慣れない野山をひた走る。木の根に足を取られそうになりながら、斜面に転げそうになりながら。木の枝に服を引っかけられることも厭わず、霜は少女を抱えて疾走する。知らない場所、右も左もわからずデタラメに駆け、あの緑の女から逃げる。
――追いつかれていない?
後ろを振り返る余裕などないが、追われている感覚もない。足音は、自分のものと、ヤマネのもの。恐らく2つだけ。
上手く撒けたのなら、それでいい。
しかし霜には嫌な予感があった。
もし彼女があえて追っていないのだとすれば?
彼女が追いかけていない理由があるとすれば、それは、追う必要がないから。
つまり、
「足を止めよ、衆愚共」
その声に、霜は思わず足を止めてしまう。いや、止めざるを得ない。
待ち構えるようにして霜の進行方向に立ち塞がるのは、真っ白な総髪を流した、美麗な面持ちの男。手には細身の刀剣を携えており、現世から浮いたような歪さがあった。
銃刀法をものともしない威風堂々とした佇まい。男は険しい眼差しで、霜たちを睨み付けている。
(……やっぱり、仲間がいたか)
連中の目的は不明だが、確かな敵意は感じられる。
クリーチャーの類か。しかし、明確に個人として敵意を向けられるというのは、些か腑に落ちないが……
「水早霜、眠りネズミ、そしてユニコーン」
男は剣の切っ先で、2人を順番に指し示す。
「酷く難儀な組み合わせだ。片やメルの獲物、片や姫の寵愛を受けし者。貴様らに私の刃を向けることは、義理と主命に反する行いであろう」
「……んだよ、てめーは」
「母君の意志により、貴様らを裁く者。名をミネルヴァ・ウェヌス。【
――【死星団】? ミネルヴァ?
不思議の国、ではない。しかしクリーチャーとも違うのだろうか。
それに、自分達を裁く、とは。
「眠りネズミ、ユニコーン、貴様らはともかくだ。水早霜」
「っ! ……なんだ」
「貴様は姫の御心を、凍てつく刃で切りつけた大罪人。貴様が背負う罪は、重い」
「どういう……ことだ?」
「自覚もないか。愚かなり。ますますもって度し難い」
ミネルヴァの視線がどんどん険しくなる。
今にも手元の白刃を突き込んでくるのではないか、というほどに殺気を放っている。
……まずい。
先の女が追いかけてきていないにせよ、今度はこの男から逃げなければならない。しかし、そう易々と逃がしてくれるようにも思えない。
少女を抱えたまま、慣れない地で少年2人。そもそも相手は、人間ではないかもしれない。
逃げ切れるのだろうか。
逃げられないならどうするべきなのか。
自分が囮になる……いや、こんなところで終われない。まだやるべきことがある。果たすべき義理と義務がある。導くべき回答がある。
かといって、ヤマネや少女を囮とするなんてのも、論外だ。彼らを見捨ててこの場を切り抜けたとして、それでどうなる。
他者を蹴落としてまで得た自由に、どれほどの価値があろうか。
答えが決まらない。その間にも、少しずつ、男は距離を詰めていく。
「あー……よくわかんねーけど、なんかムカつくなてめぇ」
霜は動けないでいると。
ヤマネが、前に出た。
「いきなり現れてなんだてめーは。人のダチにぐちゃぐちゃ文句言ってんじゃねーぞ!」
「退け、眠りネズミ。貴様に刃を向けることを、姫は望んでいない。できることなら、貴様とは穏便に事を為したいところだ」
「うっせーボケ! 僕はてめーのことなんざ知らねーんだよタコ!」
「……姫の温情を拒むというのであれば、母君の意志に従い、貴様も我らが元へ還すことになるが」
「わっかんねーことをごちゃごちゃとよぉ。要するにてめーは僕らの敵だろ? なら話は簡単だ」
コキコキと指を鳴らしながら、眠りネズミは眠そうな瞼を無理やり押し上げ、キッとミネルヴァを睨み付ける。
「ここでぶっ飛ばして押し通ってやんよ! かかって来やがれ白髪野郎!」
「ヤマネ……!」
即断即決。その決断力は評価に値する、が。
それはあまりにも短絡的すぎる。
ここで未知なる男に挑んで、どうなるともわからないというのに。
霜の制止も振り切って、ヤマネは男に飛びかかる。
男も握った剣を振り切り、迎え撃つ。
――が、その時だ。
大木が、2人の間に落ちてくる。
「うぉ!?」
「っ!」
2人は咄嗟に跳び退る。
そして大木が倒れた方を見遣る。
「我らが国土を土足で踏み荒らし、民への狼藉……これは宣戦布告か? 王のいない国へ戦争とは、矜持もない滑稽なことよな」
「貴様は……」
「公爵夫人!? てめーなんでこんなところに!?」
「儂が居残っていることが不思議か? 眠りネズミ」
「いや……そうじゃなくて、なんつーかよ。おめーが僕らに手を貸すマネとか珍しくね?」
「手を貸す? 勘違いするな」
ふんっ、と鼻を鳴らして、公爵夫人は蔑むような視線でヤマネを見下ろす。
「貴様らでは此奴を相手取ることはできん。雑魚が群がっても邪魔だ、とっとと失せよ」
「あぁん!? んだとゴラ!」
「眠気を抑えてふらついているような腑抜けが咆えよる。いいから消えよ。その足で歩けぬというのなら」
スッ、と。
公爵夫人は一瞬でヤマネとの距離を詰める。
そして、トンッ、と彼の額を押し、さらに足を払った。
「うおぉぉぉぉぉぉぉぉっ!? 公爵夫人てめぇぇぇぇぇぇぇ!」
容易く重心を崩され、足払いまで受けたヤマネは、ゴロゴロゴロと山の斜面を転がっていく。
「あぁっ! ヤマネ!」
「貴様も邪魔だ人間。ユニコーンを連れ、疾く失せよ」
「……わかってる! ヤマネ!」
霜は転がり落ちていくヤマネを追いかけようと、踵を返す。
その時。
無言のまま、ミネルヴァの剣が霜に迫る。
しかし公爵夫人が割り込み、黒く膨れた肉塊で白刃を受ける。
ドクドクと、黒い粘性のある液体が零れ落ちる。
「っ……!」
人間ではない者の、人ならざる姿の発露。
その片鱗を垣間見た。ぞわりと、霜の背筋に怖気が走る。
その醜い肉塊に、正気を疑いそうになる。
「女子供から刃を向けるか。儂は相手にできんと?」
「逃亡は許さん。たとえ小さき者だとしてもだ」
「ふん。残党狩りか。つまらんことをする」
ぐじゅぐじゅと、公爵夫人の腕が黒く膨らみ、触腕となりミネルヴァを弾き飛ばす。
そして公爵夫人は、後ろ手で霜に向けてなにかを投げた。
霜は少女を抱えて両腕が塞がっているので、それは少女の胸へとぽとりと落ちる。
「これは……」
「何度も言わせるな、失せろ人間。ここは我らの国だ。貴様のような者が軽々しく足を踏み入れていい場所ではない」
「……あぁ。ごめん」
「わかったら消えろ。目障りだ」
その言葉を最後に、霜は公爵夫人にこの場を任せて、転がり落ちたヤマネの後を追い山を下りていく。
「……この場を逃れたとて、意味はない。我らは貴様らの所在を見通している。逃げられると思うな」
「味のある負け惜しみだな。感嘆するほどに弱者の遺言だ」
ミネルヴァは公爵夫人の挑発に一瞬、眉を動かすも、静かに息を吐いて剣を収める。
そして、まっすぐに彼女と向き合った。
「我が身を呈する貴様の献身は評価する。公爵夫人、貴様の行い、無意味とはいえ賛美してもいい」
「ほざけ。儂は奴らを庇った覚えもなければ、献身でもない。儂は女王を殺す、そのためならば手段は選ばん。それだけのことだ」
「そうか。反逆の徒、公爵夫人。その一点において、貴様はこの上ない咎を背負っている。なればやはり、裁く他あるまい」
「……貴様、なにが目的だ? 我らの国を襲い、民を襲い、なにがしたい? 我らの同胞のようだが、貴様からは帽子屋と同じ匂いがする」
一目見た瞬間から理解した。この男は、自分達の同胞であると。
しかし、純度が違う。女王の落し子として、性質が薄まってきている公爵夫人や、他の者とは違う、高純度の
公爵夫人の見立てでは、男の存在は帽子屋のそれに近い。原初の男、一番最初に産み落とされた落し子、帽子屋に。彼とも、またなにかが違うようだが。
つまり、国を統べるだけの力を持つ、純粋な眷属にして、王の資質を持つ者。
そんなものが今になって姿を現す意味とは。彼らの目的とは。
ヤングオイスターズから、ここ最近、逃亡した住人達が狩られているという情報は得ている。それと関係することなのか。
「そこまで見破るか、公爵夫人。やはり貴様は、違うな」
「世辞など要らぬ。答えろ下郎」
「……我々は母君の意志、そして姫の願いによって動いている」
「姫君……?」
母君とは、女王のことだろう。
しかし姫とは。その願いというのは、一体……
「……代用ウミガメか」
女王の封印を解き、女王と共に消えた住人、代用ウミガメ。
今も彼女が女王と共にあることは予想に難くない。だとすれば……
「そうか……これは、代用ウミガメの意志か」
公爵夫人は、嘆息する。
「厳密には、女王の意志が混じった、混沌なる願いなのだろうがな。合点が行った。残った住人や、かの人間なぞに執着する理由、そして貴様らの“混ざり物”の原因もな。そうか、代用ウミガメの意志がまだ生きているのであれば、そういうこともあろうな」
「理解したとて意味はない。姫の慈悲だ、殺しはしない。だが、母の元へと還って貰おうか、公爵夫人」
「断る。儂は女王を殺す者。女王の呪縛から逃れ、自由を得るために、醜き我が身を削り取る醜女の徒だ。女王の元に帰ることがあるとするなら、その腹を食い破る時だ」
公爵夫人の肌が、黒く溶けていく。
人の姿を放棄し、殺意と害意に塗れた、醜い姿を曝け出す。
「無論、女王に与する貴様も殺す。貴様の仲間も殺す。儂の身を縛る愚鈍で悪辣なすべてを殺し尽そうぞ」
「私は貴様を殺さない。貴様の仲間も殺さない。ただ貴様らを、月の光も届かぬ我が牢獄へと閉ざそう」
ミネルヴァは、再び剣を抜く。
しかしそれは公爵夫人に向けられることなく、天高く掲げられる。
「これは母君への奉仕。そして姫の慈愛だ――受け取れ、公爵夫人」
そして。
公爵夫人は、光の王国へと、閉ざされていく。
不思議の国に突入すると思ったら下山してる。