入団試験を終えたナツメが控え室を出ると、ウォルターともう一人、冠を被った壮年の男が彼女を待っていた。
肩まである褐色の髪と、短く整えられたヒゲ。そして精悍そうな男の顔。
一目で彼が王だと思わせる、一種のカリスマ性。
それにナツメが表情を引き締めると、国主、アーリグリフ十三世は、微かにつり上げた唇で笑った。
「見事な腕前だったな」
「あ、ありがとうございますっ」
言って、ナツメは、かっ、と軍靴を揃える。
そもそもウォルターを脇に従えるほどの男だ。間違えようも無かった。
「国主、アーリグリフ十三世陛下とお見受けしてよろしいですか?」
「ああ、そうだ」
問うナツメに、アーリグリフ十三世は悠然と頷いた。敬礼しながらナツメはやはり、と口の中でつぶやく。目の前の国主は男臭い笑みを浮かべるなり、態度を軟化させた。
「そう固くなる必要はない。ウォルターより話を聞いてな。お前に興味を持ったのだ」
柔和に笑う彼に、ナツメは不思議そうに瞬きを落とす。
「興味、ですか?」
「うむ。あの待ちに徹した剣さばきなど、俺は見たことがない。グリーテンには、あのような刀の使い手がいるのか?」
問われて、ナツメはどうにか、違います、と即答しかけた自分を抑えて虚空を見上げ――、考えをまとめる。
「グリーテン……というより、私の恩師が指南してくださった技なんです」
「ということは、独自で編み出したというのか? あれほど高度な剣術を!?」
思わず声を荒げる国王に、ナツメは何と言っていいものか、更に頭をひねる。下手を言えない状況で、息をするように適当な嘘が吐けるほど、ナツメは器用ではない。
数秒思考して、彼女は答えた。
「……恩師は、剣術を父に習ったのだそうです。恩師の父も軍人だったそうですから、もしかすると軍の型なのかもしれません。直接聞いた事がない上に、私も軍人ではないので詳しいことは知りませんが」
「……そうか。しかしその歳でそれほどの剣の腕とは、我が軍も見直さねばならぬな」
顎に手をやって考え込む国王を、ナツメは不思議そうに見る。剣が得意という自信はあるが、『それほどの』と称されるほどの腕だと、ナツメは思ったことが無い。
ゆえに国王が感銘を受けていることが、ナツメには理解できなかった。
(この方は……、何をそんなに興奮されているんだろう?)
何故なら自分は――今まで一度も勝ったことがないのだ。正確には、勝敗を気にする前に一撃も入れたことすら無い。
その現実が彼女の実力と、彼女が持つべき自信を縁遠くさせていた。あのアルベルを相手に、さほどひけを取らない実力を持っているにも関わらず。
と。
傍らのウォルターが右手を上げる。控えていた兵が、甲冑を手に歩み寄ってきた。
漆黒の甲冑――アーリグリフ重装騎士団の甲冑だ。
「ナツメよ。我が王は、お前が早く軍に慣れるよう、まずは城内を回れと仰っておる。小僧は先に帰ったようじゃが、後で漆黒の者にお主を案内させよう。それまで、ゆるりと見て回るが良い」
「はい」
敬礼を取って、ナツメは甲冑を受け取るナツメ。腕にのしかかる鉄の防具は見た目通り重厚で頑強だ。優に十数キロあるだろう。足腰の負担が増すのは間違いなかった。
(……まあ、これも鍛錬ですね)
甲冑を届けてくれた兵に礼を言って、ナツメはウォルターと国王に一礼した。満足そうに頷いた国王が、笑みをたたえてその場から去っていく。その彼が廊下の角を曲がるまで見送って、ナツメは控え室に入り直すと、早速もらった甲冑を身につけ始めた。
「……ぅ、やっぱり重いですね……」
そこに更に、
恐らく、この装備だけでナツメの体重近い重さがある。
(手甲一つが三キロとして、胴衣が十、帷子(かたびら)が十、兜が五、膝当てがそれぞれ五……。漆黒の団長が甲冑を着ないのも納得だ……)
しかし規則は規則である。
部屋に鏡はないため、正しく着られているかもわからないまま三十分ほど格闘して、ナツメはようやく控え室から出た。
屋外直結のこの部屋は、左手に訓練場、右手に城内、という位置取りだ。
野外の冷え込みが、容赦なく甲冑の隙間から入ってきた。
「うぅっ、……っっ! こっちの方が寒いんですね……!」
思わず身を縮めて、ナツメは城内に戻る。甲冑でこれ、ということは、ウォルターや国王、そしてアルベルと言った人物は皆、この低温の中を風の通る服でいるということだ。
がたがたと震え出す身体を抱きしめながら、ナツメは大したものだ、と頷いた。身体を温めるためにも城内を歩くしかない。城の構造など微塵も理解していなかったが、もともとはそれを把握する事が目的だ。
城内の警備兵は既に国王から達しが出ているのか、ナツメの姿を目にしても、これといった反応は示さなかった。
………………
――そして。
彼女は、自身が持つ決定的な欠陥を、ようやく思い出した。
長くアレンにたしなめられ続け、常に団体行動を取るよう義務づけられていたため忘れていた、自分に潜む決定的な欠陥を。
「…………あれ……?」
彼女は方向音痴だったのだ。――それも極度の。
きょろきょろと周りを見渡して、ナツメは首を傾げる。慣れない場所である所為で、余計、彼女の方向感覚は鈍くなっている。
(困りましたねぇ……)
眉根を寄せて、顎に手をやる。むむむ、と唸りながら記憶を掘り起こして、何とか、元居た訓練場まで帰ろうと試みるも。
………………
徒労に終わった。
「ぐ、くぅぅ……っ!」
拳を握り締め、滲み出す涙をこらえながら、それでもめげずに出口を――否、知り合いを探す。正確には、傍を通る人間を。
が。
見当たらない。
(確か、謁見の間は上にあるって話だったな……)
ナツメは仕方なく窓に歩み寄ると、そこから顔を出して左右を窺った。下は何も無い、ただの広間だ。現在地は二階。見上げれば、更にうず高い位置に窓がある。
「よし」
つぶやくなり、彼女は窓枠に足をかけ、うず高い天窓へ飛びついた。手が、頭上の窓枠にかかる。
瞬間、
「冷たっ!」
思わず怯んで、手を引きかけた。地上まで十メートル。咄嗟に思い出して彼女は、ぎょ、と目を見開くと、必死に指先の力を込め、一気に片腕で窓枠の上まで体を持っていった。
どうにか脚をかけられ、よじ登る。
「ふぅ……!」
九死に一生とはまさにこのことだ。
偶然入った部屋は、だれもいないからか、真っ暗だった。
「ん?」
物置か、とつぶやきかけた刹那、ぬ、と暗闇より現れた大きな影に、彼女は目を見開いた。
「あ……!」
最初に目が合ったのは、瞳だ。ナツメのそれよりも何倍も大きい、赤と黒の瞳。左右違った色の瞳が、松明の炎に照らされて、じ、とこちらを見据えていた。
城のうず高い天井に、今にも頭がつきそうな、巨大な竜だった。
ずる……っ、
「う、わわっ!」
驚きのあまり、バランスを崩してナツメは窓枠から落ちかけた、ところを何とか耐える。
改めてその巨大な竜を、じ、と見据えて、彼女は何度も、瞬きを繰り返した。
「竜?」
疾風は竜に乗る、とウォルターが言っていたのを忘れて、彼女は首を傾げる。否。竜という初めて見る生命体に、彼女の思考が、一瞬、固まったのだ。
天井近くにある、換気窓に腰掛けたナツメと、まったく同じ高さにある竜の顔を見据えて。
彼女は、か、と目を見開いた。
「竜っっ!?」
ざ、と思わず身を引く。途端。また窓からずり落ちそうになって、彼女は必死に、窓枠を引っ掴んだ。
と。
「我が塒(ねぐら)に何の用だ? 娘よ」
地底から響くような重低音が、ナツメの耳に届いた。
「へ?」
瞬きを落として、脳を停止させるナツメ。その彼女に、オッドアイと呼ばれる赤と黒の瞳を持つ竜は、ぬぅ、と体を迫り出した。
丁度、ナツメと数十センチの距離まで接近する。
「……見ぬ顔だな。漆黒の甲冑を着ているが、何者だ?」
オッドアイは、すぅ、と目を細める。その彼を置いて、ナツメはハッと我に返ると、反射的に敬礼体勢を取った。
換気窓ゆえ、直立することは出来ないが。
「あ、はい! 私、新たに漆黒に入団することになりました、ナツメ・D・アンカースと申します!」
名乗ると、オッドアイは低く唸った。
威嚇しているようにも聞こえる、が、それよりもっと抑えた低い声。知り合ったばかりのナツメには判別がつかないが、これは彼が思考に入った時の癖だった。
「あの」
その彼に、おずおずとナツメが声をかける。すると、細めた目を、す、と開いて、オッドアイが向き直った。
「貴方が……、飛竜、と呼ばれる種族の方ですかっ?」
ナツメの瞳が好奇の色でキラキラと輝いている。それを、じ、と見据えて、オッドアイは如何にも、と低い声で応えた。
「じゃあ……! 疾風の人は、皆、貴方のような方に乗って空を飛ぶんですね!?」
オッドアイが二度目の頷きをする前に、ナツメは興奮した様子で、凄いなぁ、とつぶやいた。
心底、純粋に。
その、疾風に憧れるアーリグリフの人間とは少し違うナツメの興奮に、オッドアイは不思議そうに目を丸めた。
「アーリグリフの人間ならば、誰でも知っていること。……お前は、アーリグリフの者ではないのか?」
「え!? あ、……はい。実は私、グリーテンの方から来たんです。人捜しに」
言いながら、はは、と愛想笑いをする彼女は、どこか困ったように頭を掻いた。誰がどう見ても怪しい様子だが、それはオッドアイの知る、注意すべき悪人とは違う。
彼女の持つ気配が、そう告げている。
(そして、何より)
心中でつぶやいたオッドアイは、目を細める。
目の前の少女を見据え、ただ、すぅ、と。
この少女には他の人間にはない、『混じり気』がある。
はっきりとは分からないが、注意して見なければオッドアイでも見落とすほどの、些細な香りだ。
それは不気味ではなく、むしろ心地よくオッドアイの興味をくすぐる。
「……不思議な娘よ」
低く喉を鳴らして、目を細めるオッドアイに、ナツメが首を傾げる。と。彼女は、に、と破顔して言った。
「娘ではなくナツメとお呼びください。飛竜さん」
初めて会った知らない生物を前に、ナツメは物怖じせず言う。
かと言って、多くの人間がそうするように、相手を見くびる訳でもなく、丁重に。そんな彼女の態度に、オッドアイは少なからず好感を覚えていた。城の兵達のように、必要以上に腰が低い訳でもない、彼女に。
「ならば、我はオッドアイだ。ナツメよ」
「はい! よろしくお願いしますね!」
健康的に笑う彼女に、オッドアイは低く、喉を鳴らす。それを肯定と取ったナツメはふと、背中を振り返った。何か、物音が聞こえたのだ。城の外――雪の所為で良く見えないが、遥か遠くから、物音が。
「あれは……?」
不思議に思って振り返った先には、アーリグリフを抱く山脈だった。その山と山の谷間に、黒い影が無数にある。
カラスか、と首をひねった。だがそれにしては、影がやや大振りに見え、この雪の中、群れを成して飛んでいる事に一種、違和感がする。
どこがどう、というわけではないが、直感的に。
すると。
傍らのオッドアイが、ナツメの見る方角を見据えて、静かに呟いた。
「我が同胞の群れだな。……疾風か」
規律正しく隊列した一団に、オッドアイは目を細める。
野生の飛竜は、成人すれば群れを成さない。それが鉄則だ。
目の前の少女が、ば、とオッドアイを振り返った。
「あれが疾風ですか……! ……確か、入隊試験には疾風の団長がいらっしゃらなかったから、任務か何かですか?」
「………………」
黙すオッドアイに、不穏な空気を読み取って、ナツメの表情が改まる。と。ばさ、と羽音を立てて、オッドアイが翼を広げた。
瞬間、
静かにうずくまっていたオッドアイの体が、三倍ほど大きくなったように感じられた。
「!」
思わず、目を見開くナツメ。その彼女には構わず、オッドアイは、ごぉおおお、と低く唸った。
途端、洞窟のような部屋が揺れる。
が、ががががが、がこ……ぉんっ、
天井が震えた。まるでオッドアイに臆すように、石の擦れる、古い音を立てて屋根が左右に割れていく。
「へ?」
見上げるナツメの頭上から、はらはらと雪が降り込んできた。完全に、空と繋がったそこに、ナツメ同様、視線を向けたオッドアイは、口を大きく開けて咆哮すると、広げた翼を一気にはためかせた。
ごぅ……っ!
風が、起きる。
突風だった。
「わ! 、わわっ!」
窓にしがみついたナツメの痩身が、甲冑で、倍近く重くなった筈の彼女の体が、簡単に宙に上がる。
かじかんだ指が、つるりと窓枠から離れた。
「え゛!?」
思わず目を見張るナツメの体が、なす術も無く浮き上がる。途端、翼をはためかせたオッドアイが、空へと飛び立った。
ばさっ、ばさっ……!
「ぎょえぇええ!」
突風に揉まれ、涙を振り乱すナツメ。死を覚悟した瞬間、宙に投げ出された彼女は、必死に、微かに当たったオッドアイの胴にしがみついた。
風を切り、凄まじい速度で飛び立つオッドアイの巨体が、あっという間に城から離れていく。
「ひ、ひぃいいいい!」
オッドアイの体にしがみついたナツメの悲鳴が、宙ぶらり体勢で怯えている彼女の魂の叫びが、ひたすら遠く、山間に響く。
オッドアイが陸に下りる、その時まで――。
………………
…………
勇壮に空を翔る、オッドアイが地上に降りたのは、雪の無い山奥だった。岩石の多い、赤茶けた山。バール山脈だ。
「ふ、ふぃ~……」
ようやくの地面に、腰から下の緊張が途切れ、へたり、と倒れこむナツメ。その彼女を、オッドアイは思い出したように見下ろすと、凛々しい瞳を、少しだけ丸めた。
「お主も来たのか。ナツメよ」
「…………ついて来た、というか。まぁ……」
疲れ切った様子でつぶやく彼女に、わずかに首を傾げるオッドアイ。しかし、その彼女の話は最後まで聞かず、彼は周囲を見渡した。
城から見えた、あの疾風達の姿がない。
「逃がしたか……」
わずかに目を細め、つぶやく。と。彼の足元でうろちょろしていた少女が、は、と息を呑んだ。瞬間。すぅ、とナツメの目に、緊張が走る。
「どうした?」
気配が変わった少女を見下ろし、問うオッドアイに構わず、ナツメが走り出す。
歩幅は明らかにオッドアイが上だが、その彼でも素早い、と思わせるほどの脚力で、彼女は地面を疾駆する。
だっ!
この山に棲むブラストドラゴンと同等か、それとも――。
そんな思考に落ちている間に、ナツメの背がどんどん小さくなった。何事だ、と首を傾げながら後を追うと、人間の男が、二十人近い武器を持った人間に囲まれていた。
オッドアイに人間の男女を見分ける力は無かったが、取り囲まれている男の方には、見覚えがあった。
「奴は、……シェルビー」
肩で息をし、腹を抱えたシェルビーは、息も絶え絶えに獲物の戦斧を握っていた。彼の背後にはバール山脈の険しい崖。取り囲んだ人間は、すべて山賊のような出で立ちだったが、その動きに無駄は無く、顔に覆面をしていた。
自らの身分を隠すように。
「き、さまら……!」
歯噛みするシェルビーに、覆面の男達は容赦が無い。両手で大剣を天に向け、統率の取れた所作で、じりじりと間合いを詰めている。
普段のシェルビーならば、相手取れない敵ではなかったかもしれない。
だが。
ぽた、ぽた……、
流れる血が、シェルビーから自由を、力を奪う。そして対峙した二十人近い男達は、そんなシェルビーが、戦斧を落とすのを待つように、彼を睨んだまま動かなかった。
が。
「いやぁああああ!」
突如、男の一人が、剣を振った。シェルビーの顔が引きつる。ただ一瞬、貧血で気が抜けた所を、男が狙ってきたのだ。
「いやぁああ!」
続く、他の男達も一斉に剣を突き立てる。距離は二メートル。周囲を囲まれ、最早逃げ場は無い。
――死っっ!
目を瞠った。漆黒副団長として、栄誉ある未来を約束されていた筈の自分が、今、恐怖に毛をそばだてた。
剣が迫る。
さばき切れるほどの余力は、ない。
そのとき
「ノーザンクロス!」
突如響いた声と同時。シェルビーの目の前を囲んでいた男達が、現れた氷柱に薙ぎ払われていった。
がこぉおんっっ!
迫り出すように地面から現れた氷柱が、男達を薙倒したのだ。
「ぐぁあああ……!」
横殴りに近い形で、側面から衝撃を受けた男達が、地面に転がり落ちる。
「何!?」
氷柱の不意打ちを免れた後ろの男達が、周囲を見渡した。瞬間。少女は間合いを詰めていた。
「クロスラッシュ!」
斬っ、と縦に走る一閃が、声を張り上げた男を斬る。ついで、だっ、と地面を踏み込んだ少女は、居並ぶ男達を二閃目の横薙ぎにて討ち取った。
「くっ!」
慌てて、ナツメに向き直る男の首に、瞬間、つ、と刀が突きつけられる。
「それ以上動くと、斬ります」
少女の声が冷える。思わず息を呑んだ男は、伝う冷や汗を隠して、か、と目を見開いた。
「ひぃやぁああ!」
「!」
完全に勝負を取ったナツメが、わずかに目を丸くした。首に刀が付いているというのに、男が構わず剣を振ってきたのだ。何、と眉をひそめたのも束の間。男と交差する瞬間、その男の鳩尾に柄頭を叩き込む。白目を剥いた男が泡を吹いて地面に倒れ伏せていった。
「……ふぅ」
それを見届けて、ナツメは刀と剣を納める。
一応、全員生かせている。ナツメは問いかけた。
「さて。事情を聞かせて頂きますよ」
特に、最初のノーザンクロスで脳震盪を起こしているだけの連中を振り返ると、立ち眩みから回復した彼等は、他の生きている仲間を引き連れて、崖淵に立っていた。
「なっ!?」
思わず、目を見開くナツメよりも先に、男達が一斉に崖下へと跳び下りる。
「――っ!」
駆け寄って男達を掴もうと、ナツメは手を伸ばした。だが掴んだのは空。顔を引きつらせた彼女は、崖下で、どぉんっ、という爆発音が響くのを聞いた。どこまでも続く、崖下から。
それをジッと見据えて、ナツメは潤む目にぐっと力を込めて、唇を引き結んだ。それから硬く目をつむり、ぶんぶんっ、と雑念を追い払うように首を左右に振る。
彼女は気を取り直してシェルビーへと向き直った。
重傷で、息も絶え絶えのシェルビーを。
「大丈夫ですか?」
走り寄ってシェルビーに問いかける。力ない視線を上げたシェルビーが、ナツメを見るなり訝しげに顔をしかめ――、地面に倒れた。
「……あ、あの?」
気絶しただけとはナツメも分かったが、状況が分からずにまた尋ねるしかなかった。返事は返ってこない。
少なくとも、何か深い事情があると肌で感じた彼女は、ゆっくりと後ろを振り返って、弱った視線をオッドアイに向けた。
「え、えぇっと……。どうしましょう?」
つぶやく少女に、オッドアイは、ぐるるる、と喉を鳴らす。
凛々しく細まったその瞳は、何か、深い思考に落ちているようだったが、その彼の考えをナツメが耳にすることはなかった――……。