香取実子は、ひとりで待っていた。
家で彼を待っていたら、追加で場所指定を受けた。
やけに切羽詰まった様子に気圧されて、とりあえず“あの時”の公園へと赴いた。ここが指定された場所。
一番大事な友達と喧嘩して、仲直りした場所。思い出の場所、なんて言うほど感傷的なタチではないが。
思うところはある。
ぼんやりと、思い出す。
彼女が離れていってしまうと思って、焦り、妬み、憤り、狂った時のこと。
あの時と同じ。今も同じ。なにも変わっていない。
抑えることをやめたという差異はあれども、自分のスタンスはなにも変わっちゃいない。
甘えたいほどに、縋りたいほどに、占めたいほどに、大好きな女の子がいる。
その子のために――その子に寄生する自分のために。
「……腐ってるのはわかってるんだよなぁ」
外道で、非道で、自分勝手で、自己中心的。利己的なのが人間の社会で、それが真理だと思う。
けれど同時に、社会性、倫理観、善性……そういうきらきらしたことも、この世にはある。
彼女がそのきらきらした存在だからこそ、自分は彼女に依存しているのだから。
まっすぐに生きるべき、模範的であるべき。生き方を縛られるなんてクソ喰らえだが、そういう規範が社会性であることもまた事実。
そして、そういった善なるものの方が、好まれるというのも事実だ。
悪性を認めている自分は腐っている。
だが――それだけだ。
自分は性根の腐った女だ。悪性を受容し、怠惰を甘受し、自己中心的に生きる悪い奴だ。
ただ、それだけだ。
「……ん」
足音がひとつ。
実子はその音に、振り返った。
「――来たね、水早君」
☆ ☆ ☆
「っていうか……今更、なんの用さ。こんなとこに呼び出して」
「はっ……はぁ、はぁ……」
「あんだけバチバチにやりあって、まだ対話の余地があると思ってるのかな。私と君はわかり合えないって理解できると思うんだよねぇ」
「はぁ……はぁ、はっ、はぁ……」
「それよか君から呼び出してくるとは思わなかったよ。私とは口聞きたくないんじゃないの?」
「はぁ、はぁ……っ、はぁ……っ」
「それとも私を無理やり止めに来た? まあほっとけば私はそのうち小鈴ちゃんとこ行くもんね。でも体格的に私有利だしなー、力ずくは難しいんじゃない?」
「はぁ、はぁ、はあ……!」
「いや呼気荒すぎない!? なに、ここまでマラソンでもしてきたの?」
「はぁ……まあ、そんな、とこ……だ……」
「馬鹿じゃない? 電車使えばいいのに」
「こっちにも……色々、事情が……はぁ、あるんだ……よ……っ」
キッと睨みつける霜。縁起でもなんでもなく、本当に疲労困憊のようだ。足が少し震えている。
「はー、気ぃ抜けるや。いいから早く息整えなよ、そんなんじゃ話にもなんない」
「……話す気には、なったのか?」
「マラソンしてまでこんなとこ来る馬鹿の話はちょっと気になるかな」
実際、もうなにも話すことなどないと思っていた。
彼のことは嫌いだし微塵も同調できないし愚かだとも思うが、彼が馬鹿ではないことは知っている。
無意味な説得なんてしようはずもない。なにかしらの目的があり、意図があり、策があるはず。
どういうつもりでなにを仕掛けてくるのかは、ほんの少し興味があった。
まともに取り合う気などないが、言うなれば気まぐれだ。
「……実子。君は、現状をどのくらい理解しているんだ?」
呼吸を整え、ひとまず落ち着いた霜は、まずそのように切り出した。
が、実子は突拍子のない、しかも具体性のない質問に、首を傾げる。
「現状? なにそれ。なんのこと?」
「帽子屋からなにも聞いてないのか?」
「帽子屋さん? いやぁ、最近お風呂掃除頑張ったり、料理しようとしたりしてるけど……別になにも」
「そうか……そっちには、手を出していないのか」
「なんの話してるの?」
「いや……まあ今は関係ない。後で話すよ」
「そういうの気になるんですけどー。黙ってないでいいから言えよ」
「黙りはしないさ、結局のところ、そこまで話をする必要はあるだろうからね。だって――」
霜のことはどうでもいい。
けれど実子にも、決して無視できない存在がいる。
「――小鈴にも関わることだ」
「…………」
そう言われてしまえば、引き下がれない。
実子は諦めたように肩を竦める。
「そ。やっぱそういう話なんだ」
「あぁ」
「じゃあご足労頂いたけどごめんね? 私が折れるとでも思ってたら大間違い。私はもう、こういう生き方しかできないから。あの子を取り戻す気でいるよ」
「別にいいよ。でも、傲慢で自堕落で、成長も進歩もないお前と違って、ボクは君の在り方の有用性もある程度は認めてもいいと思っている」
「は? なにその煽り腹立つ。自分は相手のことも尊重しますよー、良い子ですよー、なんてアピールとか反吐が出るんですけど」
「まあ聞け。馬鹿にも分かるように話してやるから」
「それは人に話を聞かせる前振りじゃないんだよなぁ。まあ私は人を見下してる君と違って優しいから話を聞いてあげるよ」
「…………」
「…………」
やっぱこいつムカつく、という敵意剥き出しの視線をお互いにぶつけ合う、霜と実子。
しかしこのやりとりさえも、どこか懐かしい。
軽口も罵倒も、やけに流暢に出て来る。
「まず大前提だ。確認するまでもないことだが……ボクたちは、相容れない」
「あったり前じゃん。ほんとに確認するまでもないね」
「ボクは小鈴には、より良く進歩して欲しいと願っている。弱い部分、脆い部分、儚い部分、甘い部分。そういった諸々は彼女の美点だが、同時に欠点だ。その綻びはいずれ彼女を傷つける……だから、その穴を埋めたい」
「でもそれに救われてる人もいるんだよ? 私がそう。あの子が甘いから、優しいから、私はその蜜を吸って生きられる。依存でも寄生でも、私は私という自我を保っていられるんだ。君だって元々はそうだったはずだよ、水早君」
「……否定はしないさ。どん底だったボクを救い上げたのは、紛れもなく、彼女の弱さへの歩み寄りだ。だから否定はしない。けれどボクの憂慮も同じく、否定はできない。弱さに縋ると必ず腐る。その美点さえも劣化させる」
霜にとって、実子の在り方は許せない。友を喰いものにして、あまつさえ腐らせるような生き方は邪悪そのもの。そんな邪悪も受容するのが小鈴の美点だとしても、その邪悪で穢されて欲しくはない。
「ボクは彼女に傷ついて欲しくない。貶めたくはない。美しくあって欲しい。友達だから、当然だ」
「だからってあの子の在り方を歪めようって? そんな友達、嫌じゃない? 君は矛盾してるよ。結局、美点と認めてるものを歪めて壊そうとしている。君のロジックは最初から破綻してるんだよ」
しかしそのように指摘する霜の理論は矛盾だと、実子は反証する。霜は小鈴の在り方を肯定しているようで、ただ自分の理想を押し付けて、歪めようとしているに過ぎないと、糾弾する。
「それは……そうだろう。けれど人は変わっていく生き物だ。前に進んで、成長し、進歩する。そうやってより良くなっていくべきだ。努力で弱さは転化できる。性質をただ消すだけではなく、研磨させることだってできるはずだ」
「なっていくべき、とか何様だよ。前も言ったけど、みんなそんな意識高い奴ばっかじゃないから。今のままで満足してる奴の現状を、勝手な理想の押しつけで壊さないで欲しいんですけど」
熱くなる。相手の言葉が深々刺さり、その痛みで怒りが沸く。
その怒りを言葉に乗せて殴り返す。そんな不毛な応酬だった。
しかし、そうしてしばらく言葉で殴り合っていると、不意に霜が打ち切った。
「……ま、こんなところか」
「なにさ」
「ボクらのスタンスはハッキリしたってことだ」
「は?」
ここまではただの確認作業。そう言うかのように、霜は話題を切り替えた。
いや、同じことだ。同じことだが、視点を変える。
「……ボクは、正直、彼女に憧れのようなものがあった。純粋で、無垢で、澄み渡る青空のような存在。あれほどの善性を、悪意で穢したくはない」
「悪意って、私のこと?」
「まあ君も含む諸々だ」
「ひっど」
「実子、君はどうなんだ?」
「ん?」
「君はなんでそんなに小鈴に執着するんだ?」
その質問に、実子は言葉に詰まる。
それは香取実子という人物の根幹を成す話。帽子屋には打ち明けたが、小鈴本人さえ知らない過去と結びつく事柄だ。
軽々と他人に、しかも世界一ムカつく少年に話すのは嫌であるとか以前に不愉快極まりないが。
彼は多少なりとも己の心の内を打ち明けた。だからといってこちらが同じことをする義理などない。
ない、が。
「……ま、これでも私は寂しがり屋なのさ」
実子は続けた。
ほんの僅かだが、胸の内を吐露する。
彼に絆されたわけではない。ただ対等でなければ決着がつかないと思っただけだ。対等でないことで結末を有耶無耶にされるのは、あまり好ましくない。
相手に借りを作ったりイニシアチブを握られるのは御免だった。それだけだ。
「ちょっと話したと思うけど、私、一人暮らしなんだよね」
「あぁ……両親がいないんだったか」
「うん。どっちも仕事で海外にいるからね。それはそれで仕方ないことだし、ちゃんと家族会議で話し合って、みんな納得した上でのこと。けどさ、心ってのはなかなかきかん坊でね」
胸に手を当てる。
少しだけ痛いような気はする。孤独感。それには、それなりに慣れたはずだが。
慣れたとしても、辛いことには辛いのだ。
「やっぱ……独りってのはキツイんだわ。だから私にはあの子が必要なの。私が私でいるために、孤独という狂気に飲まれないようにするためには、あの子が……!」
「本当は誰でもいいのによく言うね」
「あ? ……それ、地雷だよ? 次言ったらガチで殴るからな女装野郎。毛の処理くらいもうちょっとちゃんとやれ、毛根見えてるよ」
「っ……仕方ないだろ! 今は生活が特殊で……クソッ、こいつに見抜かれているのは癪だ……!」
お互いに地雷を踏み抜く。怒りが募って冷静さを失いそうになる。
「……ふん、とにかくだ。やっぱりボクらは相容れない」
「そうだね。だったらどうするよ、ここでまたケリつける?」
「そうだな」
それはただの相槌なのか。それとも肯定なのか。
曖昧に濁しながら、しかし答えは決まっている。
「なぁ、実子」
「なにさ」
「君、小鈴は好き?」
「なにを今更。大好きだよ。じゃなきゃこんなに執着しない」
「だろうな。ボクも、同じだ」
「……? なにが言いたいの?」
「ボクたちは、小鈴が好きなんだよ」
当たり前のことだ。分かりきっていることの再確認でしかない。
しかし、自分がではない。
この気持ちは自分だけのものではなく。
自分たちが、なのだ。
「ボクたちは小鈴が、友達が好きだ。だから、こうして醜くいがみ合ってる」
「…………」
「ボクらはお互いに小鈴が好きだ。けれど、その好意の在り方はまるで違う。共存なんてとてもじゃない。相反するどころじゃない。相性最悪で猛反発さ」
善性で歪曲させてしまう霜。
悪性で縋りつき貶める実子。
その有様は二律背反だ。
「……ま、分かりきったことだよね。知ってる。私らには、仲直りなんて無理。絶対に不可能。断言できる。賭けてもいい」
「同感だ。だから、ボクらがするべきは、仲直りじゃない。仲を直すのではなく、ボクらのバランスを元に戻すのさ」
そもそも仲直りという言葉は、どう足掻いても不適切だ。
最初から仲良くなんてない。元から違っているのだから、直るものなんてない。
だからその言葉は正しくない。適切な言葉を選定するのならば、元に戻す――即ち、復元だ。
今まで自分たちはなにをしてきたのか。どう在ったのか。伊勢小鈴という友人を通じて、どのような関係を構築していたのか。
それが、すべてだ。
「……あぁ。そういうこと」
腑に落ちたように頷く実子。
どこか侮蔑が滲んだ、呆れたような、しかしそれでいて愉快そうな、珍奇な動物でも見るような眼差しを霜へと向ける。
「君そんな……儀式めいたことするために、走ってここまで来たの? ほんと馬鹿じゃない?」
「お前にはこのくらいしないとわからなさそうだったからな。仕方ない」
「ムカつくなぁ。でも確かに、君から言われなきゃ、ちょっと思い至らないわ、こんなの」
馬鹿馬鹿しすぎてね、と彼女は言う。
荒唐無稽だが納得できた。
業腹だが彼の言う通りだ。こればっかりは、なにも否定できない。
「やっぱり、結局のところ、ボクらには小鈴が必要だし、彼女のために尽力するんだよ」
「そこはまあ、同意かな」
改めて、霜と実子は向き直る。互いに互いの眼を見据える。
牙を剥くように見上げる霜。蔑むように見下ろす実子。
互いに信念は違えども、彼らは対等である。そこに上下も優劣も貴賤もない。
だからこそ、争える。
「私は、寂しかったから。自分の孤独を埋めるために、小鈴ちゃんを守りたい」
「ボクは、憧れたから。彼女の比類ない善性を壊さないために、小鈴を守りたい」
それぞれ、彼女を求める理由は違えども。
「私の小鈴ちゃんへの依存が、私のエゴだって言うなら」
「ボクが彼女をより良くしたいと思うのも、ボクのエゴだ」
その在り方が相反しようとも。
「つまり、これって」
「そうだ。非常に腹立たしいことだけど」
霜と実子。彼ら彼女らは――
『――
それは、非常に腹立たしいことであったが。
紛うことなき真理。
同族嫌悪極まれり。同じだからこそ排斥し合う。とても醜悪な関係だ。
「どころか、ボクらはお互い、根本的には同じエゴイストと来た」
「私らで争ってるけど、これそもそも、小鈴ちゃんの問題でもあるもんね」
自分勝手で愚かしい。盲目で馬鹿馬鹿しい。
二律背反だが、表裏一体。だからこそ相容れない、霜と実子。
「ボクらは相反する。君にとって大事なのは、自分に都合のいい伊勢小鈴。そしてボクにとって大事なのは、ボクが理想とする伊勢小鈴だ」
「……ひっでぇや。冷静になるとどっちも歪みに歪んでるね。
「そう。しかし幸か不幸か、ボクらの理想は正反対だ。君が、彼女の根幹にある、彼女の甘さやぬるさを求めるように」
「水早君は、小鈴ちゃんのまっすぐさ、正しさを大事にしたい、と。変なの、根っこが同じなはずなのに、全然違うや」
「ボクは君のやり方を認められない」
「私は水早君のやり方が気にくわない」
もはや、口にせずとも伝わってしまう。
自分たちがどうあればいいのか。
しかし霜は、楔のようにそれを言葉にする。
それが確固たる証明であるかのように。
「ボクは今後、君の小鈴への干渉を徹底的に邪魔する」
――だから
「私に、君の小鈴ちゃんへの干渉を徹底的に邪魔しろ、ってか」
霜は、深く頷く。
理想を押し付ければ小鈴は歪む。しかしあるがままでいれば堕落する。
霜の理想も、実子の甘受も、ただそれだけでは友を害することになる。
であれば話は単純化できる。
“お互いにお互いが行き過ぎないようストッパーとなればいい”。
元より、無意識ではあるが、自分たちはそうして来たのだから。
そのように、元に戻し、復元すればいいだけだ。
「ぷっ」
遂に堪えきれなくなったと言わんばかりに、実子は噴き出した。
「あっはははははははっ! なにそれ!? バカじゃないの?」
実子は大きく笑う。嘲笑も称賛も、呆然も痛快もない交ぜにして、ただ笑う。
「『ボクは君の邪魔をするから君もボクの邪魔をしろ?』だって? あははははは! マジでバカでしょ! なにをどうしたらそんな結論に辿り着くのさ! 頭おかしいんじゃない?」
「あぁ、我ながら狂った結論だと思う。でも――」
お互いにお互いを邪魔しあって均衡を保つだなんて、ストレスフルで危うすぎる。
けれど、
「――ボクらの日常って、そうだっただろう?」
「なーるほど。そりゃそうだ。一理ある」
今までそうだったのだ。
それに、この“関係”まで壊すことは、小鈴もきっと望まないから。
「私は君のこと大嫌いだし」
「ボクはお前のことが嫌いだ。だけど」
「それって今まで通りなんだよね。ある意味それが、あるべき姿で」
「ボクらの本来の姿だ。仲良くしてる方が気持ち悪い」
「違いないね」
「ボクたちは決して互いを良しとしない。手を取り合えばその手を握り潰すだろうさ」
「だけど手を取り合えないわけじゃない。道は交わってるんだね――小鈴ちゃんを通じてさ」
変わることなんてない。仲直りなんて必要ない。
ただ今までと同じことを続ける。それを、元に戻すだけでいい。
それこそが、小鈴が最も望む、あるべき“日常”の形なのだから。
「小鈴が大事。小鈴を守りたい。小鈴を取り巻く世界が愛おしい。彼女を通じてなら、ボクらの利害は一致する」
「それが、本来の“あの子の世界”の形であって、あの子の“日常”の一風景。変わるんじゃなくて、元に戻す」
「そう。最初から仲良くなんてないんだ。これは仲直りとは言わない。再契約でさえない。再認識――復元だ」
「いいねそういうの。我慢して嫌な奴に媚びへつらってヘラヘラするのは嫌いだし、ちょうどいいや」
互いに監視し、妨害し、拮抗させる。
少しでもバランスが崩れれば瓦解するような関係だが。
お互いに、相手がそんな潔い奴だと思っていない。出し抜こうとも抵抗するし、意地でも足を引っ張ることは目に見えている。
だからこそ、信用できる。
こいつなら絶対に自分の暴走を止めるだろうと。
「そんじゃあまた殴り合いをしようか、水早君。小鈴ちゃんは渡さないから」
「野蛮人め、一度黙らせないと理解できないと見える。小鈴は穢させないよ」
牙を剥くように笑う実子。侮蔑を込めた眼差しで射貫く霜。
――不本意ながら、調子が出て来た。
許せない、認められない。そんな
思う存分攻撃してやれる。
「…………」
「…………」
が、しかし。
「……まあ、とりあえず、真っ先にするべきは」
「小鈴ちゃんに謝らないと、だよね」
今はそれよりも優先すべきことがある。
大前提として、この醜い諍いは小鈴への好意から来ているのだ。
その小鈴という楔を失ったからこそ歪んでしまったわけだが、その肝心要の小鈴との関係はまだ修復されていない。
いや、修復とか以前に、友達として、謝らないといけない。
「ボクらの争いの渦中にいるのは間違いなく小鈴だが、それで彼女を傷つけてしまっては本末転倒だ。許してくれるかはともかく、謝罪はキッチリしよう」
「まあそこだけは同意してあげるよ。友達にヤなことしちゃったら流石に私もバツが悪いしね。あの子ならたぶん許してくれるとは思うけどー」
「そういうとこだぞ実子。お前はもう少し謙虚を知れ」
「いやー世間はお上品さだけじゃ生きていけないからなー。私これでも今を生きるのに必死なんで」
と、なにひとつとして相容れないふたりだが。
ひとまず小鈴に謝ろう、という部分では同調できたのだった。
「……喧嘩は後にしよう」
「だね。流石に私も、あの子には悪いって思ってるし、ちゃんと謝ろう。一緒にね」
「あぁ」
それが友としてのケジメであり、礼儀であり、友情だ。
たとえ赦されないとしても。
彼女が、小鈴が大事だから。好きだから。
友のためなら、こんな歪な関係でも――
「まったく――とんだ茶番なのです」
☆ ☆ ☆
――それは唐突に現れた。
ふたりの間を引き裂くような、幼くも冷ややかな声。
霜と実子は、思わず声の方へ振り返る。
「あぁ、本当、クッソ茶番なのでしたね。なんですこれ? せっかく不和の種を蒔いて、いい具合に食い合ってくれると思ったのに、とんだ誤算なのですよ。こんなのつまんなすぎて草も生えないのですけど」
「え? ……え?」
「そういう友情の仲直りエンド的なの、寒いのです。今時そんなありきたりな展開は流行らないのですよ。言葉を換えれば捻りが出るとでもお思いで? 言葉遊びで仲直りとかニッチすぎて伝わんないのですよ。なんなんですか、復元って。クソクソのクソなのです。短絡的で浅慮、安直にして陳腐。今の流行りは鬱と退廃とダークビターエンドなのですよ」
「お前……!」
そこにいたのは、青い少女。
少女はとてもつまらなさそうに、侮蔑と幻滅が籠もった冷徹な眼で、霜と実子ふたりを睨みつけていた。
「ほんと、こんなつまらない茶番劇見せられるくらいなら、とっととぶっ殺せば良かったのです。まあお姫さまの手前殺すのはダメなのですけどー、そうしたいくらい、あたしのテンションだだ下がりなのですよ。わかります? 今のあたしの気持ち?」
はぁ、と少女は嘆息する。
そんな少女に、実子はただただ、困惑していた。
「いや、え、ウソ……海原メルちゃん? ……いや、の、コスプレ? 声真似めっちゃ上手いじゃん……」
霜は深く知っているわけではなかったが、実子からすれば、芸能人が目の前に現れたようなものだ。海原メルと名乗っているはずの、電子の海に生きる少女が現実に在る。
しかしそれは、現実であっても真実ではない。
実子の言葉に、少女は人が変わったような満面の笑みを張り付け、朗らかに否定する。
「そーんなわけないのです。あたしは見ての通り、1/1スケール、等身大の海原メルその人なのですよ!」
「え? ほ、本人? いやでも……」
「……なーんてのも、嘘なのです」
だが、さらに、彼女はそれを否定する。
「じゃあやっぱそっくりさん……」
「いえいえ、嘘偽りという意味ではなく、真実ではない。今のあたしは海原メルとしてここにいるわけではないのです」
「……?」
「気をつけろ実子、こいつは……」
「おーっと水早少年。あまり無粋で野暮なことしないでくださいよ。あんまり舐めたことしてると、抑えが利かなくてぶっ殺しちゃうので」
「っ……!」
射貫くような眼光で霜を制する少女。
少女はコホンと一度咳払いをすると、悪戯っぽく、わざとらしく、仰々しく、その場でくるりと回ってみせる。
「海原メルは、世を忍ぶ仮の姿。バーチャルな配信者の実態は、背信者ならぬ狂信者。今のあたし、本当のあたし、海原メルの真の顔は――」
右手で顔を覆い、指の隙間から、可憐な眼を覗かせる。
しかしその瞳の奥には、氾濫するような狂気が、深く、深く、渦巻いている。
海原メル。彼女の、真の名は。
「――メルクリウス」
宙を裂くように冷たく。
朗らかで溌剌な熱は冷め切って、そこにあるのは脅威、恐怖、狂気。
「【死星団】が
そう、少女は――メルクリウス・エノシガイオスは、邪悪に彼らを嘲笑する。
「メルクリウス……?」
「それがお前の名前か。勿体ぶったわりにはあんまり捻りがないな」
「言ってろなのです。正直マジでテンション下がりすぎて、有象無象のゴミにかかずらってる心の余裕ないのですよねー。多少は演出してないと、ここまでのあたしの用意した舞台まで三流以下になっちゃいそうで、もうやってらんねーのです」
「……なに言ってるの、この子?」
「詳しくは後で言うが、あれは今ボクらに迫ってる脅威そのものだ」
理解不能と言わんばかりに、引き気味の実子が霜を見遣る。
正直な話、霜にもあまりメルクリウスのことは理解できていないが、彼女が明確な脅威であり敵であることだけは確実だ。
メルクリウスは塵(ゴミ)を見るような目でふたりを眺めると、また大きく嘆息した。
「あーなんでこうなっちゃうのでしょうね。不和のふたりが仲良く同士討ちして、痛快な喜劇になるはずだったのに。ずっと目を付けて観劇してたのが時間の無駄なのですよ」
「……君、ボクらのことをずっと見てたのか?」
「ん? えぇまあ、だいたいは。お二方の喧嘩にちょっかい出したのもあたしですし」
「あー……まさか、あの不自然に出て来た謎空間って」
「あたしなのです! ま、ちょっとしたお手伝いなのですよ。なのに、恩を仇で返された気分なのです。嫌いなら互いに殺し合ってくれって話なのです。はーほんとこいつら意味不明なのです」
「まあ、ボクらの関係が歪んでるのは否定しないけど……それ以前に、君さ、結構馬鹿なんだな」
「は?」
ストレートな罵倒に、メルクリウスも露骨に怒りを露わにする。
それを見て怯むこともなく、霜は畳みかける。
「だってボクらのこと、見てたんだろ? 思考まで読まれてるとは思えないけどさ。その上でこうしてボクらが出逢って同士討ちを狙ってたって……ちょっと、いくらなんでも“わかってなさすぎ”じゃないか?」
「…………」
「人の心がわかってないよ、君。能力はありそうなのに、頭は悪そうだ――」
刹那、霜の足下で爆音が炸裂する。
土煙が舞い上がり、すぐそこの地面が、大きく抉り取られていた。
「あんま調子に乗るんじゃねぇのです。お姫さまの言いつけで殺さないでおいてあげてるだけで、あなた方みたいな惰弱な生き物、
「……っ」
「あーあー、やる気なくしたし帰ろうと思ったのですけど、あなたが挑発するから、もう見逃せなくなっちゃったのです。殺さないので、手足と首と胴体だけ千切って繋げて素材にされるくらいは覚悟して欲しいのです」
「はは……煽り耐性もゼロとは恐れ入るね。そのへんは実子の方がマシそうだ」
「そこで私を引き合いに出さないで欲しいんですけどー」
「言ってろなのです三流大根役者。すぐ口聞けない身体にして差し上げるので」
またもメルクリウスは、大きく嘆息する。嘆き、怒り、呆れ、あらゆる感情を吐き出すように、大きく溜息をつく。
「まったくもう、自分で手を下すとか、脳筋リオくんみたいで気が進まないのですけどね。でもま、あたし自身もたまには舞台に立つも一興というものでしょう」
少しは自分の力も示さないとですからね、と。
メルクリウスは己に言い聞かせるように、彼らを睥睨する。
「【死星団】で誰が頂点かってのを教えてやるのです。そりゃあ、あたしはⅡ等星なのですけどね。でも、あたしは二番目なんて序列に甘えるつもりはないのですよ。リズちゃんも、リオくんも、ディジーさんも、あたしの踏み台。あたしは、一番目のミーナさんよりも――“強くなれる”」
ぐじゅぐじゅと。
彼女の手の中で、黒いなにかが蠢いている。
「完全無欠最強無敵。天上天下唯我独尊。才色兼備天衣無縫。綻びなく、非の打ち所がなく、最強にして最優にして最高の存在に“なれる”あたしの、本当の力をお見せするのです」
それは形を変え、空気を侵し、世界を覆い、塗り替えていく。
「あたし主演の公演とか、競争率断トツで割高なのですよ? あなた方程度じゃ払いきれない価値なのですが、今回は特別席をご用意して差し上げるのです。あぁ、お代は結構。見てのお帰りなんてぬるい話ではなく、身体で払って貰うので!」
――ぐにゃり
世界が、変わる。
歪曲し。
暗転し。
覚醒する。
「異聞神話空間展開――どうぞいらっしゃいまし、あたしの
☆ ☆ ☆
「――ここは」
そこは、なんとも摩訶不思議な世界だった。
そこは氷河のようで、自分たちは氷の上に立っているが、四方は見渡す限りの水面。
しかし滝が流れ落ちている。その滝はどこから来ているのか――河などはない。
そう、それは、宙から落ちる水流。遙か彼方、昏き星々の輝く天上より滴る涙だ。
天幕の如く、漆黒の宙にはオーロラがたなびき、神秘的な様相を醸し出している。
「ここは『空想錬金工房
この世界の主、メルクリウスは、どこか楽しげに、意気揚々と、語り出す。
「あたしの知識の保管庫。あたしの経験の舞台裏。あらゆる知識を喰らい、具現化した、あたしの理想の王国……あなた方に干渉した時は蓄積された知識量が不十分だったのでいまいちな出来でしたが、今回はいい感じに模様替えできたのですよ? 綺麗でしょう? あたしの国は?」
確かに景色だけなら、美麗かもしれない。幻想的で、神秘的だ。
しかしここにはなにもない。冷たく寒い宙だけがある世界。
残酷で、過酷で、虚無だ。
なによりここには、天上より落ちてきそうなほどの狂気が、恐怖が渦巻いている。
1秒だってここにいたくはない。霜も実子も、直感的にそう感じていた。
「……手は出さないとか言ってたわりには、こうなるんだな」
「前言撤回とかマジでダサいので、あたしだってこんなことしたくないのです。でも仕方ないのですよ。あなた方が思い通りに自滅してくれないから。もうほんと、そんな歪んだ友情とかクソクソのクソなので、やめて欲しいのです。どうせあなた方なんてゴミクズ同然なんですから、クズはクズらしく味方同士で醜く争って無様に死ねばいいのです。同士討ちなら多少はドラマティックになって面白かったのに……仕方ないからあたしが特別公演して盛り上げてやってるってのを分かって欲しいのです。むしろ感謝して欲しいのですね」
「えー……メルちゃんキャラ変わりすぎっしょ……こんな口悪かったの? ファンやめるわー……」
「あぁ、やめておけ。こいつはろくでもない」
「というか私、なんか水早君のいざこざに巻き込まれた感があるんだけど」
「……まあ確かに厄ネタを持ち込んだのはボクってことになるのか」
「あーやっぱり! まったくとんだ迷惑だ。もう今すぐさっきの話ナシにして絶交したくなってきた!」
「元から不仲なんだから絶交もなにもないだろ。それに恐らく、遅かれ早かれだ。いずれこいつは君にも向かっていたぞ。ともすれば――」
きっと、奴は。
「――小鈴にも毒牙を掛けかねない」
「そうかー。じゃ、見過ごせないね」
迷いも逡巡も葛藤もなく。
刹那のうちに決する切り替えの速さ。こういうところだけは、信用できるのだが。
実子はそれならばと自身のポケットに手を伸ばすが、
「……やっべ。私、デッキ忘れた」
「おい」
「仕方なくない? 正直こんな展開になるとは思わなかったんだしさ!」
「ボクと殴り合うことは想定してなかったのか?」
「そん時は……物理で殴り合おう」
「野蛮人め。ゴリラというより君は猿だな」
「なにその微妙に君らしくないたとえ……」
「もういいさ、ここはボクがやる。あれは今ボクらに迫ってる脅威そのもの。倒せるかは正直不安だが……とにかくこの場を凌ぐぞ!」
メルクリウスに相対するは霜。
暗く凍てつく世界にて、凶の星が輝けり。
「倒すとか凌ぐとか、随分と楽観的なのですね」
「なんだと?」
「あなた方はあたしが配置した
星々を背に、邪悪に微笑むメルクリウス。
その姿は希望を摘み取る氷樹のようで。
小さな矮躯は、恐ろしいほど大きく見えた。
「さぁ、この
――仲が悪いからこそ、築ける関係がそこにある。