先に行われた青道高校と仙泉学園、後に行われた稲城実業と桜沢高校の2つの準決勝は何の波乱もなく終わり、両エースを温存したまま決勝にコマを進めた。
「青道も
「自分が試合に出れなかったからって僻むなよ。これも作戦だ」
ミーティング前に主将である原田雅功に愚痴を零していた成宮鳴はそっぽを向く。
「俺が出てたらもっと楽に桜沢に勝てたんだ」
「どっち道、勝っただろ」
「俺が投げたかったの!」
「あまり我儘を言うな」
エースの愚痴に付き合うのも女房役の務めとして、しっかりと相手をしていた原田は面倒臭げに溜息を漏らす。
「決勝で当たる青道の打線は予選で戦ったチームの比じゃない。井口には悪いがどれだけ打たれてもお前に投げ切ってもらわねばならんのだ」
決勝は準決勝から1日を挟んだ日程になっている。
日本のプロ野球では先発投手のローテーションは中5日から6日、米国のメジャーリーグでは100球前後で降板させて中4日の日程で運営するローテーションが定着している。試合日程によっては100球を超えても連日連投することもある日本の高校野球の方が異常なのであった。
「お蔭さまで肩の張りも疲れも何もないですようだ」
「なら、よし」
不貞腐れていても、戦う前にどれだけの準備をして英気を養えるかにかかっている。
そういう意味では後で文句を言われた原田にとっては試合に出てくれた方が楽だとしても、国友監督の選択が正しいと分かっているだけに面倒臭いながらも耐えるしかなかった。
「青道は去年と比べても強く成っている。俺達が実力で劣っているとは思わんが確実に上回っているとも言えん。しかも、向こうには隠し玉があった」
「薬師との試合で投げた球だね」
腕を組んだ成宮が気に入らなげに鼻を鳴らす。
「実際、どうなの? 俺達は試合を見てないし、見ていた奴の錯覚って線が当たり前だと思うけど」
それほどに文悟が轟雷市に投げた一球はありえないものだった。
「ソフトボールじゃあるまいし、球がホップするなんてありうるの?」
「映像じゃ分かり難いけど、見ていた奴にはそう見えたんならそうなんだろう」
とはいえ、偵察班の情報と観察眼に信頼はあれど原田も半信半疑な面もある。それほどに野球の常識において、球が浮き上がるという現象はありえないのだから。
「偶然とかじゃないとしたら、俺のチェンジアップみたいな隠し玉かな」
「嬉しそうだな、鳴」
「そりゃあね。
「敵は強大な方が良いってか? 打つ方からしたら勘弁してほしいぞ」
「こっちは投げる方に専念するから、打つのは任せるよ」
成宮の打順は5番でクリーンナップである。しかし、次の試合では投げる方に専念するつもりで、打順も大幅に下がることになっていたから文悟に隠し玉があろうとも気楽だった。
「気楽に言ってくれる」
打の主軸である4番打者である原田にとっては成宮の言葉は無責任極まりない。
「仕方ないじゃない。明日はきっと一瞬たりとも力を抜けそうにないから、俺は俺の仕事を全うするよ」
そこで一度言葉を切った成宮は組んでいた手を解いた。
「多分、文悟は絶好調にまで調子を仕上げて来る。反対に俺はどうかな? 自分で言うのもなんだけど気分屋なところがあるから」
自覚があったのか、と今更な現実に原田は内心だけで呟きつつも、如何ともし難い事実から目を背けることはしなかった。
「石田は試合を重ねるごとに調子を上げている。関東大会のような状態になられると厳しい物があるが」
「青道は分かった上でそういう起用法をしてるよ。俺だと、ああは出来ない」
成宮の場合は完投や完封、何がしかの記録がかかっていれば最後まで投げ切りたいと思う。しかし、文悟は監督の命令であれば簡単に交代する。
「王様気質と職人気質の違いだろう」
両者はエースとしては似たところがありながらも、その気質は真逆に近い所にいた。
どちらも一長一短、扱いが面倒な成宮の女房役の原田だからこそ良く分かっていた。
「なんか納得……」
どうにも波長が合わないと思っていたが気質からして違うのならば納得もいった。
「一番ノッている時の文悟を打ち崩すのは難しい。現に去年は打ち崩せなかったしね。打てるの?」
「するとも。鳴こそどうなんだ?」
去年は前の試合で完投して途中から投げ始めた文悟を打ち崩すどころか、まともなヒットすら打てなかったことを揶揄するでもなく現実を受け止めている成宮に、試合を通して御幸のリードに抑え込まれた原田としては面白くないので話題を返す。
「去年、哲さんと文悟に綺麗に打たれたのを忘れてないよ。文悟も投げる方に集中するにしても、打たれる可能性が高いのはやっぱり俺の方なんだろうね」
投手として劣っているつもりは成宮にはない。だが、絶好調時の文悟に確実に勝てるかという自信もまたなかった。
「でも、勝つのは去年と同じように俺だ。1点、1点だけでいい。そうすれば俺達は勝てる」
「ああ、今度こそ鳴が東京No.1投手であると証明してやろう」
「違うよ、雅さん」
ニヤリと笑った成宮が残りを言葉を続ける。
「俺が、俺達が日本一に成りに行くんだから」
甲子園の前哨戦などではない。この決勝戦こそ甲子園決勝ぐらいの心積もりで戦うのだと成宮の戦意に燃えた目が雄弁に物語っていた。
「東さん、やっぱり太ってたよな」
決勝戦を前日に控えた食堂で日中にあったことを話していた文悟と御幸は思い出し笑いをする。
「今は二軍でダイエット中だと。10㎏痩せないと試合にも出してくれないってぼやいてた」
「元から体の大きい人だからプロ入りして美味い物を馬鹿食いでもしたのかね」
「
「独身寮に入ってるって話だけど」
去年の主将であった東清国は卒業後、プロ入りしたことは元同室である文悟は良く知っていた。今の文悟をも超える巨漢で良く食べるだけに、栄養も考えずに暴食をする環境があれば太るのも止む無しと考えた。
「俺達も気を付けないとな」
「そうだな。部活を引退したら抑えないと」
プロ入りしたら、という枕詞を敢えてつけなかった御幸の言葉の裏を読めなかった文悟が勘違いをしているが間違いを修正はしない。その方が面白いからである。
「来年のことじゃなくて明日のことに集中しよう。で、体の方はどうだ?」
どちらであってもまだ十代の御幸達にとっては遠い未来の話であったから、身近な話へと話題を戻すと文悟が肩に手を当てる。
「大会の最中とは思えないほど体が軽い。今日投げた感じから行くと明日は関東大会で市大に投げた時のレベルまで持って行けると思う」
「そこまでか……」
トーナメント表が出て決勝で稲実と当たると分かった時から徐々に調子を上げていく起用方法をしたにしても、ここまで上手く絶好調にまで仕上げることが出来るとは思っていなかった。
基本的に文悟が全力で投げるのは市大三高と稲実と目されていた。市大三高は薬師に敗れて対戦することはなかったが、関東大会で完勝して秋大会の借りを返しているので寧ろ良いカンフル剤になっただろうと思うことにする。
「丹波さんが仕上げてくれたお蔭だな。後、沢村と降谷も」
最後の夏に丹波の投球には凄みが有り、準決勝では7回を投げて1失点に抑えた働きを見ても文悟が居なければ文句なしにエースであっただろう。1年2人を経験させるための登板が数多くあったが2人は期待に応えて順調にスキルを上げている。
沢村と降谷は打ち込まれたり、四球を連発したりなど不安要素は大きいが努力の甲斐は見られていた。
「1年2人は危なっかしいけど」
「最初はそんなもんだって」
そう言う文悟は去年の夏の大会では殆ど打たれなかったことを忘れているかのように気楽だった。
「秋には物になりそう?」
「このまま順調に育って行けば多分な。良い規範になれよ、エース」
「努力はする」
人に物を教えるなどといったことは出来ない文悟は、ただプレーでエースとはなんたるかを示すしか出来ないので物言いは消極的であった。
「経験を積ませる為にも明日は勝たないとな」
うっそりと囁いた御幸の言葉に文悟も小さく頷く。
「やっぱり甲子園って舞台は違うだろうし」
「経験してるかしてないかは重要って話だからな」
「稲実が甲子園を知ってても、それでも勝つのは俺達だ」
別の意味を織り交ぜたのに文悟は気付かなくて、寧ろらしい様子に御幸は常と変わらないことに頼もしさを覚える。
「去年の雪辱をここで濯ぐ。もういい加減に悪夢は沢山だ」
先輩達の夏を終わらせた思いを2度もするのは御免だと、文悟が静かに語る。
「――明日は」
言葉尻とは別に御幸に気負いといった負の感情は見受けられない。
「文悟、お前1人に投げ切ってもらうことになる。1年2人には荷が重いし、丹波さんは準決勝で7回まで投げてる。監督とコーチも多分、同じことを考えてるはず」
「延長どころか再試合になっても投げ切るさ」
そんなことをされて、もしも故障でもされたら御幸が困る。
負けたらマシなどと言うつもりはないが今後とも長く相棒を続けるつもりなのだから無理はさせたくない。
「その前に点を入れるって。1点で十分なんだろ?」
「ああ」
傲慢ではなく自負であり自信であった。
薬師戦で油断で伸びた鼻っ柱を折られたので過信はない。打たせず、決して点を与えないという思いを持って投げるのみ。
「―――――――そろそろ話し合いを終えて部屋に戻ったらどうだ2人とも」
「クリスさん」
食堂のドアを開けた滝川・クリス・優が未だ食席から動こうとしない2人を見咎めた。
「まだ十分に時間があるはずですけど?」
「それなりの時間だぞ」
まだ話足りない様子の御幸に対するクリスの返事を聞いた文悟が壁掛け時計を見ると、確かに食後休憩に話していたにしては時間が経っていた。
「2人がどこにも居ないというから俺が1年2人の相手をしたんだぞ」
本当に疲れたように言うクリスに、明日の先発が早くから決まっていた文悟が軽く投げるだけの調整だったので必然的に受ける時間の長かった1年投手の内、沢村が零していた言葉を御幸は思い出した。
「ああ、昼間に変化球がどうとか沢村が言ってましたっけ」
「降谷まで感化されて大変だった」
「ご苦労様です」
投げることに対する執着では文悟を上回っている2人の相手を1人でしていたクリスの苦労を偲びはしたものの代わろうとはしない御幸だった。
「言葉に労わりを感じないが……」
「寧ろ御幸らしいじゃないですか」
「成程」
文悟の評に物凄く納得しているクリスに、御幸はとても不本意な物を感じる。
「ちょっと、それはないんじゃないですかクリスさん」
「毒舌のない御幸など、捕手の居ない投手みたいなものだろう」
「つまり、俺の居ない文悟みたいな?」
「今はそういうことにしておこう」
1人でドヤ顔をしている御幸の機嫌が回復したのを見て、何時もの流れもそう何回も出来ることではないと理解しているクリスも話題を戻すことにする。
「1年2人の変化球だが、落合コーチの助言もあって即席にしては物になっている」
「そうなんですか?」
「降谷は縦スラだ」
「へぇ」
「現段階では上手く嵌ればいいが要練習だがな」
「秋までに物にすればいいんですから取っ掛かりを手に入れただけでも儲け物ですよ」
降谷はスプリットフィンガー・ファストボールを習得しているが、球種が増えればリードする御幸としてもやりやすくなる。
「で、沢村は?」
本人のキャラクターもあって特に沢村に期待もせず御幸が聞く。
「聞いたら驚くぞ」
当初の不器用さを良く知るのと、人に好かれるというかイジラれる性質のある沢村なだけに同じく多くを期待していなかったクリスはニヤリと笑って続ける。
「沢村に至ってはカットボールからチェンジアップ、更には高速チェンジアップまでだ。特に高速チェンジアップに関しては、直ぐにでも実戦で使えるレベルにある」
「沢村が3つも?」
「マジですか、それ?」
「嘘を言ってどうする」
ただのストレートを投げるのにも四苦八苦している姿を見聞きしていただけに2人の驚きは大きかった。
「他にも使えそうな物は多いが、今の段階では多くに手を出すべきではないとして止めている。降谷のことといい、次のチームで御幸のするべきことは多そうだぞ」
「こんな嬉しい悲鳴なら大歓迎です」
夏が終われば打撃力が下がるのは必然で、投手力が上がるのは喜ぶべきことである。
「負けてられない。俺も」
「「投げるなよ」」
負けん気を燃やした文悟が立ち上がりかけたが2人同時に静止させられて、上げかけた腰が中途半端に止まる。
「明日が試合なんだ。その気持ちは明日の稲実にぶつけとけ。疲れて無様な投球をした投手が秋からエースになれる保証もないぞ」
「…………分かった」
目の奥で静かに燃える炎に満足した2人に促され、文悟は早めに就寝するのだった。