霜はその晩、朧たちのマンションに宿泊することにした。
公爵夫人は、最初から不思議の国から離反するつもりだったのか、それとも今回のような敵襲に備えていたのか、このマンションには食糧等の備蓄がある。今、下手に外に出るといつ襲われるかもわからない以上、ひとまずこの場所に潜むのが得策と思われた。
(もっとも、地上50階なんて高層マンションなんて、この場所を突き止められたら、かえって逃げ場がなくなりそうでもあるが……)
しかし家に帰って、なにも知らない家族を巻き込みけたくもない。
一応、メールで兄に「今日は帰らない」と伝えた。不登校再発に、ヤマネを家に招き入れたり、急な外泊。既に家族の不信感は募っているだろうが……
罪悪感が積み重なっていく。近しい人に真実を告白できず、本来あるべき日常が削られ、少しずつ精神を蝕んでいく。
これではまるで、
「昔に戻ったみたいだな……」
小鈴と出会う前の、自分。
大切な人を失って、その人への微かな思いに縋って、振り回されて、空回っていた頃の自分。
今と、まるで同じだ。
「みたい、じゃなくて。戻ってしまったのか。退行してしまったんだな、ボクは」
それが自覚できただけ、まだマシか。
前に進むために、よりよくなるために動いていたはずが。実際はその逆を進んでいただなんて、滑稽でしかない。皮肉極まる裏目だ。
その事実に、ただただ、霜は自嘲するしかなかった。
「起きてたんだ、水早君」
「朧……さん」
「別に無理して敬語使わなくていいよ。今は一蓮托生だけど、元々オレらは仲間ってほどでもないんだからさ。というか、こっちとしては半ば君らを巻き込んでるような形だから、むしろ申し訳ないくらいだ」
「まあ……そこは気にしてないですよ。ボクにも、ボクの責任がある」
「そうかい。寝ないの?」
「ちょっと考え事してて」
「この場所だっていつまで凌げるかわからない。休める時に休んだ方がいいよ」
「それはわかってるんですけどね」
それでも、考えてしまうのだ。
自分のこと。自分がすべきこと。今までのこと、これからのことを。
「対外的な干渉より、まず自分の内面を、か。それはそれで大事なことなんだろうね」
月に向かってそう零すと、朧はおもむろに霜のソファの隣に腰掛ける。
「隣、座るよ」
「……どうぞ」
月明かり差し込むソファに、2人の少年が座する。
しばし黙した後、朧が口を開いた。
「しかし、ほんっとうちの妹分や母親が迷惑掛けるね。ウミガメちゃんはともかくとしても、女王様は正真正銘、文字通りのモンペだから」
「スケールが大きすぎて、もはやそれは迷惑なんてレベルではないのでは?」
「それもそうだ。けれどスケールの小さなところにまで、歪みを与えているのも事実だろうさ」
「? どういうことですか?」
「君、友達と喧嘩してるだろう?」
急に、切り込んできた。
のらりくらりとしている朧らしくもない物言い、霜は言葉に詰まる。
「……だったら、なんだっていうんだ?」
「地雷かなとは思ったけど、怒らないでくれよ」
「あなたには関係ないことだ」
「いやあるでしょ。直接ではないとはいえ、それってオレらがちょっかいかけたことがきっかけだろう?」
「…………」
「まあ関係ないと思うなら関係ないでいいと思うけど、関係ないからこそ吐き出せることもあるんじゃない? 君なら特にね」
「……なんだか、らしくないですね。そんなお悩み相談とかするタチだったんですか?」
「今夜はそういう気分なのさ」
薄雲のかかる半月を見上げる朧。
霜は訝しげにそんな彼を見つめる。
「……そんな目で見ないでくれ。仕方ない、素直に言おう。ひとつは責任を感じてるから。少しは申し訳ないと思っているんだよ、オレも」
「本当に?」
「嘘ではないさ。言うほど本音でもないがね。どちらかというと、恩を売りたいという打算の方が強い」
「むしろそういう理由の方が安心するな」
「悲しいな。何度も言うようにオレたちは一蓮托生、運命共同体だ。共通の脅威が存在するのだから、今は共に手を取り合って協力するのが吉。なら、君の不安や問題を少しでも取り除く方が、連携もスムーズになると思わないかい?」
「筋は通ってますね」
「これはまごうことなく本心だよ。今は君たちの力も借りないとやっていけない。一時の間とはいえども、仲間の力になろうとするのは、おかしいことじゃないだろう? だから怪しむのはやめておくれよ」
などと、朧は必死に弁解するものの。
霜は以前、正に霜が抱えている問題が発生した時、この朧に騙されていたわけなのだが。
(まあ……今とあの時とじゃ、状況がまったく違う。この人も、本当に必死なんだろうな)
生きることに。仲間を守ることに。そして、取り戻すことに。
ただの子供でしかない霜に縋りたくなるほどに、追い込まれているのだろう。
とはいえ霜も、あの時のことを、それによって生まれた自分の今の感情を、そのまま言葉にするのは難しい。
また、しばらく静寂が続いた。薄雲が月から離れるまで、2人は黙していた。
今度は、霜から口を開く。
「……絶交、って言われたっけな」
「それは伊勢さんと? いや、香取さんかな」
「実子とは最初から友達のつもりはない」
「ふぅん。まあ、でも、伊勢さんは大丈夫でしょ。彼女の性格からして、君にその気があれば、すぐ仲直りできるさ」
「その気、か。果たしてボクにその資格があるか、だと思いますけど」
「資格か。ま、いいけどね。それこそ君にその気があるか、だ。それよりも……香取さんとの喧嘩の方が深刻かもね」
「……どういうことです?」
「いやぁ、香取さんの名前を出すたびに君、随分とイライラしてるように見えるからさ。そんなに彼女のことが嫌いかい?」
「嫌いですよ。速やかに死ねばいいと思う」
「うわぁ辛辣」
あまりにも直球すぎる言葉だった。以前の霜ならもっと言葉を濁していただろうに、そのオブラートさえ剥がれている。
それほどに、霜の中で変化があった。それは確かだ。
霜はストレートな罵詈雑言を吐いた後、務めて冷静に戻る。
「ただ……あいつの言い分もわからないわけじゃない。結局のところ、誰しも自分の利を求めて社会は回っていて、そのために誰かを利用したりするのは自然なこと。それは合理的で、当たり前のことなんだ、って」
「ちょっと邪悪な感じはあるけど、それもまた人の世の真理だね」
「それは分かっている。わかってるんだが……」
「肝心要の伊勢さんは、善性の塊みたいな子だからねぇ。それを利用するというのは、友であることの欺瞞のようで、つまり――」
――裏切り。
その一言に他ならない。
「君は彼女に裏切られて怒っているのかい?」
「まさか。あいつの邪悪さにはずっと気付いていましたよ」
「でもなんやかんや一緒にいたよね? なんで?」
「なんでって……そりゃあ、小鈴の手前、大っぴらに喧嘩なんてできないでしょう」
「いや、君ら結構、公衆の面前とか関係なくギスギスしてた気がするけど……まあいいや。伊勢さんが君らのストッパーになってたんだろうねぇ」
「……なんです? その顔。ちょっと不愉快なんですが」
「別に? ただ、君は君らしくあればいいだけだと思ってね」
「ボク……らしく?」
懐かしいような、くすぐったいような響き。
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「知性と理性。合理と功利。効率と能率。君の目的を果たすための最良と最善の探求。君は、理知的であればいい。そうすれば、きっと上手く行くよ」
「……意味がよくわからないのですけれど。具体性に欠けるのでは?」
「闇は悪ではないし、光も善ではない。潔白だからって良き未来に繋がるわけではない。邪悪だからって破滅的とは限らない。正義感や責任感や善意、利己的も功利主義も性悪説も、絶対的なものではないのさ」
「それは哲学かなにかで?」
「お節介な先輩のアドバイスと思ってくれ。これでも多くの弟妹の面倒を見てるんだ、後輩に言葉の一つや二つを残すくらいするさ」
こう見えて新聞部では頼れる記者なんだよ? と朧は微笑む。
なんとなく、そこに、兄の姿がダブった。
「君は自分の道に悩んでいるようだが、オレたちも君らも、きっとすべきことは変わらないよ」
今、自分達がすべきこと。
大いなる脅威に立ち向かうための、必要条件。
それは、
「離れ離れになった仲間を取り戻そう。話はそれからだ」
縁を断った友人も、統治を喪った民も。
また、同じところへ。
よりを戻し、元々の居場所へと集合する。
バラバラなまま、女王に敵うはずもない。惰弱であるが故に、知恵と勇気と仲間の力で乗り切るしか、生路はないのだから。
「そのためにも、君の場合、ちゃんと話をしてきなさい、ってところかな。言葉は君たちの武器だからね」
「ご忠告どうも。兄貴よりも役に立つご助言でしたよ」
「あまり自分のお兄さんを貶めるもんじゃないよ」
「……感謝はしてますよ。あなたにも、兄貴にも」
胡散臭い、詐欺師のような人だと思っていたが。
いざ味方になると、思いのほか、頼もしい。
力は弱いが、いやさ、弱いからこそ。
弱者の戦い方を、生き延び方を、彼は知っている。
朧の助言を反芻する。自分の為したいこと、為すべきこととはなにか、考える。
(ボクの目的……したいこと、すべきこと、か)
それは当然、彼女を、小鈴を守ることだが。
自分の力では、非力で、そして彼女の意にそぐわない。
彼女の求める理想を壊さず、その箱庭のような美しさを守るには、どうすればいいのか。
霜の求める欠けのない完璧な回答は、いずこに。
あと一歩のところまで、来ている気がする。
けれどそれを見つけ出すのは、もう少しだけ――
彼らの方針は定まった。