天まで覆うこの柵を。小さな手と手、私の頭一つも通らぬ金属の檻、掴み、握り、両の腕。思い切り開き、力強く伸ばし。押し広げることが出来るならば。そして、そのまま圧し折れたならば、砕けたならば。再び自由に、人の世界。舞い戻れたならと、出来もしない。しかし、まだ、諦めきれない望みを……迷いの色の滲んだ望みを抱いて。理不尽な拘束、籠の中での監禁。鳥籠の鳥にでもなったかのよう。虫篭の虫にでもなったかのよう。事実、私は、愛玩動物。見世物、奴隷のそれとは、些か異なる……調度品のそれ、蒐集物。それは、やはり、鳥籠の鳥。しかし、私は。記憶の何処か、掘り起こすなら容易に浮かぶ鳥籠の中。私の体は、捉えられた鳥達のような鮮やかな色合いすら持たぬ人肌の色。珍しくなんて欠片もないような、ただの人。けれどこうして、鑑賞されるために捕われ、この籠の中に押し込められた。
籠は。磨き抜かれて金色に。窓から差し込む日の光、風に靡く白のカーテン。私を呑んだ籠、置かれたテーブルにも、また。白のクロスが敷かれていて。
穏やかな昼下がり。冗談のように。私の胸の内など知らぬとばかりに、其処は。籠の中から見える景色は、平穏そのもの。清潔な部屋と、趣味の良い家具。部屋の持ち主も、また。落ち着いた部屋に相応しい人、女の人。整った顔立ち、白い肌。長い髪。服装もまた、毎日違う服ではあれど、どれも。華美に過ぎず、下品でも無く。であった場所が、街中、何処かの喫茶店なら。きっと、私も憧れた。いや。こうして捕われていながらも。彼女の振る舞い、その姿には。いつかは私もそう在りたいと、思えるほど――
只。彼女は、私の体。私を入れた籠、片手で抱えることくらい、造作も無いほど大きな人で。此処から見える景色は全て。まるで巨人の為の家具。事実、巨人の為の家具。私の目に映る世界の中では、私だけが小さな人、籠の中に納まるほどに。もしかすると、私が知らなかっただけ。私の知っている世界は全て。小さな、小さな。彼女達こそ基準の大きさ、何も、巨人などではなく。私達が、私達の世界こそが、小さな小さな小人の世界だったのかも知れない。
籠の中に置かれた、私に見合うサイズの鏡台。彼女からしてみれば、人形サイズ。私のために置かれた天涯付きの寝台も。装飾の施された椅子も。テーブルも。ランプも。そして、この、服も。全てが全て、人形の為のそれのよう。自分で使うとなればきっと、少し気恥ずかしくなるような。自分で着るとするならば、やはり、気恥ずかしくなるような。そんな家具と、服に包まれ。包まれた私の見て笑う……不恰好さに嗤うのではなく。只々、綺麗に、嬉しそうに。私が人形に向けたように。笑みを零す彼女の姿が、並ぶ金属、その向こうにあり。
彼女からしてみれば、きっと。生きた人形。服を買い揃え。家具を買い揃え。着せ替え、模様替え、思い通りの部屋、姿。与えて喜ぶ、悪意の欠片も無い行為。幼子の着せ替え人形とは、少しばかり趣の異なった。私が食事をする様ですら、彼女は。その柵の向こうから笑みと共に見守って。意識を失い、目覚めたときにはこの籠の中。初めこそ、彼女のその手に噛み付いてでも外に出ようと……実際、噛み付き。力の限りに、その指を。白い、白い。柔らかな指に、歯を立てて。滲む赤を、溢れる赤を、その味を。彼女のそれよりずっと小さなこの舌の上。零れる感覚を味わいこそすれ。対する、彼女は。そんな私に驚き、痛みに顔を顰めながらも、怒りさえせず、振り払うことさえせずに。只々、申し訳なさそうに。何事か、言葉を紡ぐ……私の知らない言葉。私の知らない言語。只、耳に心地良く。流れるように、歌うように。紡がれる言葉を聞かされるだけ。哀れんでいたのかもしれない。謝っていたのかもしれない。何れにせよ、怨むに怨めず。傷つけたことを後悔するほど。
彼女の振る舞いに。悪意は微塵もないことを。きっと、私を捉えたのは。彼女ではなく。彼女自身も、買っただけ。人形を買う気軽さを以て、生き物を買う決意を以て。其処に、人身売買、誘拐、監禁。私からしてみれば、理不尽な束縛。それも、視点を変えたならば。私が今まで他の小動物、籠の鳥。手のひらの上の人形達へと、罪の意識とは無縁に。強要し続けてきたことで。それを思えば、悪意無く接する。大切に、丁寧に。そっと扱う彼女に対して、憶えた怒りは熱を失い。失った熱は、しかし、拘束への不満は。爪を向ける先さえ見失って。
――籠の置かれた白いクロスと湯気を立てるティーセット。私の体よりも大きなそれ、それに見合う大きな手。細い手。クロスに皺を作った彼女の肘、傍ら。置かれた本は、背表紙は。何と書かれているかも知れず。私に与えられた椅子に腰掛け、私の暮らした世界と同じく、少しだけ冷たい。少しだけ肌寒い空気、僅かに開いた窓から溢れたそれに身を浸し。不規則に影を作り。不規則に光に透かす。揺れるカーテンを見詰め、辿る視線は零れ落ちた日の光。受けて輝く、彼女の黒髪、綺麗な髪へと滑らせて。
私を飼う彼女の肌は。観賞用であるはずの。私のそれより尚白く。籠の中の私よりも、彼女のほうがずっと、人形のよう。目を閉じ、風に長い髪を預けて。風の冷たさ、光の温もり。ふと、目を離したならば。私の目の届かぬ場所へと行ってしまったならば。そのまま画布の上。油で溶いた、水で溶いた。色鮮やかな檻の中へと。額縁の中へと。閉じ込められてしまいそう、なんて。
閉じ込められた私の視線。ふと、開いた彼女の視線。重なり、交した目と目、そして、そのまま。浮かんだ笑みにつられて、私も。思わず、頬が綻んで。
捉えられて。檻で囲われ。怨みを感じるべきなのだろう。許されることではないと、怒りをぶつけ。怒鳴り、喚き、自由を主張するべきなのだろうと。言葉は通じずとも。行動、手を振り上げ、歯を剥いて。戦うべきなのかもしれないと。胸の内、心の内。記憶、形作られた倫理観、価値観。何処に在るのかも知れないそれの上げる声、声と。今の私。温かな胸の内。彼女の笑顔と、穏やかな部屋。穏やかな生。この束縛から逃れられないことを除けば、悩むべきことなんて無く。残した家族の姿に未練はあれど。喧騒、人込み、汚れた路地。落書きだらけの壁、塵だらけの地面。何処かで聞こえた罵声、繰り返す日々。心を乱すものは何一つなく。こうして捕われ、籠の中。隔離された今だからこそ、感じてしまった安らぎに。この平穏に。身を浸し続けていたいと……もしかすると、この安らぎも、感情も。捉えられて、生かされて。そんな状況ゆえの心理。瞞しなのかもしれないと。知れないと、思えど、やはり、穏やかな心。それを許さぬ声との間。どちらを選ぶべきなのか。知れないまま。
彼女の姿を、見詰める。小さな椅子から、彼女の瞳。優しげな瞳。何処か、疲れたような目を。見詰め、見詰め続けるだけの時。そんな今に。満足してしまっている、私が居るのは。事実で。
彼女の指が籠へと向かう。大きな指先、あの時私が噛み付いた。白い白い指、華奢な彼女の細い指。籠の隙間、私へとむけて伸びた指へと。
椅子から、腰を浮かせ。二本の足、与えられたソックス。敷き詰められた絨緞の上。彼女の指へと、近付き、両の。手を、伸ばして。
彼女の目は。やはり、何処か、疲れたような目は。何処か羨むような目は。彼女へと向けて手を伸ばす、私の姿を捉えて細まり。あの時傷を付けてしまったこと。彼女から見れば、傷付けられてしまったこと。私の手が指先に触れる。その瞬間に、互いに。僅かに躊躇い。躊躇いながらも尚、近付いて。
触れる。柔らかな。温かな。彼女の指を、今度は傷付けなんてしないと。その意思はないと。そっと触って、そのまま擁き。彼女の爪に頬が触れる。
「――――」
そんな私へ、何事か。言葉を放る。私の知らない言葉。通じない言葉。けれど、それは、少なくとも。人を刺し貫くような、悪意ある言葉ではないように思えて。優しく。嬉しそうに。そして、少し、悲しそうに。
何故、悲しそうなのかと。頬に当たる爪、指の先、手の甲の先。彼女の目、細められた。瞳に映る憧憬。私よりもずっと大きな体、姿、それでもか細く、か弱く見えた――いや。事実。彼女はきっと、彼女の心はきっと。編み込んだ鉄のような強さも。生い茂る葦のような強さも。持たず、溜め込み、罅入って。壊れてしまいそうな。きっと、私を買ったのも。私が今、こうして。安らぎを憶えているように。その様を見て羨むように、微笑むように。私の姿を自分に重ねて。私の時を自分の時と。共に過ごして、一つに重ねて。
指を擁く。強く、強く。柔らかな指先、彼女の指先。大きな指先、か弱い指先。傷つけることは、もう、ない。外に出ようと暴れることも。彼女へ怒りを向けることも。悲しげに、寂しげに。笑う彼女を。彼女の笑みを。私を求め、安らぎを求め。伸ばされた指を抱き締めて。
この感情は、瞞しなのかもしれないと。それどころか、いつか。飽きて、捨てられるかもしれない。いつか、いつかは、また、理不尽に。捉えられたそのときと同じように、怨みを擁くことになる。そんな日が来るかもしれないと。しれないと、思えど。彼女の笑み。疲れ切った心を休め、綻ぶ顔を見ていたいと。今は。
今は、只。この安らぎの中。彼女の傍ら。彼女と共に。彼女と共に居続けたいと。
この籠の中。伸ばされた指を。か細い指を。
彼女の指を、抱き締め続けた。