「……ん……?」
少女、更識 簪は眠りの中から覚醒する。彼女が意識を取り戻して最初に飛び込んできた景色は、見覚えの無い白い天井であった。蛍光灯の光が目に入ると、彼女は思わず開けた目を今一度瞑り直す。
光に慣れた今度こそ確かに目を開け、彼女はそのまま自身の身を起こそうとする。起こすことには成功したが、その際にジリジリと身体のあちこちに痛みが走り、思わず顔を顰めてしまう。
「ここは……?」
見覚えの無い天井となれば、当然この場所にも覚えがある筈が無く。
しかし自分の周りにある清潔感のある真っ白なシーツや幾つかの医療器具を見る限り、ここは病院か何かだろうということは容易に推察出来た。
一体どれくらい眠っていたのだろうか、いつの間にここに運び込まれていたのだろうか。置いてけぼりとも言えるこの状況に、簪は肺の中の古い空気を取り換えるように大きく息を吸い、そしてゆっくり吐き出した。
「私、どうなったんだっけ…………っ!!」
深い呼吸で脳が本格的に機能し始めたことにより、簪は気絶する前の状況を呼び起こした。ビルドに敗北し、大切なベルトを奪われた。取り返そうにも身体は起き上がることすら叶わず、ただその場で手を伸ばすことしか出来なかったあの苦心の時間を。
簪は焦った様子で周りを手探り、見渡して肝心の物を探す。もしかしたら自分の手元に残ってくれているのではないかという淡い願望を抱いて。
だが現実はそう甘くはない。あの後ビルドが返してくれたわけでもなく、ベルトは簪の手元から完全に無くなっていた
その事実を改めて突き出された簪は、自分の身体を覆う白いシーツを皺が出来るまで強く握り締める。
怖れ。とある企業から秘密裏に受け取った物をこのような形で失ったとなれば、責任を追及されることは間違いないだろう。どんな理由であろうとも、彼女はベルトをその手から零してしまったのだから。
悔しさ。ビルドを超える存在になると言われながら、肝心のビルドに勝てなかった。加えて向こうはまだ余力があるような印象で、それがより一層簪自身の力不足を感じさせた。
嘆き。また自分は『奪われた』。姉からは自信を、一夏からは専用機を、そしてビルドからは手に入れた仮面ライダーの力を。
「なんでっ……!」
何故自分ばかりこのような目に遭うのだろうか。どうして神様は自分に辛い現実ばかりを押し付けてくるのだろうか。
どうすれば、いつになれば、この苦しみから解放されるのだろうか?
積み重なる理不尽な出来事は、次第に彼女の心を侵食していく。
やがて彼女の心には、一抹の炎が灯り始める。『正』に属する熱意、情熱の類いとは対称的な感情、つまり『負』の――。
「簪ちゃんっ!」
それと同時に、彼女の病室に来訪者が現れる。
嘗て無い程に最悪のタイミングで。
――――――――――
簪が病院に運ばれて間も無く、IS学園に彼女の身元特定の依頼が届けられた。身分証の類いを所持しておらず、一夏達も面識の無い相手だったので彼女の着ていたIS学園の制服を手掛かりにするしかなかったからだ。
特定まで左程時間は掛からず、早い段階で彼女の身元が明らかとなった後は保護者である更識家へ連絡が渡った。加えて同じ学園に通っている彼女の姉――更識 楯無にも同じ内容の報せが届けられた。
妹が病院に運ばれた。
その報せを受けてからの楯無の行動は非常に迅速だった。ここ最近所用で学園から離れていた間に溜まった仕事を消化中だったところを即刻切り上げ、病院へと急行。途中の交通手段を用いる際には鬼気迫る表情を浮かべてモーセよろしく人混みを真っ二つに分けたり、タクシー運転手にプレッシャーを掛けてスピードを速めたりとスムーズに此方に来ることを叶わせた。
楯無は妹の簪をとても大切に想っている。幼い頃はいつも一緒に遊んでいて、布仏家という従家に属するところの姉妹と計4人でいることが多かった。その中でも、たった1人の姉妹である簪とは、特別な繫がりを楯無自身も感じていた。尊く、掛けがえのない絆であった。
しかし、いつからだっただろうか。
そんな仲良き間柄に、亀裂が生まれてしまったのは。
「簪ちゃんっ!」
楯無は病院に辿り着くや否やロビーで簪の病室を聞き出すと、エレベーターを待つ間も惜しんで階段を全力で駆け上がり、彼女の病室に駈け込んで来た。後から病院関係者に怒られるだろうが、楯無にとっては妹の元に1秒でも早く来れるなら構わないと考えている。
室内にいる簪の姿を早速捉えた楯無は、容体を目視で確かめる。ザッと見たところ幾つか包帯を巻いている個所もあるが、特に酷い怪我は無いことを確認して安堵する。連絡を受けた際は容体を聞く前に切ってしまっているほどに慌てていたからだ。
後は楯無としては簪の顔を見られればそれで良いのだが、対する彼女は姉の入室があったにも関わらず、ずっと俯いたままである。ピクリともしなかった。
「かんざ――」
ひょっとして、見た目以上に具合が悪かったのだろうか?
そう思った楯無が声を掛けようとしたその時、簪も一歩遅れて口を開いた。
「何しに来たの?」
「――えっ」
簪の口から放たれたのは、恐ろしいくらいに低い声であった。楯無どころか、言った本人も聞いたことが無いくらいに低い声。
楯無は思わず呆けた声を漏らした。ひょっとしたら今のは自分の聞き間違いなのではなかったのかと、己の耳を疑った。
だが、俯いたままの簪が続けて放った言葉で、それが聞き間違いでないという現実を突きつけられる。
「なんの用で来たのって、聞いてるんだけど」
「え、あ、あの……簪ちゃんが、病院に運ばれたって聞いたから、その」
ちゃんと説明しようにも動揺で口が回らず、何度も口ごもる楯無。その姿からはいつもの明るく陽気な様子は微塵も見えない。
そんな楯無の様子に追い打ちを掛けるかのように、簪は言葉を繋げる。
「笑いにでも来たの?こんな私を……」
「わ、笑いになんて来るわけが無いわ!私はただ――」
「あの時ああ言ったのは、こういうことだったんだね」
「え……?」
一瞬、簪が何を言っているのか楯無は分からなかった。彼女がその言葉の意味を知るのは、次の簪の言葉を聞いてからであった。
「『あなたは何もしなくていい』……それってつまり、私がどう頑張ってもこういう無様な結果にしかならないっていう意味だったんでしょ?」
「っ!?……違う、違うの!そんなつもりで言ったんじゃ――」
「その通りだったよ……結局私、何も残せなかった。漸くこれからだったっていうのに……もう終わっちゃった」
簪が企業から借り受けていたベルトは既に戦兎の手中にある。返すつもりは無いと面と向かって言われた以上、もう彼女の手に戻ることも無いのである。
本来ならば企業の物を他人に奪われたと向こうが知れば、どのような請求・叱責が来るか分からない。簪の心中にはそんな不安の渦も巻き始めていた。
勿論、楯無にはそんな昨今の簪の状況など知る由も無い。ここ数年は妹とまともに話も出来ない状態が続き、同じ学生寮に住んでいても楯無は生徒会長や実家の仕事があって彼女とゆっくり話をする機会を作ることも出来なかった。
尤も、それを実行させる勇気も起こせなかったのだが。
故に楯無は今の簪の思いがどうなっているのか全く掴めずにいた。コミュニケーション能力に長け、人たらしとも言える彼女も妹の前ではその力を発揮出来なかった。
そして……。
「か、簪ちゃん。一体何があったのか私に教えて――」
「うるさい……!!」
「――っ!?」
簪の方は既に限界を迎えようとしていた。度重なる境遇によって精神的に追い込まれていた彼女は、姉である楯無がトリガーとなって感情を吐き出していく。
楯無の言葉を強引に遮り、唖然とさせる程の強い語調。既に秒読みは開始されていた。
「あなたに話したって、理解してくれる筈が無い……1人でなんでも出来て、人気者で、誰からも求められるようなあなたなんかに私の気持ちが分かる筈が無い……!」
「簪ちゃん……お、お願い。私の話を――」
「もう放っておいてよっ!!」
感情の爆発。
病室の外にまで及ぶ程の大きな声で拒絶の言葉を放つ簪。普段物静かな彼女が打ち明けた強い心の叫びは、酷く悲愴に満ちていた。
「もういいでしょ……1人にさせてよ……」
簪は再び俯くと、掠れた声で独り言のようにそう呟く。放っておいてほしい、1人にさせてほしい、それは紛れも無い今の彼女の本心である。
そんな彼女に対して施せることは2種類のみ。彼女の言う通り素直にここから立ち去るか、それとも強引にでも彼女の傍に居座り続けるか。
果たしてどちらが正解なのかは、誰にも分からない。選んだ道から先は行動次第で更に枝分かれしていく中で、今の時点で彼女を救う手段はどれなのか。そもそも存在しているのか。
決断を強いられる選択の時。楯無が選んだのは……。
「ご、ごめんね、簪ちゃん……本当に、ごめんね……!」
これ以上妹に嫌われたくない。その恐れから弾かれるように病室を出ることしか、楯無には出来なかった。
――――――――――
丁度その頃、シャルロットたちと別れて暫く街をぶらついていた織斑 一夏も簪のいる病院へと再び足を運んでいた。
シャルロットたちには『用事があるから』と伝えていたが、実はそれはただの方便。少し1人で考え事がしたかった為に彼は単独行動を取り、再び病院に戻ってきたのである。
一夏の考え事、それは主に簪のことであった。
彼女に面と向かって告げられた。『私に苦い思いをさせたあなたなんかに、助けられたくない』と。助けが必要な状態であったにも関わらず、彼女の手が一夏へと求められることは無かった。
「(……やっぱり、あの子と出会った覚えは無いんだよなぁ)」
1人になって落ち着いたところで、小学中学の記憶を辿って彼女の人相に心当たりが無いか探ってみたが、は一向に思い付かなかった。だとすると、ラウラの時のように姉の千冬絡みで恨みを買っている可能性も出てくる。
しかし考えたところで真実には至らず、やはりここは直接聞いた方が確実なのではないだろうかと考え始める一夏。
簪の病室の階に辿り着き、階段の角を曲がろうとしたのと同時に対面の曲がり角から勢い良く飛び出してきた人と衝突する。
「うおぅ!?」
「きゃっ!?」
相手側の勢いが強く、一夏がそのまま押し倒されるような形でバタン!と共に地面に倒れ込む。
幸いにも両者に怪我は無かったが、倒れた拍子に女性の腰をちゃっかり大胆に掴んでいることに一夏が気付いた。服の上からでも分かるスレンダーさ、それはしっかり武術で鍛えられたような細さと柔らかさに加え、筋肉で僅かに固さも――。
「ご、ごめんなさいっ!」
「え、あ、はい!……あれ?」
謝ろうと思っていた一夏は、いつの間にか謝られていた。もし同じことをIS学園の幼馴染みたちや友人たちにした暁には、今頃顔面に拳やら蹴りやらが叩き込まれていたことを覚悟していたので、先に謝罪を受けて変な返事を返してしまった。
そういえば向こうは走ってたみたいだし、それで謝ったのだろうと彼の中で合点がついた頃には、ぶつかった女性は階段を急ぎ足で降りていた。
「……そういえば今の人、あの更識さんって人と髪の色が同じだったような……」
咄嗟の出来事だったので人相までは確認出来なかったが、髪の色が簪と同じだということは流石に分かった。親子ではあまりにも歳が近すぎるような感じだったので、もしかすると姉妹か何かもしれないと一夏は1人考えていた。
目的の階層、そして目的の病室の前に辿り着いた一夏は、入室の前にノックを行おうとした。
……しかし、その手は中から聞こえてきた啜り泣きによって扉に触れる前に止まった。
「うっ……ぐす……」
「……」
啜り泣き以外に声は聞こえて来ず、恐らく簪が泣いているのだろうということは一夏も分かった。
今まで女の子が泣いている場面に出くわした際、一夏は大抵何があったのかを訊ね、その解決に向けて手を貸してきた。『困っている人がいたら助けるのは当たり前』、それが彼の抱く持論である。
だが……。
―――あなたなんかに、助けられたくない。
簪の言葉が頭をよぎり、扉の前に据えた手が動かなかった。
今の一夏に彼女を救う方法は無い。それが現実であった。
―――続く―――
久しぶりの投稿にも関わらず鬱な話を出す鬼畜の所業!