電車で数駅。電車を降りて細い路地を抜けた道の先。
私有地らしい山の前まで、霜とヤマネは来た。
「……こんなところにあったのか」
「おう。けっこーダルいんだよな、こっからガッコ行くの」
「山降りて電車も使うくらいだもんね。こんなことするくらいなら、普通に学区内の学校に通う方がよほど合理的だ」
というかどうしてわざわざ遠くの学校に通っているのか。彼らは教師や用務員や購買部の面々と違い、自分達と出会う前から今の学校に通っていたはず。スパイというわけでもないだろうに。
そんなことを彼に言っても恐らくまともな回答は返ってこないので、霜は疑問を黙殺しながら、ヤマネの後に続いて山道を登る。
険しいというほどではないが、山は山だ。道も踏み分けられている程度で、きちんと整備されているわけではない獣道。歩き慣れていなければ少し苦労する。
ヤマネはひょいひょいっと軽快な足取りで駆けていくが、霜はそれを追いかけるだけで精一杯だった。
――彼に気を遣ってスカートを履かないで来たが、正解だったな。
比較的、男っぽいファッションで来たことが幸いした。木々の生い茂る山の中でも、まだ動きやすい。
だとしても、やはり登山は楽なものではないが。
「ユーあたりなら、楽しんで登るんだろうな」
彼女たちは今、なにをしているのだろう。
自分を探しているだろうか。実子と接触しているかもしれない。あるいはヤマネのように、代海を探しているのだろうか。
……自分は、なにをしているのだろう。
彼女のために動くと決めた。彼女に危険が及ばないようにしたいと願った。
では、そのために自分ができることとは。
彼女を避けながら、彼女から逃げながら、できることとは。
――どこか、ずれている気がする。
正しい道を進んでいるつもりが、道を踏み外しているような気がする。
それは、実子が言ったような、自己中心的な邪悪さ、というだけではない。
合理性も打算も筋を違えたような。
小さな計算ミスによって、問題の前提すべてが崩れて行っているような。
いや、そんなことは、とっくに気付いていた。
ただ余裕ができただけだ。自分の間違い、齟齬について思案し、修正しようと思えるだけの、心の余裕が。
「……彼のお陰、なのかな」
愚直で情熱的な彼の勇姿に感化された、のだろうか。
らしくない。けれど彼の勇猛さと、激しい正道は、あまりにも眩しかった。
それは、事実だ。
そしてその輝きに影響される可能性も、否定できない。
今まで、水早霜という少年を救ったのは、様々な光、輝き――太陽、なのだから。
「まあ君は太陽と呼ぶには、小さいけれど、苛烈すぎるような気がするけど」
「あ? あんだって?」
「なんでもないよ。それより、急に立ち止まってどうしたんだい」
霜はヤマネに追いついた。というのも、途中で彼が足を止めたからだ。
ヤマネはキョロキョロと視線をあちらこちらに向けている。どこを向いても、鬱蒼と茂る樹木だというのに。
「いや、なんかよぉ……聞こえた気がしてな」
「聞こえたって、なにが?」
「なんか」
「なんかって……」
酷く曖昧だった。
しかしなにか物音が聞こえた、という事実は検討するべきだろうと、霜も耳を澄ませてみる。
鳥の鳴き声すら聞こえない。聞こえるのは、木々のざわめきだけ。
特に足を止めるような音などない、と思ったが、
(……? なんだ、この匂い……甘い……)
聴覚情報の代わりに、霜の嗅覚がなにかを捉えた。
微かに鼻孔をくすぐる、土や青さの混じった、仄かに甘い香。
植物、のようだが、これは……
(
それも、焼いたり蒸したような調理の匂いではない。素のままの玉蜀黍畑の匂いが、微かに漂ってくる。
あり得ない。ここは山だ、玉蜀黍を育てられるような環境ではない。それ以前に、今は真冬、夏の植物が生育できるはずがない。
霜がその異常を認識した瞬間、ヤマネが駆けた。
「聞こえた! こっちだ!」
「ヤマネ! 待て!」
しかし霜の制止も聞かず、ヤマネは道から外れて駆け出してしまう。
止めようとしても聞かないのは明らか。霜はヤマネの後を追う。
手入れされてない不安定な足場で、必死に彼を追いかける。見失いそうになる小さな背中を逃さず、ひた走る。
やがて、霜の目にも見えた。
少女だ。小柄で、美しいほどに真っ白い髪の少女。
――確か文化祭で少し姿を見た気がする。彼女も、【不思議の国の住人】なのか?
少女は涙目で、震えていた。その視線の先には、女。
伸ばしっぱなしの緑髪。一枚布を引っかけただけのような簡素なワンピース1枚。そして驚くことに、小さな山とはいえ、彼女は裸足だった。
この真冬の季節でおよそあり得ない格好の女は、超然とした眼で小さな少女を見つめ、躙り寄っている。
「や、やだ……こないで……!」
少女は怯えた目で、女から後ずさっている。
女は悠然と、自然な足取りで彼女へと歩み寄る。
――襲われているのか?
雰囲気的には、そう見える。しかし情報があまりにも欠落している。現状では即決するだけの判断材料はない、が。
「ユニ子!」
そこに、弾丸のように飛び出す、火鼠が一匹。
ヤマネだった。
彼はこぶしを握り締め、女目掛けて一直線に、それを振りかぶる。
「てめぇ! 人のマイメンになにしてんだおらぁ!」
そして、少年の拳は振り下ろされる。
容赦なく女の顔面にめり込む。小さな拳と言えど、全力疾走の速度のまま、全体重が乗った鉄拳だ。女はそのまま後ろに倒れ込む――
「っ!?」
――ことは、なかった。
女は、ガシッ、とヤマネの手首を掴む。
そしてそのまま、力任せに彼を地面へと叩き付けた。
「がっ、は……ぁっ!?」
肺の空気がすべて押し出される。潰された鼠のような嗚咽が漏れる。
続けざまに、ヤマネは蹴り飛ばされる。
裸足の女とは思えないほどの蹴撃。ヤマネは簡単に吹っ飛ばされてしまう。
幸か不幸か、追いかけてきた霜の方へと蹴り出されたので、尻餅をつきながらも、受け止めることができた。
「っ、んだよあの女、クソ馬鹿力かよ……!」
「大丈夫かい?」
「あぁ、大丈夫だ。サンキュー、ソウ。それよりユニ子が……!」
状況はよくわからないが、あの少女はヤマネの仲間で、襲われている、のだろうか。
女の方は、口では表現しがたいが、危険な空気を感じる。
真冬の山中で原始人のような格好をしていながら、一切寒さを感じさせない立ち振る舞いもそうだが、そんな表面的なこと以前に、もっと根本的なおかしさを感じる。
たとえば、帽子屋に近いような、恐ろしいなにかを。
「『眠りネズミ』……それに、そっちの彼は……」
女の視線がこちらに向く。
動きはゆったりしているが、超然とした眼が恐怖心を煽る。
……怖い?
ただ、向かい合っているだけで、怖いだなんて。
何者なのか。疑念と、焦燥と、恐怖が、霜の中で募っていく。
「……それは私に課せられた役目ではないのだけれど、でも、私の
「なにがしかたねーだゴリラ女! いいからとっととユニ子から離れやがれ!」
また、ヤマネが突貫する。
小さな拳を振り回す。
女は避けない。
真正面から、彼の拳を受ける。
「あぁ、弱いわ。あなた、自分が鼠である自覚は無いのかしら」
「あん!?」
「鼠が獅子に勝てる道理はないもの。弁えなさい」
ひゅんっ、と空を切る音。
次の瞬間には、ヤマネの腹に、女の拳がめり込んでいた。
「が……っ!?」
「大きな力を正しく使う。強さというのは、ただそれだけのこと」
そのまま、ヤマネは地面に叩き付けられ、転がっていく。
「あなたの力は正しいわ。その滾る情熱の使い方は、あなたの生き様そのもの。けれど、その小さな力の使い方としては間違い。鼠は鼠として生きなさい。それがあなたのあるべき姿」
「なに、わけわかんねぇ、ことを……! 僕の
ふらふらと、ヤマネは立ち上がる。
子供のわりに存外に頑丈だが、流石に無茶だ。
彼の性格からして、こうなることはわかっていた。無茶なことも通すだろうと予想もできた。
だから、だから。
霜も、動いていた。
「ヤマネ! こっちだ!」
少女を抱き上げる。そして、ヤマネに呼びかける。
彼が振り返ったと同時に、霜は踵を返して駆け出そうとする。
「ソウ……!」
「君も走れ! あれはまずい!」
「けどよ!」
「ここで誰ともわからない奴を殴ることが君の目的じゃないだろ!」
あの女が何者かはわからないが、今ここで戦う理由があるのか。
彼にとって大事なことは、そうではないはずだ。
「会いたい人がいるんだろ! なら、君が目指すべき道はそっちだ! ここじゃない!」
「ぐ……!」
「この子はボクが運ぶ! だから君も来い!」
「……クソ! わーったよ!」
ヤマネは女を流し目で睨みながら、少女を抱きかかえる霜の後を追った。
女はその場から動かなかった。
ジッと、走り去る少年達の後ろ姿を見つめている。
「……逃げられてしまったわ。いいけど。本来、私は狩人ではないから」
彼女は、近くの木に触れる。そっと、手を添えるように。
「それに、あちらにはミネルヴァがいる。私は私の役割をこなすだけ。今は、自分の王国を築きましょう」
ぐじゅぐじゅと。
触れた木が黒く染まっていく。
そこはもう、不思議の国ではなく。
黒い仔山羊が跋扈する、
「縄張りを移すだなんて、よほどのことだけれど、こちらの方が彼女にとって都合がいいのも事実。故にここが、この星の祭祀場」
女は黒く塗り潰された樹木から手を離すと、霜たちが走り去っていった方角とは、逆方向へと足を向けた。
そこに、玉蜀黍畑の香を、残して。
あとがきってなにを書けばいいんでしょう。ネタが尽きました。