フェイト達が空の山賊のアジトで狸の耳と尻尾をもつ少年を見付けているころ。
アレンは岩山のエリアを抜けて、再び茂み深くなった景色に目を細めた。どこからともなく濃霧が立ち込めてきている。
「……これを」
胸ポケットからハンカチを取り出して、妖精に託す。受け取った彼女は、どこか不思議そうにアレンを見た。
「口元に当てておいてくれ。この霧の感じ……、何か妙だ」
油断なく左右を見渡す。
妖精は気付かなかったが、腰に差した刀は、霧が濃くなってから、ずっと左手で握られていた。いつでも抜刀できるように。
「う、うん」
どこか不安げに頷く妖精に、ふ、と微笑って、アレンは再び走り出す。
それは天性といってもいいのかもしれない。
「……破っ!」
濃霧のせいで妖精の視界が利かない中。突如現れる木のモンスター、グレープパインよりも先に、アレンの斬撃がグレープパインを切り裂く。原理は分からない。
だが彼曰く
――モンスターの木は、微弱だが瘴気を帯びている。
こちらの殺気に反応してくれば、真偽を見極めることは可能だ。
ということ、らしい。妖精には、まったくちんぷんかんぷんの話だが。
「……そこか」
グレープパインを切ったアレンが、すかさず走り出した。
「え?」
妖精が要領を得ない間に、景色が目まぐるしく変わっていく。
アレンが立ち止まった場所。そこは一見すれば、ただの沼だった。
だが清濁を見分けられる妖精には、すぐ異変がわかった。ふもと付近の泉とはまったく違う、禍々しい瘴気を発する沼。
ぶる、と身体が震えたのも、そこに強大にして邪悪な何かが棲んでいるのを感じ取ったためだ。
彼女の傍らで、アレンが静かに顔をしかめた。
「……アミーナ……」
沼の前に、ぐったりと倒れている少女がいる。彼女を見据えて、アレンは、ぐ、と刀を握った。
そのとき、沼が壮大な泥飛沫を上げて、三十メートルほどの巨大な泥人形を起き上がらせてきた。
ざっぱぁあああんっ!
沼の主、マッドマンだ。その巨体を見上げて、
「除け」
言った蒼の瞳が、静かに冷える。
まるで鋭利な刃物のように。
澄んだ刀身のように。
――『兼定』と同じ色に。
アレンが刀を抜いて跳び上がった。同時。気と紋章術で強化された彼の下半身が地を蹴る。
どん、と。
一瞬、眩い光を地面に発して、三十メートル近いマッドマンの頂へ。
いや。
それよりも上へ。
彼の襟首に張り付いた妖精が、目を見開く。
「ちょっ! ちょっと待っ――!」
彼女が飛翔できる高度を遥かに超えた中空に、身体が浮き上がる。上昇中はまだいい。
問題は――、
降下。
「いっ、やぁああああああああ……!」
耳をつんざくような、妖精の発せられる限界の
が。
その声にも眉一つ動かさず、アレンはこちらを見上げるマッドマン目掛けて、ぐ、と上体を屈める。引き抜かれた状態の『兼定』が、妖しく輝いた。
黄金に。
その彼を牽制するかのように、マッドマンが野太い腕を振り上げる。が。アレンは、構わなかった。
ず、……
と。頭上に腕をかざした体勢のマッドマンに、剣先が触れる。瞬間。マッドマンを貫くように、縦に一線、光の柱が迸った。
落雷。
ごぉおおおおんっっ!
聴覚を麻痺させる轟音が立つ。
思わず目をつむった妖精は、は、として顔を上げた。ぎゅ、と硬くアレンの襟を掴むが、あまりの高度だ。投げ出されてしまうと、そう確信していた。
なのに。
「あれ……?」
そよ風すら、彼女に触れてこない。
不審に思って顔を上げると、彼女の前に、いや、アレンを包むように、金の薄いヴェールが張られていた。
(
目を丸くしながら、胸中でつぶやくと、心に余裕が出来たのか、彼女は目を見開いた。
マッドマンが、一刀両断される様。
それはある種、夢か幻のように思えた。
(すごい……。私、土の中を走ってる!)
まるでトンネルの中へ誘われているようだ。
アレンの斬線に合わせてマッドマンの巨体が左右に割れていく。まったく抵抗を感じさせずに、重力に従って。
沼の表面と刃が衝突する。瞬間。アレンが跳び退いた。
沼が、割れる。両断されたマッドマンが、か、と輝くや炎が爆ぜる。
ズガァアアアンンッッ!
マッドマンの生えた沼から噴き出した炎はマッドマン全体をあっという間に包み込み、断末魔を上げるマッドマンを天に連れていくようにして上空へ舞い上がった後、かき消えていった。
炎はまるで、飛翔する竜のようでもあった。
妖精は、ぽかん、と口を開けたまま、つぶやいた。
「沼ごと、斬っちゃった……」
放心気味の妖精とは違い、アレンは深刻な表情で納刀するや真っ先にアミーナのもとへ向かった。ひざまずいて、彼女が倒れた体勢のまま、あまり身体を動かさずに状態を検める。
彼の傍らでまたたいた妖精は、渡されたハンカチを口元から離した。
「あれ……?」
ふわり、と中空に舞い上がる。山頂を覆っていた霧が、いつのまにか晴れている。
「そっか……。
アミーナを診ているアレンの所へ戻ると、彼は屈みこんでアミーナの耳元に呼びかけていた。
「アミーナ! しっかりしろ! 返事は出来るか!? アミーナ!」
ぴく、と瞼を奮わせるアミーナ。幸い意識があるようだ。アレンは、こく、と頷いてブルーベリーと水筒を取り出す。最初に水筒の水で手をすすいだ彼は、ブルーベリーを片手で器用に潰した。種と皮を除いて、細かくした実と果汁を、水筒に入れる。
今度は先ほどより声音を落とした。
「飲めなくてもいい。軽く口に含んでくれ」
ゆっくりと彼女を抱き起こして、ブルーベリーをすりつぶした水を慎重に注ぐ。アミーナは多少咳き込んだ後、苦しげに眉をしかめ、しばらくしたあとで力強く飲み込み始めた。
水を求めるように、アミーナの腕が空を掻く。喉が乾いていたのか、一気に水を流し込もうとして、アミーナの顔が歪んだ。その彼女の肩を、アレンはゆっくりと叩く。
「慌てず、ゆっくり飲むんだ。ゆっくり……そう」
細々と動く喉の様子を見ながら、あやすように優しく囁く。
きりのいいところで、彼女から水筒を引き離した。もう一度、彼女の首筋に手を当てる。
(――少しは、正常に近づいたか……)
とりあえずの安堵だった。しかし、熱がある。
ブルーベリーを与えたことで多少の体力は回復させられたが、早く街に戻って点滴を打つべきだろう。
外傷はない。運べる。
ざっとアミーナの身体を検めて、アレンは頷いた。脱いだコートでアミーナがこれ以上体温を逃がさないようくるむ。
「この女(ヒト)、大丈夫なの?」
「……いや。まだ楽観はできない」
妖精の問いに答えながら、慎重にアミーナを担ぐ。ぐったりしてアレンの肩に頭を乗せた彼女は、まだ意識が朦朧としているようだった。
「うぅ……、オン……」
うわ言をつぶやくアミーナをちらりと一瞥して、アレンは妖精に言った。
「急ごう」
前を見据えたアレンは、器用に小型通信機を取り出しながら、走り出す。
クリフからの応答はない。
(二十キロ下に信号があるな……。そこか)
また道なき道を走り出す。アミーナのことを考えて、上下の振動を最小限に抑えながら、それでも彼は速度を緩めなかった。
「あ! 待ってよ!」
慌てて妖精もアレンの肩に飛び乗った。さきほどまでは広々としたスペースに、いまは少女《アミーナ》がいる。その寝顔が、アレンの肩から首にぴたりとくっついた彼女が、なんとなく妖精には気に入らなかった。
(……なんでだろ?)
不思議な違和感に首を傾げながら、妖精はちらりとアレンを見上げる。
先を急ぐ彼に、迷いはない――。
その横顔を、じ、と見据えて、妖精は無言のまま、彼の襟を掴んだ。
来たときよりも、力強く。