試合の経験が薄い石田文悟の為に御幸一也が発案し、滝川・クリス・優が主導して開催された野球教室が今日もクリスの部屋で開催されていた。
「本当にクリス塾はタメになる」
一軍投手陣の中では一番最後に塾生となった丹波光一郎はそう言ってメモを取る。
講師は当然ながらクリスが行い、サブとして御幸が補助するこの塾に一軍投手陣は必ず集まるが最上級生というプライドが足を遠ざけさせていた。
「だから、その名前は止めろと言っているだろう」
秋大会で自身が怪我をしたこともあって残る投手陣に迷惑をかけてから下らないプライドに固執することを止めた丹波の発言にクリスが顔を顰める。
「いいじゃないか、クリス塾で。分かり易くて俺はいいと思うぞ」
「そう言うなら宮内。自分の名前が使われた時のことを考えてみてくれ」
「御免蒙る」
ムフー、と特徴的な鼻息で応える宮内啓介の答えにクリスは発案者の御幸を見る。
「なんなら御幸塾に」
「いやぁ、俺も手伝ってますけど一番の先生はクリス先輩だし。なあ、文悟」
「何時もクリス先輩のお蔭で助かってます」
「しかしなあ」
クリス自身、講師をすること自体を厭うている訳ではない。
寧ろ人に分かりやすく説明する為には、自身がより理解していなければ出来ない。必然、塾を始める前と比べれば理解度は更に増していた。それでも気恥ずかしいことには変わりないのだが。
「人徳ですよ。御幸塾だと貫禄ありませんから」
「ほう、言ってくれるな川上」
「事実だろう?」
「確かに」
「文悟よ、そこは否定してくれ」
ツッコミを入れた丹波に文悟がオチをつけて一頻り笑う面々。
川上憲史が言った威厳云々はともかくとして、丹波などは相性が悪い御幸が主導していては絶対に来るはずがない。その反面、入学時から図抜けていた同学年のクリス相手ならば素直に教えを乞える面倒臭さが丹波にはあった。
「実際、性格悪いからな御幸は」
偶に冷やかしにやってくる倉持洋一が茶々を入れる。
「誰が性格悪いって?」
「ここにいる腹黒キャッチャー」
指差しまではしなかった倉持の発言を態と曲解して御幸は自分以外の捕手達を見る。
クリスは尊敬してる人だから駄目。
宮内は年上なので一応遠慮する。
となれば、残るのは同学年の小野だけ。
「だってさ、小野」
いきなり肩を叩かれて話題を振られた小野弘がビックリして御幸を見る。
「人に自分の称号を押し付けるところが腹黒いってことに気付け」
「しかも選んだのが断らなそうな小野の辺りが畜生さを感じさせるし」
丹波と川上の両投手のツッコミに御幸は思いっきり違うところを見て知らんぷりを決め込む。
文悟が青道に入学してから育成プランなどで話す機会が多くて御幸の本性など百も承知なクリスには意味の無いことであった。
「御幸が腹黒なのは今更なことだとして」
「ちょっ、クリスさん!?」
別に裏切りではないが接していた時間が長いだけに否定ぐらいはしてほしかった御幸が立ち上がる。
「諦めろ、御幸。お前が腹黒だというのは、みんなの共通認識だ」
「そんなっ!?」
クリス・文悟に次いで接する機会の長い倉持としては、どうして御幸がそこまで愕然としているのかの方が不思議であった。
「文悟、お前は違うって分かってくれるよな……?」
そして進退窮まった御幸が助けを求めるのは相棒である文悟である。
「みんながそう言うんなら仕方ないんじゃないか?」
「ぐふっ!?」
天然の文悟のトドメに御幸、ノックダウン。
「今日もオチが着いたところで解散にするとしよう」
人の部屋に持ち込んだ私物のクッションに顔を埋めてシクシクと自分で言いながら泣いたふりをしている御幸を放置してクリスが宣言する。
「まあ、人に擦り付けようとした時点で当然の報いだわな」
無視された形の御幸を嘲笑う倉持の横を通って早々に部屋に出たのは丹波と川上の2人。部屋に戻って復習するようだ。
「一也が良い奴だって俺は知ってるよ」
「文悟……」
「ほら、顔上げろって」
嘘泣きだと分かっても心配してくれる文悟に御幸は物凄く嬉し気に顔を上げた。
「もう少し早く言ってほしか――――あがっ!?」
穏やかな表情を一瞬で消した文悟を見た倉持が助けのつもりで御幸の頭を踏んでクッションに押し付ける。
「もう、お前喋るな。絶対その方が良いって」
名実共に相棒な文悟ですら倉持の言う通りだと思ってしまった。
「思っていることをそのまま言うじゃなくて、もう少し抑えた方が良いと思うぞ」
変に怪我をさせても問題になるので早々に足が除けられた御幸は体を起こしてズレた眼鏡を直し、文悟のアドバイスに頭を捻った。
「これでも8割ぐらいに抑えてるんだけどな」
「マジかよ……」
ズバズバと物を言い過ぎて丹波に苦手意識を持たれている御幸が、実は言いたいことの全部言っていないというのは倉持にとって大きな衝撃だった。
「え、俺って言い過ぎてる?」
「丹波さんに苦手意識持たれるぐらいには」
「ええ~、丹波さんには文悟に言っていることの半分も言ってないのに」
仰天ものの発言に倉持が思わずクリスを見ると普通に頷かれた。
「ここが駄目、あれが駄目、この時はこうすれば良かった、なんであれが出来ない…………丹波には言えないことばかりかもしれん」
「しれんじゃなくて言えないでしょ、あの人には」
丹波は強面な顔なくせに内面はノミの心臓と呼ばれるほど脆いことは1年以上共にいる野球部員達には周知の事実。
ピンチになると動揺して打たれるというケースが多く、秋では1年生の文悟に
「最近は吹っ切れて改善傾向にあるんだから少しは厳しくした方が良いと思うんですけどだけど」
「お前だけは止めろ」
「また逆戻りしたらどう責任を取るつもりだ」
「分かんねぇな」
ガラスの心な丹波と比べると昔から注目されていた御幸には理解できない心情なのだろう。
どちらかといえば御幸側の心持ちの倉持とクリスも理解はすれども、なんでそこまでと思っても言わない自制心があった。
「川上もそうだけどさ。自分の基準で物を言うの止めろ、な?」
「考慮はする」
「せめて言い方にだけは気をつけろ」
「…………分かった」
駄目だコイツ、とは思うものの御幸の言っていること自体は間違いではないので一概に責めることも出来ない。
どれだけキツいことを言っても糧にして成長する文悟を間近で見ていれば、丹波と川上に対して物足りないと思ってしまうのも無理もない面がある。
「そういや、クリス先輩は聞いてますか? 新入生が寮のどの部屋に入るか」
クリスや宮内がいる丹波と違って、確実に御幸が絶対的な捕手になるであろう夏以降の川上の心配を今しても仕方ないとクリスに違う話題を振る。
「ああ、俺が寮長だからな。本来はキャプテンの仕事なんだが」
「哲さんは通いですからね」
遅くまで片岡監督は寮の監督室やスタッフルームにいるので寮長と言っても大してやることはない。
生徒目線で今の部屋の住人と新入生が相性が良さそうか悪そうかの質問に答えたぐらいである。
「俺達の部屋にはどんな奴が来るんですか?」
興味を持った文悟が訊ねて来る。
「松方シニアの三塁手で金丸という名前の奴だ」
「シニアで2年前に全国ベスト4に進出したあの松方シニアの奴がね。ポジション被らなくて良かった」
入部時点から
幾ら全国ベスト4と言っても中には突出したワンマンチームや上級生が凄かったからというパターンもある。逆に全くの無名中学から進学してきて突出している選手が居たりする。
前者の突出したワンマンチームに居たのがクリスや御幸、後者の無名中学出身が文悟だったりする。
「もう1人、ベスト4の時の投手の東条という奴も来るぞ」
「む」
同じ投手が来ると聞いて文悟の目の色が変わる。
「…………素振りしてきます」
「じゃあ、俺も行きますか」
「倉持、投球バカが隠れて投げないように見張っておいてくれよ」
「了解」
一応、バットを持ってはいるが道具一式は取りに行こうと思えば簡単な場所にある。
今日、練習試合で完封勝利したばかりでも以前にも投げ込みをしていた前歴があるだけに1人で練習はさせてもらえない文悟であった。
「良い具合に競争心を煽りましたね」
人の部屋に大きな態度で寝そべっている御幸がクリスの手腕に感心していた。
「文悟には下の学年からの突き上げというのは経験がないだろうからな。実際の1年が文悟に危機感を抱かせる保証が無い以上は、この時期に煽るしかない」
「期待できる奴はいるけど、危機感を煽らせるほどじゃないだろうしな」
夏の予選で稲実に負けた後、今度は負けないと変化球習得を急いで投げ過ぎた文悟を心配してクリスが病院に付き添っている間に来た沢村栄純のことを御幸は思い出していた。
「クセ球を投げるというサウスポーだったか。丹波や川上に厳しいお前がそこまで言うほどとは思えんが」
疲労が溜まっていただけで怪我はしていなかった文悟に安堵したクリスは、戻ってから御幸に聞いた人物に少し懐疑的だった。
「と言いつつも、クリス先輩もトレーニングプラン考えるの手伝ってくれたじゃないですか」
「あれは文悟のものをダウングレードしただけで手伝いと言えるほどのものではない」
「もう、素直じゃないんだから」
このツンデレめ、とでも言わんばかりの御幸の言葉は完全に否定しきれない面もクリスにはあった。
(丹波と川上も復調してきているが、2人とも精神面にどうしても不安が残る。あの東さんに盾突き勝負までしたクセ球のサウスポーが戦力になれば儲け物だ)
実際、絶対的なエースとなっている文悟と、怪物と呼ばれた東清国を中心とした去年のチーム以上の強力打線で全国に行けないとなれば片岡監督の手腕が疑われる。
もしも全国に行けず、片岡監督を解任して新しい監督を呼び、文悟が酷使されて怪我をしたらクリスは校長を殴らない自信がない。
「本来ならば1年生は戦力にならん。過大な期待はしないことだ」
「俺とか文悟とかクリスさんみたいなのが毎年入ってくるわけないですしね」
早々に一軍に合流するような1年生が2年連続にいたので、そう言われると少し自信の無くなりそうなクリスだった。
「捕らぬ狸の皮算用をしても仕方ないぞ」
自身が文悟や御幸のように突出した選手だったと言う気はないが期待されていたのは確か。2年連続であったことが、二度あることは三度あるという諺もあるぐらいなので3年目もないとは決して言えない。
「確かに。1年がどうこうの前に、クリス先輩が戻ってくるんだから俺もウカウカしてらねぇ」
ゴォォォォォ、と御幸の眼に闘志の炎を幻視したクリスは苦笑する。
「まだ二軍に上がったぐらいで大袈裟な奴だ。一軍には宮内がいるだろう」
「宮内先輩には悪いですけど、俺にとって最大のライバルはクリス先輩ですから」
今や名実共に青道の正捕手となった男からの挑戦状とも取れる発言に、怪我から完全に回復したものの1年近くのブランクに不安が大きかったクリスの心に明らかな闘志を芽生えさせる。
「俺も最後の夏なんだ。正捕手の座を奪い返さんとな」
「文悟の相棒が誰なのか、体の髄にまで教えてやりますよ」
バチバチ、と混じり合った視線を弾けさせていたクリスはフッと笑みを浮かべた。
「例えどちらが正捕手になったとしても、文悟の力は120%発揮できる。そのことに関してだけは安心できる」
万全の文悟が全力を発揮出来れば今の青道が敗けるはずがないという確信がクリスにはある。御幸もクリスに文悟の全力を引き出すことが出来ると認めてもらえたことが嬉しかった。
だが、何時かは超えると誓った人に認めてもらえて素直に喜ぶなんて御幸の柄ではない。
「俺の方が絶対に上ですけどね」
「ふっ」
この人には人間として勝つことは恐らくないだろうなという嫌な確信が御幸にはあったが、クリスと正捕手争いを出来るということが何よりも嬉しい。
「去年の夏から覚えたカーブも仕上がって来ています。何よりもクリス先輩に今の文悟の
「まだ時間はある。確実に取って見せるさ」
カーブを完全に習得したことで進化したと表現できるほどのストレートの完全な捕球は御幸にも出来ていない。というのも、御幸とクリスであっても進化したストレートを取る際にどうしても予備動作が必要になるからで、事前にそれを投げると悟られては捕手失格である。
「ところで前から思ってたんですけど、なんで文悟って右打ちなのか理由って知ってます?」
大体、利き腕と連動する場合が多いが例外もある。御幸自身、利き腕は右手だが左打ちなように。
ついでの疑問をぶつけてみることにした。
「草野球で野球を教えてくれた人が左で投げるなら右で打った方が腰に負担が少ないと教わったそうだ」
「へぇ、物知りな人もいたもんで」
実際に夏後に投げ過ぎで故障の疑いで病院に行った際に気を揉んでいたクリスの前で、多少の疲労はあるもののどこにも異常がないので医者は「何で来たの?」と返したものである。
「どんな1年生が来るのやら」
戻って来た文悟を部屋の主のように出迎える御幸の脳裏には沢村栄純の顔がチラついていた。
新しい年が始まる。
ACT1はここまで。
次回からACTⅡで出来ているところまで連続投稿します。