適温のお湯がシャワーヘッドの無数の穴から音を立てて噴き出し、明るい浴室に裸で立ち尽くす僕の体を撫でる。癖のない髪を湿らせて細い肩に流れ、白い肌を伝っていく。綺麗な丸みを帯びた胸へ、背中から綺麗な曲線を描いて辿るキュッと締まった腰へ、適度にふっくらとした臀部へと流れた。
お湯の熱は体に浸透し、心地のいい熱で僕を支配する。
「ふぅ……」
体の熱を絞り出すように息を吐き、シャワーハンドルに手を掛ける。
浴室から水音が止み、水の滴る小さな音だけが耳に入る。
浴室の鏡を見ると、当然の如く速水奏がいた。芸術品と見紛うほどの裸身を晒し、神秘的な魅力を感じさせる顔には無感情が張りついていた。眦の吊り上がった目は普段よりも細められ、鏡越しの僕を射貫いている。
やっぱり、普通だよね。
僕は両頬に手を当て、ぐにぐにと表情筋を解す。別に固まっているわけではない。早朝のランニングのように、鏡の前でビジュアルの練習も日頃から積んでいるのだ。喜怒哀楽の表現などはお手の物、だと思う。
そんな僕でも、わからない点がある。
どうして初対面の人は皆、僕を見て惚けるのだろう。確かに奏は綺麗だけど、ゲームやアニメではそういう描写はされていなかった。ただ見惚れているというには、今までであってきた人達の反応は過剰に思えた。まるで、魅了の類だ。
「……考えても仕方ない、か」
鏡を見続けていてもわかるはずはない。
頬から手を離し、浴室から脱衣所へと出た。
タオルで全身を拭って着替えを終え、髪をドライヤーで乾かしてから居間へ向かう。
「おはよう、奏」
「おはよう、父さん」
精悍かつ怜悧な相貌に僅かばかりの眠気を露わにし、食卓の席に姿勢よく座る大柄の父さん。新聞から逸らした視線で僕を一瞥する。そんな父さんと挨拶を交わし、僕も食卓の自席に腰を落ち着けた。
「おはよう、奏」
「おはよう、母さん」
台所から母さんが背中まで届く髪を揺らしてやって来た。二十代にすら見える若々しい顔に普段通りの微笑みを浮かべている。手には、焼いたばかりのトーストと目玉焼きを乗せた皿があった。僕の前にその皿とコーヒーの入ったマグカップを置いた。
「はい、朝ごはん」
「うん。ありがとう」
いただきます、と言ってから食事を始める。母さんも僕の正面の席に座る。
「……ん、何?」
視線を感じ、視線の元である母さんに尋ねる。何故か、いつも以上にニコニコしていた。
「んー、何でもない」
背丈以外にも母さんは僕とそっくりな顔であるが故に、僕には母さんの感情が表情から容易く見て取れる。何か嬉しいことがあったに違いない。
「誤魔化さないでよ。どうしたの?」
「何かあったのか?」
僕に続いて気になった様子の父さんも母さんに問いかけてくれた。
すると、母さんは話をしてくれそうな様子で口を開いた。いったい何だろうと思いつつ、僕は口元にマグカップを運んだ。父さんも同じタイミングでマグカップを傾け、コーヒーを飲んでいた。
「奏がアイドルになるって知って、嬉しくなっちゃって」
「んっ……!?」
「うぐっ……!」
僕と父さんが同時に喉を詰まらせ、咳払いをする。
いったい何故、母さんは僕がアイドルになることを知っているのか。それは考えるまでもない。
「……部屋に入ったでしょ」
「うん、入っちゃった」
「それで、パンフレットを見たわけ? 346プロダクションの」
「うん、見ちゃった。名刺も」
ごめんね、と舌を小さく出して言う。とても四十近くの三十代には見えない。前に家族三人で外に買い物へ出掛けたら、姉妹に間違われて軟派されたことを思い出す。ちなみに軟派は、その時にお手洗いから戻ってきた父さんの一睨みで散らされた。
「勝手に部屋に入らないでほしいんだけど」
「一人娘の部屋があまりに殺風景だから、お花を飾ろうと思っただけよ」
「それもいいから」
元々僕は物を置かない性格だ。それでも小中学生時代にはサッカーボールとか置いてはいた。今はもう家の庭にある倉庫にしまっていて部屋にはないけど。あれを出す日はもう来ないと思う。もう少し、サッカーはやっていたかったな。
僕が少し懐かしんでいると、父さんが空咳をした。
「……奏。アイドルになるという話は、本当か?」
父さんのよく響く低音ボイスを耳にし、僕は少し身構えた。
父さんは娘である僕の生活について度々言及してきた。無断外泊は禁止。明確な門限はないけど、帰りが遅くなると玄関で父さんが待っていることは多かった。怒られるわけではない。納得のいく理由を伝えれば頷いてくれる。
納得のいく理由を。
「……本当」
「なりたいのか。アイドルに」
父さんが真っ直ぐ僕を見つめる。俳優と言われても素直に信じられる顔で、軟派を退散させる眼差しよりも少し度合いを緩めた眼差しで。それでも威圧感は身を以て感じられる。この眼差しを直視して平然とできるのは母さんくらいだ。
でも、その母さんは今、少しハラハラした様子だった。自分のせいで娘が追い詰められていると罪悪感を抱いているのだろう。僕と父さんの顔に落ち着きなく視線を交互に移し、口を開こうかどうか迷っている。
「……なりたい」
なりたいというよりは、なる必要がある。心の底からなりたいと思ったことはない。
「理由は?」
だから、納得のいく理由は伝えられない。
「ならなくてはいけないから。だから、アイドルになる」
「ならなくてはいけない? それは理由か?」
「うん……」
それ以外に言えない。言えないからといって、安易な誤魔化をしても通用しない。
説得力は皆無。きっと反対されるだろう。
だけど、結果は違った。
「……ならばいいだろう」
「えっ」
反対されるかと思っていた僕は、意外な返答に声を上げた。
そんな僕から視線を外し、父さんは新聞を読み始めた。
「自分で正しいと思っているのなら、それでいい。何が正しくて何が間違っているかは、お前なら判断できるだろうからな。わざわざ俺を諭す必要はもうない」
「ありがとう……」
「やるからには頑張れ。応援はしてやる」
「うん」
「……アイドルになれば、恋人は作れないだろうからな」
父さんが小さな声で何か言ったけど、よく聞き取れなかった。
「え、何か言った?」
「……何でもない」
「そう?」
「奏。今、お父さんが言ったのはね」
「母さん、やめなさい」
楽しそうに言う母さんを、父さんが慌てて止めに入る。
すっかりと気の緩んだ朝食の場。僕も心の中でほっと安堵していた。
だけど、父さんとの会話が少しだけ心の中で、しこりとなって残っていた。
自分で正しいと思っているのかどうか。その点については、僕は断言できなかった。
前世の自分を捨て、このまま速水奏として生きるのが正しいのか。正しいと思う自分と、そうではないと思いたい自分がいる。その二つは今もせめぎ合っていて、現時点では最適解を導き出すことはできない。
本当に、悩みすぎるのは悪い癖だ。
どういう流れか、イチャイチャし始めた両親を尻目に、僕はトーストに齧りついた。
朝食を終え、僕は部屋に戻った。
机の上には、青野プロデューサーから貰った346プロダクションのパンフレット。そして、名刺だ。
机の席に座って背もたれに背を預け、パンフレットを透明な袋から取り出す。
346プロダクションという企業についての説明と、有名な俳優や歌手、アイドルの紹介。インタビュー形式でそれぞれの職業について語っている。アイドルの代表としてパンフレットに掲載されていたのは、トップアイドルの
高垣楓もまた、速水奏と同じく『アイドルマスターシンデレラガールズ』の登場人物だ。
僕はパンフレットの楓さんの写真を見つめた後、天井へと視線を移した。
「何が正しいのか。やってみないとわからないよ……」
アイドルにならないという案は僕にはない。それならば、あれこれ考えるよりもまずは行動に移すべきだろう。考えすぎて空回るのは時間の無駄。今まで空回ってきたのだから、注意しないといけない。もはや癖のようで、注意して直るものでもないだろうけど。
時には思い切りが大事。
そう考えた僕は携帯電話を取り出すと、名刺に書かれた番号へと電話を掛けた。