重い、重い。体、頭、疲労感。全て、全て。この場で投げ出してしまえるならば。この、アスファルトの上。薄く伸ばされた雲の下、月の下。自棄に重く感じる荷物も。ふらつく脚も、この腕も。全て。
放り。放り。月を。微かに輝く星空を。夜の空気を。冷たい風を。遠くに響く、車の音を。見上げ、感じ、聞きながら。眠りについてしまおうか、と。
実際に。そうして、眠りについたならば。意識を投げ出したのならば。目覚めたときに見るのは、私の身を案じた通行人か、警官か。それとも、朝日。遠巻きに嗤う、誰かの笑みか。投げ出したところで、投げ出せなどせず。明日にはまた、同じ一日。同じ日々。それに。自身の家を前にして、態々路上で眠る等言うこともなく。
全て、戯言。本の少し疲れた、私の頭に思い浮かんだ、感情任せなその場限りの言葉。深い意味も、次へと繋がる意図も無く。実際に選ぶことも無い。空想上の分岐、起こりえない。頭の中でのみ存在する、おぼろげな道、落書きの未来。実現することなんて、させることなんて、ある訳も無く。
私は。一室。取り出した鍵と、無事、開く錠。開けるつもりで回して閉じた、等と言うことも無ければ、開いた先が荒れ放題。見知らぬ男が刃物を片手に――そんな、有り得て欲しくない。当たってほしくない予想は、無事、外れ。
いつも通りの、暗い部屋。明かりの一つ灯ってはいない。温もりの一つさえも無い。暗く、冷たい、私の部屋があるばかり。鍵を閉め。鞄を放り、座り込み。靴を脱ぎ、息を吐いて。また、鍵がきちんと掛かっているかと、見上げ、見上げて。無事、帰り着いた安堵と脱力。終わる一日。頼りなく点滅する蛍光灯の明かり。
倒れ込んだ寝台。着替えすら済まさず。未だ、シャワーさえ浴びず。けれども、もう。このまま眠ってしまおうか、なんて。今なら眠れる。此処は、冷たい路上ではない。今なら、全てを投げ出して……否
何も、投げ出してなどいない。何一つとして、投げ出す勇気なんてない。帰り着いた。変わりない部屋に安堵した。鍵だって掛けた。自分の身を。自分の行く末を。出来得る限りで全て守って、閉じ籠って。只々、屋根の下、ベッドの上。温もりに身を預け。意識を放るだけのことを、全てを投げ出す、等と言い換えただけ。投げ出した開放感を味わいたいだけなのだと。
理解しつつも。倒れこんだ寝台の上。点けっ放しの明かり。見渡した部屋。起き上がる気すら、湧かず。全てを投げ出して、等と思い浮かべたことさえ忘れ、枕元。目覚まし時計に手を伸ばせば。
乾いた感触。求めたプラスチックのそれとは違う。紙の質感、束になった。それは。
それは。掴み、寄せ、見れば。一冊の本。並ぶ文字。記憶を辿れば、数日前。古本屋で買い、そのまま。開きもせずに其処に置いた。表紙を見詰めて、数秒。今まで忘れていたというのに、妙に。その本に惹かれ、惹かれて。先の思いも、疲れも忘れ。起き上がり、伸びをし。私は。
一冊の本を、置き去りに。静かに。浴室へと向かって。
頁を捲る。頁を捲る。
綴られる文字を一文字一文字。読み飛ばすことも無ければ、過ぎ去る時間に焦る事も無く。赤茶けた紙の上、黒一色で色鮮やかに。踊る踊る活字の上に映し出される緑の野、青い丘、深い空と水平線。
振り下ろされる桑の音。暖炉の火。生と死。人々の話。文字を伝い映し出された。
妖精の羽ばたき。魔法使いの足音。竜の吐息。人では無い者達の話。言葉に広がる知らない世界。
足元から湧き上がる足音は、形を持って色鮮やかに。青く黒く、深く澄んだ空へと舞い上がり。草木の息吹は、水の囁きは。風の抱擁、日の眼差し。溶け出し滲んだ世界の輝き、眩い光。色に溢れたこの世界で紡がれる。
心温まる話。何処か、影の在る話。
書き連ねた感情。子どもの純粋さ。淀みの無い愛情、恋路。人の愚かさ、転落。老い、死を目前とし、漸く学び、救われて。
残酷な結末。幸せな結末。何処かで見た。見たことなど無い。記憶の端に在る。今、初めて見た。子どもへと向けた童話の数々。何処の国のものかも知れず。連なり、押し寄せ、流れ、去り行く文字の群れ、文字の波。挟まれた栞紐を追い越し、頁を捲り、捲り、また、捲って。
終わらないで欲しい、と。願い、願い。まだ、この世界を。まだ、この物語を。読み続けたい。歩み続けたい、と。願い、願い、願えども。
ついに、終わり。最後の頁。綴られた物語の解説は疎か、奥付の一つすら無く。幾つもの物語。作者が誰なのかも知れない。不可思議な本は、私の手の中。最後まで読み終え。最後まで読み干して――
そして、今夜も。私はまた、幾つもの童話。幾つもの物語。読み終えた話。終わりを知る話。結末を知る話。それでも、尚。私を惹きつけ、離さない。その、短編集を繙いて。
空想の産物。届くことの無い夢の数々に。また、私は、頭を
ふと。読み進める私の目に映し出される。
知らない人々。知らない生き物。知らない話。それは、そう。昨夜。読み進めた時には気付かなかった……
気付かなかった、など。本当にあり得るのか。一頁、なら、まだしも。一つの話。幾つもの頁。忘れてしまうにしては、そこに描かれる世界は。余りに、色、鮮やかで。
頁を捲る。頁を捲る。知らない話を飲み干して行く。読み進め、読み込み。読み終えれば、また。記憶に残る話が顔を見せ。しかし、また。そして、また。その話を読み終えたならば。知らない話がそこにあって。
違和感。起こり得ないこと。有り得ないこと。これは、昨日読み終えた本。しかし、私が今読むのは。
私の。知らない、物語。記憶の端にも、欠片程さえ。読み損なうには余りに長く、忘却するには心に残る――
頁を捲る。頁を捲る。読み終えた話を、知識の中の世界を。茨の伸びる庭園を、深い深い海の底を。燃え盛る館、空の上。視線は、二本の足。思考は、二つの目となって。走り、駆け抜け、その先に待つ。
それは。崖のそれ。自身の知る道を駆け抜けた先に覗き、広がる、新たな世界。やはり。この話は。この本は。
勝手に。頁を増やしているのだと。
気付き、気付けど、手は、止まらず。頁を捲り。文字を辿り。幾ら読み進めようと。頁は減らず。何れだけ読み続けた所で。物語は、無数に。延々と。
体の震え。寒気。未知への恐怖。唯、一冊の本に向けられた。この、理解出来ない状況でも尚。止まることを忘れた震えの中でも、尚。
私の胸に込み上げる。熱い、熱い。この衝動は。
頁を捲る。頁を捲る。文字の向こうへ思いは届き。言葉の先へと思いを向けた。終わらないでほしいと零した私の願いは、手のひらの中、小さく束なる世界へ届いた。私の恋した、恋い焦がれた。世界は。溢れ出す言葉。インクの染み、乾いた紙。その中でまだ、その先でまだ。生き続けているのだと。これより先に踏み込むならば、もう。私は囚われ、戻ることなど出来なくなると。今なら、まだ。この誘惑から。魅惑から。逃げ出す事が出来るのだと。
理解しつつも。今。今度こそは、本当に。今までのような、ごっこ遊びなどでは無く。全て。全てを投げ出して。全て、全てから逃れる事が。
出来るのだと。踏み出せるのだと、投げ出せるのだと。そして、その。勇気は、もう。この本、この、世界から。既に、貰ってしまっていて。
頁を捲り。頁を、捲り。私は。
連なる言葉。数多の言葉。描き出された世界へと続く。
その、小さな。扉を、開いた。