僕の前に立っている。
見知ったアイドル達とは今までに偶然出会うことはなかった。会おうと思えば会えたと思うけど、やめておいた。下手に介入して、後に悪い影響を与えたくはなかったから。
でも、ついにプロデューサーの一人と出会った。確か、速水奏は海岸沿いのこの付近でプロデューサーと出会い、勧誘を受けたはずだ。それは合っているけど、勧誘を受けた時期は不明。状況も早朝のトレーニング中ではないはずだ。
僕がアイドルとしての体力向上を図ったために発生した相違点だ。恐らく、青野さんは出勤中に僕を見つけて声を掛けたのだろう。まさか、日曜日のこんなに朝早くから出勤しているとは思わなかった。
「あなたを一目見て、ピーンときました! 単刀直入に申し上げます」
青野さんは未だに緊張した面持ちで、言葉を溜めてから言い放った。
「346プロダクション所属の、アイドルになってみませんか?」
どうしよう。僕は困惑し、青野さんの瞳を真っ直ぐ見つめ返した。しかし、青野さんをじっと見つめたところで何も状況は変わらない。青野さんの頬が赤くなり、見惚れるようにぼうっとしただけだった。僕が見つめると大抵の人は惚けてしまうのだ。男子も女子も、大人の男性も女性も。昔、誰かに魔性の貌とか言われたのを思い出した。
結局、全ては僕の意思で判断し、選択していかなければならないのだ。
僕は考えを決め、意を決してから口を開いた。
これが、今の僕にできる最善の一手だ。
「……持ち帰って検討してみます」
「あっ、はい、ぜひ!」
とりあえず、急ぎの要件でもないので、家でじっくりと考えてみることにした。