――雨の音が近付く。洞穴に響く。瓦落多を蹴り。扉を打ち抜き。壁を破り。纏わり付く破片、土塊を振り払い、駆ける、駆ける、駆け上がる。
築き上げたものを壊すのは、本の一瞬。この足で積み上げ、この足で切り裂いた。本の一瞬、微かな擦れ違い。それだけで。
それだけで。全ては脆く。崩れ去り、戻りはせず。
確かに、私は。見てはならぬと、そう言った。
この身は、蜘蛛であった。
幾ら、人の真似をしようが。蜘蛛は蜘蛛、八足、大口、糸を紡いで。昔々のその姿とは、変わりに変わったこの国、この街、漂う。汚れた霧の届かぬ洞。そこも、また。人の住処を真似した。外から持ち込み、突き立てた。木の梁、木の柱。洞穴の中、必要の無い……しかし、一つ一つ。集めに集めた、瓦張り。その、何れもが。中途半端、やはり、真似事。日の光も届かぬ。こんな、穴の底に居を構えた時点で、分かり切ったこと。分かり切ったことで、あったけれども。
華やか、絢爛、金と朱と緑。木の肌の色。揺れる松明。揺れる人影。喧騒、笑顔、怒声、涙。変わり変わる人の顔。滲む思いに、人のそれに。憧れて、憧れて。
憧れは、すれど。届く事など、有り得ずに。私は、只々、一人切り。
そうやって、そうやって。何れだけの時を過ごしたかも知れず。何れだけの時を生きたかも知れず。
洞穴の入り口。降り注ぐ雨。降り注ぐ雨。霞む景色に、ぼんやりと。
彼は。姿を浮かばせて。
――痛んだ木床を踏み抜き。洞穴の壁を無茶苦茶に掻き。押し寄せる怒りと哀しみ。自身で紡いだ彼に対する未練の糸を、自身の身を以て引き千切り。零した涙は、雨の音に掻き消えた。
見れば見るほど、酷い姿だと。私の視界の、その中央。まるで。背を叩く、雨の重みに耐えかねたかのように。崩れ落ちた男の姿。体を這う痣、切れた肌の。擦り傷。血の滲む口元。骨の一つや、二つは。折れてしまっていたとしても、不思議は無く。
何をすれば、こうまで。自身で付けた、傷ではあるまい。崖から落ちた、と言う風でも無し。ならば、誰か。誰かに打ちのめされたか。男の体に纏わり付いた酒の匂い。酒宴の果ての喧嘩。這々の体で逃げ延びたか。何ら珍しい事でも無い。事でも無い、が。
何も。こんな。人一人として近付かぬ。蜘蛛の巣穴に逃げ込む事も無かろうと。
地に伏した男を、巣穴、奥深く。申し訳程度の床。明かりを灯して、静かに寝かせ。
この、口。人の姿で紡いだ糸を。綿のように軽く、蜜のように甘く。柔らかな、柔らかな。傷を、病を、痛みを鎮める。蜘蛛の薬糸を彼の身に巻き、傷を覆い。
揺れる蝋燭。これも、また。拾い集めた。人の消えた家屋。崩れた建築。腐り落ちて捨てられた。廃墟、残骸、塵芥を探り。役に立つ日など、訪れまいと思いながらも。人の暮らしに憧れ集めた、瓦落多の山。灯りと共に揺れる、その影、照らされ、浮かんだ彼の、顔を見下ろし。
傷に塗れ。腫れ、汚れ。しかし、それでも、整った顔。雨の内、倒れた頃より安らかに。静かに。息を吸い、吐き、眠る男を見詰め、見詰め。未だ、目覚めぬ彼の頬を。
頬を。そっと、撫ぜた。
――彼の為に灯した、蝋燭の火は掻き消えた。暗がりの洞窟。膨れ上がった感情は、この身から溢れ洞穴を満たし。満たしても尚湧き止まぬ思いは、遂に。この巣穴の入り口。今は、彼と過ごした日々からの出口。一度潜れば戻れはしない、不可視の扉を打ち破った。
目を覚ました後も男は、満足に言葉を発することさえ出来ぬまま。包帯代わりに巻いた蜘蛛糸を赤く滲ませ。彼の目の届かぬ。奥へと続く木戸の先に隠れては、蜘蛛の身、蜘蛛の姿、蜘蛛の足。紡いだ糸を手繰り、手繰り。新たな薬糸を両手に抱えて。
見つけたその日に、食ってしまっても良かった。傷を癒してやることなどせず、あの雨の中。何処か、私の目の届かぬ所に捨ててきてしまっても良かった。しかし。
しかし。こうして。傷付いた人を招き入れ、看、寄り添う今が。酷く、人間らしいことに思えて。
そして。その姿、彼自身にも。情が移ってしまったこと。それもまた、偽りようの無い、事実で。
何時の間にか。瞼を開き。私に、瞳を向ける彼。そんな彼へと、下手な笑みを一つ。彼もまた。そんな私に、微笑み返して。
嗚呼。綺麗だ、と。血の色を残した口元。優しく歪ませ、私に向け。それは、介抱されているという安堵か。それとも、単なる上辺だけ。只、形だけで、私へ微笑み返しただけやも知れぬ。しかし、それでも。
人の顔は。人の表情は。彼は。只々、綺麗だと。そして。
酷く、美味そうだと。思う私が、只々悲しくて。
人の面を真似ても。人の身体を真似ても。所詮張りぼて、虚像、瞞し。疑似餌。長きを生きた蜘蛛が身に着けた、より、大きな。より、美味い獲物を捕らえるための新たな罠。そんな、罠に。罠の、頬を。
彼は。彼は、撫ぜて。
突然に現れた彼の手、感じた温もりに体が跳ね。先まで、笑みを浮かべていた……気付けば、枯らしてしまっていた……顔に、新たに浮かべた表情は、どのようなものであっただろうか、と。
思う間こそ有れ。彼の手は、私の頬に添えられたまま。優しげに。弱弱しく。糸を巻かれた手のひら、親指の腹。私の頬を。
頬を。そっと、撫ぜて。
――あの日も。雨が降っていた。今日も、また。洞穴から這い出した私の体を、冷たい体を、雫が叩く。
傷を癒した後も、彼は。度々、私の巣へと訪れ。足繁く蜘蛛の巣へと通う……何時食われるかも知れぬ、など。気付くことさえ出来もせず。その愚かさに呆れながらも、自然と。頬を綻ばせる自身に気付いては、やはり。自分自身に呆れ、呆れ。
さっさと追い返してしまえばよいものを。何時、間違いが起こるやも知れず。何時、彼の生き血。牙を突き立て。この口で啜るやも知れない。知れないことを知っていながら、私は。彼の来訪を心待ちにし。
このまま、人として。彼と共に、など。考える私の愚かさを嗤い。笑って。
ずっと。笑っていたかった。
――あのまま、共に。歩んでいけたのかも知れぬ、と。
見るなと告げた。
夜を共にし。恋に焦がされ、肌を重ね。しかし、それでも。
眠る私の姿を見るなと。戸を隔て。姿を隠した私を探るな、と。その度に彼は。何処か、悲しそうな。何処か寂しそうな顔。
――もしかすると。気付いていたのやも知れぬ。気付いた上で、話を切り出そうとしたのやも知れぬ。しかし、それも今更。眠る私の姿は、蜘蛛。そんな姿を、彼に。恋うた相手に見せたくなど、無かった。
深夜に響いた。木戸を、恐る恐る開く音に目を覚まし。遂に、この日が来てしまったかと。思う、反面。間違いであってほしい、と。どれだけ願ったか。戸が開くことなく。隙間から覗く姿の代わりに、彼の寝息が聞こえたならば。どれだけ良かっただろうか、と。
願い、願って。
雨の中に一人佇む。こんな形でも、こんな私でも。未だに、一人と数え続ける。
あれから、また。どれだけの時が過ぎたかも知れず。雨の降る度、思い返して。
結局。彼は私を見。何か。口を開こうとした、彼の顔。きっと、話す事があったのだろう。けれど。
微かに、彼の顔に浮かんだ。恐れの色。それが、全てを語り。続く言葉は、彼の言葉は。どんなものであったかなど、今となっては知ることも無い。どんな言葉を紡いだとして。全て。その、思いに塗り潰された。
降り続くそれが頬を撫ぜる。彼の手よりも冷たかった。私の手と比べたならば、どうだろうか。蜘蛛の肌と肌を重ねた。洞穴の其処に置き去りにした。彼なら答えを持つだろう。私へと。伝える言葉を持つだろう、が。
その言葉を。聞く事なんて、最早、出来る筈も無く。冷たい眼球。冷たい体。細い細い蜘蛛の足、八足。湿った地面と水溜り。厚く閉ざした灰色の空。只々、雫を零し続ける、クモの閉ざしたその景色に。
もう。日の光は、見えない。