と言っても、一回に収めるには長すぎるから分かたれただけなんですけど……
また今回はちょっと過激な描写がありそうなので、注意です。R18というほどではないと思うのですが……人によっては苦手かもなので、対戦パート後はお気を付けください。
かなーり胸糞なキャラが出て来ます。
こんにちは、伊勢小鈴です。
新学期早々、学校の職員や用務員として蟲の三姉弟の方々――生物の先生に『木馬バエ』さん、購買店員に『バタつきパンチョウ』さん、用務員に『燃えぶどうトンボ』さん――が現れて、色々てんてこ舞いです。
でも、悪いことばかりではありません。先日の出来事から、霜ちゃんが心配していたスパイの可能性たぶん薄い。代海ちゃんが言っていたように、本当に働きに来ているだけ……だと思う。
それに、あの三人はすごく姉弟思いだということも、わかった。だからなんだと思うかもしれないけれど、わたしにとっては、それはとても大事なことだった。
確かにわたしは先生に酷いことをされそうになったけど、でも、それは先生のお姉さんやお兄さんに対する姉兄愛の結果ゆえだった。
行動はともかく、その気持ち自体に偽りはないし、それは悪ではない。
つまり、やっぱりあの人たちは、本当の意味で悪人じゃなかったんだ。
だから代海ちゃんと同じ。そして、もしかしたら、帽子屋さんとも――
☆ ☆ ☆
「ねぇねえ、帽子屋さん、帽子屋さん」
「…………」
「無視しないでよ、帽子屋さぁん? ねぇ、ねぇってば」
「……うるさいぞ。オレ様は今、忙しい」
「忙しいって、寝てるだけじゃない。寝るならちゃんとベッドで寝ないといけないわ。それとも、一緒に寝る?」
「断る。それに寝ているわけではない。思索に耽っているだけだ」
「動いていないという点で、なにが違うのかしら?」
「頭を動かすという点で、明確な違いがある。視覚的な動きだけで捉えることなかれ。動きという概念は、目に見えぬ形でも常に発生している現象だ」
「ふぅん。まあそんなことはどうでもいいけれども。腰を据えてじっくり考え事なんて、らしくないんじゃない?」
「らしさなど求めんよ。これは必要なことだ。オレ様の頭はかなり風化して錆びついているものでな。時々意識的に動かしておかないと、すぐに狂ってしまう」
「あらら、そうなの。難儀ね、帽子屋さんも」
「今更なことだ。だから退け。今のオレ様は、あまり機嫌がよくない」
「どうして? イヤなことでもあった?」
「別にどうというわけでもない。機嫌の良し悪しなど、流動的で発作的なもの。良い時は良いし、悪い時は悪い。そこに因果も意味も求めるものではなかろう」
「そんなことはないと思うけれど……そんなことより帽子屋さん。それなら遊びましょう? 僕、今とっても暇も身体も持て余してるの」
「そうか。思考の邪魔だから退け」
「もうっ、つれないわねぇ、帽子屋さん。でも、たまにはそういうところもいいものだけど。だからさ、ねぇねぇ、ほらほら、帽子屋さん?」
「やはり『代用ウミガメ』を使うべきか。あるいは蟲の三姉弟か、『ヤングオイスターズ』に通達するのも悪くないか」
「無視しないで欲しいわ、帽子屋さん。ねぇほら、今日はお仕事ないし、コンディションもバッチリなんだから。帽子屋さ――」
「……いい加減にしろ」
「ん? なーにが?」
「鬱陶しい……今は“狂っていられない”時なんだよ。貴様と狂うのはまた後だ。今は失せろ」
「そんなー、またまたー。帽子屋さんだってここのところ働き詰めで、溜まってるんでしょう? たまにはリフレッシュしないとダメよ? だから帽子屋さん、今からベッドに――」
カチャッ
「……帽子屋さん?」
「二度は言わん。失せろ。今の貴様はオレ様の敵対者となろうとしている。貴様の自慢の身体に傷をつけたくなければ、日が沈むまでオレ様の前に姿を現すな。さもなくば、貴様の脳天を鉛で貫く」
「ちょっ、ガチじゃないの、帽子屋さん……わ、悪かったわ。まさかそんなに怒るなんて思わなかったの」
「弁明はいい。御託も虚言も甘言も聞き飽きた。今は貴様の刹那的衝動に付き合っている時ではない。とっとと消えろ」
「むぅ、せっかく色々準備してきたのに、イジワルな帽子屋さん……まあ、そういうところもまた素敵だけど、嫌われるのはちょっとイヤね。仕方ない、今日は別のところで遊んでくるわ」
「あぁ……では、オレ様はまた、思索の海に沈むとしよう……」
「はいはい、おやすみなさいね、帽子屋さん。今度は一緒にベッドでね」
「…………」
「さて、とは言ったものの、どうしたものかしら。なにか面白いこととかないかしらねぇ……そう言えば、パンチョウの奴が働き始めたとか言っていたけれど――」
☆ ☆ ☆
「――はい、今日の授業はここまでです。本日も非常に面倒な授業時間でしたね。皆さんも憂鬱だったでしょう、このような苦痛でしかない授業を一時間近く受け続けるだなんて。義務教育とは一種の拷問のようだと思います。しかし安心してください、本日の授業という工程はこれで完全に終了しましたので。残るホームルームも、あなた方の担任の……鹿島先生、でしたか。彼女が出張でいないので、私が代理を務めさせていただきますが、連絡事項なんて煩雑なものはなにもありませんし知りません。あとは各人、好き自由に放課後を謳歌してください」
教壇で
確かに面白い授業とは言い難いけど、進行自体はすごくスムーズだから、意外と受けがいいんだよね、先生の授業って……結構わかりやすいし。
ただ先生自身は、あまり授業には乗り気じゃないみたいだけど。
(まあ、好きで働いているわけじゃないみたいだし、当然なのかな……)
そもそもどうやって教職に就けたんだろうとか、気になることはたくさんあるけど、気にしたら負けだと思う。
代海ちゃんも普通に入学してるし、きっとわたしたちじゃ計り知れないようなことがあるんだろう……それも、恐らく合法じゃないことが。
「さて、他の先生のアドバイスを受け、前回課題にした宿題を集めたわけですが……なかなかの数ですね。これを持っていくのは、少々骨が折れそうだ」
先生は誰に言うでもなく、宿題として提出されたプリントの山を前にして嘆息する。
「確かこういう時は、日直に運ばせるのが定石と聞き及びました。今日の日直とやらは誰ですか?」
ありありと無知を晒す先生。社会に適合する気があるのかないのか、少なくとも学校についての知識が乏しいことを隠す気はないみたい。流石に人間じゃないなんてことは普通の人からしたらわからないと思うけど、それでもわたしはとても心配です。なにがきっかけで、わたしたちの秘密がばれちゃうことやら。
それはそれとして、先生は荷物運びの労働力として、日直を要求する。
日直、日直かー……
……はい。
「わ、わたし……です」
「……成程」
おずおずと手を上げるわたしを見て、先生は一瞬だけ言葉を詰まらせた後、小さく頷いた。
「ではお願いします。職員室までなので」
「は、はい……」
あくまでも先生は淡々と職務をまっとうするだけ。
わたしは“また”荷物運びとして、先生に付き従うことになっちゃいました。
みんなから集めた宿題のプリントを渡されて、それを抱えて教室を出る。そして、先生と一緒に職員室に向かうけど……
「…………」
「…………」
無言の歩行。
わたしは常に、斜め数歩前を歩く。用心のため、ではある。先生のことを嫌っているわけじゃないけど……でも、どうしてもこの前のことがあるから……
その話をしたら、霜ちゃんにも「警戒心がなさすぎる! お人好しも一周回って大馬鹿だな君は!」なんてこっぴどく怒られちゃったし。
先生は悪ではない。姉兄思いの、すごくいい人だ。だけど、その牙を向けられた以上は、やっぱりちょっとだけ怖い。
あの時はお姉さんやお兄さんのお陰で事なきを得たけど、それでも、先生がわたしたちに恨みを抱いていること自体は、解消されたわけじゃないし……
と、わたしが先生の様子を窺いながら歩いていると、先生は首だけを回した。
その流し目が、ふっと、わたしの目と合う。
その眼は、あの時の怖いものではない。どちらかと言えば恋ちゃんに近い、無関心に抑圧された眼差しだった。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。今はあなたになにかをするつもりはない」
そしてわたしの心中を見透かしたように、告げる。
「あなた方が許せないという気持ちはまだありますが、あなたに手を出すと、姉さんが悲しむし、兄さんが怒る。私だって姉弟喧嘩なんかもうごめんだ。あの二人に科せられた枷がある限りは、非道な真似はしない。いや、できない」
「なら、いいんですけど……でも、わたしになにかしなくても、霜ちゃんや謡さんには……」
「私があなたを襲ったのは、あの少年や、チェシャ猫の彼女よりも扱いやすそうだったからです。警戒心が薄くて言葉で動かしやすく、また非力そうだったから力ずくで抑え込めるだろうという打算があったからです。あの二人相手だと、あそこまで上手くはいかないだろうし、一筋縄じゃいかないでしょうね。ゆえにあなたを使うことを考えたのですが」
「あぅ……」
まるで反論できなかった。霜ちゃんに言われたことそのままだよ……
確かにあの時は、全然怪しいとか思わなかったし、事実言葉巧みに乗せられて、力でも反抗できなかったけどさ……
「なんにせよ、あなたにも、あなた方にも、手を出すつもりはありません。安心しろとは言いませんが、そんなに露骨に警戒していては、周りの生徒に怪しまれてしまいますよ」
「怪しまれるとか、先生に言われたくありませんよ」
「? なにがでしょう?」
「自覚ないんだ……」
でも、わたしはちょっとだけ安心した。
もうあの怖い先生ではなくなっていることに。
霜ちゃんなら、先生の言葉を鵜呑みにするな、って言うんだろうけど、たぶんこの言葉に、偽りはない。
根拠は……ないけどね。
「まあ、いいでしょう。それよりあなた方は、もっと外を意識するべきだ」
「外?」
「私はただ、帽子屋さんに言われるがまま、どういう意味があるのかもわからないことを、どんな意義を持つのかわからない場所で行っているだけに過ぎない。いわば働き蟻だ。末端も末端、果てしなく薄弱な意志によって働くパーツでしかない。あぁ、先日のは例外です。思わず衝動を抑えきれず、開眼してしまったようなものなので。本来の私は、むしろ自己主張を控えているくらいです」
「そ、そうなんですか?」
「そうです。私も、兄さんも、姉さんも、自分の“眼”に飲まれないようにするため、意識をコントロールしているのです。私は外に目を向けることで自我を抑え、兄さんは己を主役と暗示することで何者かの意志に反発し、姉さんは自身の世界を全力で謳歌することで何者かの世界に侵されないようにする。眼という自らの肉体、意志と強く連動した
「危険、なんですね……」
「危険ですとも。それでもこの力が、少しでも【
なんて、やっぱりほとんど抑揚をつけずに言う先生だけど、その本心はもう、わかっている。
そんなお姉さんやお兄さんのことが、心配で、だけど気高くて、きっと大好きなんだろうなぁ。
「話が逸れました。ともかく、私はよほどのことがなければ主張はしません。姉さんや兄さんも、奔放ではあっても大したことはしません。あなた方に危害を加えるメリットをさほど感じませんし、むしろこの世界、社会が私たちにとってアウェーである以上、高いリスクの方が目につきます。虫けらは確かに矮小ですが、危険には敏感です。軽々しく手出しはできない」
だけど、と先生は逆接する。
相変わらず、淡々として口調で。
なにも関心を寄せないと言わんばかりの声色で。
「そのうち、もしかしたら近いうちに“激しい害悪”がやって来ることでしょう」
「激しい、害悪……?」
「はい。あなたの性質は強く他者に起因するものだ。だからこそ、強烈な自意識とは反発するでしょう。それが成すのは、完全に相容れない、到底受け入れられない、絶対的な敵対構造。あるいは、完璧なまでの悪意と害意。あなたの選択肢を奪い、あなたの望みを潰す未来。そんな――悪」
悪。
悪いもの。悪いこと。悪者。悪事。
それが、わたしの前に現れる……?
「ゆめゆめ忘れないことですね。あなた方と私たちは、本来であれば相容れない存在だ。今は“なあなあ”で付き合っていますけど、それもいつまで続くのやら。ゆえに――」
先生は、わたしに向いた。
どこか冷淡で、だけど真剣で、突き放すようでいながら寄り添うようでもある、矛盾の孕んだ眼差しで、見つめる。
そんな、混濁した眼から発生られる言葉は――
「――あなたは、もっと覚悟した方がいい。
――忠告だった。
「私だって、帽子屋さんの指令次第ではあなたに牙を剥きます、爪を立てます。そんな未来から目を逸らしてはいけない。それはただの逃避だ」
今がその時ではないだけ。
本来、わたしたちは、彼らと戦うものであると、先生は言う。
だからこそ、注意するべきだと。安心するなと。
覚悟しろ、と。
そう、忠告してくれる。
「……なんで」
「? なんですか?」
「なんで……そんなこと、教えてくれるんですか?」
慮って言ってくれているのか。ただの気まぐれなのか。それともなにか別の意味があるのか。
わたしたちに危害を加えない、加えられないと先生は言っていたけど、それはあくまでお姉さんやお兄さんが抑えているから。
先生自身は、わたしたちに好意的とは言えないはず、なのに。
どうして、そんなことを言ってくれるのだろう。
先生はしばらく口を噤み、やがて開いた。
「……姉さんに」
「?」
「姉さんに「うちのお得意様にイケナイことしようとしたんだから、その分はちゃんと償うのよ!」って、怒られたから……兄さんにも、後始末も含めて筋は通せって言われたし……」
「あー……」
どことなく恥ずかしそうに、そして少ししょんぼりと言う先生。
理由は、思ったよりも複雑で、単純で、とても“らしかった”。
そっか……お姉さんたちには頭が上がらないんだ。
「そりゃあ、あの件は私が悪いですけど、自分たちだって好き勝手なことばっかりしてる癖に……私の気苦労も知らないで……ぶつぶつ……」
「せ、先生? 先生、あのっ」
「……すみません。家庭の事情です」
コホンと咳払いをして、仕切り直す先生。
「私は所詮、汚い蠅だ。害虫ができることなんてたかが知れてるけど、汚れているからこそ悪意や害意には聡いつもりです。だから、忠告くらいならできるだろうと」
改めて平静に振舞う先生。
先生はそんな風に言うけれど、屈折していようと、強制であろうと、それでもその言葉が善意であることだけはわかった。
善意に返す言葉。そんなものは、決まり切っている。
「……ありがとうございます、先生」
「謝らなくていい。感謝なら、頭の中が花畑の姉さんと、脳漿まで燃焼してる兄さんに述べることですね。あの二人に言われなければ、むしろ口を噤んで仲間と結託して嵌めていましたよ」
「あはは……はい。今度、お礼を言っておきますね」
お姉さんとは毎日のように購買で会うし、お兄さんも学校のどこかしらにはいるし。
二人ともすごく気さくだから、意外と学校で人気者なんだよね……
そして先生の「仲間と結託して嵌める」という言葉も、決して嘘ではない。もしもその機会があれば、この人は躊躇いなく、わたしたちに牙を剥けるのだと思う。
しばらくは……信じてもいいと、思うけど。
「……あぁ、でも。あのクソウサギとだけは、死んでも組みたくないな」
ふと、さっきの自分の言葉を受けて、思い出したように先生は呟いた。
「ウサギ?」
「私たちの仲間……と呼ぶのも反吐が出ますが、同じ【不思議の国の住人】の一人という意味では仲間ですね。私が害虫なら、あいつは害獣だ。一緒にされたくはありませんがね」
な、なんか、先生が珍しく嫌悪感を露わにしてる……誰なんだろう?
「認めたくはありませんが、同族嫌悪、みたいなものなんでしょうけどね。私の“眼”が自意識と自我に収束するからこそ、そして私がその“眼”を疎むからこそ、あの自己中心的な淫婦を私は好きになれない。その悪性が酷く目につく」
「その人って、わたしが会ったことある人、でしょうか?」
「たぶん知らないんじゃないですかね? あいつはあまり表には出ない部類だし、帽子屋さんでさえも手を焼いて放置されるような奴です。いや、帽子屋さんは、快楽の付き合いをして、動物としての性を忘れないようにするためには便利だとか、なにか言っていた気もしますが、忘れました」
「はぁ……だ、誰なんですか、その人……?」
「……名前を口にするのも憚られるが、しかしあいつの名前の価値なんてその程度、と思ってあなたには教えてあげましょう。むしろ、少しくらいは知っておいた方がいいかもしれませんね。姉兄に科せられた親切心から教えましょう。あいつの行動原理は単純だが、いつ行動として起こるかわかったもんじゃない。名前を知るだけでも、多少の心構えにはなるでしょうし」
と、前置きして。
先生は口を開く。
「強欲で傲慢で淫乱、帽子屋さんとはまた違う狂気に犯された獣の毒婦。その名は――」
先生が真性の悪と称する、彼らの仲間の一人の名前を。
「――『三月ウサギ』」
☆ ☆ ☆
思いつきと、衝動と、勢いで来てみたものの、どうしたものか。
事務的で普遍的で、優雅さや煌びやかさの欠片もない、つまらない建物。
ここから見える人間たちも、あまりに幼く、無力で、平凡だ。
端的に言って、面白くない。
まだ門すら潜っていないが、一目でわかる。ここは享楽とも快楽とも無縁で、面白味に欠けた場所であると。
「……ま、でも、今から男を引っ掛けるのも面倒だし、たまには子供相手でもいいかしらねぇ……あぁ、そうだ」
一つ、思い出した。
あいつの勤め先でもあるここには、彼女もいる。
彼が気にかけ、気に病み、気にし続けている、小さな少女が。
それを思い出したら、なんだか急に、胸の内に奇妙な苛立ちが募った。
なんでもいい。このムカつきを発散したい。
混沌を振り撒こうと、害悪を撒き散らそうと、構うものかと身体が告げる。
心も身体も血潮が滾るのなら、己の意志が向かう先も、自然と決まっている。
「さてそれじゃあ早速……あの子でいいかしらね」
視線の先に捉えた平凡な少女に目を付ける。平凡すぎてなんの感想も抱けないが、どうでもよかった。あまりに幼すぎていなければ誰でもいい。
門を潜り、ゆったりとした足取りで、その少女へと近づく。
「そこのあなた。ちょっといいかしら?」
「え? な、なんですか?」
「少し尋ねたいことがあるの。大丈夫、あまり手間取らせないようにするから」
話しかける最中でも、歩は止めない。
ギリギリまで、限界まで。肌と肌が触れ合うほど。息遣いが分かるほど。心臓の鼓動が届くほど。
――狂ってしまいそうなほど、寄り添うように近寄る。
「あ、あの……?」
「楽にして頂戴。あなたはなにもしなくてもいい。無知でもいい。未経験でもいい。全部、全部、僕がリードしてあげるから」
それは、肉体を獲得した生命体の本能。
その衝動に、誰もが最初は困惑し、戸惑い、振り回されるものだ。
しかし案ずることはない。それは生き物としては普通で、当然のことだ。
混乱も、痛みも、羞恥も最初だけ。それはだんだんと、緩慢に肉体を蝕み、蕩けるような快感を伴って、己の一部と化すのだから。
この少女がどこまで“進んでいる”のかは知らないが、それでも感じたことのないような刺激的な悦楽と、新たな世界を切り開く情感を与えよう。
それが、せめてもの返礼ということにして。
小さく吐息を当てて、狂気を囁く。
「淫靡に狂い果てましょう――「三月のウサギのように」」
☆ ☆ ☆
「『三月ウサギ』さん、かぁ」
職員室にプリントを運んだ帰り。わたしは、先生から聞いた名前を反芻する。
なんとも可愛らしい名前だけど、先生は苦虫を噛み潰したような渋い顔でその名前を口にしていて、その人に対する言葉も、わたしの口から言うのは憚られるくらい汚かった。
この前の“あれ”を除けば基本的に温厚な先生が、あそこまで罵詈雑言を並べて嫌悪感を剥き出しにする人……一体、どんな人なんだろう。
先生は罵るだけ罵っていたけど、具体的な特徴とか、どんな人かは全然話してくれなかったし。ちょっと突っ込んで聞いてみたけど「口にするだけで反吐が出るから、それ以上の追及はやめていただきたい。私が気分を害する、メンタルが持たない」なんて言われちゃったし。そのわりに悪口は言うんだもんね。
でも、先生がそこまで悪し様に言うほど、悪い人、なのかなぁ。
実際に会ったわけじゃないし、わたしには判断できっこないんだけど。
それにこれから会うとも限らないし、そんなに悪い人なら、できれば会いたくないけど……
「うーん、でも、霜ちゃんなら「もしそんな奴が出てきたらどうするか、対処法を考えておこうか」なんて言いそうだよね」
個人に対する対処法なんてあるのかって思うけど。
なんて考えているうちに、既視感のある景色――というか人影が見えた。
室内なのに、パーカーのフードまで目深にかぶって、背中に大きなリュックを背負った、ちょっと小柄な女の子。
この今から帰りますオーラをふんだんに発しているのは、間違いない。代海ちゃんだ。
「あ、そうだ、もしかしたら代海ちゃんなら……代海ちゃーん!」
「っ! こ、小鈴、さん……」
ビクッと身体を震わせて、振り向く代海ちゃん。
なんだか前にもこんなやり取りがあった気がする。
「ど、どうしましたか……?」
「うん。えっとね、代海ちゃんに用があるんだけど、今、大丈夫かな?」
「ほ、ホームルームも、終わったので……だ、大丈夫、ですよ」
前にも先生や、お姉さんやお兄さん――蟲の三姉弟のことを聞いたけど。
代海ちゃんなら、『三月ウサギ』さんのことも、なにか知ってるかもしれない。
先生はちゃんと話してくれなかったけど、代海ちゃんなら、きっと。
「えっとね。ちょっと聞きたいことがあって――」
「――こすず」
と、その時。
わたしの言葉を遮って、小さく、だけどハッキリとした声が届いた。
「恋ちゃん……」
「帰り、遅いからって……そうと、みのりこが、カリカリしてる……」
「あ、そっか。ごめんね。すぐ戻るよ」
ゆっくりしてたつもりはないんだけど、先生と話してて遅くなっちゃってたみたい。
この前のことがあるし、みんなが心配するのもわかる。早く戻らなきゃいけないけど……
「えと、えっと……」
どうしたらいいのかわからず、おろおろしてる代海ちゃん。
流石に、呼び止めてやっぱりいいです、なんて言えないよね。
「代海ちゃん。さっきの話なんだけど、みんなも一緒でいいかな?」
「は、はい……アタシは、か、構いません……」
たぶん教室には誰も残ってないと思うし、【不思議の国の住人】の話をするなら、きっとみんないた方がいい。
それに、先生に言われたことも――
――あなたは、もっと覚悟した方がいい
わかっている。わかっているんだけど、まだピンと来ないし、なんだかしっくり来ない。
帽子屋さんや、先生や、お姉さんや、代海ちゃんたちが――敵だということに。
わたしが甘いのか。危機感がないのか。そういうことなのかもしれないけど、なんだか、まだ胸の中がもやもやする。
このもやもやが晴れれば、なにかがわかるかもしれない。踏ん切りのつかないわたしの心に、なにか変化が起こるかもしれない。
そんな根拠のない希望を抱いて、そのためにもなにかの手掛かりを掴みたい。
「じゃ、行こっ」
代海ちゃんの手を引いて、わたしの教室――1のA教室に入る。
☆ ☆ ☆
「――ごちそうさまでした。そして、いただきました」
思ったよりも楽しめた。やはり、いつも同じというのも芸がないし、マンネリ化の元だ。たまには、普段であれば経験できないこと、体験できないことを楽しむのもいい。
質の良さでは比べるべくもないが、快楽とは質ではなく、感受性と稀少性だ。己の経験内における稀少さこそが、最上のスパイスとなる。
刺激的とは言い難いものの、少しばかり空腹だった心もそれなりに満たせた。幼い少女でも、前菜程度の価値はあったものだ。
「さて、問題はこれだけど……流石にきっついわね」
無理もない。通らない無理を通しているようなものなのだから。未成熟なものの器は、成熟したものに収まり切るはずもない。
しかし、これは必要なことだ。ちょっとした興味と、衝動的な思いつきも含まれるとはいえ、これが自然で、円滑にことを進められると判断したゆえ。
「あんまりデザインは好みじゃないけど……ま、いっか。この子と同じ。たまにはってやつね。たまにはこういうのも、いいものよ」
半ば自分に言い聞かせるように、それを己の身体に押し込めていく。
……むしろ、自らおかしな方向に進んでいる気がしないでもないが、そこはそれ。そうだとしても、逆にそれを楽しめばいい。
「さて、こんなもんかしらね。胸のキツさと丈の短さが気になるけど、こういうものだと思えば大丈夫よね」
これが仮に“こういうもの”だとすれば、それは自然からは程遠いものなのだが……やはり、それも関係はない。
こんな器にしろ、殻にしろ、見てくれなんて大した意味は持たない。
どうせこんなものは、一時的な楽しみでしかないのだ。
面白おかしく、歪に歪んでいようとも、刹那の一時を楽しもうではないか。
「それじゃあ今度こそ、行きましょうか――」
☆ ☆ ☆
案の定、クラスメイトはみんないなくて、残っていたのは恋ちゃん、ユーちゃん、霜ちゃんにみのりちゃん。いつものメンバーだけだった。
代海ちゃんと一緒に来たことに、霜ちゃんやみのりちゃんは少し顔をしかめたけど、前ほど攻撃的にものを言うこともなくなった。
それでも、ちょっとだけ、ヤな空気だけどね。
それはそれとして、わたしはさっき先生から聞いた話を、みんなにも話した。
特に、『三月ウサギ』という人のことを。
そしてその人について、代海ちゃんにも尋ねた。
すると、
「三月ウサギさん……ですか……」
代海ちゃんも、斜を向いて、ちょっと言いづらそうに口ごもる。
「えっと、その、な、なんて言うか……自由な人、ですよ……」
「自由? なんとも煮え切らない言い方だね」
「もっとハッキリ言ってよー。自由とか言い出したら、君ら皆そんな感じじゃんさー」
それを君が言うのか? っていう視線が霜ちゃんから発せられているけど、みのりちゃんの言うことももっともだ。
帽子屋さんもそうだけど、ネズミさんとか、先生のお姉さんやお兄さんも結構、奔放な自由人だ。だけど個性はそれぞれ十人十色。
それだけじゃ、なんとも判断しづらい。
「しろみ……もっと、具体的に……」
「ぐ、具体的って……」
「どんな人なんですか? 好きなことはなんですか?」
「好きな、こと……はうぅ……」
詳細を追及されて、顔を覆う代海ちゃん。
しかもこれ、困っているのは困っているけど、どういうわけか顔が赤い。恥ずかしがってる、のかな? なんで?
「ひょっとして、なにか隠してる?」
「そ、そういうわけでは……」
「じゃあ話してよー。隠されてるとさぁ、ほら、やっぱ疑っちゃうじゃん?」
「あぅ……でも、その、あ、アタシ……ああいう“オトナなコト”は、あんまりわからなくて……」
「……オトナなコト?」
なんか今、急に思わぬ方向に話が転がらなかった?
「……わいだんの、予感……」
「? オトナっぽい人なんですか?」
「ま、間違ってない、ですけど……その、なんていうか……」
「……なんとなく、言いたいことがわかった。異性に節操がないとか、そんなところだろう」
「は、はい……それに、凄くプライドが高い、といいますか……す、凄い人、なんですけど、アタシは、少し苦手、っていうか……ちょっと、荒々しいところがある、っていうか……」
「私は今の話で、ヒステリックな高飛車お嬢様系ソープ嬢をイメージしたよ。大体これで合ってるはず!」
「その自信がどこから湧いてくるのかわからないが、正直なところボクも似たような感じだ。夜の街に繰り出していそうだね」
「淫乱ビッチ感溢れる……」
「ソープ? 夜? インラン? なんですか? みなさん、なにを言ってるのか、よくわかんないです」
「もうっ、みんな! ユーちゃんに変なこと教えちゃダメだよ!」
「そんなつもりはないんだが……」
「っていうか小鈴ちゃんはわかってるんだー?」
「ふぇ……っ!?」
みのりちゃんから手痛いカウンターパンチを受けました。
いや、まあ、その……ちょっとだけ。ちょっとだけだよ?
お母さんも、決して子供向けの小説だけを書いてたわけじゃないから、たまたま家にちょっと刺激的な本もあって、というか……
「そ、そんなことはどうでもいいのっ!」
「ん……その、淫乱ビッチが……やって来るかどうか……」
「うーん、ど、どうでしょう……あの人は、その、あんまり帽子屋さんの指令で、動かない人、ですから……」
「帽子屋という男が、君らのトップだよね? もしかしてトップと仲違いでもしているのか?」
「い、いえ、そんなことは……帽子屋さんが、なにを考えてるかは、わかりません、が……三月ウサギさんは、帽子屋さんに、惚れ込んでいて……」
「んー? 惚れてるのに、惚れた相手の命令は聞かないって? なんかおかしくない?」
「アタシも、変だって思います、けど……あの人たちの、関係は……よ、よく、わかりません……そういう意味でも、自由な人、です……」
今まで出会った【不思議の国の住人】の人たちは、ほとんどの場合、帽子屋さんの命令によって動いていた。中には、先生みたいに個人的な理由で動くこともあったけど。
それでも、帽子屋さんたちの悲願――種の繁栄と存続という目的に邁進するための活動という軸は、ぶれていなかった。
だけど『三月ウサギ』という人は、その軸さえも外れている……?
あくまで人から聞いた話だから、推測でしかないけど、代海ちゃんたちの中でも異端な人、ということはちょっとだけ伝わった。
「ま、まあ……たぶん、帽子屋さんも、三月ウサギさんを、持て余してて……放置してるだけ、だと、思いますけど……」
「まるでじゃじゃ馬だな。君ら、言うほど一枚岩というわけではないのか?」
「そ、そういう人も、いるっていうか……ちょっと……ちょっとだけ、本能に、忠実っていうか……」
「本能に忠実、ねぇ。まあはた迷惑な話だこと」
「だね。己の欲望や感情を抑制できず、周囲に害を振りまくようなら、それはもう悪と断じていい。なぁ、聞いているか実子?」
「え? 私なにか悪いことした?」
「自覚がないやつ……」
「で? そのなんちゃらウサギとやらがなんだって?」
「警戒しろ、ということなのかな? 仮にも敵対者の助言を素直に聞き入れるのもどうかとは思うが」
「……しろみ……どう、なの……?」
「三月ウサギさんは……来ない、と、思います、けど……」
「ハッキリしないね」
「そ、その……行動原理が、よくわからない、っていうか……可能性は否定できない、ですけど……その可能性は低そう、というか……」
もごもごと口にしづらそうな代海ちゃん。
ただ言い難い内容というより、なんと答えれば、どう言葉にすればよくわからない、といった風だ。
「か、快楽主義者……? って、言うんでしょうか……三月ウサギさんは、基本、じ、自分の良しとすること……にしか、寄りつかない、ので……そういうのが、ない限り、は……」
「なんとなく理屈はわかった。しかし、そいつがなにに関心を寄せるのかがわからないとな」
「男じゃない?」
「そんな短絡的な」
「概ね、合ってる、と、お、思います……」
「……短絡的なんだな」
男の人、かぁ。
それなら確かに、わたしたちにはあんまり関係なさそうだね。
「情欲に惹かれるというのなら、ボクらとも、ボクらが関わることともとんと無縁だね」
「は、はい……だから、少なくとも、学校なんて場所には……よっぽどのきまぐれがない、限り……そんなことは――」
と、その時。
ガラガラ、と。
教室の戸が開け放たれる。
「っ!」
今の話を聞かれてしまったのかという不安と懸念。
同時に、ただ誰かが忘れ物を取りに来たとか、そんな、なんでもないイベントへの期待。
だけどそれはどちらでもなく、それら以上に悪い展開が待っていました。
開かれた扉。そこに立っていたのは――
「残念ながら、そんなきまぐれがあるのよねー、これが」
――知らない。女の人、でした。
☆ ☆ ☆
「だ、誰……?」
まったく知らない人だ。見るからにわかる。大人の、女の人。
学校内に、明らかに生徒ではない、教師でもない大人がいるという現実に、困惑するわたしたち。
だけど代海ちゃんだけは、わたしたちの惑いとは、また別の混乱を抱えていた。
「さ、三月ウサギ、さん……」
「はぁい、僕の名前は『三月ウサギ』。帽子屋さんに怒られて追い出されちゃったから、遊びに来ちゃった」
三月ウサギ。代海ちゃんは、そしてこのお姉さんは、確かにそう言った。
今まで話題に上がっていた【不思議の国の住人】の一人……だけど。
その出で立ちに、思わず目を奪われる。
(す、すごい格好……!)
制服だ。烏ヶ森学園の、女子制服。わりと普通のセーラーで、そこだけ見ると特に違和感はない。かもしれないけど。
制服というのは学生が身に着けるもので、大人がそれを着ると、すごくコスプレ感が漂う……そんな印象だ。
しかもこの人は、その……体つきも、すごく大人っぽいから、色々危ないっていうか……み、見えちゃいそう、なんですけど……
「なんて下品な格好の女なんだ。自分の品格を悪戯に下げることが、色っぽいとでも思っているのか? 反吐が出るね」
「霜ちゃん!?」
「あ、すまない。つい……失礼した。撤回はしないけど」
「小生意気な娘ね。いや、よく見たら男……? 可愛い顔してるわね。その顔ならスカートの方が似合ってるかもね」
「そいつはどうもありがとう。あなたは、見てくれこそ綺麗ですけど、ファッションセンスが絶望的ですね」
「……口達者のムカつくガキね」
そう吐き捨てる三月ウサギさん。
き、急に口が悪くなった……霜ちゃんも霜ちゃんだけど。
いや、そんなファッションチェックをしている場合じゃない。
「さ、三月ウサギ、さん……ど、どうして、ここに……!?」
「あらあらカメさん。聞いてなかったの? 帽子屋さんに追い出されちゃったから、遊びに来たのよ」
「遊びに……? それって……」
「えぇ。あなたがさっき言ったように、単なる気まぐれよ。大仰な目的も、大層な意志もない。ただ“なんとなく”という理由ならざる理由でここにいる。とっかかりはあったけどね」
なんとなく。
あらゆる理屈や条理を粉砕する動機だった。因果関係もなにもあったものじゃない。
「ここに来た理由なんて存在しない。だから、なにをしに来た、なんて問われても答えられないのよねぇ。強いて言うなら、楽しみに来た、と言うべきなんでしょうけど。でも、どんな“遊び”だって、楽しいかどうかは結果次第。だからやっぱり、遊びに来た、が正しいのでしょうね」
「楽しみに来たとか遊びに来たとか、随分と曖昧な答えだな。具体的には、どうするって言うんだ?」
「何度も同じことを言わせないでちょうだい。僕はなにも考えずここにいるし、だからその答えは持ち合わせていないわ。ただ、帽子屋さんが熱中する女の子がどんなものかを見に来た、というのがそこそこ近い答えだけれど……むむむ」
「な、なんですか……?」
目を凝らして、ジッとわたしを見つめるウサギさん。
なんか、目つきが怖いんだけど……
「お子様の癖に、なーんか僕より大きい気がするし……ちょっとムカつく」
「えっと……?」
「よし、決めたわ。弄ったり虐めたり、あるいは食べたり貪ったり、舐めたりしゃぶったりというのも悪くはなかったけど、今日は観察に留めておきましょう。うふふ、見るだけっていうのも、それはそれで興奮するわよね」
「……なに、言ってるの……このビッチ……頭、湧いてる……?」
「湧いてるんじゃない?」
「咆えてなさい小娘共。あなたたちみたいな、平凡で未成熟なガキなんか、眼中にないのだから。悦びを知りたければ、話は別だけど?」
「結構です。間に合ってるんで」
(……間に合ってる?)
みのりちゃんの言葉に霜ちゃんが訝しげに首を傾げている。
ウサギさんはそんなみんなから視線を外して、またわたしに向いた。
「ふふっ。可愛らしくも憎たらしいあなたには、狂気をプレゼントしてあげる」
コツ、コツ、と三月ウサギさんは靴音を鳴らして歩み寄る。
まるで獲物を見つけた肉食獣のような、獰猛で、下卑た笑みを浮かべて
「っ! こ、小鈴さんっ! ダメ……その人から、離れてください……っ!」
「え……?」
スッ、と。
気づけば、ウサギさんは目の前に立っていた。
わたしの頬に添えられた手。鼻の先がくっついてしまいそうなほどに迫る顔。
それはとてもきれいで、精巧で、お月様みたいに美しく。
蕩けてしまいそうなほど、欲情的だった。
可憐で美麗で淫蕩な獣は、そっと囁く。
その瞬間。だった――
「月の狂気と獣の淫欲に飲まれなさい――「三月のウサギのように」」
――わたしの中で、なにかが弾けた。
☆ ☆ ☆
三月ウサギさんが、小鈴さんから離れる。
小鈴さんは放心しているかのように、ぼぅっと虚空を見つめています。
あぁ……止められませんでした……
三月ウサギさんの“狂気”を……
「な、なんだ……? 小鈴になにをした!」
「さーて、なにかしらねぇ。ふふふっ」
小鈴さんの身に起こった、明らかな異常。それは内情を知るアタシでなくとも、誰もが感じ取れているようです。
そして、その異常の元凶も明らか。霜さんは三月ウサギさんに噛みつきますが、三月ウサギさんは悪戯っぽく微笑むだけで、答えようとはしません。
「あなたは聡明よね。だからこそ、黙ってた方が面白そうだし、僕は手の届かないところで高みの見物を決め込ませてもらおうかしら。ばいばーい!」
「っ、おい待て――!」
待てと言われて待つはずもなく。
三月ウサギさんは、正に脱兎の如く、その場から離脱した。
「……逃げた……」
「あんなのどうでもいいよ! そんなことより、小鈴ちゃん! 大丈夫!?」
「…………」
「こ、小鈴さん……?」
呆然と立ち尽くす小鈴さん。
今はきっと、受け入れているところなんだと思います。
けれど、それを受け入れてしまったら、小鈴さんは……
「小鈴ちゃん! しっかり!」
「……みのりちゃん」
「よかった、意識はあるみたいだ。しかし、あいつは一体なにを――」
ギュッと。
小鈴さんは、実子さんを抱きすくめる。
「こ、小鈴ちゃん……?」
「……大好き」
「はぅっ!?」
あまりに脈絡がなく、唐突な言葉と行動。
ギュウゥッと、小鈴さんが実子さんを抱く力は強まるばかり。
その行動は、普段の小鈴さんからは考えられないような行い、ですけど……
……?
「初めてのお友達が、みのりちゃんでよかった……いつもありがとう。好きだよ、大好き」
「え、ちょ、ちょ、た、タンマ……お、推しの供給過多で……だ、ダメ、死ねる……」
「きゅ、急にどうしたんだ? 小鈴……」
「普段なら……あんなこと……言わない、ような」
……どういう、ことなんでしょう……? アタシにも、ちょっとよくわかりません……
上気したように赤みを帯びた頬。とろんと蕩けたような表情。無邪気でどこか獣染みた微笑み。そして、普段の行いからは逸脱した言動。
これは確かに、三月ウサギさんの
そのはず、なんですけど……なんだか、アタシの知っているそれとも違う……?
「えへへ……みのりちゃんは素敵だよ。ほっそりしてて、背も高くて、綺麗だし、格好いいよ。わたしの理想の女の子だぁ……」
「や、ダメ、やめて……嬉しすぎて死んでしまう……!」
「いつもありがとぉ。大好きだよ、みのりちゃん」
「ぐっ、もぅ、無理……かはっ!?」
「み、実子さーん!?」
「実子がやられた!? しかも小鈴に!? そんなことがあり得るのか!?」
実子さんが喀血(したような素振りを)して倒れた。そしてうわ言のように「我が生涯に一片の悔い無し……」と呻いている。
たぶん、気を失っているだけだと思いますが、そんなことより。
アタシの知るものとは少し違いますが、今の小鈴さんが“変わってしまった”のは、誰もが理解したところだと思います。
その変化に戸惑い、混乱し、そして恐れるように、皆さんは一歩後退する。
「小鈴さん、どうしちゃったんですか……? いつもの小鈴さんじゃ、なくなっちゃったみたいです……」
「ユーちゃん……」
その声に反応したかのように、小鈴さんは、今度はユーさんを標的に据える。
一歩一歩、ゆっくりとゆらゆらと、崩れて倒れてしまいそうな危うさで、ユーさんへと歩み寄る小鈴さん。
異常さの発露を見せた小鈴さんですが、その姿が、彼女が小鈴さんであるという事実に変わりはなく。
だからこそなのか、ユーさんはその場から一歩も動けず。
小鈴さんが彼女の目の前に立つ。
「こ、小鈴、さん……」
そしてまた、ギュッと彼女を抱き締めた。
「はわ……ぁ、ぅ……」
「ユーちゃんも可愛いよ……髪は綺麗で、さらさらで……なにより、とっても元気で、明るくて……癒される……」
「く、くるしいです、小鈴さん……」
「可愛いなぁ……わたしのこと、お姉ちゃんって、呼んでもいいんだよ?」
「うみゅぅ、ゆ、ユーちゃんのおねーちゃんは、ローちゃんなんですけど……」
「でも、ローザさんとは双子だよ?」
「小鈴さんとも同い年ですって!」
「それでもだよぉ……うりうり」
「う、うにゅ、うにゅっ……くすぐったいですって……小鈴さぁん……」
まるで小動物を愛でるように、ユーさんを抱き締めて、頭を撫でる小鈴さん。、
そして、まるで会話が成り立っていない。
部分的には、それはアタシの知る異常と近しいのですが……これは……
「あ、あのっ! 小鈴さん、苦しいですよ……は、離してくださいっ」
「えぇー、もうちょっとだけぇ……はぁ、ふわふわもちもち……」
「小鈴さんのおむねの方が、ふわふわでもちもちなんですけど……あと苦しいです……息が……」
実子さん相手だと、実子さんの方が背が高かったのでなんともなかったですけど、ユーさんと小鈴さんでは、小鈴さんの方が少し背が高いです。
その身長差もあって、ユーさんの顔は、小鈴さんの大きな胸に埋まっていて、羨ましいような苦しそうなような。
いや、絶対に苦しいと思うんですけど。鼻も口もほとんど外に出てませんもん。
何度も拒否の意を示すユーさんですが、小鈴さんは意に介すことなく、その状態をキープ。どころか、小鈴さんの抱きしめる力はどんどん強くなっていって……
「わたしも、こんな妹が欲しかったなぁ……えいっ」
「うにゅぅぅぅぅぅぅっ!?」
……まるで、絞め落とすかのように。
呼吸困難になったユーさんは、断末魔の叫びをあげて、小鈴さんの胸の中でぐったりと力尽きていました。
「きゅぅ……」
「まさかユーまでやられるなんて……」
「無差別テロ……」
「一体なにがどうなってるのかわからないが、この流れだと、次は……?」
実子さん、ユーさんと二人の尊い犠牲者によって、小鈴さんのパターンは読めました。
いや、これがパターン化されたアクションなのかは、三月ウサギさんの性質を考えると、甚だ疑問ですけど……
しかし次になにが来るのかは、概ね予想がつきます。
目を回して床に倒れ伏したユーさんをよそに、小鈴さんは身体を回して、こちらを向く。
そして、その蠱惑的な眼差しで、蕩けた声で、指し示すのは――
「……霜ちゃん」
「ボクか!」
――霜さん、でした。
その隣で恋さんが安堵の溜息を漏らしているのは内緒です。
「…………」
小鈴さんは無言で、カツカツと少し足早に霜さんへと歩み寄ります。
? なんだか、その足取りは、ちょっと不機嫌なような……?
「ま、待て小鈴。話し合おう。いきなりハグとか、日本では非常識だよ。人間には高度に発達した自由自在のコミュニケーション、会話がある。これを用いない手はないよ。君の称賛は正直なところ受けたいところだがハグは困る。困るんだ。君の体型で男女が密着するとかあり得ないだろ? 君だって恥じらいがあるはずだ。いつもそうだったじゃないか。本来の君を取り戻すんだ小鈴。なぁ、話せばわかるからお願いします止まってください!」
迫り来る小鈴さんから逃げながら、必死で説得を試みる霜さんですが……まるで効果はないようです。小鈴さんは耳に入ってないかのように無視。霜さんに迫っていきます。
やがて壁際に追い詰められ、霜さんは逃げ場を失う。
そこに、グイッ、と。
小鈴さんらしくない強引さで、壁に押し付けて、霜さんと向き合いました。
……これは、俗に言う「壁ドン」ってやつでしょうか……?
「むー……」
「な、なに? なんか、怒ってる……?」
実子さんやユーさんとは違う反応。二人には、とろとろした甘い笑みを浮かべていたにも関わらず、霜さんにはふくれっ面を見せていました。
……お二人と、霜さんとの明確な違いがあって、本来の三月ウサギさんの、彼女の性質を加味すれば、そこに差が生まれるのは理解できますが……
なんでしょう。やっぱり、なにかが違うような気がします。
「霜ちゃんは可愛いよ。素敵だよ。でも」
「で、でも?」
「わたしのこと、ダサいとか、センスないとか、子供っぽいとか言ってばっかり……」
「ボクには不満!? 少しでも期待した自分がバカみたいじゃないか!」
「? なに?」
「あ、いや……なんでもない」
む、むむ……?
実子さんやユーさんと違って、霜さんは可愛らしいですが、男の子です。
だからこそ今の小鈴さんとは一番引き合わせてはいけないはずなんですが……この反応は、やっぱり、かなり“ずれている”。
けれど確かに“狂っている”。
本来とは違うようで、違わない。
(もしかして、アタシが知らない形でも、三月ウサギさんの狂気は発現する、のでしょうか……?)
そもそも詳しくは知らなくて、例示をいくつか知っている程度なので、そのくらいのズレがあってもなんらおかしくはないのですが。
だとすると、不幸中の幸い、とでも言うのでしょうか。
本当に最悪のケースを思えば、よほどマシな状況なのかもしれません。
と、思ってましたけど。
「確かに、わたしは綺麗じゃないし、お洒落もよくわかんないけど……そんなにハッキリ言わなくてもいいのに……傷つくよ」
「ご、ごめん、悪かった。謝るから、その、退いてくれ……色々、当たってるんだけど……」
「霜ちゃん」
下から覗きこむように、上目を遣って霜さんに迫る小鈴さん。
身体も密着していて、なんというか、とても……色っぽい光景です。見てるこっちまでちょっと恥ずかしいくらいに。
当の霜さんも、大変困った様子で頬を紅潮させ、目を逸らしています。
……実子さんにも、ユーさんにも、小鈴さんはあくまで“女の子”として扱っていました。それも、普段にはない“過激さ”を伴って。
あるいは、本来ならあり得ないほど“正直に”なって。
己の羞恥も、常識も、規律も、倫理も、道徳も、すべてをかなぐり捨てて。
理性が飛んでいる今、小鈴さんを抑える自我はありません。
相手は霜さん。可愛らしくとも、女性らしくとも、本質は男性です。
小鈴さん本人がそれを強く意識していなかったとしても、その事実は揺るぎなく。
そしてその事実があるからこそ、それに応じる因果が存在する。
「わたしは背も低いし、顔も服も子供っぽいかもしれないけど……でも、"大人っぽくなりたい"って、思ってるんだよ」
「え?」
「わたしにだって、子供っぽくないところも……大人っぽいところも、あるんだから」
やはり、ここにいるのは“男”と“女”。
三月のウサギが解き放った狂気は、しっかりと発現していたようです。
小鈴さんは、霜さんの逃げ場を塞いでいた片腕を解放しました。
だけどそれは、新しい災禍と、解放の前触れ。
小鈴さんはその手を、自らの制服の襟元に持っていって――
「ちゃんと教えないと、霜ちゃんはわかってくれなさそうだし……今日は体育もなかったから"そういうの"つけてきたし……」
ぷちっ
――脱ぎ始めた。
「ちょ……っ!? ちょっと待て! それはまずい! やめろ小鈴!」
小鈴さんの思い切りすぎた行動に目を剥いた霜さんは、慌てて小鈴さんの腕を掴んで止める。
けれど小鈴さんは、さっきまでの静謐さが霧散してしまったかのように、赤ん坊のように暴れ始めた。
「はーなーしーてーっ! わたしだって怒ってるんだからー!」
「それはボクが悪かった! 悪かったからやめろ! 女の子が軽々しくそんなことするもんじゃない! 仮にもボクは男だぞ!?」
「可愛いからいいんだもん!」
「よくない! くっ、小鈴の癖になんて力……恋! 手伝ってくれ! 小鈴を止めるんだ!」
泣き喚きながら暴れて、あまつさえ服を脱ごうとする小鈴さん。
霜さんはそれを必死で止めようとしますが、霜さんの方が少しだけ背が高いとはいえ、二人の体格はそれほど大差ない。
一人でリミッターが外れている小鈴さんを抑え込むのは難しいと判断したのか、恋さんに救援を求めました。
「いや……そういうの、解釈違い、だし……あんまり、その小鈴に、近づきたく、ない……なんか、恥ずかしいから……」
「そんなこと言ってる場合か!? ここは友人として、一線を越えないために助けるところだろう!? というか助けてください!」
「むぅ……」
霜さんの必死の懇願に、少し考え込む恋さん……そこ、考えるところなんですね……
やがて恋さんは顔を上げて、嘆息した。
「はぁ……やむをえず……しかたない、か……」
そして、渋々ながらも、霜さんに加勢することにしたようです。
「……あ、アタシも……」
小鈴さんの奇行に、アタシも面食らってしまいましたが……やはりこれは、まごうことなく三月ウサギさんの仕業。
止めないと……!
「こすず……ステイ、ステイ……」
「ぐっ!? なんか今チラッと見えた気がした……! 今の黒いのは服の影だよな!?」
「知るか……っていうか、これ……想像以上の、難敵……」
霜さんと恋さんが、小鈴さんと格闘している最中。
アタシは、アタシにもできることを……あるいは、アタシにしかできないことを、しないと。
「待っててください、小鈴さん……!」
開け放たれた教室の扉から、廊下へと飛び出す。
この狂気の元凶――三月ウサギさんを探して。
☆ ☆ ☆
覗き見れば、向こう側に人の姿が見えた。
「うーん……? あっれー?」
首を傾げている女性が一人。身体に合わない烏ヶ森の女子制服を着ている、大人の女。
彼女は窓の向こうを眺めては、しきりに首を捻っていた。
「おっかしいわねぇ……本当なら、もっとケダモノみたいにかぶりつくはずなんだけど……お子様だからかしら? いや、それにしたってあれは……」
ぶつぶつと呟きながら、女性は不思議そうな、怪訝そうな、理解できない、あり得ないと言わんばかりの、どことなく不機嫌さをにじませた複雑怪奇な表情を見せる。
「普通、僕の“狂気”を受けたら、個人の判別なんてできないはずなんだけどねぇ。オスかメス、あるのはそれだけ。ゆえに性対象にはすべて喰らいつく獰猛さと貪欲さが湧き上がり、その他のものなんてどうでもよくなるはずなのに、たったあれっぽっちだなんて……つまんないわ」
その姿は一時の間、隠れる。
しかし視界にはなくとも、耳に、その下品な笑い声が届いた。
「でも、脱がしにかかると思ったら自分から脱ぐとか! そこだけはちょっとウケるわね! 喰らうのではなく、狙って喰らわれる者……誘い受けね。痴女の素質かぁ」
怒ったり、笑ったり、安定しない情緒で、そこから見える景色を愉しむ女性。
人の尊厳もなにも、その前では意味をなさないほどに醜悪で、傲慢な姿が浮かぶようだ。
「愉悦としてはかなーり物足りないけど、まあ、カラダだけのお子様芋女に過度な期待をした僕がバカだったってことにしておきましょう」
言葉が聞き取れるようになった。
もうすぐだ。
もう、すぐそこだ。
「んー、でも、この欲求不満な感じはどう解消したものかしら。もう何人か玩具にして遊ぼうかしらね? といっても、どこもかしこも、お子様だらけだしねぇ――」
息を切らして、床を蹴って、走って。
彼女の前に、立つ。
「――さ、三月ウサギ、さん……!」
1のAの教室の、ちょうど真向いの廊下。
直線で結んだ先で、霜さんや恋さん、そして小鈴さんの姿が見える。
そんな絶景ポイントに、三月ウサギさんはいました。
「あら、代用ウミガメ。なんの用?」
アタシの呼びかけに、こともなげに返す三月ウサギさん。
この人にとって、きっとアタシは取るに足らない存在。さっきも、アタシのことを知っていながらも、アタシにはまるで目をくれていませんでした。
でも、彼女がアタシのことをどう思っていようと、関係ありません。
アタシには、明確な用事があるのですから。
「……く、ださい……」
「はぁ? なんて?」
「や、やめて……ください……!」
「なにが?」
「こ、小鈴さんに科した、あなたの“狂気”……い、今すぐ、取り消して、ください……!」
「イヤよ。なんでそんなことしなくちゃいけないのよ」
「だ、だって、こんなこと……意味が、ないじゃないですか……」
「意味がない。そうかもしれないけど、そうでもないかもしれない。少なくとも、僕はこの狂気を撒き散らすことを楽しいと感じているわ。それで十分じゃない?」
「そ、そんな、自分勝手な……」
「なによ今更。僕の名前は『三月ウサギ』。みだりに淫らに乱れて狂う、情欲の獣よ? 淫蕩に、衝動的に、この身体と本能の赴くままに享楽を受け入れる。それが僕のあるがままの姿で生き様。それが自然ってやつよ」
確かにそのあり方が、三月ウサギさんの存在そのものと言えるかもしれません。
でも、だからって、それを振りかざして、振りまくことが許されるはずが……
「そもそもよ。自然と言えば、あの女は僕たちの敵なのよ。聖獣を抱えているアリスなのだから、どうしようと問題はないでしょ?」
「でも……」
「なに? アンタ、あの女を庇うの? それでも帽子屋さんに目かけられた【不思議の国の住人】?」
「う、うぅ……」
言葉に、詰まってしまいました。
勇んで出て来たというのに、情けない限りです……
でも、それを、帽子屋さんを、【不思議の国の住人】を引き合いに出されると、とても強く反論できません……
……いいえ、負けてはいけません。
アタシにだって、ちっぽけでも、守りたい気持ちや、通したい正義があるのですから。
「……で、でも、こんなの……ま、間違って、ます……」
「間違ってる? なにが? どこが? どんな風に?」
「あんなやり方、おかしい、ですよ……だ、だって、あれは人の尊厳を、傷つけるだけで……聖獣の力を手にすることと……帽子屋さんの目指す目的と、か、関係ない、ことです……あなたが、ただ、自分一人で楽しむだけで……なんの、意味も、ありません……!」
精一杯の強がりと、最大限の見栄っ張りで、反論を試みる。
これは帽子屋さんの命令ではなく、三月ウサギさんが一人で勝手にやっていること。
いくら小鈴さんがアタシたちの敵と言えども、ただ身勝手に貶めればいいというものではない。
その行為は単なるエゴでしかなく、それをアタシたちの総意であるかのような、アタシたち全体の行いであるかのような物言いは、間違っているんです。
「あなた一人の勝手な振る舞いは……【不思議の国の住人】すべての行為では、ありません……!」
「はぁ……うっざいわね」
鬱陶しそうに息を吐いて、三月ウサギさんは敵愾心を露わにした鋭い視線を向ける。
ウサギなんて小動物ではない、猛獣のような険しい眼差しを。
「なにアンタ? グズでノロマなカメの癖して、僕に意見するわけ?」
「そ、それは……その……だって……」
「一度、ハッキリ身の程ってものをわからせてやらなきゃいけないかしらね。愚鈍なカメは、ウサギには絶対に追いつけないってことを」
「!」
それはまるで、反逆者を抑え込む圧政者のような……いや、もっと原始的で、単純で、醜悪だ。
彼女の眼に宿るのは、確固たる害意。明確な、傷つけようとする意志。
嗜虐的で、悪意的な、意味のない暴虐さ。
そんな暴威に取り合うだなんて、気が進みませんが……
「……わ、わかりました」
ここで受けなければ、前には進めません。
アタシが信じた人のためにも、アタシは……
「へぇ? 受けるんだ。昔に比べて肝が据わったじゃない」
「で、でも、アタシが勝ったら……小鈴さんに振りまいた狂気を、取り消して、ください……」
「考えておくわ。僕が勝ったら、そうねぇ……」
しばし考え込む仕草を見せる三月ウサギさん。
やがて閃いたように、声をあげた。
「よし決めたわ。アンタ、僕のペットになりなさい」
「ぺ、ペット……?」
「そう。首輪を付けて、主人の命令には絶対服従。公爵夫人様と、今はいないドブ猫みたいなものよ。無能なカメ女でも、ひっくり返して遊べば、ちょっとは楽しめそうだしね」
「……わ、わかり、ました……」
不穏な響き。陽が落ちる暗がりのような不安。
これでも三月ウサギさんは、帽子屋さんにとても近い人。下っ端みたいなアタシとは、格も、立場も、経験も、まるで違う。
……でも。不安でも、怖くても、嫌でも、前に進まなきゃいけない時がある。
あの人は……小鈴さんは、その身を持って、アタシに教えてくれました。
その姿が格好良くて、輝かしくて、素敵で……だから。
(絶対に、負けられないんです……!)
太陽の光を取り戻すために。
アタシは、月の狂気に犯された獣と、対峙する――
☆ ☆ ☆
[三月ウサギ:超次元ゾーン]
《勝利のガイアール・カイザー》
《勝利のリュウセイ・カイザー》
《勝利のプリンプリン》
《ブーストグレンオー》
《タイタンの大地ジオ・ザ・マン》
《時空の賢者ランブル》
《時空の凶兵ブラック・ガンヴィート》
《時空の踊り子マティーニ》
アタシと、三月ウサギさんの対戦……
《クリスタ》が引けなかったアタシの場には、まだなにもないです……一方で三月ウサギさんは、《ジャスミン》でマナ加速を成功させています。
お、追いつける、でしょうか……?
「あ、アタシのターンです。《奇石 マクーロ》を召喚! 山札から三枚を見て……《クローツ》を手札に加えて、ターン終了、です」
「僕のターンね。マナチャージ、4マナで《ライフプラン・チャージャー》を唱えるわ。効果でトップ五枚を見て、《剛撃古龍 テラネスク》を手札に。チャージャーをマナに置いて、ターンエンド」
ターン3
代用ウミガメ
場:《マクーロ》
盾:5
マナ:3
手札:4
墓地:0
山札:27
三月ウサギ
場:なし
盾:5
マナ:5
手札:4
墓地:1
山札:25
「《奇石 クローツ》を召喚です! シールドを増やして、た、ターン、終了です……」
「相変わらずトロトロしてるわね、カメ女。そんなグズでノロマじゃ、アンタもすぐ狂い果てるのが関の山よ?」
蔑むような目で見下す三月ウサギさん。
アタシ自身が、臆病で、気弱で、意志薄弱なことは十分に自覚していることですが……それとは関係なく、この人の嗜虐的な眼差しは、今に始まったことではない。
常に相手の“上を取る姿勢”。それが、アタシの性格とはまるで噛み合わない。もしくは、絶望的なまでに噛み合ってしまっている。
だからこそ三月ウサギさんは、苛立ったように怒りながら、楽しそうに笑う。
その、血のように真っ赤な眼で、アタシを見据えながら。
「僕のターン、《テラネスク》を召喚。トップ三枚を捲って……ちぇ、クズカードばかり」
捲られたのは、《ライフプラン・チャージャー》《スズラン》《ホーリー》の三枚でした。
《テラネスク》はクリーチャーを引き込みつつ、マナ加速ができる強力なカードですが、捲ったクリーチャーは、確かに良いカードとは言い難いですけど……
「こんなカード持ってても意味ないし、全部マナへ。ターンエンドよ」
投げ捨てるように捲ったカードをマナに放って、三月ウサギさんはターンを終えました。
ターン4
代用ウミガメ
場:《マクーロ》《クローツ》
盾:6
マナ:4
手札:3
墓地:0
山札:25
三月ウサギ
場:《テラネスク》
盾:5
マナ:9
手札:3
墓地:1
山札:21
「アタシのターン……い、行きます!」
手札補充はできなかったものの、三月ウサギさんのマナはもう9マナもあります。次のターンには、なにか大きなことをされてしまいそうな予感がします。
でも、なんとかギリギリ、間に合ったようです。
手札もちょうどいい感じに揃いましたし、アタシから、切り札を出せそうです。
マナチャージして、5マナ。
その5マナをすべて使い切って、唱えます。
「呪文――《ジャスティ・ルミナリエ》!」
開くのは、光り輝く正義の門。
それは、迷宮に繋がる入口です。
ようこそ迷ってください、三の月に狂うウサギさん。
正義の門扉は開かれました。そこから現れるのは、この迷宮の番をする者。
アタシの光を、守る者です。
「《ジャスティ・ルミナリエ》の効果で、まずは、手札からコスト5以下の光のクリーチャーを、バトルゾーンへ、出します。出すのは《緑知銀 フェイウォン》!」
「雑魚だけど、攻撃曲げるのはちょっと面倒くさいわね。それで? まだ終わりじゃないでしょう?」
「は、はい。次に、ラビリンス発動、です! アタシのシールドが、三月ウサギさんよりも多い、ので……コスト8以下のメタリカを、バトルゾーンへ!」
門番は一人じゃありません。
銀の守護象が第一の関門。
そこから続くのは、最大にして最難関の守護獣。
アタシと近しく、アタシの最も信頼する、迷宮の番人。
さぁ、出て来てください――!
「すいません、迷宮入りです――《大迷宮亀 ワンダー・タートル》!」
宝石の身体を持つ、巨大な亀。迷宮の番人にして、迷宮そのもの。迷って、惑って、行き先を見失わせる、アタシにとっても
これでもう案ずることもありません。
ラビリンス発動で、迷宮は完全に構築されました。
後は、迷い来る挑戦者が、疲れ果てて力尽きるのを、待つだけです。
「《ジャスティ・ルミナリエ》の効果で、《ワンダー・タートル》をタップ……《フェイウォン》も、能力でタップして、ドロー……ターン終了、です……!」
《ワンダー・タートル》のラビリンスで、次に三月ウサギさんがなにをしようと、アタシのクリーチャーは場を離れません。
攻撃に出ても、《フェイウォン》と《クローツ》の壁があります。そう簡単に、攻撃は通しません。
それに、手札には――
「ちょーっとだけ、面白くなったのかしら?」
「……っ」
三月ウサギさんは、笑っていた。
先んじて切り札を出されたのに、笑っていました。
この状況でも、笑って、いられるだなん……
「僕は淫欲、アンタは迷宮。どっちの疲れで身体が果てるかの勝負……ま、でも」
迷宮に迷い込んだのは、ウサギのはず。主導権を握ったのは、アタシのはずだたんです。
なのに、それはなぜか、いつの間にか――
「ウサギとカメ、競争したらどっちが早いかなんて一目同然よ。甲羅から手足を出したくらいで粋がらないで欲しいわね」
――競争に、すり替わっていた。
「僕のターン。4マナで《[[rb:緑銅の鎧 >ジオ・ブロンズ・アーム・トライブ ]]》を召喚。山札の《ウル》をマナへ置いて、残る6マナで《気高き魂 不動》も召喚よ」
三月ウサギさんは余裕な態度とは裏腹に、特に大きなことはしない。クリーチャーを並べただけでした。
やっぱり、《ワンダー・タートル》のラビリンスが効いている、のでしょうか? 場を離れない能力の前には、どうあっても手出しはできないようです。
となるとあれは、プライドの高い三月ウサギさん強がり……だと、思います。
アタシの優位は揺るぎません。
「えーっと、確かこのターンはクリーチャーが場を離れない上に、殴らないと全タップされるんだっけ?」
「は、はい……」
「面倒な能力ね。ほら、欲しいならあげるわ、《テラネスク》で攻撃!」
「《フェイウォン》の能力発動です! その攻撃は、《ワンダー・タートル》に、ま、曲げます!」
いくら余裕を見せても、バトルゾーンには真実だけが存在する。欺瞞も虚構も存在しない。あるがままの姿がそこにある。
《テラネスク》の攻撃は《ワンダー・タートル》吸い寄せられて、巨竜の身体を踏み潰す。
「《ワンダー・タートル》がバトルに勝ったので、の、能力発動、です……山札の上から四枚を見て……あ、アタシも、《不動》をバトルゾーンへ!」
「あらら、僕と同じクリーチャーだなんて、頭の挿げ替えられたウミガメの癖に生意気ね。ま、とりあえずこれでターンエンド、と」
ターン5
代用ウミガメ
場:《マクーロ》《クローツ》《フェイウォン》《ワンダー・タートル》《不動》
盾:6
マナ:5
手札:1
墓地:1
山札:22
三月ウサギ
場:《緑銅の鎧》《不動》
盾:5
マナ:10
手札:2
墓地:2
山札:19
「アタシのターン……マナチャージはなし、です」
不気味です。なんで、三月ウサギさんは、あんなにも余裕なのでしょう。
状況は絶対的にアタシが有利なはず。マナや手札のリソースが尽きかけているのは否定しませんし、その点では三月ウサギさんが有利ですけど……でも、盤面ではアタシが勝ってるはずです。
それに、この一手で、さらにアタシの迷宮は盤石なものとなります。
「《マクーロ》《フェイウォン》《ワンダー・タートル》《不動》……この四体をタップして、呪文を、唱え、ます……!」
正規コストを支払う代わりの代替コスト。
アタシの名前は『代用ウミガメ』――替えが利くクリーチャーを何度も繰り出して。
支払うマナコストさえも、クリーチャーで代用します。
「呪文――《エメスレム・ルミナリエ》!」
天へと伸びる煌びやかな光。
四つの宝石が陣を形成し、溜め込んだエネルギーを放出し、鉱石に新しい命を吹き込む儀式。
「手札から、コスト8以下のメタリカを、バトルゾーンへ!」
アタシのクリーチャーが捧げたその力が、新しいクリーチャーの命に代わる。
これがアタシの新しい切り札。
そして、アタシが願った、アタシの太陽。
キラキラ、キラキラ、煌めいて。
アタシを照らす――陽の光。
「これが、アタシを照らす光――《太陽の使い
女性的な、流れるようなラインの、美しい肢体。
華々しい槍と、鬼面のような恐ろしい盾を携え、日輪を背にした宝玉の
《太陽の使い 琉瑠》……このクリーチャーの光が、アタシに希望を、明るい未来を与えてくれます。
「ターン終了……その時、《琉瑠》の能力で、《琉瑠》をタップ……! カードを一枚ドローして、終わり、です」
ターン終了時のタップ&ドロー。メタリカの基本戦術と噛み合う能力ですけど、このクリーチャーの神髄は、そこにはありません。
《琉瑠》がタップしている。そして、《不動》と共にある。この二つの要素が、重要なんです。
「《不動》と《琉瑠》が揃いました……こ、これで、アタシのクリーチャーはもう……場を、離れません……!」
《不動》が破壊以外の除去耐性を、《琉瑠》が破壊による除去耐性をそれぞれ付与することで、アタシのクリーチャーはもう、無敵です。
どうあっても、アタシの布陣を崩すことなんて、できませんよ。
「迷宮は、より盤石なものと、なりました……も、もう、崩せませんよ……っ! だ、だから、小鈴さんにかけた“狂気”を、払って、ください……!」
いくらなんでも、ここから逆転なんて、簡単ではないはず。場を離れないクリーチャーたちによって構築された、鉄壁無双の大迷宮。進路は思い通りにならず、曲がりくねって歪んでは歪み、正しい終着点へと辿り着けない。
この迷宮は攻略不可能な難易度に跳ね上がっています。いくら三月ウサギさんでも、これを突破するなんて、できっこありません。
攻略できるはずがないんです。
ないはず、なんです。
けど……
「……くっだらないわね」
蔑むように、三月ウサギさんは、アタシを見下ろします。
迷宮に迷い込んでもなお、遥か高みからの目線は、変わりませんでした。
「自惚れんなカメ女。アンタが必死で作った迷宮の価値なんて、たかが知れてるわ」
「っ……な、なら、突破してみて、くださいよ……で、できないと、思いますけど……」
「言ったわね? アンタにしてはよく咆えたと褒めてあげる」
そう言うものの、目に灯った侮蔑と嘲笑はそのままで、三月ウサギさんのターン。
三月ウサギさんは、マナのカードを一枚、手に取った。
「2マナでマナゾーンから《再生妖精スズラン》を召喚」
《テラネスク》でマナに行った《スズラン》が、戻ってきました。
《スズラン》は本来、場に留めることができないクリーチャーですが、《不動》がいるので、今はアタッカーとしても使うことができます。
でも、今はきっとそのためじゃない。
このタイミングで《スズラン》を出した。その理由は、恐らく……
「さらに8マナ! 《スズラン》をNEO進化!」
や、やっぱり、進化元……!
しかも、8マナで、自然のクリーチャーが進化する、NEO進化クリーチャーと言えば――
「愛欲を貪りなさい――《グレート・グラスパー》!」
三月ウサギさんは、ここで仕掛けてくるつもりみたいです。
準備運動は終わり、アタシを仕留めるために、攻撃の意志を露わにしています。
でも大丈夫。クリーチャーは場を離れませんし、《クローツ》と《フェイウォン》で防御も万全。それに、《ワンダー・タートル》だっています。
負けるはず……ありません。
「《グラスパー》で攻撃! その時、能力発動! NEOクリーチャーの攻撃時、まずは《不動》の能力でシールド追加! さらに《グラスパー》の能力で、こいつよりパワーの低いクリーチャーをマナから引きずり出す! 《清浄の精霊ウル》をバトルゾーンへ!」
「っ、そのクリーチャーは……」
「おっと? 顔色が悪くなったわね? 薄幸な顔がさらに幸薄くなってるわよ? あるいは、愚かで無知な醜悪顔が、よりいっそう酷くなってるかもしれないわね?」
《グラスパー》だけならそこまで怖くはなかったですけど、《グラスパー》は単体の力だけではない。組み合わせるクリーチャーとの連携で、その力を何倍にも増幅させるクリーチャーです。
そして《ウル》は、S・トリガーのブロッカーとして防御に貢献する――だけではありません。
場のクリーチャーを一体、タップまたはアンタップする能力も持っています。相手クリーチャーをタップさせて、タップキルや、防御を突破するため、あるいはアタッカーを寝かせて攻撃を止めたり、アタシなら攻撃を曲げるために使ったりもしますけど……この場合、そのどの使い方とも違う。
三月ウサギさんは、清浄を謳いつつも不浄なまでの悪意を持って、その力を行使します。
激しく、荒ぶって、乱れるほどに。
絶倫な精力によって、巨大な蟲は――起き上がる。
「《ウル》の能力で、《グラスパー》をアンタップ! シールドへの攻撃だけど、どうする?」
「それは……う、受け、ます……」
この《ウル》は、攻めるための一手。
しかも三月ウサギさんのマナゾーンには、もう一枚《ウル》が見えてます。
ここでなにかトリガーが、《ルヴォワ》とかが出てくれれば、《グラスパー》を止められます……けど、
「うぅ、トリガーはありません……」
「ほらほら、この子はまだまだこんなにも元気よ? そんなにすぐへたってちゃ、後がもたないわよ!」
二度目の《グラスパー》の攻撃。太く大きな槍を突き込むと同時に、大地が揺れ動く。
「《グラスパー》で攻撃! 再びシールドを追加し、《ウル》をバトルゾーンへ! 《グラスパー》をアンタップ!」
「流石に、これ以上は……《クローツ》でブロックしますっ! バトルには負けちゃいますが、《琉瑠》の能力で、破壊されません……!」
「知ったことかっての。さぁもう一発! 最後に特上のデカいヤツ突っ込んであげるから、しっかりと受け止めなさい!」
ケダモノの叫びと共に、巨蟲の槍が放たれる。
太く、大きな、貫くための
「《グレート・グラスパー》で攻撃する時、《不動》の能力でシールドを追加! さらに《グラスパー》の能力でパワー14000未満のクリーチャーをマナから踏み倒す!」
三月ウサギさんのマナゾーンには、もう《ウル》は見えません。だから、これ以上の連続攻撃はない……です、けど。
「ただ何度もズッポズッポ突っ込んでるだけじゃ芸もないし、溜めに溜めたこの欲情、最高に濃厚な命の種を、一気に注ぎ込んであげる!」
《グラスパー》がマナから引きずり出すクリーチャーに、制限はない。あるのはパワーのみ。
パワーさえ勝っていれば、《グラスパー》はどんなクリーチャーでも呼び起こす。たとえそれが、進化クリーチャーであろうとも。
進化クリーチャーよりも、もっと強大な存在であったとしても。
「《グレート・グラスパー》を――“究極進化”!」
進化に進化を重ね、
殿堂級の月が、神羅の名の下にアタシに真実を突きつける。
「蒼い狂気の月の下で、踊り狂いましょう――《
それは、あまりに巨大なクリーチャーだった。アタシの迷宮も、そこに配置した番人も、ゴーレムさえも霞んでしまうほどの巨体。そして、強大な力を持つクリーチャー。
この世に災害をもたらすとも言われるほどに、危険な力だ。
「き、究極進化クリーチャー……!」
「そうよ。これが僕の切り札……月の引力が為す狂瀾怒濤。狂気の月は獣の肉欲さえも引き起こし、淫乱なる血潮が湧き上がる。さぁ、命を紡ぐ、狂乱の大波を受けてみなさい!」
その瞬間、《プレミアム・キリコ・ムーン》の
蒼い月が狂ったように輝き、氾濫する河のように、潮が満ちる大海のように、大きな見えない力によって、世界が動く。
「《プレミアム・キリコ・ムーン》の能力発動! このクリーチャーの登場時、自身の他のクリーチャーすべてをボトムに強制送還! そしてその数だけ、クリーチャーをトップからばら撒く……けど」
見えない引力が、すべてのクリーチャーを山札へと押し込めようとしますが、そうはならない。
三月ウサギさんのクリーチャーは、《プレミアム・キリコ・ムーン》とはまた別種の力によって、バトルゾーンに縫い付けられ、縛り付けられている。その場から、離れることはない。
その発生源は――動かざる誇りの巨像。《不動》だ。
その名の通り《不動》は、動かない。動かさない。
すべてのクリーチャーを、この世界に縛りつける。
「僕のクリーチャーは《不動》によって、破壊以外では場を離れない! だから、僕のクリーチャー四体分が、そのまま山札から出て来るわ!」
「っ、そ、そんな……クリーチャーが、ほ、ほとんど、倍になるなんて……!」
《不動》によって《プレミアム・キリコ・ムーン》のデメリットを抑えて、単純にメリットだけを残す。
強欲にも三月ウサギさんは、そんな欲張りを現実のものとした。
狂った月の輝きは、虚構とも思える理想を、真実の姿へと変えてしまったのだ。
「さぁ、出て来なさい! 僕の
《プレミアム・キリコ・ムーン》の不可思議で不可視の力は止まらない。山札へと押し込むことができなくとも、山札から引き込むことはできる。
結果が伴わずとも、充填した力を持って、強大な力で山札のカードを引きずり出し、一気に放出する。
その数、四枚。
四体のクリーチャーが、山札から飛び出した。
「ふふっ、なかなかいい引きじゃない。《ジャスミン》《テラネスク》《ホーリー》《グレート・グラスパー》をバトルゾーンへ! 《グラスパー》は能力で出た《テラネスク》からNEO進化!」
淫靡に微笑んで、三月ウサギさんは捲られたクリーチャーすべてをバトルゾーンに叩きつける。
「まずは《ジャスミン》を破壊してマナ加速。次に《テラネスク》の能力で、トップ三枚を捲って、《グラスパー》だけ手札に加えて、残り二枚をマナへ。さぁ、《キリコ・ムーン》の攻撃だけど、どうするのかしら?」
「う……《フェイウォン》で、《ワンダー・タートル》に……ま、曲げ、ます……」
「パワーは同じだから相打ちだけど、そっちは残るわね。ま、それでもバトルに勝ったことにはならないけれど」
相打ちの場合、両者ともに「バトルに負けた」扱いになるので、バトルに勝った時の能力が使えません……
フィニッシャー級のクリーチャーを倒せただけ良かったですが、《プレミアム・キリコ・ムーン》は場に出た時点で仕事を終えています。今さら破壊したところで……
「さぁ、次よ。二体目の《グレート・グラスパー》で攻撃する時に、能力でマナゾーンのクリーチャーを引きずり出す。そして――究極進化!」
「ま、また、ですか……っ!?」
二度目の究極進化。
それは、戦術的な一手というよりも。
アタシを絶望に陥れるための、狂った破壊行為でした。
「狂気の月に飲まれ、狂い果てなさい――《神羅スカル・ムーン》!」
《プレミアム・キリコ・ムーン》の蒼い月は沈み、代わりに黒い月が昇りました。
それはとても狂気的で破滅的。不安と恐怖を煽り、暗黒を振りまく闇の月。
そしてそれを支配するのは、狂骨の肉体を持つ、悪魔のような災厄の化身。
災禍をまき散らしながら、狂った黒月の支配者は、アタシの迷宮を踏み散らし、アタシの大切な
「《スカル・ムーン》で《ワンダー・タートル》とバトル! パワーは《スカル・ムーン》の方が低いから、こっちの負けね。あら残念」
その言葉とは裏腹に、楽しそうに微笑む三月ウサギさん。
バトルの結果、《スカル・ムーン》は負け、破壊されてしまいます。
そう、破壊されてしまうんです。
――アタシの、クリーチャーが。
「《スカル・ムーン》の能力発動! このクリーチャーが破壊される時、“破壊される代わりに”相手クリーチャーを破壊する!」
自身の破壊を、他者の破壊へと置き換え押し付ける、自己中心的な生存能力。
己の死を、無理やり他者へと譲渡する、恐ろしいまでの利己的な狂気。
そしてこの能力の、なによりも恐ろしい点が……
「置換効果は連鎖しない。どんなに難解な迷宮だろうと、世界のルールには逆らえないわ」
《スカル・ムーン》の破壊は、自身の破壊を他者の破壊に置き換える破壊。
俗に言う、置換効果です。
置き換える効果は連鎖しない。一度置き換えられたものは、もう置き換えられない。
そしてアタシの《琉瑠》の能力は「破壊される“代わり”に、バトルゾーンに留まる」というもの。
《スカル・ムーン》の「破壊される“代わり”に、破壊する」という能力が先に発動している以上、その置換をさらに置換することはできない。
即ち――
「狂い死になさい――《琉瑠》を破壊!」
――真っ黒な月に飲み込まれ、狂気に蝕まれ、死を迎えてしまうのです。
「あ、あぁ……!」
アタシの、太陽が……!
いなくなって、しまいました。
バラバラに砕け散った狂骨が、《琉瑠》の肉体を、その命を糧に、接合し、構築し、組み立てられ。
その代償として、《琉瑠》の存在が散ってしまう。
死したはずの《スカル・ムーン》は、《琉瑠》の内側から這い出る。その魂を喰らって、新たな命を手に入れる。
その災厄の化身に、死という概念は存在しない。
どれだけ死のうとも、その死は誰かに押し付け、自分だけが生き残るのだから。
「あははははは! 散ったわ! 惨たらしく、醜く、脆弱にも死んじゃった! なにが鉄壁無双よ、ダッサ! あんだけ大口を叩いておきながら、1ターンで崩れるとか! 情けないにもほどがあるでしょうに! あはははははっ!」
嘲笑の大笑いが響く。
それを否定するだけの力は、アタシにはない。
この凄惨な結末は、まごうことなく、アタシの慢心で。
アタシが狂気に負けたことを、意味しているから。
「その程度の脆さじゃ、僕の夜の相手は務まらなくてよ? もっとも、アンタみたいな臆病者の半端者と一夜を共にするつもりはないけど。それとも、アンタもいい年だし“女”を教えてあげましょうか?」
「あ……うぅ……」
「ほら、そのカメの能力はどうするの? 癪な話だけど、破壊は免れてもバトルの勝敗は覆らない。さっさとしなさい、ウスノロ」
「……つ、使い、ます……山札を捲って……《クローツ》を、バトルゾーンに……」
クリーチャーこそ補填できましたが……これは、かなりまずいです。
鉄壁だと思っていた布陣は崩され、相手には処理しきれないほどの大量のクリーチャー。そして絶望的なほどに増えたシールド。
攻めるにも、守るにも、厳しい盤面になってしまいました。
「さーて、じゃあ次は雑魚を掃除しておきましょうか。《緑銅の鎧》で《マクーロ》を攻撃、破壊よ!」
「あ……」
「さらに《不動》で《クローツ》を攻撃。シールドを増やして、これも破壊!」
「あぁ……!」
「ターンエンド。さ、ここからどうすんのかしらね、代用ウミガメちゃん?」
ターン6
代用ウミガメ
場:《フェイウォン》《ワンダー・タートル》《不動》《クローツ》
盾:4
マナ:5
手札:4
墓地:4
山札:20
三月ウサギ
場:《ウル》×2《緑銅の鎧》《不動》《ホーリー》《スカル・ムーン》
盾:10
マナ:8
手札:3
墓地:6
山札:5
「あ、アタシの、ターン……」
どうしましょう……どうしたらいいんでしょう……
《スカル・ムーン》は倒せない。あの数のクリーチャーは捌き切れない。攻め切るには打点が足らなさすぎる。
手札が弱い。マナも足りない。シールドは僅か。バトルゾーンも貧弱。
代えは利かない、唯一無二の《琉瑠》がいなくなってしまい、アタシの迷宮は、崩壊の一途を辿るのみ。
「……《クリスタ》を召喚……《クローツ》も、召喚して、し、シールドを増やします……」
「ふぅん。で?」
「う、うぅ……わ、《ワンダー・タートル》で、Tブレイク!」
「はいどうぞ。シールドは腐るほどあるし、三枚程度あげるわ」
どうにもならなくて、どうしたらいいのかもわからなくて。
どうにかしようとして、どうにかなると信じたくて。
迷わせて疲れ果てたところを、攻め落とすつもりが。
惑っていたのはアタシで、狂月に飲まれて果ててしまったのも、アタシだったんです。
「S・トリガー《閃光の守護者ホーリー》。そこでストップよ」
「うぅ、ぅぅぅ……た、ターン、終了……」
「僕のターンね。《グレート・グラスパー》を召喚、《緑銅の鎧》からNEO進化」
容赦なんて、あるわけがない。
情けなんて、あるわけがない。
その害悪の眼差しことが嗜虐の愉悦。
三月ウサギさんは一切手を緩めずに、痛苦を与える。
「《グラスパー》で《不動》を攻撃。マナから《ウル》を引っ張って、《グラスパー》をアンタップ」
「そ、それは……と、通し、ます……」
「じゃあ次は《フェイウォン》を攻撃よ。マナから《不動》を出して、さっき出した《ウル》からNEO進化! さぁ、どうする?」
「……こ、攻撃を、曲げて……《クリスタ》に……」
「《不動》で《不動》に攻撃。《グラスパー》の能力で、《スズラン》でも出しておきましょう。結果は相打ちね」
「…………」
「あれ? 反応がなくなっちゃったわねぇ。マグロ女は興醒めなんだけど……ま、いっか。殴ってればそのうちまた面白いことあるかもしれないし。もう一体の《不動》でクローツを攻撃! 《ウル》でもう一体の《クローツ》も破壊!」
次々とクリーチャーが破壊される。アタシはただそれを、見ていることしかできない。
ここからの逆転。小鈴さんなら、諦めなかったのかもしれない。
でも、アタシは……ダメ、みたいです……
「これで最後ね。《スカル・ムーン》で《ワンダー・タートル》を攻撃! 能力で、破壊される代わりに《ワンダー・タートル》を破壊!」
「…………」
「なにボケッとしてるのよ。そのカメ、バトルに勝ったけど? 能力使わないのかしら?」
「……使い、ます……《正義の煌き オーリリア》を、バトルゾーンへ……」
「雑魚がまた増えただけか。掃除面倒くさいわね。とりあえずターンエンド、と」
ターン7
代用ウミガメ
場:《フェイウォン》《オーリリア》
盾:5
マナ:6
手札:2
墓地:10
山札:15
三月ウサギ
場:《ウル》×2《不動》×2《ホーリー》×2《スカル・ムーン》《グラスパー》《ジャスミン》《スズラン》
盾:7
マナ:6
手札:3
墓地:6
山札:4
「…………」
どうしようもありません。
手札も、場も。なにかができるとは思えません。
諦念。それだけが、頭の中をぐるぐる回って、なにもできない。
「ねぇ、ちょっと。なにもしないならとっととターン返してよ。ウスノロ」
不機嫌な罵声が飛ぶ。
それに答える気力さえも残っていない。
「まったく。勢いで盾割るんじゃなくて、LOでも狙えばまだワンチャンあったかもしれないのに、自分から勝ち筋を潰してるんだから世話ないわよね。やっぱり雑魚も雑魚、愚鈍でバカな女か」
「…………」
「いいわ、もう終わらせてあげる。相手がアンタみたいなグズでノロマなマグロ女じゃ、楽しいものも楽しめやしないしね。僕のターン」
もはや、アタシのターンなんて、あるのもないのも変わらない。
完全に蹂躙されて、侵食されて、犯されて。
刻まれるのは、敗北以外の何物でもないのですから。
「《グレート・グラスパー》を召喚! 《オーリリア》をマナゾーンへ! そして《グラスパー》で攻撃! Tブレイク!」
シールドが三枚、砕け散りました。
残りは二枚です。
「続けて《不動》で攻撃! Wブレイク!」
シールドが二枚、吹き飛びました。
もうシールドは残っていません。
「これでとどめよ」
アタシは為す術なく、やられてしまうだけでした。
黒い月を従えた、狂月の化身。
狂骨の肉体を持つ、狂気と恐怖の帝王。
そして、そんな帝を従える、狂気に狂い果て、快楽の獣と化した――三月のウサギに。
アタシは彼女たちの狂気に飲まれてしまったのです。
「《神羅スカル・ムーン》で――ダイレクトアタック!」
☆ ☆ ☆
負けて……しまったのですね。
なんて、格好悪いのでしょう。
なんと、情けないのでしょう。
アタシはただ、自分の光を、太陽のような輝きを、煌めくほどの正義を信じたくて、それを守りたくて、恐怖を押し殺し、蛮勇を抱き、無謀と蔑まれようとも狂気の獣に噛みついた。だというのに。
その歯牙は貧弱で、アタシの意志は薄弱で。この身体は脆弱で。振るった力は虚弱で。
何一つ、為し得ることは叶わなかった。
アタシが望む光はこのてに届かず。
アタシの力はその程度でしかなく。
望んだものは手に入らない。
いつも代わりのもので満足しなければならない、『代用ウミガメ』。
……あぁ、でも。それはもう、どうでもいいかもしれません。
今湧き上がるこの感覚。この無力感は、アタシの願望の拒絶ではありません。
もっと単純で、もっと純粋で、小さくとも大きな罪悪感。
申し訳なさ――です。
「ごめんなさい……」
無力でごめんなさい。弱くてごめんなさい。
なにもできなくてごめんなさい。
あなたを助けられなくて――
「――ごめんなさい、小鈴、さん」
ただ、それだけだ。
あなたはアタシを救ってくれたのに。
アタシはあなたを救えない。
それがとても悔しくて、情けなくて、申し訳なくて。
潮水のような、雫が流れ落ち、視界が霞む。
「お仕置きターイム……とでも、言ってあげましょうかしらね?」
三月ウサギさんが、アタシの前に立つ。
侮蔑と嘲笑を込めた眼差しで、アタシを見下しながら。
しなやかな腕が伸びて、制服のスカーフを乱暴に掴む。
「なに突っ立ってるのよ。ほら、カメはカメらしく――這いつくばってなさい!」
「っ……!」
そして、思い切り引っ張られる。
バランスを崩して、踏ん張ることもできず、そのまま前に倒れ込む。
立ち上がろうとしますが、先んじるようについた右手に振り下ろされる、足。
「い……っ!」
指先から、電撃のような激痛が全身を駆け抜ける。
加えて、グリッと踏みにじられ、骨が軋むような嫌な音が身体に響いた。
「あぐっ……!? い、痛い、です……!」
「うーん? 当然よねぇ。痛くしてあげてるんだか、ら!」
「ぅぐぅ……っ!」
グリグリと、硬い足の裏がさらに食い込む。
砕くのではなく剥がすように、壊すのではなく歪ませるように、捻じ曲げるような力を込めて、苦痛はじんじんと走り抜ける。
「生意気にも僕に盾突き、噛みついた蛮勇は認めてあげる。アンタにしては、よく咆えたわね。えぇ、キャンキャンキャンキャン、耳触りで癪に障った、わ!」
パッと、右手に押し付けられた激痛が収まったと思ったら――衝撃。
頭を吹き飛ばされるような力と共に、額から痛みが突き抜ける。
「あが……っ!」
「弱い癖に、大した力もない癖に、粋がっちゃって。正義感ばかりが募って滑稽ね。まあでも? 手足を引っ込めてばかりだった本当のグズだった頃よりも、ちょっとマシかしらね? 頭を出してくれるカメほど、虐めて楽しいものはないわけだしねぇ!」
今度は脳天。頭から、またグリグリと踏みにじられる。
痛い。身体も、心も。痛苦と屈辱がぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分の存在を見失ってしまいそうです。
足で頭を押さえつけられて、それを跳ね除けるだけの力もなくて、顔を上げることもできず、アタシはただ、三月ウサギさんに屈服するしかありませんでした。
「っていうか、本気で信じられないんだけど。アンタなんで、あんな女の味方するわけ? あいつは敵なのよ? ちょっと優しくされたからって、情でも湧いたの?」
「それは……」
「まあアンタの心情なんてクソどうでもいいけど、それでも解せないわね。あんな悪徳の女に奉ずる精神は、まるで理解できないわ」
「え……あ、悪……?」
小鈴さんが、悪?
そんなはずは……な、なにを言っているんですか……?
「快楽と享楽こそが僕の生き甲斐だけどね、帽子屋さんのために、これでも色々調べてるのよ? マジカル・ベル……本当、尻の軽い胡散臭い女だと思ったわ」
アタシの頭を踏み台にしたまま、どこか怒気を含むような声色で、三月ウサギさんは滔々と語り始めました。
「ほんっとあり得ない。陰気な奴ら同士で徒党を組むだけならともかく、僕たちの干渉まで飲み込むなんてね。僕たちは敵なのよ? それなのに仲良くしようとか、悪い人じゃないとか、頭湧いてるんじゃない?」
「ち、違います……小鈴さんは、いい人で……誰でも、受け入れて、くれて……だから……」
「だから尻軽女って言ってんのよ」
「んっ、うぐ……っ」
グリッと、体重をかけて、強く踏みつけられる。反論は許さないとばかりに、蹂躙するように。強く、強く。
口を開くこともできない。地べたに這いつくばって、カメのようにうずくまることしかできない。
どんな暴力にも、どんな暴言にも、甘んじるばかり。
三月ウサギさんは、手も足も、口も出せないアタシを、嘲弄するように言った。
「アンタもさぁ、ちょっとは考えたら? モックタートル。子牛の頭にも脳みそくらいはついてるでしょ?」
頭にかけられた体重がふっと軽くなります。
が、それと同時に、脳天を蹴り飛ばされる。二度目の額への激痛。
頭の中が、脳みそが、ぐわんぐわんと揺さぶられ、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられるような、気持ち悪い感覚。
「なんでもかんでも、はいはいと答えるイエスマンが。どんなものでも、いいよいいよとオッケーを出す停止思考が。如何なる者であっても、差別も区別もなく受け入れるクソ博愛主義者が。どうして信じられるっていうの? 僕にはわからないわ」
「ど、どういう……?」
「考えてみろって言ったでしょ? まあ、アンタみたいなノロマの言葉を待ってるほど、僕も暇じゃないし、答えてあげるけど……いい、代用ウミガメ。この世は“悪”で溢れているのよ」
決して優しくなんてない。それは、彼女がアタシを支配しているからこその言葉。
どこか諭すように、言いつけるように、三月ウサギさんは言いました。
「低俗で、粗悪で、どうしようもないほど腐ったゴミみたいな人間、物、思考――それがこの世の本質。人間が生み出した最悪の負債よ。そして、それらの悪を悪と断じないと、世界は成り立たない。どうしようもない自己愛も、揺るぎないほどの利己心も、醜悪と罵られるような身勝手も、我侭も! すべてが悪で、裁きの対象よ」
「で、でも、それは……あなた、だって……!」
「えぇ、そうよ。僕はどうしようもなく悪なのでしょうね。それは認めましょう。受け入れましょう。罰されるというのなら仕方のないことだと割り切るわ。でも、それはそれ。僕は悪を曖昧に誤魔化さない」
アタシが必死で目線を上げ、睨みつけるも、三月ウサギさんは冷ややかに受け流してしまいます。
でも、意外なほど真摯で、驚くほどまともに、アタシの悪意も、敵意も、飲み込んでしまいました。
自分の快楽のため。そんな利己的な理由で、周囲に害を振りまき、傷つける。
そんなものが善であるはずはなく、それは絶対的な悪だと断ずることができます。そして、それがこの人――三月ウサギさんだと。
でも、なのに。
この人は悪だということは、揺るぎない事実のはずなのに。
アタシは、揺らいでしまっているのでしょう?
「本当の悪っていうのはね、悪を許してしまう精神性よ。汚濁を認めてしまうから、世界は腐敗し、混沌の坩堝になるの」
悪を許す精神性。
それって、もしかして……小鈴さんのこと、なのでしょうか……?
アタシを受け入れてくれてた、あの人が、悪?
「そんな悪を許容するクソ博愛主義者は決まってこう言うわ。「悪には悪の正義がある」「悪に走ったのには理由がある」ってね! バッカじゃないの! だからなんだって言うのよ」
三月ウサギさんは、彼女の言う博愛主義者を一笑に付し、嘲る。
「正義があったら悪に手を染めて許されるの? 理由があったら悪に堕ちていいっていうの? そんなわけないじゃない! どんな正義があろうが、どんな理由があろうが、悪は悪! 悪いものは悪いのよ! なのに、それを無理やり理由をこじつけて受け入れるだなんて、それこそ狂ってるわ! 悪を悪ともみなせないのは弱者であり、それそのものが悪者よ! そんなことだから、世界は腐って汚く濁るのよ!」
怒り狂ったように叫ぶ三月ウサギさん。
その言葉を、アタシは否定することができません。
だってそれは、決して間違いではないから。
でも……アタシは、それを認められない。認めちゃいけない。
だからせめて、少しでも食らいつこうと、掠れた声を上げる。
「……あなたは、矛盾、してます……そんなに、悪を嫌ってるのに……な、なんで……あなたは、悪に、身を堕とすん、ですか……」
「矛盾じゃないわ。いいえ、矛盾なのかもしれないわ。でも、だからなに? 矛盾してても僕は僕。こうしてここに存在しているわ。えぇ、僕は混沌も好きよ。濁って狂って滅茶苦茶な世界を愛しているわ。そんなぐちゃぐちゃな世界の中で、僕は自分の享楽のために、この肉体が求める快楽のために、外道にも邪道にも堕ちることを厭わない。だって、楽しいんだもの。気持ちいいんだもの! それを止めることなんてできないし、したくない。矛盾してようと関係ない。悪に染まっても、悪を許さなくても、この悦楽だけは認めるわ……それだけよ」
……狂ってる。
頭の中に浮かんだのは、その言葉だけだった。
言ってることが滅茶苦茶です。悪を許さないような、悪の本質を突くようなことを言いながら、自分自身が悪だと認めるだなんて。
おかしな人だとは、前々から思ってました。でも、ここまでとは、思いませんでした。
この人は、一体どんな信条で、どんな立場で、生きているのでしょう。
どうして、そんな破綻した精神で、矛盾を内包して、生きていけるのでしょう。
「確かに僕は悪の塊よ。でもね。僕はその身勝手な欲望を正当化したりしない。えぇ、これはまごうことなき邪悪よ? でも、僕は残念ながら善人でも正義の味方でもないの。どうしようもない悪役よ。だから、悪いことをするし、正義の裁きなんてものがあるなら、それを受ける責務があるでしょうね。でも! だからこそ! 僕はこの衝動を良く見せようだなんて思わないし、したくもないわ。悪辣を隠さない。善意の殻を被せない。そんな偽善はまっぴらごめんよ!」
清々しいまでに、三月ウサギさんは宣言しました。
悪徳を受容しながらも、その悪の汚さは否定しない。
アタシには、まるで理解できない精神性です。
でも、この人の矛盾なんて、正直、どうでもよかった。
「僕がムカつくのはね、人の悪意を、悪行を、裁かれるべき悪徳を見ないふりして正当化して、それでお仲間を作ったつもりになってる、いい子ちゃんぶったクソ偽善者よ! 自分が“いいことをしてる”という妄想に憑りつかれて舞い上がってる姿が最高に滑稽で、最悪なほど反吐が出る! あぁ! 気持ち悪くて、鬱陶しくて、気が狂いそうなほど可笑しくて! ほんっとう! ぶっ殺したくなるほどムカつくわよね!」
ヒステリックに叫び散らす三月ウサギさん。
憤怒なのか、嘲笑なのか、あるいは両方か。
色んな感情が混沌と混ざり合って、それは激しい害意として発散される。
三月ウサギさんはしゃがみこんで、アタシの両頬を掴み持ち上げる。
踏みにじられたり、蹴られたりする痛みよりはマシですが、無理やり頭を持ち上げられて、首が痛いです。
「アンタのことは大っ嫌いだけど、まあ一応は同胞だし、僕のペットになったわけだし、飼い主として教えてあげるわ、代用ウミガメ。なんでも受け入れる度量は優しさじゃない。それは、本当の悪を断じられない薄弱な意志。そして、本質的に悪を許してしまう真の悪よ」
「真の……悪……」
「えぇ。あの女は、きっとこれからも、どんな奴に対しても同じように、媚びた笑顔を向けるのでしょうね。だからこそ、そこにある友愛は薄っぺらいし、信用なんてできない。八方美人ってやつ? なんにしたって、そいつは僕なんかよりも、よっぽどタチの悪い。なんでも受け入れるからこそ、世界を、誰かを腐敗させ、ダメにしてしまう。そんな、弱さを突き詰めた極悪よ。あいつはその弱さで、いつか必ず破滅する。誰かを破滅させる。大切なものだって失うでしょうね。それはもしかしたら、あなたかもしれないわよ? モックタートル」
小鈴さんが、悪。
あの人の善意は、悪の裏返し。
すべては、悪を受け入れる、真の悪……
「アンタはあの女に大事にされてるわけじゃない。あの女にとってアンタは、数多くいる“優しくしただけの誰か”の一人でしかないのよ。だから、いつかは見捨てられるのがオチね。どうせあの女は、自分が優しくしたっていう偽善で満足感を得ているに過ぎないわ」
偽善。
偽りの、善意。
アタシに光をくれた太陽は、本当はまっくろで。
アタシを照らす陽光は、真実ではない、偽りのもので。
アタシの中に芽生えたこの気持ちは、虚構によって形作られた?
「認めなさい、代用ウミガメ。真の悪とはなんたるかを。すべてを受け入れるのは悪であることを。そして、あの女の悪性を。そう! クソみたいな博愛主義で、僕たちを仲間だと勘違いしてるような痛い女は、僕たちの敵! そして、偽善を持って自身の悪を隠匿する、真にして非道の悪性よ!」
言われてみたら、そうなのかもしれません。
アタシたちは、小鈴さんたちに酷いことをしてきました。アタシ自身とは限らず、直接的でなくとも。
【
そこには明確な害意も、敵意もあった。傷つけようとする意志が。敵としての、害悪が。
小鈴さんはそれも許して、アタシを受け入れてくれましたけど……本来ならば、アタシたちは相容れることのない存在。人間どうし、ですらないのですから。
本当は、あの笑顔は偽りなのかもしれません。
実際は、小鈴さんはアタシのことが大事ではないのかもしれません。
三月ウサギさんの言葉を否定するには、論拠も、それを弄する弁論の力も、アタシにはありません。
それに、三月ウサギさんの言葉は、間違ってはいない、ような気がします。
正しさは、優しさは、決してイコールじゃない。
悪は腫瘍となり、病原体のように世界を腐らせ、ダメにする。その通り、だと思います。
小鈴さんは、
それが、真実。
――だとしても。
「……信じません」
「は?」
「小鈴さんが悪なんて……そんなこと、信じません……!」
アタシは、アタシだけは、認めない。
その真実を。
「小鈴さんは、正しいんです……優しい人、です……偽善者なんかじゃ、ない……!」
「はんっ。なにを根拠にそんなこと言ってるんだか。寝言は寝て言いなさいよね」
「根拠なんてありません! だ、だって……だって!」
そう、根拠なんてない。
これはただの、アタシの個人的な気持ち。
そうあって欲しいという願望でしかありません。
でも、それでいいんです。
アタシにとっては、それだけで、十分なんです。
あの眩しさがあれば。
「小鈴さんは……笑ってくれたから!」
あの時。
アタシが『代用ウミガメ』ではなく、亀船代海として、小鈴さんと対戦した時。
小鈴さんは、敵であるはずのアタシを受け入れて、笑ってくれた。
すごく眩しくて、とても輝いてて、キラキラと、煌めいていた。
その光だけで、小鈴さんの正しさを受け入れるには、十分です。
「あなたの言葉が正しいのかもしれません。でも、アタシは、その正しさを認めない! アタシが感じたこの“ぬくもり”は、絶対に、ウソなんかじゃありません!」
咆える。カメの剥く牙は、牙ではなくただの歯。小さく、貧弱で、脅威でもなんでもない。惰弱な力です。
でも、それでも。
アタシは精一杯、咆える。噛みつく。
アタシが信じた正義に誓って。
アタシを照らしてくれた、太陽のために。
「あなたが偽善者と罵ろうとも、アタシは、小鈴さんを信じます! だって小鈴さんは、こんなアタシにも、笑って、手を差し伸べて、友達になってくれて……日陰で生きるしかなかったら、アタシに、光をくれた……アタシにとっての、太陽で……!」
そうだ。あの時も、苦しかったんだ。
苦痛の視線。困惑の空気。ただそこにいるだけで息が詰まりそうで、生きているのも嫌になるような世界で、あの人は、アタシに生きる希望を見出してくれた。
それは、つまり、
「小鈴さんは……アタシを、救ってくれたから……!」
救済だ。
アタシを、痛苦の世界から救ってくれた。アタシの恩人。
そんな小鈴さんが悪だなんて、信じられない。信じたくない。
そんなはずがない。アタシは認めない。
敵だとしても、【
『
「だからアタシは――小鈴さんの、味方、です……っ!」
枯れた声で、すべてを出し切った。アタシの答え。
アタシを照らして、救ってくれた笑顔。
小鈴さんと一緒にいる時間は、とても楽しくて、幸せで、ひ弱なアタシでも、笑顔になれた。
小鈴さんは、アタシにとっての救世主なんです。
「……はっ」
そんな、アタシの希うような言葉は。
笑いとして、こぼれた。
「あっ……ははっ、あははははははははは!」
三月ウサギさんは、笑う。狂ったように、高らかに、無機質に、嘲るように、冷淡に、笑う。
そして、スッと、アタシから手を引いて、立ち上がった。
「――ふざっけんじゃないわよ!」
ぐちゃっ
なにかが潰れる音が、脳天に響き渡った。
「あ、あっ、う、あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」
鉄の味が、臭いが、突き抜ける。液体があらゆるとこから、器官を、穴を通り抜けて、熱くて、じんじんと、痛くて……なにも、考えられなくて……!
痛い、痛い。痛い! なにが起こったのかわからない。舌が切れたのか。鼻が潰れたのか。顔を蹴り飛ばされたか、踏み潰されたか。そんなことを考える余裕も暇もなく、ただただ、今までにない激痛が何度も往復して駆け回っている。
冷たい地面を転げるアタシの頭を乱暴に、強引に掴んで、引き上げる。暴れる力もなく、抵抗なんてできっこない。
視界もよく見えない。三月ウサギさんがどんな表情をしているのかわからない。
あぁ、でも、分からなくてよかったかもしれません。
きっとこの時のこの人は、鬼のような鬼気迫る表情をして。
醜く怒り狂っていたでしょうから。
「救ってくれた? あの女が? アンタを? はっ。バカも休み休み言いなさいよね」
髪の毛を引っ張られて、毛根がすごく痛い。顔の痛みも引かないうちに、何度も頭ばかりに痛みが集中して、脳がどうにかなってしまいそうだ。狂ってしまいそうだ。
何度か揺さぶられると、投げ捨てられた。受け身も取れず、肩から硬い地面に叩きつけられ、転がされる。
「アンタを救ったのはあの女じゃない! 帽子屋さんでしょ!? その恩を忘れたわけ!?」
「はっ、はぁ、はぅ、ぁ……わ、忘れてなんか、いません……」
帽子屋さんへの恩義。それを忘れたことだって、ありません。
でも、
「苦しかったん、です……」
アタシを救ってくれたのは、小鈴さんだけじゃない。最初に救ってくれたのは、確かに帽子屋さんです。
でも、二人の救済には、明確な違いがありました。
「帽子屋さんは、アタシたちを生かしてくれた……でも、ただ生きるだけは……光のない世界は、辛くて、苦しくて、寂しいん、です……出口のない迷路みたいで、一生、このままなんじゃないかって、不安で、怖くて……!」
帽子屋さんがアタシにくれたのは、生きるための道。手段。そして、共に生きる仲間。
その恩は忘れません。今も、昔も、これからだって、アタシは帽子屋さんがいたから、ここまで生きて来られたと言えます。
けど、それでも、どうしようもなかったんです。
人間の世に交わり切れず、日陰者として、自分を殺して生き続けるのは、とても辛かった。
ずっと手足を、頭を引っ込める生活は、ひたすらに苦しかった。
自由に遊ぶことも、着飾ることもできない日々は、寂しくて、虚無的で、すごく、心が痛かったんです。
あるのかもわからない未来の光は、アタシには遠すぎて。
冷たい迷宮に一人ぼっちで取り残されるみたいな、寂寥感が募ってしまう。
「アタシは『代用ウミガメ』……いつだって、代わりのものしか、手に入らない……本当に欲しいものは、絶対に、掴めなかった……でも!」
あの人との出会いは、そんなアタシの人生を、変えてくれたんです。
「小鈴さんは、そんなアタシが、はじめて、手に入れられたかも、しれない……本当に、欲しかったもの、だったんです……! だから……!」
「うるさい」
肩に強い衝撃。今度は、仰向けに倒される。
すかさず、また足が振り下ろされて、アタシの腹を抉る。
「げほっ! けほっ、かほ……っ!」
「なにアンタ? 帽子屋さんの救済に文句をつけるわけ!? 生意気な口もここに極まったりね。あー、胸クソ悪い! ふざけんのも大概にしなさい!」
「あぐっ、かふ……っ!」
足が、振り落される。何度も、何度も。
そのたびに、狂ったのように暴れるなにかが、身体の中から込み上げて来て、堪えきれなくなって、吐き出してしまう。
何度も、何度も。
鉄の味も。酸っぱい味も。しょっぱい味も。よくわからないなにかも。
全部、全部、流れて、漏れ出ていく。
「アンタも! 僕も! 誰も彼も! 僕たちは皆、帽子屋さんのお陰でここにいる! あの人がいたからこうして生きている! そのことを忘れたなんて言わせないわ!」
「あ、あが、あぐぅ、おぇ、ぅ、うぐ……!」
何度、吐き出しただろう。
何度、漏れ出てしまっただろう。
今のアタシは、見るも無残で醜悪だと思います。汚物に塗れ、ぐちゃぐちゃになった汚い身体。
全身がズキズキと、じんじんと、痛みが駆け抜けて、なにもできない。動かせない。
正に、ウミガメです。
三月ウサギさんの暴虐は、いつまでもいつまでも続いて、やがていつか収まったのかもしれない。
「はぁ、はぁ……僕としたことがつい興奮しちゃったわ。ついうっかり、グズカメ女の言葉を真に受けちゃった」
痛くて、苦しくて、呼吸もままならない。
視界はほとんど暗転し、意識が朦朧としている。もう、なにも、考えられない。
「あーあー、汚い汚い。こんなに汚しちゃって。ダメな女はとことんダメね。意志も、身体も、なにもかもがゆるゆるガバガバ。あまりにも貧弱すぎるわ」
嘲りの声が聞こえる。ただ意味は分からない。それが嘲笑の言葉ということだけが、感覚として伝わるだけ。
「そんな雑魚にイライラしちゃって、僕までバカみたいじゃない。でも、その雑魚に本気で怒りを感じたのも真実。僕は自分の気持ちにはウソは吐かないわ。この熱く、熱く、昂ぶる激情をなかったことになんてしない。どうにかして発散しなきゃ。ねぇ?」
「あ……ぅ……」
やっと、辛うじて目が開く。意識が、少しだけ戻る。
ちょうど見えた目線の先には――
「ねぇ、知ってるかしら? 人間ってカメも食べるみたいなんだけど、カメの捌き方っていうのがあるそうなのよ」
鈍く、鋭く、暗く、煌めく、銀色。
それはヒトが生み出した、暴威の権化。
ヒトの残忍さ、ヒトの持つ悪意、害意。
凶暴で凶悪な性質が詰め込まれた、凶器。
「誰かしらは追ってくるだろうと読んで、家庭科室? ってとこからかっぱらって来たわ。血を流すのも女の証、だからね?」
三月ウサギさんは、アタシの身体を足で転がす。
仰向けになって、ひゅーひゅーと口から呼吸が漏れて、無様な姿を晒している。
顔が上を向いたことで、三月ウサギさんの“それ”が、よりハッキリと、くっきりと、視界に映る。
足でアタシの胸を踏みしめて、圧迫して、その無骨な刃を握り締めた。
「こんな風に、カメの仰向けにして、抑えつけて、首を出したところを――」
ひゅんっ、と風を切る音が耳に届く。
その音だけで、身の毛がよだつような、悪寒がぞわりと走り抜けた。
「――こう、スパッ、てね」
ぞわり、ぞわり。ぞわぞわ。
動けない。けれど、寒気のような気味の悪い感覚は、ずっと体中を駆け廻っている。
三月ウサギさんは、きっと本気だ。薄ら笑いの奥底に秘めた、憤激の灯がアタシを見据えている。
ぞくり、ぞくり。ぞくぞく。
動かせない身体に、悪寒が駆け巡る。受け取った殺意を、最悪の未来視に変えて。
それはきっと、死の恐怖。
いくら格好つけても、強がっても、死ぬのは怖い。
だってアタシたちは――生きるために、生きているのだから。
「う……や……!」
「帽子屋さんへの恩義も忘れた恥知らずに用はないわ。そんなに生きるのが苦しいなら、飼い主として処分してあげる」
満身創痍な上に、踏みつけられ、抑え込まれているアタシに、抵抗する術はない。
明るくなる視界の先には、最大限の侮蔑を込めた、三月ウサギさんの笑顔。
そして、暗がりに堕ちていく未来が見えました。
「さようなら『代用ウミガメ』。アンタに代わりはいないけど、まあ、帽子屋さんなら上手くやってくれるでしょう」
敵意が、悪意が、害意が――殺意へと、変わった瞬間。
銀色の刃が、断罪するかのように、断頭台の如く、振り下ろされる。
あぁ、アタシは、やっぱりダメダメだった、みたいです……
ごめんなさい。本当に、ごめんなさい――
――小鈴さん。
☆ ☆ ☆
そこは、まるで墓場だった。
亡者は呻き、男も女も子供も関係なく、地に伏して果てるのみ。
ある種の欲望によって、獣の本能によって、あるはずのない狂気によって、そこは屍の転がる凄惨な場へと変り果ててしまった。
そんな場所に立つのは、一人の少女。
友を下し、すべてを振り切って、そこに立っている者。
彼女の欲求を満たす者はここにはいない。彼ら彼女らに注ぐ愛は、本意は、すべて吐き出した。
それなのに、まだ胸の内に残る蟠りがある。
これはどう解消すればいいのか。
身体の疼きは、心の叫びは、どこで放てばいいのか。
それはなにが教えてくれるのか。
胸の内に問うてみる。答えは、存外早く返ってきた。
なぜだろうか。今は、なんでもわかる気がする。
とても、素直になれる気がする。
求めるものはすべて自分で答えが出せる。そのためになにをすればいいのかも。すべて、心が答えてくれる。
答えは得た。ならばあとは、行動するのみ。
枷が外れたように身体が軽い。疼きと熱が気になるが、抑圧されたようななにかが消え失せ、解放感に溢れている。
今なら、なんでもできる気がする。
自分がすべきだったことを。
あの人に言わなくてはならないことを。
胸の奥底に置いてきた――この気持ちを。
「わたし……行かなきゃ」
友たちの屍を踏み越え、少女は歩む。
ただ一つの目的地へと――
作者は根っからの悪人を書くのが苦手なのですが、たまには弁解の余地がないくらい邪悪に染まったキャラを書いてみよう、と思い立って三月ウサギとかいうビッチが生まれました。とても書くのが大変でした。やっぱり、一方的に悪しかないキャラって、書くの苦手です。
けれどウサギのデッキ自体は結構お気に入りです。究極進化グラスパー。《グラスパー》の踏み倒し制限がパワーだけなので、NEO進化の特性も生かして究極進化を乗っけてしまおう、というデッキです。今回使用したのは《不動》とコンボする《キリコ・ムーン》と、個人的に三月ウサギっぽいと思ってる《スカル・ムーン》。他にも《カリビアン・ムーン》とか、意外と面白いこと出来ます。ツインパクトで呪文も増えたしね。
今回で前編は終わり。次回は今回の後始末、みたいな回です。
誤字脱字、感想、その他諸々、なにかありましたら、遠慮なくどうぞ。