シランドへ続く巨大な平原、イリスの野。
満月を迎えた夜は、いつにも増して冷え冷えとしていた。平原は見晴らしがよく、獣による夜襲の心配も無いが、逃げ場も無い。ネルは岩に、そ、と腰をかけた。
(シランドまで、後少し……)
夜更け、というにはまだ少し時間が早い。すでに野営の準備を終えたフェイト達は、疲れを溜めない為に眠りに就いているだろう。とはいえ、火番は交代制なので仮眠に過ぎないが。
本来なら、ネルももう床についている時間だ。だが何故か、今日は目が冴えた。気分転換にこうして独りになっているのも、心を落ち着ける為だ。
「新兵器に頼らない、戦争か……」
零れた言葉が、夜に散っていく。
フェイトの意志は、今も変わっていないのだろうか。
そんなことを考えながら見上げた月は、分厚い雲に覆われようとしていた。
ネルは神妙な面持ちで押し黙る。
あの夜も、こんな雲の多い夜だった。父の帰りを、ずっと独り、待っていた夜も。
「眠れないのか?」
彼女は顔をしかめた。
よりにもよって。
そう舌打ちしながら、絶妙なタイミングで現れたアレンを見る。クレアの部下が親切で作ったグリーテンの制服らしきものを、几帳面に着こなした青年。今は昼間に持っていた剛刀を手にしていないが、代わりにブロードソードを腰に差していた。
思えば、彼には反感ばかり覚える。
だから、だろう。
ネルは拳を握り締めた。
「……そういうアンタこそ、こんな所に来てどうしたんだい? 火番なら、今はフェイトのはずだよ」
「あなたに、一度確認しておきたいことがある」
邪険にするつもりはないのだが、ネルの口調に棘がこもった。協力者に対して、その態度は適切でないと分かっていても、どうしても表に出てしまう。
この青年の瞳が、ネルを苛立たせるのだ。
理想ばかりを口にする、迷いの無い瞳が。
「確認? ……兵器開発に協力はしないっていう、例の話についてかい?」
「いいや」
怪訝にアレンを睨むと、彼は静かに首を振って、腰に差した剣を構えた。
「手合わせ願いたい。無論、全力で」
言うなり、すいと剣尖がネルを向く。剣を中段に据えた自然な構え。周囲の空気が、ふ、と低下した。
殺気――!
咄嗟にネルは短刀に手をかける。柄を握りこんだところで、彼女は息を呑んだ。
(隙が無い……!)
睨まれたことは、一度だけある。だがそのときとは、まるで空気が違っている。別人だ。
「……っ」
氷塊を背に押しつけられたように怖気が立った。アレンはただ、剣を正面に向けているだけだ。なのに、ごろり、と飲んだ唾は、半分以上が
ネルの苛立ちが一層増す。自分が怯えているのが、手に取るように分かった。
「上等じゃないか! 手加減しないよ!」
「……来い!」
大声を張り上げて己を奮い、ネルは地を蹴った。一足飛びで、アレンの懐へ。短刀ゆえ、
止まれば、ネルに勝機は無い。
「風陣!」
叫ぶと同時、ネルの身体に刻まれた施紋が淡く輝いた。瞬間。突風が彼女を取り巻く。
(風の壁か)
風の化身となったネルを見つめて、アレンはつぶやいた。――その瞳に、焦りは無い。
「はぁっ!」
疾風の如く踏み込んだネルが、最高速度で短刀を薙ぐ。同時。ネルの身体が、後方に吹き飛ばされた。
ドンっ、と。
鈍い音を立てて。
「か、はっ!?」
見開いた目で、アレンを見る。と、ブロードソードを右手で握った彼が、空いた左手をネルの方に突き出していた。それも、一瞬。
(気功――!?)
ネルが胸中で叫ぶと同時、目の前に現れたアレンが、後方に飛んでいるネルの脇腹を蹴る。バランスの取れない状況でネルは両腕を挟んだものの、蹴りの衝撃を緩和し切れなかった。思わず、たたらを踏む。くぐもった声をあげながら、アレンを睨む。
対する彼は、ブロードソードを掲げ、上段から振り下ろした。
――速い。
「っっ影払いッ!」
ネルは彼の足元に向けて短刀を振るった。状態を、彼のバランスを崩せば――。
「……っ、っっ!」
そう思って振るった短刀が、ぴたり、と止まった。十字を切って二連に続く技を、ブロードソードが押しとめている。短刀が交叉する、その僅かな接点を突いて。
――一瞬前まで、振り上がっていた筈の剣が。
「……遅い!」
アレンが鋭く叫ぶと同時、ネルは後ろに吹き飛ばされた。短刀を軽く払った一線が、凄まじい威力で彼女の痩身を地面に投げ捨てる。
「ぐっ!」
平野の草にまみれながら、ネルは受身を取って呻く。見下ろすアレンは、涼しい顔をしていた。
「技の出が遅い。施力を溜めるのに時間がかかりすぎだ。それに技を打った後の硬直も長いな。……つまり、隙だらけだ」
「……っ!」
アレンを睨んで、ネルは短刀を握り締める。
「はぁっ!」
反射的に立ち上がった彼女の踏み込みは、先よりも速かった。
「……それだ!」
再度、アレンを薙ごうとした短刀が、呆気なく弾かれる。右から左に走った剣線が完全に流され、ネルの体勢が左に大きく傾ぐ。
「体重移動が遅い。踏み込みはもっと速く! 体勢を崩されても体幹は常に崩すな!」
ネルは右足でたたらを踏んで、右の短刀を一閃する。今度はやや直線的に。下から伸びる鋭い突きだ。が。パンッ、と刃を怖れることなく、アレンの平手が短刀を弾く。
「短刀は腕の延長だ。それ自体は大した武器じゃない。問題はいかに隙なく敵の攻撃をいなし切り込むか! もっと体術を組み合わせて攻めて来い! 俺に息をつかせるな!」
「くっ!」
(勝手なことを――!)
アレンに短刀を弾かれて、ネルの体が少し開いた。右足の位置が悪い。これでは、体重を乗せて左の短刀が触れない。
だが。
(舐められてばかり、いるものか!)
意地になって、ネルは左の短刀を振った。腕力だけを使った粗末な一振り。キン、と甲高い音を立てて、ブロードソードに止められる。
それは、予測通り。
左手に体重をかけながら、ネルはバランスを直すために右足をすくい上げて、踵からローキックを叩き込む。が、読まれていたのか、相手が足を引く方が速かった。内心で舌打ちし、そのまま体位を入れ替え、ネルは改めて地面を蹴る。
「あんたの意識! 絶たせてもらうよ!」
吼えた彼女の闘気に呼応して、短刀が炎を纏う。施紋が輝いた。切り上げるネルの斬線を、アレンが紙一重で横にかわす。が、間髪置かず、ネルは振り上げた短刀を振り下ろした。アレンが剣を握った右腕の肘で、短刀の軌道を僅かにずらす。同時、真下から掬い上げるような、炎を纏ったネルの蹴りが伸びた。
半身を切ってそれをかわし、続く、ネルのサマーソルトキックをバックステップで回避した。同時、左右から二振りの短刀が振り抜かれる。それを視界の端に、ちら、とアレンは蹴りを放ったばかりのネルの足を見た――。
まだ地面に着いていない。
初撃の――左の一線に威力は無い。
(……………………)
案の定、弾いた剣線の感触が軽い。が、
それから、息を吐かせぬネルの乱打。気丈にも、間を置かずに左右から短刀を振るうネルの姿勢が傾いでいく。無理矢理な体勢であることは彼女も承知しているだろう。アレンは流れるようなネルの乱撃をかわしつつ、彼女の攻撃の間に蹴りを挟んで、彼女の傾きを正した。
二十合以上打ち込んで、一発も当たらない。
純粋な実力差を確信したときには、ネルの心はいつしか無になっていた。
「……くっ!」
(あと、もう少し――!)
気付けば、夢中になっていのだ。
まさか蹴撃で自分の姿勢を正されているとはネルも気付かない。不思議なほど自然に、体重移動させて短刀を振るっている。それは彼女が知る、自分自身の剣速をはるかに上回る
なのに、当たらない。
だが、惜しい。
(後一寸詰めれば、当たる――!)
その事実が、ネルの集中力を極限に高める。身体に刻んだ、施紋が煌く。
力で押し負けた彼女が、やや間合いを空けた瞬間。ネルは左手を掲げて雷を放った。
「喰らいな!」
ドォオオオオンンッッ!
青白く平野が閃く。追撃に、ダッシュで間合いを詰め寄ったネルが、短刀を閃かせた。
「……甘い!」
「!?」
雷撃を放った位置に追撃の短刀を振るったネルは、突如、横から現れたアレンに目を見開いた。肩で当身を食らわされ、痩身の彼女が、また、平野に吹き飛ばされる。
「……くっ!」
思わず呻いた彼女は、草むらに投げ出された体勢から起き上がろうとして――、アレンを見上げた。
ブロードソードを納めた彼を。
「まだ勝負は……ッ!」
「今の連撃は悪くない。だが、まだ実戦で使える技じゃないな」
静かに歩み寄ってきた彼は、す、とネルに手を差し伸べた。
「アーリグリフ三軍の長は、それぞれが相当な実力者と聞いている。……精進していこう。共に」
「……!」
きょとんと目を見開くネルに、アレンは静かに微笑って、彼女を引き起こした。
「……アンタ、どうして……」
思わず零れた言葉は、シーハーツの行動に否定的だった彼の言動に対して、だ。
ネルが意図をつかめず呆然としている間に、アレンは失礼にならない程度に、彼女に外傷がないか確かめた。
「兵器は作らない。……だが、あなた方を負けさせはしない」
「!」
言い切るアレンを、じ、と見据える。どこか自信に満ちた彼の眼差しは、迷うことなくネルを見返していた。雲に覆われ、薄くなった月明かりの夜でも。
「パルミラ平原での、あの問いの答えを聞いてもいいか?」
「……………………」
何故か泣きたくなった。だが、間違ってもそんな感情は表に出さない。ネルは、きゅ、と唇を引き結んで――、一拍置いてから、アレンに問い返す。
「本当に、私達が勝てるって……そう言うのかい?」
「勝ちはしない。だが、
そして、あなた方にも――。
そう続くアレンの声が聞こえたようで、ネルはやりにくそうに顔をしかめた。
「……それで、本当に戦争が終わるって?」
「約束する」
きっぱりと言い放たれる。
俯いた。
――
それは、まるで自分では無いような気がする。
なのに。
「私は……、これ以上、私を慕ってくれる者や、幸せに生きている人を失いたくない……。そのために、出来ることやりたいんだ……」
理不尽なこの世界で、その願いは呆気なく踏みにじられてきた。だから、綺麗事を吐くことも理想を抱くこともやめた。自分自身の、非情になりきれない、弱い自分を戒めるために。
だが、それでも。
もう、待つだけの時間は過ごしたくない――。
思わず吐露しそうになった言葉をネルは飲み込んだ。何も、ここまで言う必要は無い。慌てて心の鍵をかける。
「そうか……」
つぶやくアレンを見上げると、彼は穏やかに笑んでいた。ネルはそっぽを向く。
ずっと誰も言わずにいた、一人で抱え込むしかなかった心の傷に気づかれそうだったからだ。
不機嫌に顔を歪める。
歪めた、筈なのに。
(……なんだ、って言うんだ!)
不思議と、笑みのようなものも浮かんでくる自分に、ネルは戸惑った。アレンが身を翻している。
「……どこに?」
「返事は聞かせてもらった。だから、フェイト達の所に戻る」
「……ちなみに、どう解釈したんだい?」
こちらを一瞥したアレンが、ふ、とだけ微笑って、何も言わずに去っていく。
「ちょ、ちょっと……! 深い意味は、無いからね! 言葉通りの意味なんだ!」
特に恥ずかしい事を口走ったわけでもないのに、ネルは早口にまくしたてた。アレンが淡白に、ああ、と返事をしてくる。
大体、この男は思わせぶりなのがならない。
弱い自分を、見られたくない心の傷を、あの微笑の下で悟ったのやとネルに思わせるのだ。
「間違っても、フェイト達には言わないでくれよ! 分かってるんだろうね!?」
「ああ、了解した」
アレンが苦笑する。
だがネルの猜疑心は晴れず、一見奇妙な彼女の弁論は、フェイト達のいる野営ポイントに着くまで延々と続けられた。
野営ポイントで待っていた、フェイトとクリフの状態を見るまで。
「……っ!」
思わず、ネルの口が、足が、止まる。
焚火のある野営ポイントで待っていたのは、外傷こそないものの、衣服がぼろぼろに擦り切れた状態で、まるで死体か何かのように、昏々と深い眠りについているフェイトとクリフの姿だった。
おそらく先程のネルと同じ様に、手合わせしたのだろう。
「……少し、やりすぎたか……」
その彼等を見据えて、アレンが困ったように頬を掻いている。それを、じ、と見上げて、ネルは無言のまま、三歩、後ずさった――……。