後、財前はちょっと回復早めだった模様。
これ以上の練習を禁止されたのに影でする気満々だった沢村栄純と降谷暁。しかし、2人の同室の者に厳命していた滝川・クリス・優の方が上を行っていた。
『クリスさんからお前を部屋から出すなって言われてるんだ。すまんな』
降谷は同じ捕手として入学時から夏までの間にクリスが正捕手だったことを良く知っている小野弘に阻まれた。
『うが』
『上級生の命令は絶対だ、バカ村』
沢村は増子透に謎言語で止められ、倉持洋一にレスリング技で拘束された。
結果、22時前には就寝して早く目覚めたのだった。
「今日の試合、先発は降谷に任せる」
朝練は軽いランニングで終え、朝食後に集まった二軍達の前で片岡監督が告げた。
日曜日の為、学校は休みでも野球部にそんなものはない。
「降谷、調子はどうだ?」
部長である太田一義と副部長の高島礼がやってきた練習試合の相手の出迎えをしている頃、沢村とキャッチボールをしていた降谷の下へクリスがやってきて聞いた。
「少し寝すぎて体が固いような気がします」
二軍でという枕詞はつくが、練習試合には何度か出場しているのに不思議なぐらい体が動かし難い理由を降谷は寝すぎと判断した。
「なら、キャッチボールが終わった後はストレッチを中心にしておけ。固い状態で投げ続けても改善はしないからな」
「分かりました」
単純に緊張していることを見抜いたクリスは次に沢村を見る。
「沢村も4回から登板とはいえ、ブルペンで投げ過ぎないように」
「任せて下さい!」
「…………物凄く不安だ。とにかく、こちらが守りの時の敵打者はしっかりと見ておけ」
「クリス塾で言っていた、捕手のリードに任せるだけでなく自分でも考えて投げたボールは違うでしたね!」
「ああ、そうだ」
クリス塾は止めてくれないかな、と自身の名前を冠する2人の為に初級編に戻った勉強会の名称について思いを馳せつつ、2人を従えて試合が行われるAグラウンドに向かう。
その最中、宮内啓介と川上憲史と偶々に隣り合ってしまった。
「クリス……」
宮内は複雑気にクリスを見遣り、しかし直ぐに顔を逸らして少し顔色の悪い川上の背を押して先に進む。
「なんですか、あの反応は」
「そう言うな、沢村」
3年生だからこそナーバスになる気持ちは追い落とす立場にあるクリスだからこそ宮内の気持ちを察していた。冷たい態度だった沢村が憤っているのを諌める。
「知らないですむなら、それに越したこともない」
最後の夏を一軍で過ごせるか、二軍で終わることになるのかの瀬戸際に立たせる経験など可能ならば味わいたくない。追い落とす立場のクリスですら中々眠れなかったのだから宮内の気持ちは察するに余りある。
「両チーム整列!」
主審の号令に青道二軍と練習試合の相手である黒士館の者達が顔を上げる。
「行くぞ!」
『っしゃああああああああああ!!』
二軍のキャプテンを務めるクリスに呼応してグラウンド中央に向かう選手達。
『おおおおおおおおおおおおお!!』
黒士館も負けじと声を張り上げて青道に相対する。
「よう、クリス」
クリスは目の前に並び立つ黒士館の1人に話しかけられ、見知った相手であることに気付いて僅かに目を見張った。
「1年前に病院で会って以来だな。どうよ、肩の調子は?」
「完治したよ。そっちこそ足の調子はどうなんだ」
1試合出続けても何の痛みもない肩を擦りつつ、中学卒業前に甲子園で戦う約束を交わした財前直行の足の心配をする。
「よくはない。甲子園どころか試合に出るのもやっとだ」
自分は治った。だから、相手も治っているというのは都合の良い思い込みでしかなかった。
「悪いな、クリス。約束は守れそうにない」
「財前……」
「情けねぇ。本当に情けねぇよ」
目の前に立つ財前は後少し怪我が発覚するのが遅ければなっていたかもしれないクリスの姿だった。
「だからってお前達に負けてやる気はねぇけどな!」
財前にだって意地がある。
「俺は6回から出る。逃げんじゃねぇぞ」
「ああ」
固く握手して、礼の後にベンチに戻ったクリスはプロテクター類を付けて、マウンドに上がっている降谷の下へと向かう。
「お知り合いですか?」
「中学時代に少しだけな」
それ以上は降谷も聞かず、クリスも言わなかった。
降谷も投げたい病にかかっている時などは空気が読めない時があるが基本的な人間関係においてチョンボはしない。沢村は失言製造機なところがあるが。
「一軍昇格がかかっていると言っても、まずは目の前の打者に集中していくぞ」
「球は低めに、1イニングよりも一打者にですね」
「分かっているならいい」
意識と体は別なので、狙った場所にボールがいかないことも珍しいことではないが強く認識することは大切である。
降谷とのコミュニケーションを行い、マウンドから離れてベース後ろについたクリスは大きく息をする。
「しまっていくぞ!!」
例え最後の花道となってしまっても悔いのない試合をすることを誓い、直ぐにその考えを頭の端に寄せて打者に集中する。
「球が高い」
「うぐっ」
黒士館打者を三者三振に収め、四球を1つも出すことなく1イニングを終えてベンチに戻っている降谷にダメ出しを忘れない。
四球が先行しがちな自身にとっては中々の立ち上がりだと思っていた降谷はクリスのツッコミに喉の奥で唸る。
「高めに抜けることはなかったが殆どが真ん中付近に来ていた。打たれなかったのは球威と球速のお蔭に過ぎない」
「はい……」
「ボール球がないのは良いが、強豪校には通用しないぞ」
「低めに抑えて見せます」
丹波と違って精神的には強めに言ってもヘコたれないのでクリスも言い甲斐があった。
「低めにさえ決まれば、お前の球は全国クラスにも容易に打たれはしない」
「誰にも当てさせません」
「その意気だ。安定してくれば変化球も織り交ぜていくぞ」
目は口ほどに物を言うというが、降谷の場合は吹き出すオーラが目の代わりだった。
「ぐぬぬぬぬぬぬ」
「栄純君、凄い顔になってるよ」
トップバッターで出塁して、2番のバントと3番の犠牲フライで4番であるクリスと入れ替わるようにベンチに戻ってきた小湊春市は降谷が活躍していることに素直に喜べない沢村に恐々と告げるのだった。
「打ったぁ! レフトへ火の出るような当たりだ!」
「うぉお! 流石はクリス先輩!!」
しかし、沢村の猫目もクリスが二塁打を打つと簡単に消し飛んだ。
「いや、分かるんだけどさ……」
クリスの出塁に大喜びを体で表現している沢村に色々な意味で諦めた春市はバットを直しに行くのだった。
「内野ゴロ、外野フライ、三振…………低めにボールは集まっている。まあ、悪くない出来だった」
長打力を見込まれて5番に入っていた降谷は外野フライに終わった。
2回表のマウンドに立って投げた後、ベンチに戻ったクリスの良い評価に降谷は僅かに目を見張った。
「球威と球速まで抑えなければな」
上げて落とすとはこのこと。
喜んだ降谷はガクリと肩を落とした。自覚があっただけに反論の言葉は勿論ない。
「次の回が最後になる。低めに集めろとは言わないから力で捻じ伏せて見ろ」
どんな結果が出たとしても悔いが残らないように最後ぐらいは好きに投げさせてやろうとそんなことを言ったら降谷は荒れた。
「ボールフォア!」
その宣言がされたのはこの回だけで3回目。
「三連続四球で満塁だ!!」
暴れ馬のような降谷から手綱を離してはいけないと学んだクリスはマウンドに向かった。
「すまん、お前に任せた俺が馬鹿だった」
「先輩……」
もう少し言い方というモノが、という雰囲気を察しつつも、手綱を離した末路を垣間見たクリスに容赦はない。
「押し出しが一番怖い。制球の定まっていない変化球は禁止、ストレートを低めに抑えて来い」
手綱を繋ぎ直された降谷は気持ちを切り替え、内野フライ、三振、三塁側のファウルゾーンに飛んだフライを三塁手が捕球して役目は終了。マウンドを降りる。
「3回、5奪三振、被安打0、無失点、自責点0、3四死球、2打数1安打1打点。続いた四球はともかくとして、一軍のレベルには到達していると見て良いんじゃないですか」
ベンチにはいるものの片岡監督がいるので特にやることもない落合博光コーチとしては、降谷の素質を考えれば例え控えであっても一軍での高レベルな戦いを経験する方が夏以降のチームのことを考えれば得策と考えた。
「他の者も見てからです」
周りには他の者もいるので明言はせず、春市が出塁してクリスが返す姿を片岡監督はグラサンの奥で見守る。
「っしゃああああああああああああ!! ガンガン打たしていくんでよろしくお願いします!!」
降谷と代わって、4回からマウンドに上がった沢村が振り返りながら守備陣に声をかける。
(俺には
若干荒れているマウンドをスパイクで整えながら沢村は考える。
(他の投手の人みたいに変化球もない)
投球練習をして、深呼吸をしながらロージンを手に取る。
(クリス先輩に言われたように、今持っている力を全て出し切る!)
右手のグローブを握り潰しながら、右足はホームに向かって一直線に踏み出して遅れて来た左腕でボールを投げる。
「ストライク!」
軌道が全く読めずに急に飛び出して来たボールが内角高めに構えられたクリスのミットの中に収まった。
「ナイスボール!」
厳密にはボール球になりそうだったのをクリスが咄嗟にミットを微かに動かしてストライクゾーンに入ったように見せかけたのだが審判は見事に騙されてくれたようだ。
(ボールは走っている。次は外角に来い!)
降谷は
「ボール!」
外角は僅かにストライクゾーンを外れてボールになった。
「切り替えて行け!」
マウンドでは闘争心の塊で打たれても悔しさは見せない文悟と違って沢村はあからさま過ぎた。
叱咤の意味を込めて強くボールを投げ返すと、沢村はマウンド上で深呼吸を始めた。
「面白い奴だな」
「申し訳ない」
スーハースーハーと離れたバッターボックスまで聞こえる深呼吸に黒士館打者が笑い、クリスは穴があったら入りたい心境だった。
「あだっ!?」
深呼吸では切り替えが出来ていなかった沢村はど真ん中のボールを痛打されて、芯を外したとはいえ外野へのポテンヒットで一塁に進塁を許してしまう。
続く打者にはバンドをされ、沢村が処理にもたついている間にノーアウト一、二塁。
「くっ、またバント!?」
守備が下手と見抜かれた沢村を揺るがすようにバント攻勢が始まった。
「ボール!」
手が遅れて来るフォームだから投げている最中でも軌道変更が出来る沢村はストライクゾーンを大きく外した。
「沢村、迷うな!」
バントをされてもいいから思いっきり腕を振れと端的に込め、クリスはミットを構える。
「ああっ!? バント失敗! 勿体な」
沢村のクセ球は初見ではバントにすることも難しい。
打ち上げたバントの球と二塁ランナーを位置を見たクリスはボールをミットを持っていない手でキャッチしてそのまま投げる。
「アウト!」
ただ捕球して終わると思っていた二塁ランナーの戻りが遅いと見るやの送球。二塁ランナーは戻りが間に合わず、カバーに入っていた春市によってフォースアウト。
「2アウトだぞ、沢村! 落ち着いていけ!」
たった1プレーでノーアウト一、二塁から2アウト一塁に変えたクリスの発破に沢村が燃えないはずがない。
「ありがとうございます、クリス先輩! いや、クリス師匠と呼んだ方が良いですか?」
「絶対に止めろ」
続いた打者を内野ゴロに打ち取って無事に4回を終えることが出来た沢村のクリスへの尊敬度が天元突破していた。
「沢村の守備がヘタクソなのが相手に知られた以上、またバント攻勢を仕掛けられる可能性もある。協力を頼むぞ、前園、樋笠」
「はい!」
「任せて下さい!」
クリスが怪我を治して選手として復帰し、二軍に上がって来た時、1年近くブランクがある人が今更と前園健太と樋笠昭二は思った。
直ぐにブランクを感じさせないプレーの数々で疑念は遥か宇宙に消え去り、先程の痺れるプレーをしたクリスに任せられれば燃えないはずがない。
「さ、沢村がバントを決めやがった!? しかも打球の勢いを殺した絶妙なバントだぞ!!」
直後に3ベースヒットを打っていたクリスが楽々とホームベースへと帰って来た。
沢村は降谷と交代したので5番なのだが打撃は大味過ぎたのでバントをさせたら意外に上手かったパターンに青道全体からどよめきが生まれていた。
「バント処理が下手なのにバントが得意とは…………読めない投手だよな」
落合が顎を擦って見ている間に5回も投げた沢村はバント失敗、内野フライ、三振と徐々に調子を上げてまさかの三人で終えてしまった。
青道の時は点が入り、黒士館は2人の投手を打ち崩せないまま6回に突入する。
「嘗てシニアで鎬を削り合ったライバルで随分と差がついちまったな」
たった2年半しかない高校野球で1年を棒に振るブランクがどれだけ大きいかを実感している財前が代打でバッターボックスに入る。
「ムービング使いか。良い投手を見つけたじゃねぇか」
「育て甲斐のある奴だよ」
「はっ、良い面してんなクリス。無為に1年を過ごしちまった俺とは違ってな」
クリスは幸運だったのかもしれない。
怪我をしたことは不運と言えるかもしれないが、待っていてくれると言ってくれた相棒が居て協力してくれる後輩も居て、腐ることなく諦めることなく今この場所に居ることが出来ている。
「つまんねぇリードで逃げるなよ」
「心配するな。俺達が勝ってみせる」
此処が2人にとっての甲子園。
「しゃあっ!」
最後はインコースにフォーシームを投げ込んだ沢村の前に財前のバットを空を切る。
遊び球なしの3球三振で切って取り、マウンドで沢村が吠えた。
「3回2奪三振、被安打1、エラー1、無失点、自責点0、1四死球、2打数ノーヒット1犠打1打点。降谷同様にクリスのリードありきとはいえ、沢村も一軍の基準は満たしているんでしょうね」
そのクリスは4打数4安打1本塁打6打点。4番として十分な働きをして、捕手としても未熟すぎる1年投手2人を見事にリードしていた。
「対して川上は、被安打8、エラー1、失点2、自責点1、2四死球、1打数ノーヒット…………宮内もノーヒットで終わったとなると」
試合後、夜にクラブハウスで煙草を吸いながら落合コーチと共に話していた片岡監督は紫煙を吐き出す。
「夏への戦いはもう始まっています。選手選考に時間をかけている暇はありません」
「では」
「選手全員を集めて告げます」
「…………嫌な役目ですな」
「それでも我らがやるべきことです」
室内練習場に集められた選手達にクリス・沢村・降谷・春市の一軍昇格と、川上・宮内の二軍落ちが告げられたのは直ぐだった。
緊張して夜眠れず、降谷と沢村が無失点で終えたことでプレッシャー増大。宮内は強気のリードをするも、メンタル限界な川上は答えられずに自滅。
結果、宮内を道連れにして一軍から落ちてしまった。
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