プロローグ
「ただいま」
ランドセルを背負った少年が学校から帰宅する。
家の電気を点けてランドセルを自室に置きに行く。おかえりの返事はなく、しんとしていた。外の往来がうるさく感じる。
一般家庭であれば家族の温かい声で迎えられ、食卓を囲んで一家団欒が始まる。TVを見ながらだらだらしている父がいて、キッチンでトントンとリズミカルな音を奏でる母がいて、もしかしたら兄妹やペットの犬猫もいるかもしれない。
それは彼にはなかった。これが彼の日常である。
「ご飯作らなきゃ」
少年の名前は
春仁の家庭は
それでも彼は幸福を感じていた。
無償の愛を捧げてくれる母親がいて、気にかけてくれる叔母とその家族がいる。
「よし、できた。テーブルに運んで~」
春仁は自身が不幸だとは思わない。千葉から始まり、小2で大阪へ、1ヵ月前にこの家へと、度重なる転居の影響で転校が相次ぎ、幼馴染やクラスメイトと引き裂かれたとしても、彼は涙を流さなかった。
「うん。今日もおいしくできた。明日は学校終わったらお母さんのとこにいこっと」
春仁は良い子であろうと努めた。問題も起こさず、勉強も努力の成果もあり優秀。それは母に心配をかけたくない一心からである。
自分が泣くと母も泣く、自分が辛いと母も辛い。であれば自分が笑えば母も笑ってくれる。世の中はそれほど優しくない事を理解していない彼が、そう考えるのも仕方ない事だ。本当に、どうしようもない事なのである。
「おかあさん!」
「春仁。いらっしゃい。来てくれてうれしいわ」
白色が基調の部屋、彼女はベッドに横たわっており、その体には医療器具のケーブルが付いていた。手足は骨と皮だけと言っていいほど痩せている。
春仁は彼女に今日の出来事を楽しそうに話す。その笑顔は母親としての活力を湧きあがらせる。『この笑顔でまだ闘える』と。
彼女は癌《悪性新生物》を患っていた。
担当医からの説明では、肺から気管支、食道まで移転が進み、持ってあと1年だろうと言われている。
この事は春仁には秘密にしている。理由は言うまでもない。
しかし彼女は諦めない。当然だ。当たり前だ。不変の方程式と言っていい。愛する我が子を置いて旅立つ事を受け入れれる親など存在しない。
彼女は世界は優しくない事を知っている。大人であるほど欲深く、他人を蹴落とし排除する事で欲望を叶える人間。残念だが、彼女の伴侶でさえ例外ではない。愛しあい、将来を誓ったにも関わらず不倫と言う結末になって離婚している。
だからこそ彼女は、人間として――春仁の母として――女として、彼に教えを説いてきた。人としての在り方――男としての在り方を伝えて来た。
「春仁、ちゃんと覚えてる?」
「うん!ありがとうとごめんなさいはしっかり言う。だよね!」
「えらいわね春仁、おかあさんも春仁を自慢できてうれしいわ」
春仁は生来の素養として映像記憶能力がある。それに付随して記憶力がかなり良い。そのため母との会話を全て覚えている。その中には様々な事柄がある。他人に見返りを求めてはいけない事。相手からの感情はキチンと受け止める事。誰かを思いやれる心を持つ事。善悪の判断等、挙げればキリがない。
彼女は今の春仁に理解できない事は十分解っている、いつか解る時が来る――いつか解れば良い。それでいいのだ。
「昨日は何を食べたの?」
「んーとねオムライス作って食べたよ!」
「あら、もう作れる様になったの?すごいじゃない。」
「えへへ♪ 褒められちゃった。 えっとね、料理の本覚えてさ、やってみたらできちゃった。美味しかったよ!」
母と子のを見守る医師の心境とはいかがなものだろうか。旅立ちに抗い闘う母と、それを無意識に支える子。それを直視して共感してしまったら、その場にいる事はひどく困難だろう。
「じゃあそろそろ帰るね。明後日にまた来る!」
「わかったわ、待ってるわね。いってらっしゃい。春仁」
「行ってきます。 あはは、家じゃないのに違和感ないね」
「ふふっ そうね、おかしいわね」
春仁が病室を去ってから彼女は涙を流した。
月日は流れ。春仁の日常は変化なく過ぎていった。彼も中学1年生になっていた。母の見舞いもほぼ毎日行っている。
春仁はいつもの様に病院に行った。何やら院内が騒がしく感じるが、気にせずそのまま母のいる病室へ向かう。
「春ちゃん!早く来て!」
突然叔母に手を引っ張られ駆け出す、叔母は涙を浮かべていた。それを見て状況を察した春仁の心臓がどくんと跳ねる。急がなければ。速く。もっと速く。彼は暴れる心臓を抑えようと胸に手を置く。そして、ひどく遠く感じた10メートル先の病室へたどり着く。
「は……ひ…ぉ…」
「母さん!」
「…かえ……さぃ…」
「――っただいま…」
春仁は理解した。母が旅立つのだと、自分を待っていたのだと。
涙が溢れる。体が渇いてしまうほどに流れ出す。
彼には担当医師のすすり泣く声も、叔母の嗚咽も聞こえない、深呼吸をして、ただ母の
「ご……ね…」
「ううん、ありがとう母さん。」
愛を捧げてくれた感謝、待っていてくれた感謝。
旅立つ母に見せるのは笑っている自分がいい。春仁は彼女を思いやり、送りだす。
「うぐっ…いっ…てらっ…ひぐっ…しゃ…い、おかあ…さん…」
「………って……す――――――
医療機器の電子音がピーと鳴り、心音停止を告げる。彼女は亡くなり神となった。
彼女の顔は笑顔だった。旅の到着地点が辛かろうと。春仁に笑顔で送り出された彼女は、どんな事があろうと全力で闘える確信が持てる、そんな安らかな笑顔だった。
「――――――うっぐぅ…えぐっ…」
「春ちゃん…よくがんばったね…妹を看取ってくれてありがとう」
声が嗄れるほどに叫び、喉が裂ける様に吼える。出でた声が天まで届くようにと願い、彼女へ最大級の感謝を贈る。
春仁は叔母である比企谷真里の養子となって、従兄妹の兄妹と暮らすことになった。