気が付けば今日の授業は終わっていて、教室はがらんとしていた。
午後の授業はなんだっただろうか。あまりよく覚えていない。ノートを見直してみたらちゃんと俺の字で書いてた。記憶にないのにな。
俺はそれほど腹が立ってたのかと反省する。
テニスコートで頭が熱くなって、怒鳴って…あいつらに気を遣わせてしまった。
俺もまだまだって事か。
しかし、よく手を出さなかったと思う。
いつのまにかグッと握りしめていた左手の力を抜く。
手のひらを見てみると爪の後が赤くじんわりとついていた。
俺は冷静に考える。
さっきのでわかった、わかってしまった。葉山君は何も成長していない。ユキが酷い目に遭ったことも、アメリカに留学した真相も、一切気づいていない。会えなくて寂しいくらいにしか思ってないのだろう。
ユキの事も戸塚君の事も、最早過去の事だ。今更何を言っても変わることなどない。
何故アイツが他人の心を、気持ちを踏みにじって、平然としてられるのか分からない。俺の怒りは既に消え失せていた。
「あの…春仁君」
「…あぁ、相模さんか。どうした?」
「えっと…みんな帰ったのにまだいるから…何かあったのかなって」
「そんな顔してたか…ありがと相模さん。大丈夫だから」
「あっ…うん」
俺は教室を出て奉仕部へ向かう。
「すまん。遅くなった」
「こんにちは。ハル」
「おう」
「結衣は?」
「オトモダチとお話。だそうよ」
「柊君。声かけても反応ないんだもん。寝てるかと思っちゃった」
「すまんすまん。少し考え事しててな」
どうやら昼間の件について話してたようだ。俺は素直にみんなに謝罪し、みんなはそれぞれの言葉で俺を許してくれた。
「春仁、葉山はどうするんだ?あの言い方だとサッカー部に乗り込んでやり返すのか?」
「その選択肢は最初に考えたけど、俺は戸塚君に謝罪してもらいたいな」
八幡が「だよな」と言う。
俺はアイツと同レベルの事をするのが恥ずかしい。
アイツは“みんな仲良く”が根幹にあるのだろう。あの場を丸く収めようとした。それ自体はいい。
しかしそれは状況によりけりだろう。戸塚が怪我をしているのがわかっているなら、気遣う一言があって然るべきではないか?
「ボクはいいんだけど…ケンカはよくないよ?」
「普通は戸塚が許せば終わりなんだが…春仁はそれじゃ納得できないってよ」
「あぁ、納得はできない。じゃあみんなは納得できるか?自分の“友達”が一生懸命がんばってる事を蔑ろにされて、黙ってられるか?」
「スマン春仁。それは俺も無理だ」
「私も我慢できないわね。由比ヶ浜さんのクッキーの時がそうだったわ」
「うん。自分なら我慢できるけど、ボクもそれはイヤだな」
ここにはいない結衣もきっと同じ考えだ。伊達に1年間友達やってないからな。それくらい分かる。
そうしたら三浦さんを連れて結衣が部室に「やっはろー」と戻って来た。いつもより元気がない。
結衣の後に続いて三浦さんが入って来た。正直意外だった。
彼女は結衣と昼の事を話してたのだろう。少し俯いており、表情が少し暗い。
ひとまず、結衣に椅子を用意してもらい、彼女に座ってもらった。
「優美子がね。みんなに話あるんだって。ハンパな気持ちじゃないから聴いてほしいな」
少しの沈黙の後に三浦さんが口を開いた。
「戸塚、部活の邪魔して…ごめんなさい」
「三浦さん…ボクはいいんだけど、ボクを友達だって言ってくれてる人たちが納得できないと思うんだ。だからね。理由を教えてほしいな」
三浦さんはこちらを見る。俺達は彼女と目線を合わせて小さく頷いた。
「戸塚が羨ましかった。一生懸命テニスやって、それを支えてくれる人がいるのがすごく羨ましくて…気付いたらあんな態度取ってた…ほんと…ごめ…んなさ…ぃ」
「うん…わかった。もういいよ三浦さん」
三浦さんは涙を流しながら本心を打ち明けてくれた。彼女も一生懸命にテニスやっていたのだろう。
俺たちは彼女が話し終わるまで静かに聞いていた。結衣は優しく微笑んで彼女の頭を「よしよし」と撫でていた。
三浦さんがひとしきり泣いた後、結衣が「ちょっと行ってくるね」と言って彼女を連れて出て行って、数分後に戻って来た。
おそらくメイクを直しに行ったのだろう。目は赤く腫れているがスッキリとした表情をしていた
その顔は凛々しく、俺は少し見惚れてしまった。
「三浦優美子さん」
「ひーらぎ…なんだし」
「俺も貴女を巻き込んだ。ごめん。それと戸塚に謝りに来てくれて、ありがとう」
「…ひぐっ…うぅぇ…」
あ、俺やらかしたか?
「ハル…貴方意外と鬼畜なのね。何度女性を泣かせれば済むのかしら?ほら三浦さん、温かい紅茶よ」
「やっぱ春仁は鬼いちゃんだな」
「優美子~よしよし。ハル君…前科あるんだ」
「なんだお前ら!俺を犯罪者みたく言うな!心に来るだろ」
戸塚君はこの状況を見てすっごくいい笑顔をしている。
「あら、私も由比ヶ浜さんも、貴方に泣かされているのだけれど?」
「っぐ!…その話は俺に効くからやめてくれ」
「春仁…一体何やったんだ?自首したら楽になるぞ。多分」
「八幡。犯人わかってんだから出頭な。ってそうじゃねぇよ」
「「ぷっくく…あはははは!」」
戸塚君と三浦さんがお腹を抱えて笑い出した。
ユキと結衣が微笑んで、俺と八幡が眉をハの字にして肩をすくめる。
三浦さんが元気になった様でなによりなんだが、こいつらにはいずれお灸が必要の様だ。
葉山せんぱいの様子が少しおかしい。いつもは“彼の”マネージャーに愛想振りまいてるのに、今日は少し暗く見える。なんだか調子狂っちゃう。
わたしがサッカー部に入部したのもマネージャーとして葉山せんぱいに認められたかったから。
だからわたしは手を抜かない。がんばってる“一色いろは”をみてほしいから。
認められたわたしは、どんな景色を見れるのだろうか。わたしはそれが知りたい。
あの時に泣いてたわたしを助けてくれた人と同じ景色が見れるだろうか。
仕事しないマネがひそひそ話してる事が耳に入る。わたしは自然と聞き耳を立ててしまった。
聞こえて来たのは『柊先輩と葉山先輩が揉めた』って事だった。
――柊せんぱい。わたしはまだ見た事がないけど、葉山せんぱいと同じくらいの有名人。
だけどわたしはまだ見た事がない。どんな人なんだろうか…
柊せんぱいに聞けば葉山せんぱいが暗い事もわかるかもしれないと思い、私は他の女子マネから奉仕部の事を聞き出してそこに向かった。
特別棟の4階の端に電気がついてる教室があった。わたしはそこの扉をノックする。中からの『どうぞ』に応える様に扉を開けた。
「こんにちはぁー」
そこには5人の生徒が談笑していた。リボンの色から全員2年生である事がわかった私は“可愛い後輩の私”に切り替えて話を切り出そうとした――のだけど…
「柊せんぱいっていらっしゃいますかぁ~?」
この声だったらだいたいの男子はイチコロのはずなんだけど、2人の男子の内1人は『げっ』みたいな顔してもう1人はこっちすらみていなかった。なんだか負けたみたいで「むぅ~」って頬っぺた膨らましてしまった。
「ハル、貴方に用があるみたよ」
「あぁ、はいはい。俺だけど、どちらさま――って。あれ?…どこかで会ったことあるような…」
「えっ」
うそ…もしかして…あの時の人?
「君さ…小学生の時に東京で迷子になった事ない?」
「…あ、あります…もしかしてあの時に助けてくれた人…ですか?」
「ハル…貴方よく覚えてるわね。私は雪ノ下雪乃よ。貴女のお名前は?」
「一色いろはです」
「あたしは由比ヶ浜結衣。よろしくね。いろはちゃん」
「あーしは三浦優美子」
「戸塚彩加です。よろしくね。一色さん」
「…比企谷八幡」
由比ヶ浜せんぱいが、椅子を用意して私を座らせてくれて、雪ノ下せんぱいが、紅茶を入れてくれた。
一息ついた所で雪ノ下せんぱいが「ハル、覚えてるなら話してほしいのだけれど、迷子なんてどこにでもいるでしょ?」と言って、柊せんぱいが話し始めた。
「だいぶ前だな、俺が用事で東京駅に一人で行ってた時なんだが、用事済ませて帰ろうって時に泣いてる女の子がいたんだ。それが迷子ってすぐわかってな。場所が場所だから心配になって、大丈夫?って声かけたんだ。そしたらままぁ~!って大泣きしてな」
――っ!あってる!うひゃああ!はっはずかしいよぅ! でもすごい…ちゃんと覚えてくれてるんだ…
「そんなのほっとけないだろ?だから一緒におかあさん探そうと思って、駅の迷子センターに連れて行こうとしたんだけど、怖がって動かないんだ。しかもあまりにも泣くもんだからぎゅってだっこしたら泣き止んでくれたんだけど、そこから手を繋いでたら普通にしてたんで安心できた。でも少し離れたら泣きそうになってな。あの時はヒヤヒヤしたわ。」
――ああああああ…やばいですやばいです。顔がすっごく熱いです。
「最終的に、お母さん見つかってお礼言われて終わりだと思ったんだけど、手ぇ離したらまた泣いてな。おかあさんも困っちゃってな、結局夕飯一緒に連れてってもらったわ。これがその時のエピソードだ」
「はわわわわわ…ちょっ!ひいらぎしぇんぱい!なんでそんなことまで覚えてるんでしゅかぁ!今いわなくてもいいと思うんですけどぉ!」
わたしの恥ずかしいエピソード暴露されてますよね!これってひどくないですか!
でも…ほっとけないとか、手を繋いだとか…あうあう。
「春仁の記憶力やべぇな…由比ヶ浜も分けてもらえよ」
「ほんとに!?ほしい!」
「結衣、あんたなにいってんだし、できるわけねーし」
「一色さんの反応を見る感じだと本当みたいね」
「まさかここで会うとは思わなかったな」
わたしもそう思う。柊せんぱいをあの人だと認識してから胸のドキドキがすごい。男子を手玉に取る時はもちろん、葉山せんぱいと話す時ですらこんな風になった事はない。その時わたしは自分の気持ちを知ってしまった。
でもその前に確認しておきたい事がある。さっきまで忘れてたけど。
「あの柊せんぱい。実は聴きたい事がありまして」
「ん、なんだ?」
「葉山せんぱいとどんな事で揉めたんですか?」
その話を聞いたわたしは、いろいろな事がどうでもよくなった。それほどの衝撃だった。