護りたいもの   作:影風

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 とうとう最終話です‼︎少し長いですがお読み頂けるとありがたいです。



【第40話】新たな旅立ち

 襲撃の翌日、医務室での処置を終えた俺は六角家を訪れていた。

 

 腹部にはまだ鈍い痛みが残っている。医師からは絶対安静を命じられたし、織斑先生にも随分と渋い顔をされた。

 

 それでも、今日だけは行かないわけにはいかなかった。

 

 六角家の屋敷は、以前と変わらずに静かだった。

 

 丁寧に手入れされた庭も、磨き上げられた廊下も、俺が知るままだ。けれど、その静けさは懐かしさではなく、何かが決定的に失われてしまった後の空白のように感じられた。

 

 案内された部屋で待っていると、しばらくして旦那様が現れた。

 

 以前お会いした時よりも、少し痩せたように見えた。

 

「ダイチ、身体はもういいのかい?」

 

 最初に出たのは、俺を責める言葉ではなかった。そのことがかえって胸に刺さった。

 

「はい。処置は済んでいます」

 

「そうか。だが、無理はしないでくれ。君まで倒れてしまっては、私はあの子に顔向けできない」

 

「……申し訳ありません」

 

 俺は深く頭を下げる。

 

「雪菜様を、連れて帰ることが出来ませんでした」

 

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥が潰れそうになった。

 

 あの白い世界。腕の中で軽くなっていく雪菜様。最後まで語られなかった言葉。

 

 何もかもが、まだ俺の身体の中に残っている。

 

「俺は…雪菜様を止めることしかできませんでした」

 

「違うよ、ダイチ」

 

 旦那様の声は穏やかだった。

 

 けれど、その穏やかさの奥に、深い疲労の色が滲んでいた。

 

「君は、あの子を止めてくれたんだ」

 

「でも…」

 

「あの子がしたことは、決して許されることではない。多くの人を傷つけ、世界を混乱させた。その罪は、消えるものではない」

 

 旦那様は静かに目を伏せる。

 

「それでも、君が止めてくれなければ、あの子はもっと多くのものを壊していただろう。君は、雪菜を止めてくれた。そして…最後にはあの子の横にいてくれた」

 

「……っ」

 

「ありがとう、ダイチ」

 

 その言葉を聞いた瞬間、胸が苦しくなった。

 

 感謝される資格なんてない。俺は雪菜様を救えなかった。お側にいながら、何も気付けなかった。あの人がどこまで行ってしまっていたのか、最後の最後まで分からなかった。

 

「俺は…雪菜様のお側にいたのに、何も気付けませんでした」

 

「それを言うなら私も同じだ」

 

「旦那様は違います‼︎雪菜様は、本当に旦那様のことを大切に思っていたと思います。あの人はずっと…」

 

 そこまで言って言葉に詰まる。

 

 雪菜様が抱えていたもの。旦那様への思い。母を失った痛み。世界への怒り。

 

 それを、今の俺が語っていいのか分からなかった。

 

 旦那様はしばらく黙っていた。

 

 そして、ゆっくりと口を開く。

 

「分かっていたつもりだったんだ」

 

「えっ…?」

 

「雪菜が、君のことをどう思っていたのか」

 

 思わず息が止まった。

 

 旦那様は穏やかな表情のまま、けれどどこか遠いものを見るように目を細める。

 

「父親だからね。それくらいは分かるさ」

 

「…」

 

「あの子は、君を拾ってきた時から変わった。もちろん最初は、あの子自身の寂しさを埋めるためでもあったのだろう。だが、いつの間にか君は、雪菜にとってかけがえのない存在になっていた」

 

 旦那様の声は、少しだけ柔らかくなっていた。

 

「そして私にとっても、君はただの使用人ではなかった」

 

「旦那様…」

 

「君は、雪菜が連れてきた家族だ。息子のように思っていたよ」

 

 何か言おうとした。だが、声にならなかった。

 

「だからね、ダイチ」

 

 旦那様は静かに続ける。

 

「私は、いつか君と雪菜が一緒になってくれるものだと勝手に思っていたんだ」

 

 その言葉が、胸に深く突き刺さった。

 

「雪菜が君と一緒になって、やがて子供が生まれて…たまにこの屋敷に顔を見せに来る。雪菜が少し照れた顔で笑って、君は相変わらず真面目に頭を下げる。そんな未来を、私は勝手に夢見ていた」

 

 旦那様の声は、最後まで穏やかだった。

 

 けれど、その穏やかさがひどく痛かった。

 

「すまない。君に言うべきことではなかったね」

 

「いえ…」

 

 違う、謝るべきなのは俺の方だ。

 

 その未来を守れなかった。雪菜様と一緒に帰ることも出来なかった。旦那様が夢見ていた穏やかな未来を、俺は何一つ形に出来なかった。

 

「本当はね、ダイチ」

 

 旦那様は、そこで初めて声を僅かに震わせた。

 

「あの子を叱ってやりたかった」

 

「…」

 

「何を馬鹿なことをしたのだと、父親らしく怒ってやりたかった。そしてその後で…」

 

 言葉が途切れる。

 

 旦那様は目元に手を当てることも、顔を歪めることもしなかった。

 

 ただ、静かに息を吐いた。

 

「よく帰ってきたと、抱きしめてやりたかった」

 

 その言葉に、俺は何も返せなかった。

 

 旦那様は最後まで取り乱さなかった。

 

 けれど、その姿がかえって、どれほど深い悲しみを抱えているのかを物語っていた。

 

「ダイチ」

 

「…はい」

 

「君まで、あの子のところへ行こうとしないでくれ」

 

 旦那様は真っ直ぐに俺を見る。

 

「雪菜を失った。だが、君まで失うことになれば、私は本当に耐えられない」

 

「…俺は」

 

「償いとして生きるのではなく、君自身の人生として生きてほしい」

 

 優しい声だった。

 

 だが、その言葉はどんな叱責よりも重かった。

 

「それが、私から君への願いだ」

 

 俺は深く頭を下げる。

 

 返事は、すぐには出来なかった。

 

_______

 

 あれから一週間、俺は特別指導室で織斑先生と向かい合っていた。

 

 織斑先生は、机の上に置かれた書類へ目を落とし、それから俺を見る。

 

「上代。本当に辞めるつもりか?」

 

「はい」

 

「ガーディアンは、あれから一度も展開出来ていないそうだな」

 

「はい。機体にも俺の身体にも問題がないそうですが、応えてくれません」

 

「…辛いか?」

 

 その問いにはすぐには答えられなかった。

 

 辛くないわけがない。ガーディアンは俺にとって、ただの専用機ではなかった。雪菜様を守るために求めた力であり、俺がこの学園で戦ってきた証でもある。

 

 だが、不思議と以前ほどの恐怖はなかった。

 

「辛くないと言えば、嘘になります」

 

 俺は自分の手を見る。

 

「でも…少しだけこれでよかったのかもしれないとも思っています」

 

「よかった?」

 

「俺がISに乗っていたのは、雪菜様を守るためでした。雪菜様の隣に立つためでした。だから、その理由が終わった今、ガーディアンが応えなくなったのも、一つの区切りなのかもしれません」

 

 織斑先生は何も言わなかった。

 

 責めるでもなく、慰めるでもなく、ただ俺の言葉を待っていた。

 

「もちろん、ガーディアンが嫌になったわけじゃありません。スイスで俺を受け入れてくれた人たちにも、感謝しています。でも、俺はもうISにしがみつかなくてもいいのかなって」

 

「…そうか」

 

 織斑先生は短く答え、書類を捲る。

 

「日本政府は、お前をこのまま学園に残すつもりだった。卒業後は職員として雇う案も出ている」

 

「はい」

 

「スイスからも、ギザン社でお前を受け入れるという話が来ている。代表候補でなくなっても、お前を切り捨てるつもりはないらしい」

 

「ありがたいお話だと思っています」

 

「なら、なぜそのどちらでもない?」

 

 織斑先生の声が少しだけ低くなる。

 

「お前の選ぼうとしている道は、そんなに綺麗なものじゃないぞ」

 

「分かっています」

 

「本当に分かっているのか?」

 

 机の上の書類には、俺のこれからについての案がまとめられている。

 

 上代大地という名前を捨てて、別人として生きる。

 

 正確には、ただ名前を変えるだけではない。

 

 『上代大地』という人間を戸籍上この世から抹消し、表向きは死亡したものとして処理する。そのうえで、別人の名義として生きていく。

 

 更識家と六角家という二大暗部が政府と交渉した末に実現した、超法規的措置だった。

 

 言葉にすればそれだけのことだが、実際はそんな簡単なものではない。これまでの経歴も、男性操縦者として受けてきた保護も、スイスの代表操縦者候補としての立場も、全て失う。

 

 それに、何かの拍子に上代大地が生きていると知られれば、各国が黙っているはずもない。

 

 それでも、俺はその道を選んだ。

 

「楯無さんにも、旦那様にも随分と無茶を言いました。」

 

「無茶どころの話ではない。更識家と六角家が揃って政府を動かしたんだぞ」

 

「ですよね」

 

「笑い事ではないぞ」

 

「はい」

 

 織斑先生は小さく息を吐く。

 

「どうしてそこまでする。自分を罰したいのか?」

 

 その言葉に少しだけ胸が痛んだ。

 

 否定はできない。

 

 雪菜様を救えなかったこと。何も気づけなかったこと。止めることしかできなかったこと。俺の中には、まだどうしようもない後悔が残っている。

 

 それでも、それだけではなかった。

 

「雪菜様の夢だったんです」

 

「夢?」

 

「世界中を見て回りたいと、昔言っていました。自分の目で見て、そこで苦しんでいる人たちの力になりたいって」

 

「…」

 

「雪菜様は、やり方を間違えました。俺はそれを正しいとは言えません。でも、あの人が見ようとしていたものから目を逸らしたくないんです」

 

 織斑先生の視線が少しだけ鋭くなる。

 

「それを償いだと言うつもりか」

 

「償いでもあります」

 

「上代」

 

「でも、それだけじゃないんです」

 

 俺は織斑先生の目を見る。

 

「俺が見たいんです。雪菜様が見たかった世界を。そこに何があって、俺に何が出来るのかを」

 

 先生は黙った。

 

 静かな沈黙だった。

 

 叱られるかもしれないと思った。馬鹿なことを言うなと、今度こそ止められるかもしれないと思った。

 

 だが、先生はしばらくしてから、ただ小さく呟いた。

 

「…まったく。どいつもこいつも面倒な生徒ばかりだ」

 

「すみません」

 

「謝るな。余計腹が立つ」

 

「すみません」

 

「謝るなと言っている」

 

 俺は思わず笑ってしまった。

 

 先生もそれ以上は咎めなかった。

 

「手続きはこちらでも進める。退学処理、各国への通達、記録の整理…やることは山ほどある」

 

「ありがとうございます」

 

「礼を言うのはまだ早い。私はまだ納得したわけではないからな」

 

「はい」

 

「ただし、一つだけ約束しろ」

 

「約束、ですか?」

 

 織斑先生は真っ直ぐに俺を見た。

 

「死ぬな」

 

 短い言葉だった。

 

 それだけなのに、胸の奥が詰まった。

 

「逃げてもいい。戻ってきてもいい。情けなくても、みっともなくても構わん」

 

 先生の声はいつも通り厳しかった。

 

 けれど、その奥にあるものが何か分からないほど、俺も子供ではなかった。

 

「だが、生きろ。これは命令だ」

 

 俺はゆっくりと頭を下げる。

 

「…はい」

 

 声が少し震えた。

 

「必ず、生きます」

 

 織斑先生はそれ以上何も言わなかった。

 

 ただ俺が部屋を出るまで、静かに見送ってくれていた。

 

_______

 

 探していた人物は第三アリーナにいた。

 

「タニスさん」

 

 訓練を終えたばかりのタニスさんは、俺の姿を見るなり少しだけ眉をひそめた。

 

「ダイチ、もう身体はいいのか?」

 

「はい。無理をしなければ問題ないそうです」

 

「そういう者ほど無理をする」

 

「…気をつけます」

 

 苦笑しながら答えると、タニスさんは小さく息を吐いた。

 

「それで、私に何か用があるのだろう?」

 

 俺は姿勢を正し、深く頭を下げる。

 

 回りくどい前置きは、この人にはきっと必要ない。

 

「短い間でしたが、スイス代表候補生としても、聖天馬騎士団の副隊長としても、お世話になりました」

 

「……別れの挨拶か」

 

「はい」

 

 タニスさんの声が、わずかに固くなる。

 

 俺は学園を去ることを伝えた。

 

 日本にもスイスにも残らず、名前を変えて旅に出ること。詳しい事情は話せないが、これまでと同じ形ではもう会えないかもしれないこと。

 

 タニスさんは、最後まで黙って聞いてくれていた。

 

「そうか」

 

 話し終えると、タニスさんは静かに頷いた。

 

「君らしいな」

 

「そうでしょうか?」

 

「無茶をするところも、自分の身を軽く見るところもな」

 

「…返す言葉もありません」

 

 そう答えると、タニスさんは少しだけ表情を緩める。

 

「だが、嫌いではなかった」

 

「えっ?」

 

「そういうところも含めて、私は君を気に入っていたということだ」

 

 あまりに真っ直ぐ言われて、思わず言葉に詰まる。

 

「…随分と買っていただいているんですね、俺のことを」

 

「当然だ」

 

 タニスさんは迷いなく言った。

 

「私が認めた副隊長だからな」

 

 その言葉に、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 

 最初から認めていてもらっていたわけではない。むしろ最初は毛嫌いされていたし、叩き潰されそうにもなった。

 

 それでも今、この人は俺のことをそう呼んでくれている。

 

「…ありがとうございます」

 

「ああ、そうだ」

 

 タニスさんは懐から、小さく折り畳まれた紙を取り出した。

 

「持っていけ」

 

「これは?」

 

「軍の極秘回線だ。正規の通信網を通さず私へ繋がる番号が書いてある。乱用はできないが、いざという時には使え」

 

「そんなもの、俺が受け取っていいんですか?」

 

「副隊長に緊急連絡先を渡して何が悪い」

 

 迷いのない声だった。

 

「君が名前を変えようと、世界中のどこにいようと、私にとって君は部隊の一員だ」

 

 そして、声を少し柔らかくする。

 

「私にとって、部隊の者は家族だからな」

 

 俺は小さなメモを受け取る。

 

 ただの紙切れのはずなのに、やけに重く感じた。

 

「ありがとうございます」

 

「それを使わずに済むなら、それが一番だ」

 

「はい。出来るだけそうします」

 

「だが、一人で抱え込むな。君はそれが下手すぎる」

 

「よく言われます」

 

 俺は苦笑する。

 

「なら直せ」

 

「善処します」

 

 そう答えると、タニスさんは小さく笑った。

 

「最後に一つ、命令をしておく」

 

「命令、ですか?」

 

「ああ」

 

 タニスさんは真っ直ぐに俺を見る。

 

「生き延びろ。そしていつか、君が見てきた世界の話を私に聞かせに来い」

 

 その言葉に、俺は深く頭を下げた。

 

「…はい、必ず」

 

「よろしい」

 

 タニスさんは満足げに頷く。

 

「気をつけて行ってこい、ダイチ」

 

「はい」

 

 俺はもう一度、頭を下げる。

 

「行ってきます、隊長」

 

 タニスさんは一瞬だけ目を見開き、それから静かに笑った。

 

「ああ。行ってこい、副隊長」

 

_____

 

 タニスさんへの挨拶を終えた後、俺は屋上に向かっていた。

 

 屋上へ続く扉を開けると、夕暮れの風が頬を撫でた。

 

「あっ、ダイチ」

 

 フェンスの近くに立っていたシャルが、こちらを振り返る。

 

「悪い、待たせたか?」

 

「ううん、僕も今来たとこ」

 

 そう言ってシャルは柔らかく笑う。

 

 金色の髪が夕日に透けて、少し眩しかった。

 

「ここ、懐かしいね」

 

「そうだな」

 

「転校してきてすぐ、みんなでお昼を食べた場所だもんね」

 

「ああ」

 

 あの頃はシャルは、まだシャルルだった。

 

 けれど、そのことをわざわざ口にする必要はなかった。

 

 シャルはそれ以上何も言わず、ただ夕焼けの空を見上げていた。

 

「それで、今日はどうしたの?」

 

「…ああ」

 

 俺は小さく息を吐く。

 

 誤魔化すつもりはなかった。

 

「シャルには、ちゃんと伝えておこうと思ってな」

 

「うん」

 

 シャルは俺を見る。

 

 その瞳は穏やかだった。けれど、どこかで既に察しているようにも見えた。

 

「俺は、IS学園を辞める」

 

 言葉にすると、思ったよりもあっさりしていた。

 

 シャルは目を見開く。

 

 けれど、声を荒らげることはなかった。

 

「……そっか」

 

「ああ」

 

「いつ?」

 

「近いうちに」

 

「戻ってくるの?」

 

「分からない」

 

 正直に答える。

 

「上代大地としては、もう戻らないかもしれない」

 

 シャルの指先が、僅かに震えた。

 

 それでも、彼女は泣かなかった。

 

「そっか」

 

 もう一度、同じ言葉を繰り返す。

 

 その声は少しだけ寂しそうだった。

 

「黙っていなくなることも考えた。そうした方が余計な心配をかけずに済むとも思った」

 

「うん」

 

「でも、それは違う気がした」

 

 俺はシャルを真っ直ぐに見る。

 

「お前には、ちゃんと伝えておきたかった」

 

 シャルはしばらく黙っていた。

 

 風が吹く。

 

 夕焼けの光が、彼女の頬を赤く染めていた

 

「……ありがとう」

 

 シャルはやがてそう言った。

 

「怒らないのか?」

 

「怒らないよ」

 

 シャルは首を横に振る。

 

「寂しくないわけじゃない。行ってほしくないって思わないわけもない。でも、黙っていなくなられる方が、ずっと嫌だったから」

 

「…そうか」

 

「だから、ちゃんと教えてくれて嬉しい」

 

 その言葉に、俺は返す言葉を失った。

 

 シャルは優しい。

 

 けれど、それは何も知らない優しさじゃない。分かっていて、飲み込んで、それでも笑ってくれている。そんな優しさだった。

 

「ダイチ」

 

「なんだ?」

 

「僕ね、あの日のこと、ずっと忘れないと思う」

 

「あの日?」

 

「ダイチが、僕をここに残してくれた日のこと」

 

「何度も言っているが、俺は自分の利益のために動いただけだ」

 

「うん。ダイチならそう言うと思った」

 

 シャルはくすりと笑う。

 

「でも、僕にとっては救いだったよ」

 

「…買い被りすぎだ」

 

「そうかもしれないね」

 

 そう言いながらも、シャルは静かに首を横に振った。

 

「でも、僕はそう思ってる」

 

 その一言は、真っ直ぐに胸に届いた。

 

 救い。

 

 かつて俺が受けたもの。

 

 失ってしまったと思っていたもの。

 

 それを、俺は知らないうちに誰かへ渡していたのだろうか。

 

「だからね、ダイチ」

 

 シャルは少しだけ寂しそうに、でも穏やかに笑う。

 

「僕は、ダイチがちゃんと考えて決めたことなら、受け止めたい」

 

「シャル…」

 

「でも、一つだけお願いしていい?」

 

「ああ」

 

「無理はしすぎないで。全部を一人で背負わないで。ダイチはすぐ、自分が我慢すればいいって顔をするから」

 

「…善処する」

 

「それ、あんま信用できないなぁ」

 

 シャルは少し頬を膨らませる。

 

 その表情はいつも通りで、少しだけ安心した。

 

「じゃあ、もう一つ」

 

「増えるのか?」

 

「うん。これは大事なことだから」

 

 シャルは一歩、俺に近づいた。

 

「どこにいてもいいから、ちゃんと生きていて」

 

「…ああ」

 

「辛くなったら逃げてもいい。立ち止まってもいい。でも、いなくならないで」

 

 その言葉に胸が詰まる。

 

「分かった。約束する」

 

「うん」

 

 シャルは満足そうに微笑んだ。

 

 そこから、ほんの少しだけ目線を伏せた。

 

 何かを言おうとして、けれど結局言わない。

 

 その仕草で、十分すぎるほど分かってしまった。

 

 だからこそ、こちらから踏み込むことは出来なかった。

 

 それはきっと、シャルが望んでいないことだから。

 

「ダイチ」

 

「うん?」

 

「元気でね」

 

「…ああ。約束する」

 

 そう言うと、シャルは少しだけ泣きそうな顔をした。

 

 けれど、すぐに笑った。

 

「ありがとう。僕に話してくれて」

 

「こちらこそ」

 

 俺は頭を下げる。

 

「今までありがとう」

 

「うん」

 

 シャルは夕焼けの中で、静かに頷いた。

 

「行ってらっしゃい、ダイチ」

 

 その言葉に、胸が少しだけ痛む。

 

 それでも俺は、笑って答える。

 

「行ってくる、シャル」

 

_____

 

 一通り挨拶を済ませた俺が最後に向かったのは、生徒会室だった。

 

 放課後の校舎はいつもと変わらず騒がしい。部活に向かう生徒の声や、廊下を歩く足音が響いていた。

 

 その音を聞きながら、生徒会室の前で足を止める。

 

 この扉を開けるのも、今日が最後だ。

 

 小さく息を吐いて、扉を開けた。

 

 夕日が差し込む室内。そこで一人俺を待っていたのは我らが生徒会長、更識楯無だった。

 

「遅いじゃない。待ちくたびれたわよ」

 

 いつも通りの声。いつも通りの笑み。

 

 それなのに、少しだけ胸が痛んだ。

 

「すいません。お世話になった人に挨拶していたもので」

 

「私は一番後回しってこと?」

 

「ええ。一番お世話になりましたからね」

 

 楯無さんは一瞬だけ目を丸くして、それから困ったように笑った。

 

「言うようになったわね」

 

「楯無さんに鍛えられましたから」

 

「あら、私のせい?」

 

「はい」

 

「もう、相変わらず可愛くないわね」

 

 そんなやり取りを交わしながら、俺たちは向かい合うように座った。

 

 いつもなら、ここから自然に会話が続いた。楯無さんは何かを言って、俺がそれに返す。何でもない会話をしているうちに、気がつけば時間が過ぎている。

 

 けれど、今日は違った。

 

「…」

 

「…」

 

 互いに言葉が出てこなかった。

 

 話したいことがある。伝えなければいけないこともある。

 

 それなのに、目の前に楯無さんがいるだけで、何から話せばいいのか分からなくなる。

 

 窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいく。

 

 その光に照らされていた楯無さんの横顔を見ていると、余計に言葉が詰まった。

 

「…すいません」

 

「えっ?」

 

「お茶でも淹れますね」

 

 逃げるような言い方になってしまった。

 

 けれど、楯無さんは何も言わずに、静かに頷いた。

 

「ええ、お願い」

 

 その声が、いつもより少しだけ優しく聞こえた。

 

 俺は立ち上がり、鞄に手を伸ばす。

 

 今日のために持ってきた急須と湯呑み。そしてずっと開けずにいた茶葉の缶。

 

 それらを手にして、俺は部屋の奥に向かった。

 

_______

 

 数分後、彼はお盆を手に戻ってきた。急須と湯呑みが二つ。

 

 それを見ただけで、胸が少し疼いた。

 

 普段の生徒会室には、虚ちゃんが淹れてくれる紅茶の香りが漂っている。それなのに、今日の部屋に満ちるのは彼が淹れてくれた緑茶の香り。

 

「はい、どうぞ」

 

「ありがとう」

 

 私は湯呑みを受け取る。

 

 彼が向かいに座るのを待ってから、そっと口をつけた。

 

「…美味しい」

 

 思わず声が漏れた。

 

 彼が淹れてくれるお茶はいつだって美味しかった。けれど、今日のそれは少し違った。

 

 柔らかい香りと舌の上に残る甘み。ゆっくりと広がる旨み。苦味すら、優しかった。

 

「いつもより、何ていうか…甘いわね」

 

「あっ、分かってくれました?」

 

 彼は少しだけ嬉しそうに笑った。

 

「今日は奮発したんですよ」

 

 そう言って、鞄から小さな茶葉の缶を取り出す。

 

 それを見た瞬間、呼吸がほんの少し止まった。

 

「それって…」

 

「ええ。玉露です」

 

 彼は穏やかに笑う。

 

「大切な人との別れの時ですから」

 

 その言葉が、胸に落ちた。

 

 昔、同じようなことを聞いた気がする。彼と知り合って、まだ間もない頃。あの時はまだ、こんな日が来るなんて思ってもいなかった。

 

 私は湯呑みを持つ手に、少しだけ力を込める。

 

「…そう」

 

 それ以上、うまく返せなかった。

 

 彼は何も言わない。

 

 ただ二人で、静かにお茶を飲む。

 

 夕日が差し込む生徒会室に、柔らかな香りだけが漂っていた。

 

(こんな時間が、ずっと続けばいいのに…)

 

 そう思ってしまう自分がいた。

 

 でも、分かっている。

 

 彼は、もう行くと決めている。

 

「本当に行くのね?」

 

 気づけばそう尋ねていた。

 

「はい」

 

 迷いのない返事だった。

 

 その真っ直ぐさが、今は少しだけ恨めしい。

 

「そう……いつまで続ける気なの?」

 

「分かりません。でも案外、厳しい環境に適応出来なくて、すぐに尻尾を巻いて帰ってくるかもしれませんけどね」

 

 彼は冗談めかして言う。

 

 けれど、私は笑えなかった。

 

 そんなことをする人じゃない。この半年間、誰よりも彼を近くで見てきた私にはそれが分かってしまう。

 

 彼は、決めたことからは逃げない。たとえそれで、自分が傷つくことになっても。

 

「それに俺が帰る場所は……もうないですから」

 

 彼は、寂しそうに笑った。弱々しくて、今にも消えてしまいそうな笑顔だった。

 

 その顔を見た瞬間、考えるよりも先に言葉が出ていた。

 

「帰る場所ならあるわ」

 

「はい?」

 

 彼は驚いたようにこちらを見る。

 

 私は湯呑みを置き、彼を見つめ返した。

 

「何年だって…何十年だって……」

 

 声が震えそうになる。

 

 でも、ここだけは譲れなかった。

 

「私は、ダイチ君が帰ってくるのを待ってるから‼︎」

 

 言ってしまった。

 

 もう誤魔化せない。

 

 冗談にも、からかいにも出来ない。

 

 彼はしばらく私を見つめていた。やがて、ゆっくりと表情を緩めた。

 

「ありがとうございます」

 

 その笑顔は、さっきよりもずっと穏やかだった。

 

「それなら、安心して旅立てます」

 

 その言葉に胸が締め付けられる。

 

 安心して欲しかった。でも、本当は安心なんてしてほしくなかった。

 

__行かないで

 

__ここにいて

 

__私の隣にいて

 

 そんな言葉ばかりが喉元まで込み上げて来る。

 

 それでも私はそれを飲み込んだ。

 

 言ってはいけない。

 

 彼が前に進もうとしているのを、私が縛ってはいけない。そう思ったから。

 

 その時、放課後の終わりを告げるチャイムが鳴った。いつもなら何でもない音。けれど、今日は、終わりを告げる鐘のように聞こえた。

 

「もうこんな時間ですか…」

 

 彼は時計を見て、少しだけ名残惜しそうに呟いた。

 

「じゃあ、そろそろ俺は行きます」

 

「…気をつけてね」

 

 言いたいことは山ほどあった。

 

 それなのに、口から出たのはそんなありきたりな言葉だけだった。

 

「ありがとうございます。では…いつかまた」

 

 彼は深く頭を下げる。

 

 そして、扉へ向かって歩き出した。

 

 その背中が、少しずつ遠ざかっていく。

 

 笑顔で見送る。そう決めていた。

 

 最後くらい、彼が迷わないように。安心して旅立てるように。

 

 分かっている…分かっているのに‼︎

 

「行かないでっ‼︎」

 

 気づいた時には、私は彼の背中に抱きついていた。

 

「お願いだから、私の側にいて…‼︎」

 

 声が震える。涙が勝手に溢れて来る。

 

「置いていかないで…」

 

 子供みたいだと思った。情けないと思った。

 

 それでも、止められなかった。

 

 彼の背中は温かかった。その温かさが余計につらくて、腕に力が入る。

 

「刀奈さん…」

 

 彼が、困ったように私の名前を呼ぶ。

 

 その声が優しくて、また涙が溢れた。

 

 やがて、彼はゆっくりと私の手を外した。

 

「あっ……ごめんなさい」

 

 謝ろうとした。

 

 けれど、その言葉は最後まで続かなかった。

 

「っ………」

 

 唇に、柔らかい感触が触れる。触れているだけの優しいキスだった。

 

 一瞬、何も考えられなくなる。

 

 すぐに彼は離れた。

 

 頬を真っ赤にしながら、それでも真っ直ぐに私を見る。

 

「今はこれで許してください」

 

 彼は少し照れたように、けれどはっきりと言った。

 

「必ず、刀奈さんのところに戻りますから」

 

 泣きたいのか、笑いたいのか分からなかった。

 

 だから私は、いつものように笑おうとした。

 

「何それ、死亡フラグじゃない」

 

 ちゃんと笑えたかは分からない。涙は止まっていなかったし、声も震えていた。

 

 それでも彼は、少し困ったように笑ってくれた。

 

「そうならないように気をつけます」

 

「絶対よ?」

 

「はい」

 

「約束、破ったら許さないから」

 

「分かっています」

 

 彼はもう一度、深く頭を下げた。

 

「行ってきます。刀奈さん」

 

 その言葉に私は涙を拭う。

 

 せめて最後は。最後だけは笑って送り出したかった。

 

「…行ってらっしゃい、ダイチ君」

 

 扉が開く。

 

 夕日の光の中へ、彼の背中が遠ざかっていく。

 

 私は目を逸らさなかった。

 

 彼が扉の向こうに消えるまで、ずっと。

 

 やがて、静かに扉が閉まる。

 

 生徒会室には、私一人だけが残された。

 

 机の上には、まだ温かい湯呑みが二つ並んでいる。

 

 私は自分の湯呑みを手に取り、もう一口だけ飲んだ。

 

 さっきより少しだけ、苦かった。

 

________

 

 あれから10年が経ち、ロシアの代表操縦者を引退した私はIS学園に戻り教鞭をとっていた。

 

 かつて自分が生徒会長として歩き回っていた校舎を、今は教師として歩く。

 

 最初は少し妙な感じがしたものだが、人間というのは案外慣れるものらしい。今では出席簿を片手に教室へ向かい、生徒に小言を言い、職員室で資料を作る日々にもすっかり慣れていた。

 

 ただ、一つだけ慣れないことがある。

 

 彼からの連絡は結局この10年間一度もなかった。彼が生きているのか、それとも死んでいるのか。それすらも分からない。

 

 何が尻尾を巻いてすぐに帰ってくるだ、そんな気配すら全然見せずによく言えたものだ。

 

 そう思うたびに、少しだけ腹が立つ。

 

 でも、その怒りが本物かと聞かれれば、きっと違うのだと思う。

 

 怒っていなければ、待つことが辛くなる。だから、そうやって自分を誤魔化しているだけなのかもしれない。

 

_____

 

 放課後、職員室で授業の資料を作成していると声をかけられた。

 

「更識先生、ちょっといいか?」

 

「あっ、はい。何でしょうか?」

 

 織斑先生に話しかけられ思わず居住まいを正す。私が生徒だった時から変わらず鬼教師として生徒に恐れられていた。

 

「今何か失礼なことを考えていなかったか?」

 

「いえ、滅相もございません」

 

「まあいい」

 

 織斑先生は小さく息を吐くと、机の上の書類を一瞥した。

 

「少し頼みたいことがある。生徒会室に資料を忘れて来てしまってな。今、少し手が離せん。代わりに取ってきてもらえるか」

 

「分かりました。それにしても織斑先生が忘れ物なんて珍しいですね」

 

「私も人間だ。こんなこともある」

 

 淡々とした返事。その割には、どこか含みがあるようにも思えた。

 

「ほら、これが生徒会室の鍵だ」

 

 私は鍵を受け取る。

 

「では、行ってきますね」

 

 職員室を出ようとした時、織斑先生に呼び止められた。

 

「更識‼︎」

 

「何でしょうか?」

 

 振り返って尋ねると織斑先生は意味深な笑みを浮かべていた。

 

「そこまで急ぎの用事という訳でもない。ゆっくりしてくるといい」

 

「…?、了解しました」

 

 織斑先生は一体何を言いたかったのかは分からないが、とりあえず私は生徒会室に向かった。

 

_____

 

 楯無が出て行くのを見送った千冬は、大きくため息を吐く。

 

「やれやれ。あいつら(・・・・)には生徒だった時代から振り回されっぱなしだな」

 

「そんなことを言いながら結局世話を焼くあたり、二人のことが嫌いじゃないんですよね?」

 

 千冬の独り言を聞いていた真耶がからかう様に言う。

 

「ほう?山田先生は相当仕事をするのがお好きなようですね。更識先生が溜め込んでいる仕事は山田先生に回すように手配しておきましょうか?」

 

「それはないですよ、織斑先生〜」

 

 涙目になりながら千冬に抗議する真耶。

 

「じゃあ、無駄口叩いてないでさっさと仕事に戻れ」

 

 真耶を追い払った千冬は、誰にも聞こえない小さな声で呟く。

 

「私にこれだけ手をかけさせたんだ。うまいことやれよ、二人とも」

 

 遠くを見つめる千冬の目はとても優しいものだった。

 

_____

 

 とりあえず生徒会室にたどり着いた。ドアノブをひねると、鍵がかかっておらずドアはすんなりと開く。

 

 奇妙に思いながらも部屋の中に入る。

 

 

 

 

 

 

「遅かったですね、待ちくたびれましたよ」

 

 

 

 

 

 心臓が跳ねた。

 

 夕日で赤く染まる室内。逆光で顔はよく見えないが、その声だけで誰がいるのかはすぐに分かった。

 

「なんで…どうして……?」

 

 声が震える。

 

 目の前で起きていることが理解出来なかった。

 

 彼は少しだけ困ったように笑う。

 

「尻尾を巻いて逃げ帰ってきちゃいました」

 

「…」

 

「ってのは冗談で、まあ色々あったんです」

 

「色々って…」

 

「話すと長くなるので、その前に」

 

 彼は懐かしい仕草で、部屋の奥に向かう。

 

「とりあえずお茶淹れますから座って下さい」

 

「そっ…そうね」

 

 言いたいことは山ほどあった。

 

_どうして連絡してこなかったの

 

_今までどこにいたの

 

_本当に生きていたの

 

 けれど、私は何も言えないまま、10年前まで毎日のように座っていた椅子に腰を下ろした。

 

 彼がお茶を淹れている。

 

 ただそれだけの光景なのに、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 

 急須を扱う手つき。漂ってくる緑茶の香り。夕日に染まる生徒会室。

 

 まるで、この部屋だけあの日のまま時を止めていたみたいだった。

 

「どうぞ。熱いので気をつけて下さい」

 

「ありがとう」

 

 私は差し出された湯呑みを受け取る。

 

 息を吹きかけて、少し冷ましてから一口飲んだ。

 

「…ちょっと腕落ちた?」

 

「アハハ、手厳しい」

 

 彼は照れたように笑う。

 

 その顔を見て、ようやく少しだけ実感が湧いた。

 

 ああ、本当に帰ってきたのだ。

 

 10年前、私の前から去っていった人が。

 

 今、目の前にいる。

 

「まあ、10年もまともに淹れていなかったので」

 

「私を10年も待たせた上で、お茶の腕まで落として帰ってくるなんてね」

 

「返す言葉もありません」

 

「本当よ」

 

 そう言いながら、もう一口お茶を飲む。

 

 少しだけ苦い。

 

 でも、懐かしい味だった。

 

 そこから、私たちは少しだけ話をした。

 

 彼はこの10年のことを、詳しくは語らなかった。私も、無理に聞かなかった。

 

 ただ、ポツポツと言葉を交わす。

 

 お茶のこと。学園のこと。織斑先生が相変わらず怖いこと。今の生徒会が昔より少し賑やかなこと。

 

 何でもない話ばかりだった。

 

 けれど、その何でもない時間が、とても懐かしかった。

 

 10年という時間がなかったことになるわけではない。

 

 彼は昔より大人びていたし、私ももう生徒会長ではない。それでも、こうして向き合っているとあの日々の続きを生きているような気がした。

 

 そんな穏やかな時間が、しばらく続いた。

 

 彼が何かを言って、私が返す。

 

 私がからかって、彼が困ったように笑う。

 

 それは10年前と同じで、でも10年前とは少しだけ違っていた。

 

 不意に、会話が途切れる。

 

 湯呑みを置く小さな音だけが、生徒会室に響いた。

 

「…」

 

「…」

 

 その沈黙に、気まずさはなかった。

 

 けれど、さっきまでの懐かしい空気とは少し違った。

 

 彼がゆっくりと顔を上げた。

 

 それまでの飄々とした雰囲気とは打って変わって、その表情は真剣そのものだった。

 

「楯無さん」

 

「…何?」

 

 彼は私を真っ直ぐに見る。

 

「ずっと俺と一緒にいてくれませんか?」

 

「……それじゃ嫌」

 

「えっ?」

 

 予想外の返答だったのだろう、彼は目に見えて戸惑った。

 

 それがおかしくて、少しだけ笑いそうになる。

 

 だけど、ここは譲れない。

 

「ちゃんと名前で呼んで」

 

「…」

 

「あと、私に対してどう思っているかも、ちゃんと教えて」

 

 少し意地悪だったかもしれない。

 

 でも、当然だ。

 

 こっちは10年も待たされたのだ。

 

 曖昧な言葉で済まされてしまっては困る。

 

 彼は一度だけ目を伏せた。

 

 それから、何かを決めたように私を見る。

 

「刀奈さん」

 

「はい」

 

 その名前を呼ばれただけで、胸の奥が熱くなる。

 

 10年前、彼が最後に呼んでくれた名前。

 

 ずっと、もう一度聞きたかった名前。

 

「貴女のことが好きです」

 

 息が止まった。

 

 彼は逃げなかった。

 

 照れ隠しも、冗談も、言い訳もしない。

 

 ただ真っ直ぐに、私だけを見ていた。

 

「一生幸せにするので、俺と結婚してもらえませんか?」

 

 ずっと欲しかった言葉だった。

 

 何度も諦めようとして、それでも諦めきれなかった言葉だった。

 

 視界が滲む。

 

 それでも、返事だけは間違えたくなかった。

 

「…はい」

 

 声が震えた。

 

 でも、ちゃんと笑えたと思う。

 

「喜んで‼︎」

 

 そう言って、私は彼の胸に飛び込んだ。

 

 10年前より背が伸びて、身体つきもがっしりしている。

 

 それでも、少し慌てたように私を受け止めるところだけは、昔と変わっていなかった。

 

「おかえりなさい、ダイチ君」

 

 彼の腕が、そっと私の背中に回る。

 

「ただいま、刀奈さん」

 

_________

 

 

 季節外れの暑さもようやく鳴りを潜めた11月、私たちは郊外の山奥にある洋館を訪れていた。

 

 ここは六角家が所有する別荘。

 

 その裏庭の隅に、白い花に囲まれるようにして、小さな墓標が立っていた。

 

「ねーねー、ここってなんなの?」

 

 私に手を引かれた少女が、不思議そうに尋ねる。

 

 水色の髪を揺らすその子に、私は静かに答える。

 

「ここはね、お母さんとお父さんにとって、大切な人が眠ってる場所よ」

 

「たいせつなひと?」

 

「ええ。誰よりも強くて、誰よりも優しかった人」

 

「そうなんだ!わたしもそんなすごいひとになれるかな?」

 

「大丈夫よ」

 

 私は少女の髪をそっと撫でる。

 

「あなたも、ちゃんとその人のことを受け継いでいるから」

 

「???」

 

 小首を傾げる少女に、私は微笑みかける。

 

雪奈(ゆきな)

 

「なあに?」

 

「お花、置いてあげましょうか」

 

「うん!」

 

 雪奈は小さな手で白い花を受け取ると、墓前にそっと置いた。

 

「はじめまして。かみしろゆきなです‼︎」

 

 隣に立つ彼が、静かに目を細める。

 

 秋の風が、白い花を揺らした。

 

 まるで、彼女が笑っているようだった。

 

 

 





 まずは本作を最後までお読みいただいた皆様、本当にありがとうございました。

 この作品は2018年連載開始となっておりますが、原型は2014年に投稿していたもので、それを再投稿したものなので、完結までに12年もかかってしまった作品となってしまいました。途中何度も投稿が途切れてしまい本当に申し訳ありませんでした。

 それでも、更新を追ってくださった方、お気に入り登録をしたりしおりを入れてくださった方、そしてここまでお付き合いくださった方々のおかげで、どうにか最後まで書き切ることが出来ました。

 この作品はラストを決めて書き始めていた作品だったのでようやくこのラストに辿り着くことが出来てホッとしています。長い時間がかかってしまいましたが、ダイチの物語を最後まで届けることが出来て、本当に良かったです。なお、本編はこれにて完結になりますが、番外編を一話投稿予定です。そちらもお付き合いいただけると幸いです。

 最後になりますが、もし本作を読んで何か感じたことがありましたら、評価や感想をいただけるととても嬉しいです。頂けたらめちゃくちゃ喜びます…‼︎

 改めまして、ここまでお読みいただき本当にありがとうございました‼︎
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