「帰ったぞ、実子」
「おかえりー、帽子屋さん」
香取家の門扉が開かれ、帽子屋が敷居を跨ぐ。
最初は帽子屋の同居に顔をしかめた実子だったが、深く気にしないことにした。
いや、気にしない、なんて不可能なことだが。
しかし帽子屋を追い出すのも、どうかと思う自分がいる。
彼が嫌いなわけではない。因縁はあるが、決して悪いものなだけではなかった。
小鈴たちと敵対していた。彼が引いた引き金で、小鈴と自分は決別したようなものでもある。
だが……なんだろうか。
彼個人を嫌いになるというのは、なにかが違う。
好きになるというほど積極的ではないが、なにか思うところがある。
それは彼が言う、自分と彼らの、寄生虫のような生き様が似ているからなのか。
「……うーん」
「考え事か?」
「まあ……そうだねぇ。これからどうしようかなぁ、って」
小鈴に会いに行こうかと思っていたが、帽子屋という不思議な同居人の登場で意識が逸らされてしまった。
小鈴との縁を取り戻したいのも事実だが、この男をどうしたものか。
どうにも方向性が定まらない。理路整然とせず、ぐちゃぐちゃと混沌としている。
――水早君なら、こういう時でも合理的に物事を進めるのかな。
ふとそんな考えがよぎるが、すぐに振り払う。彼のことはあまり思い出したくなかった。
「ところで実子、飯はまだか?」
「ご飯は昨日食べたでしょおじいちゃん」
「毎日喰わせないのか」
「食べてもお腹から出て来るじゃん。私は昨日で学んだよ。中学生に介護は早い」
「ならば仕方あるまい。風呂だな」
「お風呂もやめてよ。帽子屋さんが入った後、なんか明らかにヤバそうな黒いの浮いてるんだもん。あれ下水に流していいものなの? 浄水場で処理できるもの?」
「まあオレ様の身体の一部というか、黒い仔山羊の肉片だからな。最悪、並の人類なら発狂ものだろう」
「私もう帽子屋さんの後にお風呂入りたくないんだけど」
「バタつきパンチョウだか三月ウサギだかから聞いたことがある。
「そりゃ私は思春期真っ盛りの娘だけど、それ以前に普通にキモいよ。湯船に黒い肉片が浮いてるとか。お風呂掃除とかも帽子屋さんがやってよ」
「仮にも一国の王であったこのオレ様を顎で使うとは……不思議の国でも、そんなことができたのは、公爵夫人やヤングオイスターズ、ハンプティ・ダンプティ、虫けら共に三月ウサギ、眠りネズミにバンダースナッチに……」
「結構多いね! 帽子屋さん、舐められてない?」
「そんなことより実子」
「なに?」
「タワシはどこだ?」
「そんなにお風呂掃除やる気なの!?」
「とりあえず適当なものを使っていいか」
「ダメだよ! ナイロンのやつだと傷がつくから、アクリルのやつ使って。棚にあるから」
「心得た」
帽子屋は立ち上がり、風呂場へと向かっていく。本当に風呂掃除に行くつもりなのか。王を自称する男が、女子中学生の不満一つで本当に風呂掃除をするのか。正気か? いや、狂気だ。
そんな狂った背中を、実子は引き留める。
「……帽子屋さん」
「なんだ」
「なんか悩んでる?」
「その回答はいつだって、わからない、だ」
帽子屋は実子の問いかけをぬるりと躱す。鬱陶しそうに、億劫そうに、言葉を紡いで口を噤む。
「オレ様に自己分析を求めるな。1億5000万の長命で、なにもかもが擦り切れているのだぞ。自分のことを思考できるだけの正気など、あるはずがない。そんなものはとうに消え失せた。悩みと言うのならば、それが悩みかもしれんがな」
身体は動く。自我もある。しかしそれは、悠久の時を経て劣化し、擦り切れた枯木の魂だ。
帽子屋は、もはや自分自身のことさえわからない。誰も、今の彼の精神状態を理解することなど不可能。
そう、帽子屋は、突き放す。が、
「それ、自分でものを考えたくない言い訳じゃない?」
実子は臆さず切り返す。
どことなく苛立ちを含んだ語調で、現実を暴き出す。
「帽子屋さんって責任感強いわりには、無責任になりたがるよね。そうやって煙に巻いてさ」
「矛盾だな」
「矛盾だよ。帽子屋さん、そういう人でしょ」
「否定はできんな」
「まあ別に、言いたくないことを無理に聞きだそうってつもりはないんだけどさ」
などと言いつつも、実子は帽子屋を煽るように、告げる。
「自分が馬鹿であることを隠れ蓑にしてシラを切り続けるのは、流石に無理があるよ。ボケた振りの下手なおじいちゃん」
「……よく見ている」
「これでも人を見る目はあるつもりだよ。ずっと周りを見ながら生きてきたからね」
それは帽子屋の生きた年数と比べれば、一瞬の時間だろうが。
幼い若子の積み重ねた時間としては、ひたすらに濃密な、蓄積された経験だ。
他者に依存し、他者を拠所にし、他者に寄生して生きることを望んだ実子には、【不思議の国の住人】のような狂信の曇りもない。
その眼は、帽子屋のあるがままを映し出す。
「楽して生きていきたいのは私もわかる。私だって、自分で考えるのが嫌で、今まで誰かに寄りかかってきたんだ。それが悪いとは言わないけどさ、そうやって言い訳して誤魔化すのは、見苦しいよ」
「見苦しいのはお互い様だと思うがな。とはいえ、オレ様自身、自分自身のことがわからないというのは事実だ」
帽子屋は、観念したように目を伏せる。
その虚無な、しかし悲哀と悲嘆に満ちた瞳を隠す帽子は、ここにはない。
他の誰にも見せない、イカレ帽子屋の“弱さ”を、曝け出す。
「民を導くという使命は女王の目覚めにより潰えた。ならば苦しまぬ終わりを迎えようと思ったが、それも拒まれた。オレ様がすべきことはなんだ、どのようなマニュフェストを掲げればいい? なにが民のためになる? オレ様は、王として、不思議の国で生きた1人の落し子として、どうすればいいのだ?」
帽子屋は、誰にも答えられない問いかけを氾濫させる。
自分自身が、わからない。
どうすればいいのかが、わからない。
それは王として致命的だ。
故に帽子屋は、慟哭する。
「オレ様には、民の気持ちがわからんよ。実子」
それは心からの嘆き。
今にも崩れ落ちそうな心と身体で、帽子屋は己が弱さをすべて曝け出す。
「……帽子屋さんでも、泣き言って言うんだね」
「貴様がどう誘導したのだろうが」
「いや……泣かすつもりはなかったよ。別に泣いてないけど。帽子屋さんって、いつだって飄々としてるし、体裁とか保つ方だと思ってたし……」
「いつだって泣きたくなるような生を送ってきたよ、オレ様は。だが民の前ではこんな情けない姿は晒さん、王だからな。しかし貴様は同盟相手、このくらいは許せ」
「同盟なんて結んだっけ?」
「まあそういうことにしておけ。形など、どうでもいいことだ」
「同盟って言ったら、【不思議の国の住人】だっけ? あなたたちのグループの方がそれっぽくない?」
「あれはオレ様の国だ。たとえば、眠りネズミやバタつきパンチョウはオレ様を友として見ていたようだがな、しかし不思議の国の王たるオレ様にとって、奴らはすべてオレ様が支配する臣民に他ならない。オレ様が上に立ち、奴らはその配下。統べるべき対象を相手に無様を晒すのも下策というもの」
だから、弱音は漏らさないし、弱みも見せない。それが王として君臨するものの矜持であり、責務だから。
「だが貴様は、オレ様に宿と飯を提供し、共闘関係を結び、互いに利用し合う同盟。いいや、盟友ということにしよう。そう、友だ」
「帽子屋さんと友達……ぜんっぜん感慨も実感も湧かないんだけど」
「奇遇だな、オレ様もだ。民ではない者であり、敵対者でもなく、それでいて友好的な関係を結ぶ相手など、今までいなかったからな。貴様のような存在をどう定義すればいいのかわからんが、しかし、恐らくは」
一呼吸置いて、帽子屋は実子を見据える。
貌を覆う帽子はなく、なにも隠さず、真正面から、まっすぐに。
「こういうものを、友、と呼ぶのだろう?」
照れもせずに言い放つ。
気恥ずかしいというより、唖然とする。彼がこのようなことを、自分に向けて言うだなんて、と。
「友ならば、弱音も愚痴も吐き出すというもの。あぁそうだ、白状するとも。どうすればいいのかてんでわからぬ。民の心も、この先の未来も、なにもかも。泣き崩れそうなほどにな」
涙なぞ、とうの昔に枯れ果てた。
しかしもし、その身が枯木ならざる大木であるのなら。
一雫くらいは、流れ落ちていたのかもしれない。
「なぁ、実子」
帽子屋は、実子に問いかける。
自分にとっては、ほんの一瞬の煌めき程度しか生きていないような、年端もいかぬ小娘に、泣きつく。
「オレ様は、どうすればいいのだ?」
恥も外聞もなく、縋るように声を絞り出す。
しかし、
「私に聞かないでよ。知らないよ、そんなの。むしろ、私が聞きたいよ、帽子屋さん」
実子は縋る帽子屋の手を取らない。
しかし彼女もまた、帽子屋に手を伸ばす。
「私は、どうすればいいの?」
不安げな、震える幼い少女として。
しかし、
「そんなもの、オレ様の知ったことではない」
帽子屋もまた、その手を振り払う。
互いに弱音を吐き出し、助けを乞うてなお、手を取り合わない。
2人は互いに、睨むように見合わせる。
「…………」
「…………」
「……不毛だ」
「不毛だな」
なにをしているのだろうと、我に返る。
協力関係かもしれない、相互利用する関係かもしれない。しかし、共生関係ではないのだ。
弱音を吐いたところで、すくい上げてくれるような仲ではない。
「しかし貴様はすべきことが決まっているのではないのか? マジカル・ベルと復縁するのだろう?」
「んー、そうなんだけどさ」
実子のしたいことは、単純明快。
自分が楽に生きるための、苦しまずに生きるための、拠所。
それを取り戻すこと、なのだが。
「別に私だって、小鈴ちゃんを傷つけたいわけじゃない。小鈴ちゃんを悪いようにしたいわけじゃないし、そんなつもりはなかった」
しかし、言われてしまった。
彼に。自分の在り方の邪悪さを、暴かれてしまった。
「だけど水早君にあんなこと言われちゃってさ。思うところがない、わけじゃあないんだよね」
「そうなのか? 怒りこそすれ傷心するような精神性など持ち合わせていないと思っていたが」
「そりゃあね。これでも小学生の頃は優等生だったし、小鈴ちゃんと喧嘩するまではそうだった。キャラ作ってから、あの子に依存しちゃってたけれど、私はそんな自己中心的なつもりはないよ。こんなんでも、人の社会に生きてるんだもん。倫理も道徳もあるよ」
「そんな社会秩序の部品のために、貴様は利己性を晒すことに足踏みしているというわけか。人でなしのオレ様にはよくわからん感覚だ」
「誰だって悪い人になりたいわけじゃない。世間様は悪人には厳しいからね」
「合理性も兼ねているわけだな」
「うん、だからかなぁ」
実子は、ぼぅっと遠くを見遣る。
ここにはいない彼女を想いながら。
「もし私が小鈴ちゃんをダメにしちゃったら、それは私の望むところじゃない。私は、腐った身体に寄生したいとは思わない。どうせ甘い蜜を吸うなら、綺麗な宿主がいい。至極当然の道理だよ」
「……そうさな」
歓楽ばかりではない。衝動だけではない。
理屈も、合理も、彼女にはある。
「ふむ……オレ様を
帽子屋は思い出すように言った。
怒りを爆発させ、最後までこの枯木に噛みついてきた、民の言葉。
「
「簡単に言ってくれるなぁ」
「言うのは簡単だからな。行動を起こすのはどうしたって当人だ。そこまでは責任は持てんさ」
「まあ、そうだけど」
「加えて言うのであれば」
さらに、帽子屋。
「貴様の表層に現れる意志と、深層に沈む意志、どちらを旗印として掲げるか、ということでもある」
「……なにそれ?」
「オレ様が不思議の国で掲げた旗は『種の繁栄』。その裏に隠れた意味は『女王の無力化』であり『現人種への優越』であり『自種の生育』である」
「?」
こいつはなにを言っているのだろう、と首を傾げる実子。
そんなことなど構うことなく、帽子屋は自分勝手に続ける。
「何事も、表の意味と裏の意味がある。それらは表裏一体であり二律背反。矛盾しつつも同時顕現し、共存する歪なものだ。貴様の利己性と倫理観……いや、根幹的な指針そのものが、そうであろう」
「そう、なの?」
「誰かに依存して自我を持ちたくない、という自我がある」
「なにそれ、屁理屈みたいなんだけど」
「まあ聞け。善悪二元論で切り分けるなど愚かしいとしか思えんが、しかし実際のところ、そうやって個の中の性質を切り分けるからこそ善悪という区別ができるのであろう?」
「いや聞かれてもわからない……そんなこと、考えたこともない、けど」
実子は考える。
自分の中の善悪。そんなもの、考えたこともないが。
――水早君には散々、邪悪だのなんだのと言われたしなぁ。
自律性のない生き様、他人に寄りかかる生き方。
それが悪などと、言われてしまった。
自覚はないが、それがそういうものなのだとすれば……
「……私の中に、善い心と悪い心が両方あるってこと?」
「それが社会的善性なのか、生物的悪性なのか、までは知らんがな」
さて、と帽子屋は話を引き戻す。
「話が逸れたが、事を為したいのならば、なにを旗印にするかというのは重要だ。それにより、周囲の認知も変わるというもの」
「印象操作みたいな話だね」
「悪意的な捉え方だな、構わんが、オレ様は女王が心底鬱陶しいと思っていた。貴様ら人間も邪魔だと感じていた。劣勢な我らが種を呪ってもいた」
だがな、と帽子屋は言う。
強か意志を感じた。
どれだけ弱音を吐こうとも、境遇を厭おうとも。
そこに、確かな“力”があった。
「オレ様が掲げていた旗は、いつだって『種の繁栄』だ。一国の王として、民の幸福のみを目指していた。それは、事実だ」
過去の話だがな、と帽子屋は肩を竦めた。
「この旗印をどのように解釈するかは自由だ。だが、女王への殺意や憎悪を秘めても、それを掲げなかった意味もあるだろう。公爵夫人にはぬるいと叱咤されていたが」
それが、帽子屋が願っていた、起源。
日陰身の存在だった。だからこそ、光を見ていた。
生きながらにして絶望の淵。しかし彼らはいつだって、太陽が昇る空を、見上げていたのだろう。
「……帽子屋さんってさ」
ふいに、口を突くように、実子は言葉を漏らす。
「そんな前向きな人だった?」
「……はて、どうだったかな」
「なんか小鈴ちゃんみたいなんだけど」
「黙れ。あの女と同じにするな。殺すぞ」
「うわ地雷だった!? っていうか、やっぱ前とちょっと雰囲気変わったよね帽子屋さん!」
いきなり銃口を突きつける帽子屋に、実子は慌てて諸手を上げる。
情緒が激しい。飄々とした空気だけではない、苛烈さ――言い換えれば、人間らしい激情が、目に見えて浮き上がっているような。
「やっぱ、なんだかんだで帽子屋さんって人のこと考えてるよね。王とか民とか小難しいこと言ってるけど、仲間思いだし」
「……そうか?」
「これは自覚ないのか照れてるだけなのか」
「む……」
「なによりもさ」
突きつけられた銃を払い除ける。大人しく銃は退く。
「自分のためじゃなくて、仲間のために未来を作ろうとしてるんだもん。私には、そんなこと絶対できない」
――本当、小鈴ちゃんみたいだ。
そう言ったら今度は本当に撃たれそうだから、言わないけど。
「帽子屋さんは、やり方が変に見えるけど、あなたの意志は間違ってないと思うよ」
自分を利用して小鈴に近づいたこと、刺客を送り込んできたこと、罠に嵌めたこと、仲間を殺しに行ったこと。
あらゆる行いが、失敗したり、裏目になったりしたのかもしれないが。
最初にあった根本原理、原初の理想は、なにも間違っちゃいない。
少なくとも実子は、そう想う。
「あなたが目指した根源そのものは、きっと正しい。ただ、どこかで歪んじゃっただけなんだよ」
「貴様もマジカル・ベルのようなことを……」
「あ、やっば。これも地雷だった?」
「構わん。貴様は許す」
拳銃を懐に仕舞い込む。
そして、長話を無言で切り上げ、風呂場へと向かう。
本当にお風呂掃除するんだ……という実子の呆れた声を背に、独りごちる。
「……根源、か」
自分が産まれた時。1億5000千万の過去。
そんな昔のことは、ほとんど忘れてしまった。
かつての精神性も、心も、既になくしている。
「だが、まあ……」
少しくらい、振り返ってみるのも悪くない。
それが不思議の国の礎になるのなら――
シーンがブツ切りでちまちま入れやすいのが、細かく区切る更新のいいところですが、シーンがブツ切り過ぎて読者がついていきづらいのではないかという懸念が浮上。一話を長くするより区切った方が読みやすいかと思ったのに、あちらを立てればこちらが立たず。難しいもんです。
とか言いつつ、次回は霜とヤマネのシーンに戻すと思います。