その暗闇に溶け込んで   作:地衣 卑人

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その暗闇に溶け込んで

 夜明けの風が頬を撫ぜる。

 乳白色の霧。未だ沈まぬ月の灯りを、水面(みなも)の裏から見上げたように滲ませ。そんな、水の底を見上げるような、足元に揺れる丸い光を掻き乱すような心境を以って、滑るように。静かに。薄暗い、道無き道を、男は……私は、一人で進み行く。

 否。一人では、ない。もう、ずっと。ずっと前から、彼女が……そう、彼女が。この森に足を踏み入れたときから、ずっと。私を見つめていることに気付いている。気付いていても、尚。言葉の一つとて零すこともなければ、彼女の姿を求め、視線を遊ばせることもない。只、只。ぼんやりとした世界を、一人。他に人間のいない、一人きりになれる場所へと、向かい、向かい。

 木々のざわめき。森の奥へ。光を失いつつある月。鳥の声はまだ聞こえない。心なしか、先より明るくなった空を仰げば、其処には。霧の中に浅く、しかし、確かに響く自身の足音。彼女の姿を欲して、歩みに力が入っていた、と。恋心ゆえ、愛ゆえなどという、脳裏に浮かんだ、限りなく自分勝手な免罪符を同じ、霧の空へ、霧の海へと放り捨て、先より慎重に。盗人のように人目、人の耳から隠れ進む。

 見つかれば、終わり。この密会は。この生は。彼女の生は。彼女との甘い、何処までも何処までも何処までも甘いこの幸せに溢れ、満ち満ちた生は。終わってしまうのだ、と。自身を咎め。しかし、それでも。歩く速度を落とすような時間も、彼女との抱擁を引き伸ばせるだけの自制心も持ち合わせてはいない。多少、不恰好になりながらも、少しでも足音を小さく出来るよう、足早に。その姿は、やはり。盗人か、盗掘者のそれで。

 しかし、それで。それで構わない。彼女と会うためならば、それで。どれだけ不恰好であろうと、彼女に会えるなら、全て、全てを忘れられる、と。

 辿りついたのは、人気(ひとけ)の無い洞窟。誰もいない、誰一人として人間などいない……人間だけではない。蜥蜴、鼠、蝙蝠、虫。冷たい岩肌には。苔生した風穴には。生物など、一つとして。たった今踏み込んだ、私の他には、無く。

 そんな。一人きりの洞窟の、奥へ、奥へ。深みへ、暗がりへ。外からじわりと滲む光も、届かなくなるほどに深い、深い場所を目指して――

 

 ――不意に。幽かに照らした、明かりが揺れる。

 近付く気配。岩壁を這う影。ずっと、ずっと。森の中で、私のことを見つめ続けていた彼女。人の目につく心配の無い、誰にも邪魔されることの無い、彼女の巣穴。訪れた私を逃しはしないとでも言うように……きっと、そういうつもりなのだろう。

 私も。何処に逃げるつもりも。そう簡単に、彼女から離れるつもりも無い。

 人々の目覚め始める、夜明け。歩き疲れた、私は。彼女の腕の中で。冷たい温もりの中で、暫しの眠りを。幸せの時を過ごすのだ。

 彼女の顔が、近付く。人の顔に似た。整った、それは、それは美しい……しかし、人のそれとはかけ離れた……凶悪な口元。大きく突き出した、昆虫のような硬く、鋭い、(あぎと)

 女の体。長く伸ばした五対の手足。長い胴に、引き摺る尾……それは、そう。蜘蛛や、百足、蛇の体躯にも何処か似た……しかし、彼等のそれより美しい。人とも。虫とも。無生物のそれとも判断出来ない、不可思議な質感。

 愛しい姿。人のような、言葉を発することの出来る声帯こそ持たぬものの。彼女の思考は、感情は。人と同等……時には。彼女のほうが、優れているのでは、と。思うほどに。

 私の首に、胴に、腰に。彼女の腕が回り、私は、その抱擁に身を、(ゆだ)ね。

 暗闇の中で、影が重なる。誰の邪魔もない。二人だけの世界で。私は。彼女は。

 長く、長く。唯々、この、ささやかな幸せに身を沈め続けた。

 

 

 彼女と出会ったのは、私がまだ幼かった頃、だったか。

 私よりもずっと、ずっと永くを生きる彼女だ。その時には既に、数十……もしかすると、数百の年月を生きていたのかも知れない。彼女に語る口など無く、唯。彼女の巨体が、生きた年月を感じさせるのみで。その、紅い紅い瞳には、永きを生きる者の知性を。人より高位の存在であるという、気高さすらも感じさせるほどの光を抱いていて。

 死を、覚悟する。なんて、幼い私には、まだ。出来るはずも無く。瞳に映る魔性の姿に、怯え。恐れ。その、怪しく輝く瞳から、目を逸らすことなど出来ずに。

 迷い込んだ森の奥底。呼べど、叫べど。助けは来ない。自身を守る術さえなければ、逃げる道すら分からない。恐怖と、恐怖と。そして。

 見つめた瞳。絡まる視線。幼心に感じた、恐怖の中に感じた、彼女の抱く美しさ。

 魔物を見るのは初めてだった。こんなにも恐ろしい。こんなにも美しいものが存在するのか、と。震える手足と、力の抜けた体。しかし、それでも、彼女の瞳。その瞳から、目を離しはせずに。

 一分、二分と。五分、十分と。見詰め合ったまま、時は過ぎ。

 何も。何も、起こらぬままに。彼女が、顔を背け。背を向けて。こんな子供など、食ったところで腹には溜らぬとでも思ったのか、それとも。小さな小さな、弱い弱い命に哀れみでも感じたのか。私は、きっと。後者だと。優しい彼女のことだ、きっと、私に生きるチャンスをくれたに違いないと、思い。

 思ったというのに、私は。彼女を探し、探し。遂には、昼間。彼女の眠る巣穴……この、洞窟を突き止めて。

 

 初めはどんなに恐れようとも。初めはどんなに遠ざけようとも。何度も、何度も、同じ事を繰り返したならば。次第に、互いに慣れてゆき。

 

 

 その内。彼女に連れられ、森の奥へ。木から木へ。谷を越え、崖を降り。河を下り、底へ潜り。彼女は、私の知らない世界を見せて回り。私は、唯々、そんな景色を見て心を振るわせるばかりで。

 遊びに遊び。疲れて眠り。彼女の巣穴で、二人。寄り添って眠るようになって。

 

 親や、友人達には。ずっと、ずっと隠したまま。村の人々に見つからぬように、見つからぬようにと。この、密会を続けてきた。

 

 

 

 

 絡み付く彼女の手足、体を振り解くことなど無く。摺り寄せた頬に顔を寄せ、硬く尖った顎を見詰め。ゆらり、ぬらりと動くその、彼女の備えた一対の鎌を。ぼんやりと、惚けたようにじっと、視界の中心に置き。

 

 喉を震わせ、鳴らす音。冷たい足が岩肌に触れる音。微かに、しかし、強く、深く。抱かれた体、重なる肌を通して、胸の奥底まで届く、感じる、彼女の温もり。

 

 心音。

 

 人でも、獣でもない。生物の理からも外れた、彼女。それでも、私へと。熱く、優しく伝わる、心臓の音。彼女の血が何色かなんて知らないが、それでも、確かに、温かな血潮は彼女の中を駆け巡っているのだ、と。その、鼓動と。この鼓動を重ね。体を委ね。彼女の身体を強く抱き締め。

 彼女が、力を入れれば。この身は容易く肉塊に。私がどれだけ力を入れようが、彼女にとっては殆ど。その変化を読み取ることも出来はしないのだろう。

 強く、強く。抱き締めなければ、伝わらない。強く強く。愛しすぎれば、この身は砕け。互いに。本来ならば、決して交わることなど無かったのだ、と。触れ合うことなど許されてはいないのだ、と。そんな思考を拭い取るように、また。この、脆くか細く貧弱な、二本しかない腕に力を込めて。そんな、私の。心の内を察してか、彼女は。優しく。複数の腕で、私を撫ぜる。

 その手が。その、恐る恐るといった、手つきが。何処か、悲しく、寂しくて。

 

 唇の一つ。触れ合わせたことさえなく。彼女は、口付けなどという風習など持たず。彼女にとって、口は。その、人間のものとはあまりにも異なった形状のそれは、捕食の為にのみ存在していて。標的を捉える大顎、牙。彼女の食事は体外消化。消化液を牙の先から注入し、溶けた獲物を、内部から吸い上げる。

 

 何処までも。人間と異なる。それは、食事だけではなく、寿命も、また。

 

 いつか、私は。彼女を置いて、と。共に過ごせる間でさえ、こんなにも。すれ違いながら、なんて。

 

 そんな思いを忘れようと、また。ただ。この手に、さらに。私は。力を込めるしか、無く。込めながら、一つ。叶いもしないと知りながらも、願うのは。

 

 いつまでも、いつまでも。この日々が続くことで。

 

 

 

 

 

 

 そうやって、時を重ね。

 

 私は、また。森の道を進む、進む。

 いつものように。しかし。普段とは全くに異なる。普段よりも数刻は早い、深夜。

 行く先。立ち上る煙。あれは、狩人の使う燻り出しの煙。巣穴に潜んだ獣や……魔物を追い立てる煙。松明の火か、遠く、明るく、禍々しく。殺気立った気配。爆竹の音。

 それ等の中心は。彼女の巣穴に他ならず。

 

 密かに。静かに。胸騒ぎを覚え駆けつけてみれば、上がる上がる、煙。何故、人に気付かれたのか。そして、何故、私が。もっと早くに気付けなかったのか、と。自身を恨みつつも、走る、走る。

 

 そして。

 

 目に映るのは。銃を構えた狩人の群れ。燃え滾る炎。そして。

 煙る洞窟の、奥底。徐々に這い出る、覗く。紅い瞳。狙いを定める、銃口で。

 

 出てはいけない。だが、洞窟の中に留まることなど、出来はしない。しかし、しかし。

 

 引き金に掛けられた、指は。既に、動き始めていて。もう。どうすることも出来はしない。どうにもなりはしない、と。

 

 知りながらも。私は。狩人の列に、その、背後から飛び込んで。洞窟から這い出る、彼女の、彼女の元へ。飛び出す、私を。

 

 

 撃ち抜く。彼女を狙った銃弾は、彼等の前へと飛び出した、私の、腹を。

 

 

 

 世界が止まる。彼等には、私の行動が。否、何故私が此処にいるかさえ、理解できないだろう。狩の対象たる、魔物に向けられた銃口。その前に、まるで、標的を庇うように。事実、庇って。飛び出した私の行動など、理解出来はしないだろう、と。

 

 体を駆け巡る激痛。銃弾に仕込まれたのは、弾を受けても簡単には死なぬ、魔物を殺すための毒。一発当たれば、必ず。受けた者の息を止める……鉛のそれより余程強力な。強い強い魔物を殺す毒に、人間が耐えられるはずなどない。私の運命(さだめ)は、今、決まった。

 

 

 彼女が、私に近付く。狩人は、動かない。燃え上がる炎の鳴らす音だけが、鼓膜を揺らす。そんな、止まった世界の中で。唯一、歩みを止めない彼女は。この、隙を衝いて逃げれば良いのに。私の、大地に伏した体をそっと。そっと、抱き上げて。

 

 顔が近付く。炎に照らされ浮かび上がる……その顔は。何時見ても、整った顔立ちだ、と。私には、勿体無いほどに。綺麗な。綺麗な、顔で。

 彼女の首に、腕を回す。顔と、顔を近付ける。

 

 今まで、叶うことの無かった。もし、私が望めば、きっと。彼女はそれを、そのように受け取ってしまうだろうから、と。言葉を持たぬ彼女に説明することなども出来ず。故に。

 もし、私が死ぬときは。捧げたいと。こんな形で、こんなときに。本来ならば、永い、永い時を過ごす彼女と。今までと形は違えど、共に生きる為に――

 

 彼女の顎。その中心に、私の口を近付ける。彼女の瞳に浮かぶ疑問も、躊躇いも、すぐに消え。私の。毒が回り、力を失いつつある私の、行為を、受け入れ。

 

 

 

 口付けを。今まで叶わなかった、口付けを。彼女との口付けを、交わして。

 

 

 

 

 時が動き始める。狩人達は銃を構えなおし、再び彼女と、そして、その腕に抱かれた私に、銃口を向けて狙いを定める。もう、終わるのだ。この、短な生も。永い永い、彼女の生も。逃げればよいものを、など。今更。

 もう、関係ない。迫る銃弾も。殺意も。全て、全て。私達の、外の話。

 

 

 彼女の牙が首を貫き。走る痛みも、受けた銃弾と比べれば。そして、その痛みもすぐに引き。麻痺する感覚、痛覚。本来ならば獲物の抵抗を防ぐために用いられる、彼女の毒か。注ぎ込まれる消化液が体を満たしゆく感覚と、燃え上がるように熱を放つ体。痛みも、苦しみも無く。唯々、熱く、熱く。彼女に溶かされる感覚、そして、何より。繋がる口と、口。その感覚に、身を溶かして。

 

 響き渡る無数の発砲音。揺れる身体。打ち抜かれる腕。噴出す赤。それは、彼女もまた。視界の端を染める色は、私も、彼女も変わらずに。これだけの銃弾を受けても、まだ。私達の口付けは終わらない。終われない。終わらせたくなんて、無い。

 啜られる感覚。私が彼女を満たしてゆく。最後の食事。味は、どうだろうか。彼女の瞳も。私と絡み合わせた視線の先で、溶けるように。蕩けるように。溢れ、零れ、流れ出す涙を、そっと、私の指先で拭う。

 続く、続く、口と、口との繋がり。終わらない行為。発砲音は、体を揺らす鉄片の雨は、黒い雨は。私と、彼女の体を貫き、抉り、この身に、毒を――

 

 

 

 そんな、発砲音さえ。いつしか止まり。魔物を殺す、狩人ですら、ついには、動きを止め。想い人同士の接吻。それを邪魔するほどに、邪魔し続けれるほどに。彼等も、野暮ではないらしい。

 

 

 

 どれだけの間、繋がっていたのか。永く、永く感じられた。このまま、時が止まり。この行為を続けられたならば、とさえ。

 思うほどに、幸せな。心を満たした、一時。甘い甘い、只管に甘い時間。

 温かな彼女の身体。彼女の口。啜られる力も、貪り、求める力も、次第に弱まり。意識までが溶けゆくように。

 

 溶かされて、溶かして。貪られて。貪って。彼女は。私は。

 

 私たちは。抱き合い、繋がり合い。この恋を。思いを、確かめ合い、一つに、一つに混ざり合いながら。

 溶け合う。溶け合う。意識まで。想いまで。

 

 

 崩れ落ちる、身体。夜の闇に沈む、繋がりあった一つの身体。そうして、私たちは。二人で、そっと。

 

 

 この、夜の闇に。全てを、溶かした。

 

 

 

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