「…マザコン。ですか」
何を言われているのかわからなくて固まってしまった。
母はすでに亡くなっているのにコンプレックスが存在するのだろうか。
はるのちゃんはそのまま続ける。
「自覚ないみたいだね。世間一般でいうマザーコンプレックスとは別物だよ。そしてひどく歪だ」
「はるひとにそんなトコあるようにはみえませんけど…」
いろはがそう言ってくれるのは嬉しい。しかし、はるのちゃんの言うマザコンの意味がわからない。
彼女は“あえて”と言った。つまりそれほど深刻な状況ではないのだろう。
「ジン君はさ。今の状況が恵まれてるって考えてるよね?」
「それは…そうですね」
「小学生の頃から家にご両親がいなくてひとりな事が当たり前だと?子供が親に甘えれないって事は異常じゃなくてなんなの?」
「はるひと。お母さんに甘えた記憶…ありますか?」
「……あんまりないかな」
親に甘える事とはどういう事だろう。俺にはそれが解らない。
真里さんの様に住ませてくれることだろうか。それとも小遣いをくれる事だろうか。
桃花さんの様に病気の時に助けてくれる事だろうか…。
「はるのちゃんは、俺が愛情に飢えてるって言いたいのかな?」
「ちょっと違うね。愛情を欲してるんじゃない。涸れてる事が普通になっちゃってる。それは危険だよ」
ひとまずは今どうこうできる事じゃないみたいだ。はるのちゃんは俺達をいろはの家まで送ってくれた後「雪乃ちゃんの件、よろしく。それと、いろはちゃんと仲良くね」と言って、去って行った。
いろはの家に上がらせてもらう。巌さんは風呂に入っている様だ。「はぁ~」と、間延びした声が聞こえて来る。桃花さんはまだ帰ってない、買い物にでも行っているのだろう。
いろはの部屋に通された俺は、適当な場所に腰を下ろした。
「わたし、なんとなくはるせんぱいの言ってる事が分かる気がします」
自分の事は他人の方が良くわかるものだ。それがいろはであればなおさらだろう。
いろはが予想外の言葉を口にした。
「わたしにもっと甘えて下さい」
「…甘えるって事がよくわからんのだが」
「じゃあ、わたしが甘えさせてあげるのでもっともっと素直になって下さいねっ」
「お、おぉ。お手柔らかに頼むわ」
俺達はいつも通り手を繋いで、なんでもないような会話をする。気付けばもう日が暮れていた。
ここ最近、いろはの家にいる事が多く感じる。ストーカーの件もまだ解決はしていないから問題はない。
しかし、こう。アレだ。俺が「お邪魔します」と言って上がろうとすると「だめ。やり直し」と叱ってきて「ただいま」と言わせるのは勘弁してほしい。
玄関が開く音が聞こえた。桃花さんの声が聞こえる。ふたりでリビングに向かい、挨拶をする。
「春仁くん。どうしたんだ?何か悩み事でもあるのか?俺達でよければ聞かせてくれないか?」
巌さんが俺の表情見て話しかけて来た。そんなに分かり易い顔をしているのだろうか。
夕食の用意を済ませた桃花さんも巌さんの隣に座ってこちらを見ている。彼女も俺の相談に乗ってくれる様だ。
「…今日。昔の知人に会って言われたんですが――」
はるのちゃんとのやりとりを話す。俺の今までの人生の事も。何もかも全て。隣で聞いているいろはも真剣そのものだ。彼氏とは言え結局俺と彼女は他人だ。それでもこんなに親身になってくれるいろはには頭が上がらない。
父を知らず、母の愛を認識していない。それは今は理解できている。それ自体はいい。はたしてこれは問題なのだろうか。そこが解らない。
「春仁くん。 焦る必要などない。 ひとりで抱え込む事なんかないんだよ」
「私もそう思うわ。 いろはもいるんだし。 ふたりで乗り越えてみなさい」
乗り越える対象がよくわらないけど。いろはと一緒ならなんとかできそうではある。そんな気がする。ちなみに夕食を呼ばれた日は泊まらないといけないルールができていた。いつのまに!俺は聞いていない!
ルールができたのはついさっきだそうだ。
「………うぅ…恥ずかしい」
耳まで赤い。俺に「甘えさせてあげます!」って言った時の顔は見る影もない。
団欒も終わり、ふたりでいろはの部屋に入る。いろはがベッドに座りとなりをぽんぽんと叩く。『来い』の合図だ。決して『おいで』とか『来て欲しい』ではない。
いろはの隣へ座ると彼女がそっと頭を撫でて来た。なんだか少し恥ずかしい。
「はるひと」
太腿あたりをぽんぽんとしている。実際はぺしぺしなのだが。今はどうでもいい。
素直に従って彼女の太腿に頭を乗せた。――良い香りがする。
彼女はしばらく俺の髪を撫でたり手櫛ですーっとしたりしてた。
「…っ」
「はるひと。首弱いんだね」
クスクスと笑う。俺は首と言うか、うなじがかなり弱い。誰かに触られると体が少し強張る。
「…っちょ」
「うふふ♪」
うなじを指でなぞったり、髪を撫でる時にわざとうなじまで手を滑らせたり。顔が熱くなるのを感じるが、恋人は楽しそうだ。
いじくられて悶える。くすぐったくていろはのお腹に顔を埋めてぷるぷるしてしまう。
「リラックスしてくださいね~」
「…じゃあ首触るのやめろ」
はい♪と可愛い返事をして、俺の耳をぐにぐにと揉みだした。
「ん~。手前は綺麗ですけど、奥はそんなにですね」
「――!」
耳の穴をカサカサと柔らかい綿棒で撫でられる。顔の熱がすごい事になっている。
「――!」
「じっとしててくださいね~」
鼓膜に傷いっちゃいますよーと言われるが、無理なもんは無理だ。
いつしか俺は身体をだらりとして、いろはに体重を預けていた。アレだ。身体に力が入らない。
「―――♪」
「――!」
反対の耳もカサカサと掃除してもらった俺はぐっだりしていた。
羞恥心にまみれているからという事もあるが、何より動くのが嫌になるほど心地よかった。
「…ふーっ」
「うあぁぁ――」
俺の変な声を聴いた恋人はうふふと笑う。当の俺は恥ずかしくてまたもやいろはのお腹に顔を埋める。そこしか顔を隠せないのだ。
「耳も弱いんですね~」
「ぐぅぅ…」
恋人からの耳掃除は終わった。終わったのだが。なんだろう、彼女から離れたくない。これが甘えるという事なんだろうか。
「…はるひと――んっ」
キスをされた。触れ合ったり、
いろはの顔は紅潮して、いつもよりも色香を感じる。
「大好きです」
もう一度キスをしてベッドに潜り込み、眠りについた。普段は俺が抱きしめているのだが、今日はいろはが俺を抱きしめてくれた。
谷間に顔を埋めて目を瞑ると、肌の温かさといろはの香りに包まれる。髪を撫でる手からは慈愛を感じる。一定のリズムで鳴る
はるせんぱいが言っていたマザコンの意味。最初は全く分からなかった。
歪と言われてやっと気付いた。彼は両親からの愛情を体験していない。あの短い会話でそれがわかるはるせんぱい、恐ろしい人。
『いろはちゃんと仲良くね』
この言葉はきっとわたしに対しても発せられている。
羞恥心にまみれた時だけ出てくる子犬みたいな彼、あれはきっと本性だ。甘えたいけどやり方を知らない。そんな気がする。ソースは女の勘。
だからわたしは甘えさせた。彼は見た事がない顔をして、しらない反応をして。いつもと違う顔で眠っている。わたしより年上で、わたしより大人な雰囲気出してるのに、今は子供みたいに思える。
「カッコいいのも好きだけど、可愛いのもいいですね」
こう。ぐっとくる。ギャップ萌えってやつだ。いろんなギャップを見て来たけど、ここまで真逆になるのは初めてだ。
「わたしも甘えたいけど…」
どっちも嬉しい事に変わりはない。私を包み込んでくれる、私にだけ見せてくれる。
「甘えてもらうのも悪くない…」
これダメな奴だ。はるひとには天然で人を依存させるフェロモンでも出てるのではないだろうかと妄想してしまう。
実際に、ユキせんぱいは既に依存してるだろうし、わたしも依存してる。
「おやすみなさい。はるひと」
恋人の寝息を肌に感じつつ、意識を手放した。
あの日から数日が経過した。わたし達はふたりで比企谷宅を訪問している。
――ひゃんひゃん!
少しづつではあるけど、はるひとが自分から甘える様になってきた。ふたりっきりの時限定だけど。それでも前進はしてる停滞ではない。
比企谷せんぱいの誕生日があと数日な事もあり、小町ちゃんに会いに来たのだが。
――ひゃん!ひゃん!
比企谷せんぱいは結衣せんぱいの家族に呼ばれて舞鶴に海水浴に行ってるらしい。――何それ羨ましいんですけど。わたしも海行きたい!
あとではるひとにおねだりする。絶対する。あ、水着を買いに行かなきゃ。
「こんにちは!いろはさん!おかえりハルにぃ!」
「…なんでサブレがいるんだ?」
そう、さっきから
「結衣さんが家族で旅行に行くから預かって欲しいってウチに連れて来たんですけど。流れでお兄ちゃんも行くことになちゃってですねー。…アハハ」
家族ぐるみで誘拐するんですか。わたしもそれ今度使いますね。幸いわたしの両親は、はるひとの事を息子の様に扱ってるので障害らしい障害はありません。
温泉で混浴…とか…?――はわわわ。
――ひゃんひゃん! ちょっとサブレちゃん?うひゃあ!足を舐めちゃダメぇ!――っこの~!
「じゃあ旅行中は俺がこっちに帰って来ようか。サブレの散歩もあるだろうし。小町も受験勉強しないとな」
小町ちゃんは総武高校を受験するみたい。それはそうだ。大好きなお兄ちゃん達がいるんだし、当然だろう。
「お兄ちゃんの誕生日は肝心のお兄ちゃんが旅行中なんですよねー。プレゼントはどうするの?」
用意しない理由はない。わたしもはるひとも何にしようかと話してた所だ。当日でなければダメな理由もない。気持ちなのだからいつでもいいと思う。
「俺たちは用意するぞ。小町はもう用意してるんだろ?帰って来てから渡してやろうぜ」
賛成賛成!ユキせんぱいも呼んでまた楽しくぱーりーしましょう。うぇーい。また木材せんぱいの邪魔が入らなければいいのですが。
「いろはさん?そんなにサブレ気に入ったんですか?」
「かわいい~!よしよし。いいこだね~♪」
サブレをなでくりまわしてた。可愛いは正義。えっへん。
小町ちゃんも比企谷せんぱいがいないから寂しかったみたい。わたしもここに泊めてもらおうかな。最近、はるひとがいたら基本なんでもオッケーなお父さんとお母さんが少し心配。
「それじゃ。水着買いにいきましょう!」
「おう、じゃあ小町。また明日な」
小町ちゃんが元気よく送りだしてくれた。
マグザムの後部座席に跨る。
「しゅっぱーつ!」
「かしこまりました」
目指すは渋谷!店は適当でいい。なんかいいやつあるでしょ。
途中、休憩をはさみつつお店を見て回る。
「どんな水着がいいですかぁ?」
「…ビキニだ」
大胆なのがお好みですか。そうですか。わたしのスタイルを侮ってましたね?実はわたし結衣せんぱいほどはないですけど、三浦せんぱいよりはおっきかったりするんです。
「わっかりましたー」
前は黄色だったから別の色にしたい。白や黒はわたしのイメージに合わないから除外ですね。
街を歩くこと数分。ショーウィンドウに明るい緑のビキニが飾ってあるのが眼に入った。さっそく彼の手を引いて、店内に入る。
「表のやつ試着してみたいです」
はるひとの顔がすごく赤かった。きっと彼もあれを着て見てほしいと願ったに違いない。思ったのではなく、願った。これ重要。
体のラインがかなり出るからパレオも用意してもらった。腰あたりは白色で裾の方がオレンジになっていた。水着の緑色と相まって、トロピカルな雰囲気がする。
さっそく試着室に入り手早く着替える。
「……はるひと」
こんな格好で人前に出るのはやっぱり恥ずかしい。だから試着室の前まで来てもらった。
「ど…どう?」
――絶句。はるひとが固まってた。それだけでわたしに見惚れている事がわかってしまう。『似合ってる』それ以上の言葉を探しているのだ。わたしはそれだけで嬉しくなってしまう。
「あー…似合ってる…じょ」
ふふっ。また噛んでる♪
他にもいろいろ試着してみたけど、この水着ほどの反応はなかった。
水着を入手したわたしはそれを着るための計画を立てる。
「場所は太平洋側だったらかなりあるし、行き当たりばったりでも問題なさそうだな」
楽しみで仕方ない。いっぱい彼に甘えて。いっぱい彼に独り占めしてもらいます。
始めて本気で好きになった人と行く始めての旅行まであと数日。
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