八年前、宇宙暦七六四年。
それは突然起きた。
彼女の都合など構わず、彼女の希望など、紙切れ同然に吹き飛んでいった。
惑星、エクスペル。
街から程遠い、広大な森に囲まれた村は、銀河連邦加入を果たした今でも、青々とした自然を残していた。
ナツメ、七歳。
「コラッ! ナツメ! 明日は村のお祭りがあるんだから、ちゃんと手伝いなさい!」
後ろから、ぴしゃり、と降った声に、ナツメは肩を震わせた。
二階にある自分の部屋から、昨日用意した靴を手に、外へ出ようとした時の事だ。
しまった、と反射的に口を押さえて、彼女は満月のように丸い目を何度も瞬かせる。
振り返ると、躾に厳しい母親が、両手を腰に据えてこちらを睨んでいた。その母にナツメは、へにゃ、と愛想笑を返すと、母はいつも通り、片眉をぴくりと震わせた。
「手・伝・い・な・さ・い!」
強い調子でもう一度念を押される。しかし、ナツメは手に持った靴を放さないまま、びくりと肩を震わせてつぶやいた。
「で、でも……、約束したのです。今日はおじいさんが、わたしに剣をおしえてくれるって……」
「ナ・ツ・メ!」
「うぅ……っ」
呻くと同時、込み上げる涙をどうにか押しとめるナツメ。その少女を、じ、と見下ろして、母は腰に手を据えたまま、いい? と続けた。
「あなたには、剣術なんてものは必要ないの。女の子はそんな事をやらずに、立派に家事をこなしていれば、その内素敵なお婿さんが迎えに来てくれて、幸せになれるのよ」
もう何度も言い聞かされた、母の得意文句だ。それを半分聞き流すように手元の靴をいらいながら、ナツメは遠慮がちに口を開いた。
じ、と母を見上げて。
「でも……、剣ジツは『そのうち』じゃなくて、今、しあわせになれます。とってもたのしい。わたし、だい好きです」
言って、得意げににんまりと笑う彼女に、母の声がぴしゃり、と響いた。
「いけません! あなた、昨日も痣を作って帰ってきたところでしょう? もうこれ以上、そんな危険なマネをさせるわけにはいきません! 母親として!」
「……うぅっ」
眉根を寄せて、ナツメは困ったように首を傾げる。
確かに昨日の稽古で受けた腕の傷は、まだズキズキと痛むが、それでも祖父に剣を教えてもらい、褒めてもらう度に、ナツメの心はわくわくしている。その稽古での興奮と緊張に比べれば、こんな傷の痛みなど、彼女にはどうということの無いものだった。
母には、分かってもらえないが。
だからそれをどう伝えればいいのか、ナツメは悩む。
痛くない、と言うのはダメだ。以前使って、凄い反発を受けてしまった。
(うぅ~……)
考える。何か、この楽しさを知ってもらう方法を。
と。
腰に手を当てて、仁王立ちしていた母が、す、と表情から厳しいものを消した。ナツメの目の前に膝をついて座り、絆創膏だらけの娘の頬に、つ、と触れる。
母の語調が、和らいだ。
「……ナツメ、あなたに剣の才能があるかも知れない事は、お爺様から聞いているわ。でもね。母さんは、あなたが怪我をするのが辛いの。お爺様に打ち込まれる度、折れそうになるあなたを見るのが、怖い。……分かって」
祈るように。
ぎゅ、とナツメを抱きしめて、つぶやく母に、ナツメは何も言うことが出来ない。
父が生きていた頃はまだ、これほど剣を習うことに反対されていたわけではなかった。
だが、その父が半年前に他界してからは、ナツメが剣を持つ事を、母は極端に嫌った。娘の剣が上達する度、軍に上がるのでは、と顔を蒼くし始めたのだ。
と言っても、父は軍人ではなく、商人だった。その父が、アールディオンと連邦の抗争に巻き込まれて、他界したのだ。それから母は『軍』という存在に極端な怯えと、憎悪を抱くようになった。
幼さゆえにこの頃のナツメに、そんな母の心境は分からなかったが、それでも何となく、母が『軍』を嫌っているのは知っていたため、ナツメ自身も『剣=軍』というイメージを払い切れなかった。
だが。
だからといって、母を慮って自分の好奇心を抑えるほど、自制心が育っていたわけではない。故に結論として、ナツメは母にバレない様、こっそりと祖父に剣術の指南を受けようとしたのだ。
――上手くはいかなかったが。
(しっぱい、です……)
残念そうに肩を落として、ナツメは森で待っている祖父に、心の中で謝る。
祖父は、母がこうして、ナツメが剣を習うことを嫌っていると知って尚、彼女に剣を教えてくれる唯一の肉親だ。
母の――父にあたる人物。
その彼の存在が、ナツメの中の罪悪感を希薄にさせる原因でもあった。と言っても、一番の原因はやはりナツメ自身の自制心の欠如、であるが。
「ナツメ……。可愛い子。私の一番大事な、大切な子」
つぶやく母に、優しく撫でられる感触に、ナツメはくすぐったさを覚えて、嬉しそうに目を細める。
母が大好きだ。厳しいが、それでも優しい。ふんわりと笑う、彼女の笑顔が中でも一番、大好きだ。
そして剣を教えてくれる、祖父も大好きだ。まだまだ剣の腕はついていけないが、ナツメが上手く踏み込む度、手を叩いて褒めてくれる、祖父が大好きだ。
稽古場の森も、ナツメは大好きだ。
特に朝陽が差した森は、木漏れ陽がまるで光のカーテンのように綺麗で、しぃん、と静まり返る。その厳粛な雰囲気が、大好きだった。
―――すべて、失ったが。
「お、かあ……さん?」
それは、突然起きた。
前触れも無く、突然に。
今日の稽古を諦めて、ナツメは大人しく、豊作を願う祭りの水を森まで汲みに行った。バケツ一杯、同い年の子より三倍は大きいバケツを、得意げに提げて帰った時の事だ。
「はぁ……っ、はぁ……っ!」
急いで走ったが、もう夕暮れも過ぎて、夜になろうとしていた。それでもナツメは危なげなく家に戻り、汲んできた水を、母に預けようと息を切らせた。
そんな時の事だ。
閑静な村が、炎に覆われていた。
ごぅごぅ、と。森に燃え移りそうなほど、激しく。
最初、ナツメはそれを祭火だと思って歓声を洩らした。今年は例年よりも盛大な炎だと。村の広間を使って、いつもより高く木を積んだのだろうかと。
だが。
「おかあ、さんっ!」
明らかに様子が違った。村を徘徊するのは村人ではなく、ライフル銃を構えた男の群れだ。彼等は無作為に、――いや、大声で何か話していたが、火の勢いが強すぎて、ナツメの耳には届かなかった。
慌てて、母の安否を確かめようと飛び出す。
瞬間。
どどどどどどっ!
業火の中で、男のライフル銃が怒号を上げた。
たまたまナツメの目の前を通りかかった中年の女性が、背中を撃たれて崩れ落ちる。
「っ!」
ナツメは目を見開いた。村の、パン屋のおばさんだ。
いつもナツメがパンを買いに行くと、育ち盛りだからと、小さなコッペパンをおまけしてくれる、気さくなおばさんだ。
その、おばさんの背から――、
どろどろと、血が流れる。
じわり、と広がる血溜まりの中で、ぽっかりと空いた口が、目が、恐怖で引きつっていた。
「っ、ぅっっ!」
ぎゅ、と胸元をつかんで、ナツメは声を上げまいと息を呑んだ。バケツを足元に置く。目の前の自宅に駆け出そうとしたが、今出ては殺される。
(……ふ、ぅ……っ!)
目から溢れる涙を、ぐ、とこらえた。
おばさんが、あのいつも笑顔のおばさんが、その死に顔が、瞼の裏に焼きつく。それでも、ナツメは意を決して踵を返した。自分の家に急ぐ。森を迂回すれば、男達に気付かれず家に着けると知っていた。
自分が、こっそり剣術を習いに行くルートを通れば。
「お、かあさんっ!」
ごしごしと涙を拭いながら、それでも溢れる涙に、ナツメは視界を滲ませながら、家に向かう。
すると、
ごうごうと燃える、自分の家が見えた。
最早一階は火に覆われている。外周を回っただけなのに、自宅の玄関はもう、見る影も無かった。
「おかあさんっ!」
涙目になって、駆け出す。
考える余裕などなかった。
一目散に、家へ。
ごぅっ!
燃え盛る炎が、そんな少女を正気に戻したのは、灼熱の片鱗を彼女に浴びせたためだ。頭上から降ってきた火の粉に、ナツメは、ひっ、と悲鳴を上げた。思わず手で振り払い、その火の粉の熱さに、息を呑む。
「っ、っっ!」
肉を焼かれる痛みが、右腕に走る。痛いとも、痒いとも言えない、壮絶な感触が。
だが。
それよりも、
「おかあ、さんっっ! おかあさっ、っ! おかあさぁあああんっっっ!」
燃える我が家に、流れる涙の感触に、胸が締め付けられる。
どうすればいいのか、分からない。
ただ祭りの準備のために、母が中で料理を作っていた事を、ナツメは知っていた。
だから――。
母を呼び、泣き叫ぶことしか出来なかった。
「ナツメ!」
不意に、自分の名を呼ばれて、ナツメは動きを止めた。
じんわり、と別の涙が込み上げてくる。聞きなれた声。何度も自分を呼んだ、声。
母の声だった。
「おかあさぁああんっっ!」
ナツメと同じく、母も森の中で騒ぎが収まるのを待っていたのだ。娘の姿を見つけて、慌てて駆け寄ってくる彼女に、ナツメも駆け出す。
否。
母は、この騒ぎの中、娘を探して村中を走り回っていた。
故に、
ナツメは、気付くべきだったのだ。
母が、自分を見つけて喜んでいるだけの表情ではないと――。
「きゃぁああああああ……っっ!」
急に叫んだ母の声に、ナツメは驚いて、びく、と動きを止めた。
母との距離は、約1メートル。
そこで、
どんっ!
銃声が響いた。すぐ、近くで。
母が前のめりに倒れる。
ナツメを抱いて、前のめりに。
どどどんっ!
ナツメの耳に、また銃声が聞こえる。今度は三つ。
密着した母の体が三回、銃声に合わせて揺れた。
「が、ふっ……っ!」
母が、吐血した。
「――え?」
ナツメはつぶやく。
何が起きたのか、理解できない。ただ母は、ナツメを掻き抱いたまま、地面に倒れた。覆いかぶさるように、前のめりに。
そして――、
かしゃんっ、
本来なら、叩きつけられるように地面に倒れたナツメを、母の腕がクッションになった。母の腕と、肩の隙間から――母を撃ち殺した、ライフル銃を持った男が、エネルギーの切れたカートリッジを、地面に投げ捨てた。
そして、
どどどどどどどど……っっ!
補填し終えたライフルを、撃ちまくる。ナツメのよく知る村人を、友人を、家族を。
ただの一人も、生かさぬように。
母に抱かれて、ごうごうと燃える炎から。聞こえる銃声と悲鳴が、その一部始終を物語っていた。
「きゃぁあ……っ!」
「助けてくれぇ!」
遠く聞こえる、見知った人の断末魔。それが目を見開いたまま、凍り付いたように固まった、少女の耳に届く。
目の前には、自宅を焼く地獄の業火。
連邦軍が、テロ鎮圧に成功したのは、発生から五時間後の事だった。
………………
銀河連邦第六深宇宙基地、総合医療センター。
珍しく、多忙なヴィスコムに声をかけられ、施設に足を運んだアレンは、何故自分が連れて来られたのか、理解できずにいた。
「……あの、提督?」
向かったのは、医療センターの奥の病室だった。
ナースステーションに寄って、慣れた様子で先行くヴィスコムを呼び止めると、廊下の突き当たりを右に曲がったところで、ヴィスコムがようやく振り返ってきた。
「君に是非、会ってもらいたい子がいるのだ。アレン」
思わせぶりに言って、ヴィスコムは視線で病室を示す。
「?」
話の趣旨が読めないながらも、アレンはヴィスコムの視線に従った。指示された病室の、中を見る。
「……?」
病室は四畳ほど。ベッドとサイドテーブルが置いてあるだけの簡素な部屋だった。
そこに、少女が一人。
ベッドの上で、小さく丸まっている。眠っているのか、ぴくりとも動かない。
檻のような、幾重もの隔壁で孤立したこの病室の住人は、まるで生気が無かった。部屋の照明が、部屋を明るく見せている筈なのに、どこか暗い。
アレンは、ヴィスコムを振り返った。
「……提督、彼女は?」
問うと、アレン同様、部屋の少女を見据えたヴィスコムは、少しだけ目を細めて、辛そうに息を吸い込んだ。
「アレン。君は三年前起きた、エクスペルでのテロを覚えているかね?」
病室を、じ、と見据えたまま、視線の動かないヴィスコムを見上げて、アレンは表情を改める。ヴィスコムの顔色が暗い。理由ありの少女である事は説明されなくとも分かる。
問題は、これからヴィスコムが言おうとしている、話の本題だ。
アレンは事実関係を把握するために、慎重に答えた。
「宇宙暦七六四年に起きた事件ですね。確か、アールディオンに内通したゲリラ部隊によって、アーリアという村が占拠された――、もしや彼女はその時の?」
問うアレンに、ヴィスコムが頷く。アレンは驚いたように、目を丸くした。
「ですが、あの事件は占拠された村人が全員殺害されるという、近年でも最悪のテロだと」
「そう。私も、当時はそう思っていた。……だが。事件発生から三日後、遺体処理を担当した部隊が偶然、瓦礫の中で母親に抱かれている彼女を発見したのだ」
つぶやくヴィスコムに、アレンは病室に視線を落とす。
その情報が公開されない理由は、何となく察しがついた。
ベッドの上でうずくまった少女。サイドテーブルには、冷めたスープと、一口もかじられていないパンがある。
「……………………」
ぐ、と拳を握るアレンの姿に、ヴィスコムは頷くと、少女、ナツメを見やって、説明を続けた。
「察しの通り、彼女は今、完全に心を閉ざしてしまっている。唯一のテロの生存者。彼女から有益な情報が得られればと、連邦上層部がこの施設に彼女を預けたのだが。この三年間。出される食事には一切手をつけず、ベッドの上でずっとああやったままだ。……実際に、私が彼女と知り合ったのは半年前だがね。少なくともその間に、彼女は、眠ることさえなかった」
「催眠薬の投与は?」
「勿論やっている。だがその度に幾許かの眠りについた彼女は、必ずショック状態に陥るのだ。大量の冷や汗と不整脈で体温が下がり、四肢が痙攣し始める。静脈が落ち込んで注射による鎮静剤投与もままならない。――我々はただ、彼女が自然に落ち着くのを待つしかないのだ。医者も、生命維持装置がなければとっくに死んでいると言っていたよ。……そして、そのショック状態は、部屋を消灯した場合でも起きた。彼女は『闇』に、強い恐怖心を抱いている」
心が、壊れている。
そうつぶやくヴィスコムに、アレンは少女を見下ろした。病室の、少女を。
アレンはヴィスコムを見上げ、問いかける。
「中に、入ってもよろしいですか?」
「ああ、勿論だ。私は実際、この半年間彼女を見てきて、自分の限界を思い知った。彼女に何かしてやりたい気持ちはあるのだが、私のスケジュールでは彼女にずっと会ってやる事が出来なくてね。……出来れば、君が彼女の友達になってくれれば、と思ったのだが」
「光栄です、提督」
「……ありがとう」
頭を下げるヴィスコムに、アレンは一礼を返して戸を開ける。案の定、ベッド上の少女は動かなかった。
近くまで行って、注意深く少女を見なければ、彼女が呼吸している事すら忘れてしまいそうなほど。少女は、抜け殻だった。
ナツメ・D・アンカース。
ベッド脇に置かれた
焼け焦げた彼女の自宅から見つかった、唯一の彼女の情報だという。
「ナツメ、と呼んでもいいか?」
遠慮がちに、ナツメを見るアレンに返事は無い。が、予想していたので、アレンは少女のベッド脇に、一言断ってから腰を下ろした。
「初めまして。俺は、アレン・ガードという者だ。提督から紹介を頂いて、ここに来た」
つぶやいて、そ、と少女の顔を窺う。すると少女が、壁を見据えたまま、瞬きもせずに、じ、と固まっているのが見えた。
死んだような目で、じ、と。
その黒瞳は、意志の無い、ただの闇だった。
「……ナツメ」
思わず、言葉を失うアレン。生気の無い彼女の横顔が、完全栄養剤を投与されているにも関わらず、痩せ細っている。落ち窪んだ眼窩は、睡眠不足の所為だろう。弱った体が、ゆるゆると、少女が死に近づいているのを予感させる。
(……母さんなら、こういう時)
つぶやいて、アレンは五歳の時生き別れた、母のことを思い出す。
優しい、母。
彼女ならこんな時、どうやって少女を元気付けるだろうかと。
遠い、遠い記憶を掘り起こして、アレンはそっとナツメの肩に触れた。
「……辛かったな。でも……、君を想う人は、いつも君の傍にいる」
小さく、言い聞かせるようにつぶやきながら、アレンはナツメの肩から腕を撫でる。
ゆっくり、ゆっくり。
勿論、そんなことで、少女が反応を返すわけはないが、アレンは声を落として、優しく語りかけた。
「一人じゃない。……君は、一人じゃないんだ。ナツメ」
触れた少女の、骨ばった感触に、アレンは哀しげに目を伏せる。
今まで彼女が失ったものが、こうしていると、伝わってくるような気がしたのだ。
――この三年で彼女が失った、心と、繋がり。
重度の精神分裂症と診断された彼女は、最初の半年で、遠戚の者たちから見放された。
彼女に剣術を教えていた祖父でさえ、あのテロ事件で命を落としたのだ。
そして、事件から一年。彼女は遠戚だけではない、医療スタッフにすら見切りをつけられていた。回復の見込みの無い彼女に、カウンセリングでいくら声をかけても反応のない彼女に、医師も、看護師も、手の施しようが無かったのだ。
それでも、ただ一日一度。食べ物を運んでくる。彼女の生命線である、点滴を打つ。
実験用のラットを育てるのと、何ら変わりない延命作業を繰り返して。まだ動き回るラットの方が、幾分か可愛らしいとため息をはきながら。
テロという特殊な境遇で孤児になった彼女を、今は報道に悟らせない為だけに、軍上層部が預けている少女。
精神科医が彼女の元へ来たのは、二年前が最後だった。
「……アレン」
少女をあやすアレンの背を見つめて、ヴィスコムは深く、目を瞑る。
少女の存在を友人に聞いてから、半年間。ヴィスコムも何度か見舞いには来た。が、多忙である彼にそう休みは無く、月に一度、足を運べれば良い方だったのだ。
彼女の病室を訪れる度に何度か、カウンセリング紛いのものをしてみたが、効果は無かった。当然だ。専門家でさえ、彼女の心を開く事は出来なかったのだから。
故に、ヴィスコムは気になるが、どうすることも出来ない少女として、多くの人間がそうしたように見切りをつけた。代わりにヴィスコムは意志を、次に継がせようと判断して。
そうして白羽の矢が立ったのが、アレンだった。まだ軍に上がっていない、彼にと。
アレンには、重荷を背負わせてしまうだろうと危惧しながら。それでも、あまりに哀れなこの少女に、救いをと。
(……神よ)
宗教などヴィスコムは信じていなかったが、少女に会うたびに何度も祈った。
彼女の目が、覚めるようにと。
彼女に夜が、訪れるようにと。
(闇は何も、怖ろしいばかりのものではない。それを示してやってくれ、アレン)
まだ十四歳の、しかしヴィスコムの知る、誰よりも聡い少年に願いをかける。彼の優しさが、勇気が。少女に奇跡を起こすことを信じて。
そうして――、半年が過ぎた。
ヴィスコムにナツメを頼まれてから、半年。
アレンは一日も欠かさず、少女の下へ足を運んだ。自らの願いを込めて、昔、母が教えてくれた、御伽噺を引用して鶴を折り続けた。
「これは地球の古代文明にあった、一枚の紙から出来る折鶴なんだ。これが千羽になると、願いが叶うらしい」
いつも通り、ナツメの病室で。
ベッド脇に腰掛けたアレンは、言う間に鶴を折る。その鶴の羽を広げて、とん、と病室の机の上に置くのが、今のアレンの日課だった。
「今日でちょうど半分だな。が、資料と少し違うような? ……まあ、君が元気になるなら、なんでも構わないんだが」
ベッドに丸まって、今日も、じ、と壁を見るナツメの様子は変わらない。今日も一人、あらぬ場所を見据えて、ナツメは微動だにしない。
その彼女と、一方的な握手を交わして。
「君を想う者は、いつも傍に。ナツメ」
今日もアレンは、祈りに似た言葉をかけた。
一人ではない。
彼女は闇の中に孤独を見ていると、そう思うから。
アレンは決して、ナツメの見舞いを欠かさなかった。軍の訓練施設から、一日の課題が終わって、皆が外に遊びに行く中で、アレンは一人、ナツメの元を訪れ続けた。
「それじゃあ、また明日」
ほんの五分でも、十分でも。
必ず会いに来て、アレンは一方的な握手の後、ぽんぽん、と彼女の頭を撫でて、病室を後にする。
その少女に変化が現れたのは、――それから、数日後のことだった。
「こんばんは、ナツメ」
いつものように訓練が終わった後、病院に寄ったアレンは、ベッド脇に腰掛けて紙を取り出した。そもそも、千羽鶴は同じ大きさの紙で作るものだが、古代文明の遊びと化した千羽鶴の存在は、そこまで詳細な資料がどこにも残されてはいなかった。
ゆえにアレンは、今日もてんでバラバラの大きさの鶴を折る。
千羽になった鶴を繋げる、という発想も無かった。
「それにしても、さすがに慣れたな」
初めて挑戦した頃は、二十枚ほど紙を無駄にしたが。
今では淀み無く、そして折り目正しく作る折鶴に、アレンは満足そうに一つ、頷く。ベッドのナツメは、相変わらず動かない。
折鶴を今日も一つ、作った後。
アレンはぽんぽん、と少女の頭を撫でた。
「今日は、いつもより遅れてすまなかったな」
訓練の後、急いでここに来たため、今日のアレンは左手に刀を握っていた。
今朝方、父から譲り受けた刀、シャープネスだ。アレンが十五の誕生日を迎えた証に、と珍しく父が渡した刀。
人を――相手を殺すために情けを捨てろと言う、父の。
「………………」
自然、アレンの視線が下がる。今日一日で一体、何度シャープネスを見たのかは知らない。
だが、この刀を見る度、アレンは思うのだ。
これは一体、どれほどの人の命を奪ったものなのか、と。
考える度に、もらった刀の重みが、ずしり、と腕に、胸に染みる気がした。まるで父の言葉のように。
と。
「……けん、じつ……」
「!?」
ぽつ、と響いた声に、アレンは思わず目を見開いた。今、ベッドから確かに、ナツメの声が聞こえたのだ。
一度も声を聞いた事は無いが、恐らく、彼女の。
驚いて、ば、とアレンが少女を振り返ると、壁を見据える彼女の頬に、つぅ、と一筋。涙がこぼれていた。
死魚を思わせる、闇ばかりを映した黒瞳に、涙。
「ナツメ……?」
初めて、表情を歪めた少女に、アレンは心配そうに彼女を覗き込んだ。
「お、じい……さん、も……いない……。おかあ、さん……も」
今にも消え入りそうな、息がこすれているだけにも聞こえる、そんな声。だがアレンは、少女の言葉を聞き逃さなかった。
「っ!」
彼女の抱えた、孤独。それが、直に触れた気がしたのだ。瞬間。アレンの頭を過ぎったのは、母の顔。痩せ細った少女の顔と、母の顔が重なる。
母の儚い笑顔と、――泣いた横顔を。
アレンは気付けば、ベッドに横たわっている少女を、抱き寄せていた。
「大丈夫! ……君を想う人は、いつもっ、傍にっ!」
ちょうど、十年。
母と別れて、父に情を捨てろと叱られながら剣を振って、今日で十年。
ぐ、と歯をかみ締めて、アレンは涙をこらえる。何故泣いているのか、自分にも分からない。
ただ――。
「おかあ、さん……」
つぶやくナツメの声が、少しずつ力を帯び始めた。頬に流れた涙が、次第に量を増やしていく。とめど無く、堰を切ったように。
「ふ、ゅうううううう……っ!」
ぼとぼとと涙を流すナツメを抱きしめて、アレンはただ、少女の背をさすった。
「大丈夫。もう、大丈夫だから」
言い聞かせるように声をかけて、少女をゆっくりあやすと、ナツメは四年ぶりの涙を搾り出すように盛大に泣き始めた。
「おかあ、さ……っ! おかあさぁ、っっ!」
「今まで、良く耐えたな。……よく頑張った」
頭が白くなるほど、盛大に。
喉が割れるほどの大声で『傷』を訴えるナツメに、彼女がこの四年間、ずっと身を浸していた暗闇で、唯一聞こえた少年の声が、ナツメの傷を癒すように、哀しく、暖かく、ナツメの胸に響いた。
「……おかえり、ナツメ」
つぶやくアレンの声が、ナツメの耳に残った――……。