ミネルヴァの異聞神話空間――『
この
しかしこの王国には、まだ見えぬ空間がある。
広大な暗夜の宙が広がる外層。その中心にある神殿、内層。
そして内層には、上層と下層が存在し、上層は主に、神への信仰を捧げる場にして、敵対者を罰する法廷にして処刑場だ。
であれば下層は――牢獄だ。
罰せられた者達が投獄される場所。そこには月の光さえも届かない。
輝かしい上層から反転した、濁るような冒涜と汚れの世界だ。
「ん……んん……?」
そんな闇の世界で、バタつきパンチョウは目覚めた。
「あれれ、眠っちゃってたのよ……えーっと、なんだっけ?」
記憶が少し混濁している。
まずここはどこか。わからない
自分は誰か。わからない。
好きな食べ物はなにか。わからない。
昨日の晩ごはんはなにか。雑草とダンゴムシの水煮だった気がする。
「うーん、全然覚えてないのよー」
「いやもうちょっとわかることあるでしょ。そのクソみたいな飯より自分の名前を覚えてなさいよ」
「あ! ウサちゃんなのよ! わーい!」
「なんで僕のことは覚えてるのよあんた……」
彼女は呆れたように肩を竦める。
――それは、三月ウサギ。
バタつきパンチョウの、仲間だった。
「……あんたもここに来たのね、パンチョウ」
「なのよー。ウサちゃんもいたのよ?」
「まあ、あのキザ男に見事ボコボコにされたわ」
「ボコボコ……はっ! そうだ! ハエ! トンボ! ふたりは無事なのよ!?」
「僕が知るわけないじゃない……ここにいないってことは、無事なんじゃない? 他の牢のことまでは知らないけどね」
「ろう?」
「牢屋よ牢屋。ここ、牢獄なの」
バタつきパンチョウはぐるりと見回す。
真っ暗な世界、明かりのない場所だというのに、ぼんやりとではあるが、なぜか視覚は機能する。
確かにここは牢屋のようだった。鉄格子の嵌まった檻に、自分たちは閉じ込められている。
「出られないのよ?」
「まあ無理でしょうね。少なくとも力でどうこうできるものじゃないわ。硬いっていうか、ルール上無理、みたいな感じよ」
「ルール……そういえば白髪の人も、そんなことを言ってたような言ってなかったような……」
「誓約とかそういうのね。まあつまりこの世界は、本来の世界みたいな法則は通じないんでしょ」
「むむむ、困ったのよ。でもウサちゃんがいて良かったのよ」
「なにがよ」
「だって、やっぱりひとりだと心細いし。ウサちゃんも私が来たからもう寂しくないのよ。死ななくて済むのよ」
「ウサギが寂しいと死ぬのは迷信よ。っていうかひとりならひとりでも慰めようはあるから。馬鹿にしないでくれる?」
と、言いつつも。
時間の感覚すら失われるこの世界で、孤独なまま収監され続けるというのは、精神的に苦痛であったのは事実。
仲間が囚われたことを喜ぶつもりはないが、バタつきパンチョウが来たことで、三月ウサギはいつもより少し饒舌だった。
「うーん、でもどうしよ」
「どうするって、なにがよ」
「どうやって出ようかなって」
「無理じゃない? ってか出たいの? あんたが?」
「なのよ」
「僕は普通にこんなジメジメしたところ嫌だし相手もいないから出たいって気になるけど、なにもかも放り投げて自然の行くままにー、って出て行ったあんたが自由を求めるのは意外ね」
「んー、まあそれもそうなんだけどー」
暗くてよく見えなかったが。
少し、バタつきパンチョウが悲しげに瞳を揺らした気がした。
「……弟たちを、残してきちゃったから」
「……そ。あんたらしいわね」
弟たちのため。とても単純で強固な理由。
ただそれだけで、彼女が動く理由としては十分だし、納得できた。
「とはいえどうしようもないのよね。知ってると思うけど、ここはミネルヴァとかいう奴が生み出した、異世界みたいなものよ。外の世界からの干渉は無理でしょうし、そもそもあいつ自体が馬鹿みたいに強い。あんただって負けたんでしょ」
「えへへー」
「照れるな馬鹿。なんにせよ脱出経路なんてないに等しいの。ここから出て行くにせよ出口がない、救援だって期待できないわ――」
と、三月ウサギがバッサリ切り捨てる。
その言葉を、否定する者がいた。
「――ところがあるんだよなぁ、救援ってやつがよ」
牢の外から、聞き慣れない声。
「!? 誰!」
「おっと、あんまデカい声出すなよ。お忍びで来てんだ、ミネルヴァに見つかったら色々まずい」
牢屋の外。そこには黒い影のように揺らめく――恐らく、男。
あまりにも存在感が薄い。気配が希薄で、闇に紛れており、存在を認識しづらいが、確かにそこには、誰かがいた。
「誰よあんた」
「俺の名前か? 別に教えてもいいんだが、うっかり口を滑らされると困るからな。あんたらは俺を信用できないだろうし、俺もそのへんの信用はできないから、まだ伏せさせて貰うぜ」
「……胡散臭いわね」
「だろうな。だが、少なくとも今は味方になってやるよ。具体的には、そうだな、お前らをここから出してやる」
「! ほんと!?」
「ちょっと待ちなさいよパンチョウ! 素性も知れない奴に飛びつくとか、罠かもしれないってのに……」
「その警戒はもっともだがな、既に敵に捕縛されて、いつでも殺せる奴を罠に掛ける意味があるか?」
「それは、あんたもあのミネルヴァって奴の仲間って言いたいわけ?」
「鋭いな。だが、仲間かと言われると、どうだろうな。だが俺とあいつとは目的が違う。そういう意味じゃ、仲間ではないな」
男からは敵意は感じない。しかし明らかに、なにかを企んでいる。
この異常な世界で、自分たちに手を貸すという第三者。その存在自体が、証左である。
「……あんたの目的ってなによ」
「なんだろうな。ま、わかりやすく言うなら……『公爵夫人』。奴の志と似通ってるさ」
「夫人様……?」
「なんにせよ、だ。俺はお前らをここから出す手助けをしてやる、って話だ。断る理由はあるか?」
「ないのよ!」
「あーもうこの馬鹿は……」
「俺が怪しいのは事実だし、警戒するのも当然だが、怪しさだけで拒否するのは理性的とは言えないぜ。冷静に考えて、この状況で救いの手があるってのは、希望だと考えていいだろうさ」
「……まあ、話くらいは聞いてやるわよ」
言いくるめられたようで不服ではあったが。
確かに、男の言うことは筋が通っている。
ミネルヴァの仲間で、自分たちの敵であれば、わざわざ罠に嵌める必要はない。リスクはあっても損失はない、この上ない提案だ。
そのため三月ウサギも、不承不承、非常に業腹で納得はいかないが、仕方なく男の提案を飲むことにした。
「とりあえずそれでいいさ。とはいえあんま時間がない。手早く済ませるぞ」
と言って、男は鉄格子に触れる。
すると、鈍い音が鳴り、格子が外れた。
「これでとりあえず出られるだろ」
「それだけだと胸がつっかえるのだけれど」
「……もう何本か外しておくか。あんまり弄るとミネルヴァに見つかりそうで怖いんだが……」
面倒くさそうに、男はとさらに鉄格子を数本外した。
「これで十分か? この牢獄は一本道だから、ひたすらこの道を走れ。走り抜けたら、祭祀場がある。そんで祭祀場の壁に、穴があるはずだ」
「穴?」
「ヤングオイスターズの兄貴のお手柄だぜ。今この王国は、外界との境界線が少し曖昧になってる。言い換えると“外に出られる”状態なんだ」
「! マジなのよ?」
「あぁ、マジだ。その穴に飛び込ば、この世界から脱獄し、外に出られる」
この世界において、脱獄するための最大の障害となるのは、ここが通常の世界ではないこと。
ここはミネルヴァが形成する異世界。完全に、空間からして閉ざされた場所で、どう足掻いても脱出など不可能なはずだった。
しかしこの男が言うには、今は外の世界と繋がっている状態らしい。
これは、非常に大きな情報だ。
「ミネルヴァの忠誠心に感謝だな。手前(てめぇ)の国の修繕より、姫さんの護送を優先してくれたお陰で、こうして隙ができたんだ。逆に言うと、ここを逃せば、奴は国壁を修復するろうさ。そうなればお前らは一生外に出れなくなる」
「なによそれ、半ば脅しじゃない。でも、今がチャンスっていうなら、やるしかないのかしら……? ねぇ、あんたはどう思う?」
「…………」
「パンチョウ?」
「……うん。いい手だと思うのよ。チャンスは逃しちゃダメ、なのよ!」
少し呆けていたのか、やや遅れて、バタつきパンチョウは首肯する。
どうやら彼女は、脱獄には乗り気のようだ。
「話は纏まったか」
「なのよ! ……あ、そうなのよ。ここって私たちだけじゃないんだよね。他の皆は?」
「他の不思議の国の連中か。流石に無理だな。ミネルヴァが捕縛した奴らをひとりひとり解放していったら、流石にどっかでバレる。あいつ見つかると脱獄何度は跳ね上がるし、それは俺としても避けたいからな。だから、脱獄できるのはお前らふたりだけだ」
「むぅ……」
「どうしても他の奴らも助けたいなら、お前らがその手でミネルヴァを倒すんだな」
しかしここにいるふたりは、そのミネルヴァに真正面から討ち倒されたのだ。事実上それは不可能である。
「……外に出れば、トンボやハエ、それにカキちゃんの弟くんたちや、ネズミくん、すずちゃんだっている。誰かに助けを求められるのよ」
「助け、ねぇ……不思議の国はもう滅茶苦茶のバラバラだし、僕らなんかを助けてくれる奴、いるのかしらね?」
「もー、ウサちゃんったら卑屈なのよ。ウサちゃんが思うほど、みんな薄情じゃないのよ。カキちゃんの弟くんなんて、あの人たちに立ち向かうために、頑張ってるんだから」
「ふぅん。正直あまり興味はないのだけれど、ま、このままやられっぱなしなのも癪だしね。この燻った情動くらいは解消させてくれないと」
「なら決まりなのよ!」
バタつきパンチョウと三月ウサギ。ふたりは狂気に満ちた牢から抜け出て、この国からの逃亡を図る。
神聖なる世界にて、恐れ知らずな脱獄劇。邪神の手中にいてなお、正気を投げ出さない蛮勇。
虫けらと獣は、諦め悪くも希望に縋り、光を目指す。
たとえその先に、犠牲が見えていたとしても――
ふたりが見えなくなって、闇の中。
誰にも聞こえない声が、虚空に響き、消えていく。
「さて、仕込みは完了。後は上手いこと姫さんを送り出さないとな――」
なんだかんだ書いていると楽しいウサチョウ。いや、力関係的にはチョウサ? 字面の収まりはいいけど声に出すとウサチョウの方が口触りはいい。