狭い回廊、閉じた世界。何処までも、何処までも。繰り返し同じ景色を映し続ける迷宮は私の体。絶えず組み変わり、絶えず形を変え。彼の通った道を塞いでは、道を開き、二手に別れ。辻を設けて。鏡張りの迷宮。右も左も、上も下も無い。逃げ道など一つとしてない。どれだけ迷えど、どれだけ惑えど。外に続く道など一つとしてないというのに……また。元居た私の、核へと戻ってくるというのに。彼は、決して諦めず。疲労さえない。空腹さえない。時間の流れからさえ弾き出されたこの世界、この私の中を彷徨い続けて。
彼が迷い込んで、どれだけの時間が流れたか。外の世界の時間など、この世界には関係ない。私の刻んだ、私の中で流れる時間。それは、ただ。回り、回り、刻み、刻んだだけに過ぎない。なんら意味が無い、体感だけの時。外の世界の時間はきっと、一秒足りとて流れていない。触れることすら叶わぬ私は……続く扉を開くことは出来ようとも。踏み出すことなど叶わぬ私には、確認することさえ出来はしないけれど。しかし、彼の顔に浮かんだ疲労は、成る程。外の世界の生き物、人間にとっては決して、短いものではないのだと理解できて。
言葉も通じぬ。否。言葉も持たない私には、彼がどれだけ私の中を彷徨い歩けども、語りかけることすら叶わず。哀れな男だ、元居た世界から足を滑らせ。私の中へと転がり落ちた。何処で間違えたか、何処で触れたか、この世界。私で埋まり、私で形を成した。私という世界の中に迷い込んだ……腰に吊るした剣。その身を包む鎧。こんな場所に転がり落ちてまで、何を相手取るつもりか。人は疎か、魔物の一つ。獣、虫さえ居ないと言うのに。心の支えか、自分を見失わぬ為か。時折、私に映った自身の姿を見詰めては、一つ、息を吐き。再び、その目に光を宿して。歩みを止めず。心を壊さず。蠢き続ける迷宮を見据え、歩き、歩き。そんな姿が、力強い歩みが。強い、強い、輝きが、また。私の心射止めているとも彼は、知らず。私は、彼の進み行く先、退路を断ち。私の元へ、もっと近くに、もっと深くに、彼を誘い。彼を呼び。再び私の核、私の心臓へと辿りついた彼の姿を。その、絶望に暮れても尚、希望を抱き続けるその姿に、心を溶かして。
彼の心が鏡に映る。外界の記憶、外の景色。彼の半生、父母の顔、友の顔。そして。
愛した人の顔。誰よりも大切な。何よりも大切な。愛する人の顔。そんな顔に、嫉妬にも似た。いや、嫉妬なのだろう。人の形すらしていない、ただの迷宮。自身に対しての嘲笑と、動き続けては彼を放さぬ迷宮。自身の行いの愚かさに気付いていながらもやめることの出来ない自分への嘲りは。しかし、やはり。退路を断ち。外への扉を隠した迷宮の何処か。何処かに……私にすら知れぬ。何処かに、隠して。見ぬ振りをして。
そうして彼が辿りつくのは、回り回る歯車の群。開けた小部屋。私の心臓。迷宮の全てはこの、歯車に従い、蠢き、形を変え。彼を捕らえて放さない。何処までも悪趣味であると理解しながらも、やめることなどなく。私の中から、また、外の世界へと。届かぬ場所へといってしまうのが、惜しくて。
初めて。私の存在に気付き。初めて。私の中に踏み入れた。何処の誰が作ったかも知れぬ鏡の迷宮、歯車の世界。機械仕掛けというには不可思議で、魔法の類というには少々無骨過ぎた。命に溢れた外の世界とは正反対の静寂の箱。意識を持った一つの世界。私だけの世界。外から見た私の姿など、知る由も無い。気付いた者が誰一人としていなかったのだ、もしかすると、外から見た私など存在もせず。彼も、また。本当は、気付いてなど……唯。不可視の扉を知らず、知らずの内に潜り抜けてしまっただけなのかも知れない、と。
しかし、彼は。あの時、確かに。
私を。この、私を。見詰め、見詰めて。澄んだ瞳に、私を捕らえて。囚われているのは、彼だけではない。私もまた、彼に。その、瞳の中に囚われているのだ、と。私が生れ落ちて始めて。誰かの意識の中に。
膝を付く音が私の中で木霊する。回る歯車、噛み合い、回り、回しあう。何処が源かも知りえぬ歯車を前に、彼は。遂に、崩れ落ちて。その頬に伝う雫の流れ。噛み締めた唇、一筋の赤。瞳の中の光は、何処か。消えて、消えて。壊れるのも、そう、遠くない未来。しかし、それは。そんな未来など。
私は、望んでなどおらず。いつか、こうなることは分かっていたとはいえ。彼の体を放せぬまま。遂に、遂に、此処まで。
潮時か、と。幼子のように。自身の望みを、小さな小さな彼にぶつけ。壊してしまいたくは、無い。
歯車を回す。迷宮を開く。音を立てて形作るは一つの道。隠し続けた外界への道。彼の元居た外の世界へ、彼を導く。この道を辿れば、彼は、彼は。また、私の届かぬ場所へ。
彼の視線が、道へと向かう。膝を折ったまま。その瞳に、微かに灯した希望の光。しかし。
しかし、その光も。また、音も無く消えて。
彼の心に浮かぶ疑いの火。憎悪の闇。濁る瞳、震える体、指先。その手が向かうは、腰に下げた。一振りの刃、鏡に映る彼を映した。白く輝く、その、刃で。
憎しみの向かう先は。私であった。怒りの矛先は。剣の切っ先は。私の核、私の心臓を。回る回る歯車の群を、確かに捕らえて。
制止することなど、出来るはずも無く。言葉を持たない私だ。腕の一つも持たぬ私だ。ちっぽけなその刃で。殺すことが出来るのかも分からない。唯、彼の心に浮かぶ光景は。歯車と、歯車。その、間に突き立つ一振りの刃。成る程、傷の一つで壊せぬ迷宮。ならば、その。動力と見える歯車を止めてしまおうと。それが、どんな結末を招くかも知れぬままに。彼の足は。力無く、ふらりと立ち上がる彼の足は。私へ。その、心臓へと向けて踏み出して。
私が止まれば。どうなるのかなど、知るはずも無い。私が世界だ。私が時だ。回る回る歯車が、私の心臓が刻む時が止まるならば、やはり。世界は閉じるのか。時間は止まるのか。知らぬ、知れぬ、分からない。しかし、しかし。
私の中から、彼は。止まった私から、抜け出すことは――
歯車を回す。道を開く。狂ったように。壊れたように。外へと続く扉を開き、開き、彼の気を引こうとしたところで、歩みを止めることは無く。引き摺る剣の切っ先が私の床を傷つける痛み、立てる立てる甲高い音が、響き、響き、私を責め立て。彼の怨嗟が、彼の憎悪が、嫌悪が怒りが、絶望が。私の小さな願いが。引き起こした事態が。声の無い声を以て、私に爪を。牙を突きたて。同じ、声を持たない私の声は。彼に届きもしないというのに。
軋むほどに激しく。とち狂ったかのように回転する無数の歯車を見て、私の焦りを感じ取ったか、彼は、笑い。その心を映した鏡には、私に対する。確かな殺意。殺意、殺意の視線。
彼が。心臓に近付く。刃が。高く、高く振り上げられる。止めることは叶わない。噛み合い回り合う歯車と歯車の隙間、その一点へ。振り下ろされた、突き立てられた刃と。
止まる歯車。止まる意識。意識。消える、自我。消える寸前、全ての歯車が止まる、直前。その、最後に見たのは、そう。
閉じる、外への道と、光。同じ。光を、心を亡くして。止まる、歯車を映した。彼の、瞳で。