手には弓を 頭には冠を   作:八堀 ユキ

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MAD WORLD

 アーロン保安官とアデレードはクーガーズと共にまた新しい農園を解放することができた。

 だが、それが正しいことだと信じるには――目の前に存在する”現実”が、強大に過ぎていた。

 

 農園を確保し、農地に咲き乱れる白い花をすべて焼き尽くす準備を始める。この社会では非合法ではあるが、個人の選択によっては薬物を楽しみに使うことができる文化がある。

 しかし、そんな悪癖を持つ人間でもエデンズ・ゲートの”祝福”を使ったりはしない。誰も、ではない。

 かつてはその効果を素晴らしいと評価し、楽しみだけを手にするんだと吹いていたやつらもいたが。結局彼らの側に入って行ってしまい、戻ってくることはできなかった。

 

 誰もあがらえなかったのだ、彼らの”祝福”は使い続ければいきつくところ奴らの口にするエデンの門へと連れて行ってしまう。もちろんこれはオカルトに過ぎる考えだが――目の前で起きたことはまさにそれだった。

 

 そして今、もうひとつの現実が目の前にある。

 農園から離れた山の斜面、いつの間にかそこは切り開かれ。青々とした緑の葉と輝く白い花びらが栽培されていた。

 

「隠して栽培していたのか……あんなところにも」

 

 声は自然とひび割れていた。

 

 アーロン保安官は自分がいかにホープカウンティにとって無力な存在であるのか思い知らされた。

 何か悪いことがあっても、苦しむ住人達には「自分を信じてくれ」と訴え。なんとか良い結果にしようと努力してきていたはずなのに。彼は何もできないまま、エデンズ・ゲートにいいようにされ。多くの人々に嘘をついてしまったという結果だけがつきつけられていた。

 

「きっとあそこだけじゃないわね。探せば近くの山でも同じような光景が見つかるんでしょうよ」

「ヴァージルが言ってたが。あいつらは最近、”祝福”の生産を増やしたと。それを精製する際にでる廃棄物を川に流しているんだって。

 狂っていると思ったが、それでも――こりゃ、想像以上の増産が行われていると考えなきゃならんぞ」

 

 ホランドバレーは新人の保安官が期待以上の活躍をしてくれて解放され、このヘンベインリバーでもついに反撃の狼煙があがったのだと単純に喜んでいた。

 ジョンは死んだ――だがフェイスは生きている。ジェイコブも。

 ジョセフの子供たち。彼らもまた、ファーザー(ジョセフ・シード)に恐ろしく似て、狂っている――。

 

 

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 ホープカウンティ刑務所の一室では、ヴァージルとトレイシーは息をのむ。

 シャーキーはそんな2人にわかるよ、と頷きながら彼らを凍らせた言葉を再び口にする。

 

「――ああ、こんなことになって俺も信じられないんだよ。あの保安官――ジェシカは消えた。俺の前から突然に。探したけど、どこにもいなかったんだよ。誓って、これは本当のことだ」

「なんてことだ。なんてこと」

「消えただけっていうなら。まだ無事かもしれないよ――アタシ、ちょっと人を集めて探しに行く」

「アーロンの奴にも連絡をしなくてはな。アデレードに空を飛んでもらって彼女を探してもらおう」

 

 それまでは肩を落として疲労困憊の様子であったシャーキーも。

 2人の言葉に励まされ、それなら自分も、と立ち上がりかけたところでトレイシーに止められた。

 

「アンタはダメ。ヒドイ顔をしているよ、一晩中探していたんだろ?ここで休んでな」

「悪いな、そうさせてもらう」

「でも楽はさせないからね。ヴァージル、こいつがひと眠りしたらとっとと探しに行けってここからたたき出してよね」

「おい、トレイシー」「容赦ねーなー」

 

 活発な彼女はすでに背を向け、クーガーズの仲間たちの元へ向かっていく。

 

(頼もしい女たちだねぇ)

 

 だが、どうしてこんなことになってしまったんだ?

 ジェシカに誘われ。派手なパーティをやった、最高のギグだった。

 それからあのドクター。なんていったか、彼のところに行って「迎えに来ましたよ、先生」というつもりが。しっかりとペギー共につかまっていて、即興で救出劇を演じる羽目になった。

 でも、それも問題はなかった。そこまでは――。

 

 

 ドクターは新しい情報を手に入れていた。

 近くで岸に乗り上げたサルベージ船の残骸を利用し、フェイスが捕まえた住人たちで映画のサンダー・ドームみたいなことをペギー達にやらせているって話だった。

 俺は彼女にすぐに助けにいってやろうぜって言った。あれが調子に乗っていたんだってこと、今ならわかる。

 

 医者の情報は間違っていなかったんだ。

 確かにサルベージ船ではフェイスに囚われた人々がいて、彼らは吊り下げられた檻の中でボロボロの状態で放置されていた。

 俺はジェシカが止めるのも聞かずに飛び出して行って……それでひどいことになった。

 

 騒ぎが収まって、助けを人々を車に乗せたところで気が付いた。何度呼び掛けても彼女からの返事はなかった。

 

 ジェシカは消えた。

 何が起きたのか、どうしてそうなったのか。思い返しても俺にはまったく思いつかないことだった。

 

 

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――それは言葉では言い表せないほど美しい世界だった。

――常に霧が視界の外側を覆い隠し。しかし、視線を送ればその先は綺麗に裂かれ。その向こうにも世界があるのだとわからせてくれる。

――野原には白い花が咲き乱れ、チョウはその上を飛び回り。うさぎは跳ね、シカは目の前を横切っていく。そのすべてに人間への恐れる様子はない。

――歪んで聞える耳からは、遠くで鈴と鐘が涼やかな音色を響かせているのが聞こえてくる。

――ここはどこだろう?ここはまるで伝え聞くあの約束の地を思わせる。清廉な空気に満ちている。

 

「ジェシカ・ワイアット保安官。会いたかったわ、話に聞いていたもの」

 

 誰だ?

 

「ねぇ、私のことは聞いているでしょ。嘘つきで……人をあやつる……ひどいこともやる、魔女だって。私が人の心を毒するんだって」

 

 フェイス?フェイス・シード?

 

「あなたには知っていてほしい。真実の物語について」

 

 それはあなた達プロジェクト・エデンズ・ゲートの歪んだ真実よ。私には必要ないわ。

 

「エデンへの道は信じるものにあらわれる。

 あなたはようやく私たちの家に招くことができたのよ。もう隠すことは何もない。あなたはただ、問いかけてくれさえすればいい」

 

 なにを?

 

「まずは私を探して。ほら、すぐそばにいるから」

 

――周囲を見回すが。野原には歪んだ幹をした木々がみえるだけ。

――それもよくみると、大半が枯れたり切断されて丸裸になっているものだったりする。

――鈴の音色が近づいているのか。大きく聞こえるようになった気がする。

――歩みを早めるとそのうちに輝く笑顔の、白い服を着た少女がこちらに背中を向けて歩いていた。

 

 待ちなさい!私はそう声をかけた。

 だが、相手は振り向かず。歩いたまま、また語り始める。まるで私を導こうとでもいうように。

 

「私たちを憎悪するものでさえ救いを求めている――。だれでもそうなのよ、あなただって」

 

 私はお前たちに救ってもらいたいとは思っていない!

 

「それでも聞いてあげて、ジョセフの言葉を。彼の言葉には力がある。この世界に絶望し、震えるしかない私たちに自信を与えてくれる。救ってくれるの」

 

 詐欺師の言葉よ。信じない、絶対に。

 私はかたくなに拒むが、なぜか体は言うことを聞かずに彼女についていこうとする。これは幻覚か?それとも現実?

 だがどちらにしても私ができることはあまり多くはない気がする。

 

――フェイスの服の裾につり下がっている鈴が、やけに大きく耳の中に入ってくる。

――気が付くと、進先からは鐘の音色が大きくなってきている。まさか、と思った。それは嫌な予感であるはずなのに、心に嫌悪が浮かばなかった。

――迷いのない男の力強い言葉が徐々に聞こえてくる。

――草木に紛れて信者たちは円を描くように座り込み。その中心にはあの男が立っていた。

――ジョセフ・シード。

――あの夜、ジョンのふざけた清めの儀式でも現れたあの男だ。それに連邦保安官もそこにいる。

 

「『崩壊』が迫っている。我々の前に訪れる、そして『収穫』は始まったのだ――だが恐れることはない、我々にはそうできる理由がある」

 

 ペテン師が!詐欺師!

 自分ですらだましているお前の言葉は、嘘しか感じない。私はお前を信じたりはしない。

 

――フェイスに導かれ、突如として現れたジェシカは吠えるが。信者たちは彼女を見ず、ジョセフだけをただじっと仰ぎ見るだけだった。

――そしてジョセフは力強い視線をジェシカに向け。あの日と同じように近づいてくる。

――目の前に立って向かい合う。

――だがあの時とは違う。今は拘束されていないのだ、何かしようと思えば私はそうなるように体を動かすだけでいい。

――なのにジェシカはなぜかそう考えることができなかった。

 

「君は今、奪う側に立っている。私たちがここに築いた砦……愛、共同体。そして新たなエデンを。

 私は気を許すつもりはない。私たちからそれを取り上げ、奪いつくそうとする者を。真の意味での略奪者の罪を」

 

 冗談にしたって笑えないわね。誰が略奪者?自分を何だと思ってるのよ。

 

「君は私たちを裁く。他の皆がイカレているから、と言うから。だから私たちの行いは間違っていると、裁かねばならないと――フン」

 

 本物のサイコパスか。狂っているくせに理性的なフリが得意なわけ?

 

「君が私をどう考えたとしても、私と君は同じ世界を見つめている。日々、ニュースは伝えている、この世界は終わる。この国は弱く、壊れかけているのだと」

 

 新世紀に終末論とは面倒なことね。

 私は茶化してやろうとする。怒らせたかったのだ、真面目に聞いていないとわからせるために。

 

「なぜ見ないふりをする。君だって感じているはずだ!この世界にみえる人類の未来を!」

 

――空気は震えることはなく。大地も沈黙することで威力を伝えることはしなかった。

――だが遠く美しい世界の中にいきなり炎の髑髏を思わせるキノコ状のそれがあらわれる。

――核兵器だ、すぐにわかった。

――BIGBOSSと言う男もこれを手にし、メタルギアと併用することで力があるのだと世界を脅迫した。

――そしてそれに続くソリッド・スネークをはじめとしたテロリストたちもまた。この兵器で世界に恐怖を振りまいた。

 

「この世界を見てみろ!これがっ、こんなものが私たちの未来だといえるのか!?

 人々の輪は引き裂かれ、隣人は恐ろしいだけの他人となった。彼らの中に壁が築かれ、分断はすでに手の施しようもない。こうなった理由も明らかだ。

 

 指導者となるべき政治家は導くべき人々の顔色を窺い。

 彼らに口当たりの良い言葉とデータで、なにかをやってきたのだと信じさせようとした。彼らは政治と言う行動力を見せることはなく、パフォーマンスこそ政治だと考えた。

 横暴にして欲深いために、自分を信じてついてくる人々を正しく導くことは不可能だとも理解しない。そんな彼らには何も、そう何も任せることはできない!」

 

 なにかわからなかったが、胸の奥でムカ付きのようなものを感じ始める。美しい世界の中でそれを抱えることは、実に苦痛に近いものがあった。

 ガキの泣き言よね、聞いていられないわ。

 皮肉な笑みのひとつも返してやりたかったが、顔は引きつったようで動かない。ただ感情のない言葉だけが飛び出していく。

 

「私はただ、君の中の根本的な誤解を解きたいだけだ。政治家と違い、私自身は力を求めたことは一度もない。

 だが選ばれたのだ。

 君は知っているはずだ。全てが終わる、その瞬間があることを。間近に体験した、暴力と苦痛に飲み込まれ翻弄された。個人は無力で、何もできなかった」

 

――ジョセフの顔が近づいてくる。

――すぐ目の前だ。ハグだって出来るだろう。こいつの首にナイフを突き立てることだって。

――遠くから炎が風のような速さでこちらに向かってきた。

――霧は消えたが、かわりに草木には炎が燃え上がり。世界を赤く満たしてしまう。

――そしてフェイスも、信者たちもいつの間にか消えていた。

 

「そうだ、人は弱く……簡単に傷ついてしまう。なのにそれに対して、誰も何もしようとはしない!

 世界が壊れる、そうわかっていても同じだ!

 私たちは破滅に向かっているんだ。私にはそれが分かる。君だってそうだ。ではどうするというんだ?

 

 ただ、その時が来るのを黙ってみていろと言うのか。死を待ち続け、終わりが来たことを受け入れろと?」

 

 胸の中のむかつきがひどい。

 火傷のようにひりつく痛み、そして離れてくれない。ジョセフの言葉は嫌でも耳に入り、私の中に何かを刻み込もうとするが。

 それを私は黙ってみているだけ。何もできないのか……。

 

「私は――私は自分が完璧だと言うつもりはない。未来を知り、そのために必要な行動をおこしただけだ。私の言葉を信じる人々を導くために――。

 世界は壊れつつある。その傷を癒し、人があるべき未来を手にするためにはただひとつ……かつて我々がいた場所への回帰。穢れはなく、無垢で、神の言葉は力強く。ただそれだけで多くの人々は恐れる必要のない安全な盾を手にできた。

 

 それは君にもできる。

 ただ、受け入れるだけでいいんだ。我々と同じ『信仰』がそれを可能にする」

 

――ジョセフは語り終えると、いつの間にか手には手折られたばかりの白い花が握られていた。

――彼らが”祝福”と呼んでいる薬物の材料となる花だ。

――それをジェシカの前に差し出す。それを受け取るだけでいいのだと。

 

 なにかが動いた。

 心の中のスイッチ。それがコトリと音を立て、私の中の壁がそれでいきなり消滅した。

 それまで静かだった感情が津波のようにはるか遠くからこちらに向かって押し寄せてくるのが分かる。私の感情、怒り、そして闘争心が。

 

 私は、ジェシカ・ワイアットは笑い出した。

 それは笑い声と呼ぶにはあまりにも異常にすぎて。狂笑と表現するしかない、下品で醜く。そして心をさらけ出した憎悪の塊がそこにはあった。

 

 それを他人に見せたことがあった。

 メリルは怯えていた。表情は驚いていたが、いきなりそうなった私を見て怒ることを忘れていたようだ。

 あいつもそうだ。ロスの外にも出たこともない坊やのくせに。生意気に私を弄んだアイツは、殺されると思ったと言った。

 そして今、このクソ野郎は私の姿をどう見てるのか?

 

 今更、神に縋ってどうするっていうのよ。

 核兵器は力よ。武器も力、そして力は支配につながる。強い支配力が、平和を演出させるんだわ。

 確かに私はそれをよく知っている。圧倒する力は存在するわ、そして人間はこれからだってその暴力を手に入れることをやめることはない。

 アメリカは、私たちの国はとっくに神を殺してやったわ。死んだ神に何ができるっていうのよ?

 

 それにしても奇遇よね。私も自分が完全ではないことを、”思い知らされて”生きてきたわ。

 世界が壊れ、地球が破壊しようとも。人間が力を求め、それが強大であればあるほどまったく不安なんて感じないわ。

 

 ホープカウンティの住人達だってそうだった。プレッパーとなって政府ではなく、自分の面倒を考えてあんたたちに対して用意をしていた。

 あんたの神の力を借りなくたって、彼らはすでに自分のことを面倒見ていたのよ。

 

 

――軽やかだった美しい世界は燃え上がったが。今度のそれは明らかな強風となってすべてを吹き飛ばした。

――2014年、ポーランド。

――政府間の秘密の合意で展開したアメリカの部隊は、深夜の川沿いを完全武装で埋め尽くした。

――複数のPMCの背後にある。あの呪われた言葉”アウターヘブン”の名を持つ秘密結社の中心人物たちをそこで確保すること。

――戦力差は圧倒的、軍を指揮するRAT01のリーダー。メリル・ストライバーグにも不安は全くなかった。

――少数のテロリストは一網打尽、それがこの物語の終わりになるはずだった。

――現実は真逆の結果となった。

――包囲していた軍は崩壊。RAT01もまた同じ運命をたどった。

――そしてたった1日だが、世界の戦場は完全に沈黙する。その圧倒する力に抵抗する方法をだれも持たなかったから。

 

 苦しむ仲間と自分の声は意味をなしていないにも関わらず、苦痛に満たされた言語に反応したジェシカの狂気は解放され。悲劇がおこった。

 本当はあんなこと、したかったわけじゃない。でも、ずっといつかやってやろうとは思っていたのだ。

 

 ジェシカは決してその記憶を忘れることはないだろう。

 

 

▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲

 

 

 自分がなぜか呼吸をしていないことを理解した。口を開き、喉が鳴るほどに空気を吸い、肺を膨らませるだけ一杯にふくらませると。

 なにかを取り戻せたと思い、意識がしっかりとしてきて集中できるようになった。

 

 なにがおこったんだ?

 

 まとわりつくのは疲労で、自分が知らずに直立していたとしてもなんとかやっとという印象がある。

 目の前には直角の岩壁がそそり立ち。軽く見上げると、遠く天頂にあって輝く太陽と。その下にはそびえたっているジョセフ・シードの巨像のフォルムが飛び込んできた。

 なんだかよくない場所に自分はいる気がして、視線を地面へと落とす。

 目の前の絶壁と同じく、巨大なテーブル上の岩の中央には赤く照準を思わせる米印が描かれていた。

 

 頭があまり動かなくて、どうやってここに来たのか思い出せない。

 困惑や違和感に素直に悩めたのはそこまでだった――。

 

 ぐしゃり!

 

 何かが右側の後方で肉が叩きつけられる音を聞いた気がした。

 それを思わず確かめようとしてジェシカは素直に振り向いてしまった。

 

 人間が死んでいた。高いところから墜落し、その衝撃に肉体が耐え切れずに破壊されていた。

 頭の半分は砕け散ってしまったのか。それでも残るその部分にある薄いブルーの目はカッと見開いたままで着地点のそばに立つジェシカを見つめているように感じた。

 まさか、と思った、その後に不安が押し寄せてくる。

 

 頭を再び上に向ける。

 太陽の光はまぶしく、ジョセフの巨像の影があいかわらず濃いが。この地上との間に今度はいくつもの人影が”降ってきている”ことを見てしまった。

 

 立て続けに岩が衝撃音を響かせる。

 人が雨のように降り、岩盤に次々と叩きつけられていく彼らの命の砕け散る瞬間の中にジェシカは茫然と立つことしかできなかった。

 いや、これはむしろ誰も彼女の上に振ってこなかった奇跡を喜ぶべきなのだろうが。そんなことまで頭は動くことはなかった。

 

 頭の中であの夢で幸せそうだったフェイスの声が聞こえた気がした。

 彼女は自分に「こうすれば自分が生きてるって、そう実感できない?信仰は人を強くする、この道を恐れてはダメ」と、そう言っていた。

 

 ジェシカは震えていた、どうしようもない恐怖が彼女を支配していた。

 落ちてきた肉塊のひとつに見覚えもあった。

 相棒と一緒に2人乗りのバギーに乗り。「それじゃ保安官が来るまでに、俺らだけでフェイスを倒しておくかもよ」などと軽口をたたいていた。彼らは危険だと知りながらも、勇敢に名乗り出てくれた若者たちだった。

 ずっと彼らの無事を気にしていた――。

 

 エド・エリスが死んでいた。

 

 叩きつけられ、命が砕けると。そこに残されていたのはうつぶせになり、顔を少し横にかむけている遺体。とても近づけなかった。

 でもわかる。あの姿、あの大きさ、あの服装。どれも見覚えのあるものばかりだった。その彼が、彼から流れ出た血の海の中に自分は無力に立っている、この現実。

 

「ウッ、オオウェー!」

 

 自分は吐く、そう思ったら衝動に逆らわずに体を折りたたんで岩に膝をついた。

 しかし不幸なのか幸運か、胃袋が空っぽのようで。苦いものが口いっぱいに広がるだけで何も出ない。代わりに震える汚れた自分の指を口の中に突っ込み、下の先をつかんで引っ張り出そうとする。

 舌が巻き上がって、喉をふさがないようにしたいと思っての行為であったが。

 なぜか指には自分のものではない血の味がした。

 

(もう立てない。動けない――)

 

 動くもう片方の腕を動かして自分の身体をまさぐり始める。尻のあたりで無線機が爪に引っ掛かった。

 あった、とわかって少し安心したが。先ほどから自分の体の震えがひどくなっていくのが分かって、理性を失う前に必要なことをしなくてはと自分に叱咤する。

 

「……ァッ……ウゥッ」

 

 無線機の送信ボタンは押せたが、肝心の喉の奥から声が出ないし。舌だって全く動かない。

 

「アア、ウッ……!」

 

 絞りだすイメージでいいんだ。声を出せ、助けを求めろ。

 

『おい、ちょっと聞くが――だれかいたずらしてるんじゃないよな?なんか、さっきから変な声が聞こえてくるんだが』

 

 イラついている男の声がかえってきた。シャーキーだとすぐにわかった。

 

「た……けて、シャーキー」

『っ!?おいっ、保安官か?ジェシカなのかっ!?』

「うご……ない。怖い」

『わかったぜ、どこにいけばいい!?すぐに迎えに行く、どこだ!教えてくれ』

「ジョセフ、像……の、下。動けない」

『すぐに行ってやるからよ!待ってろ、ジェシカ』

 

 心強い仲間の励ましだった。嬉しくて涙が出てきたが、それがジェシカの限界であった。

 彼女はその場に丸くなって崩れ落ちると、意識を失い動かなくなる。

 

 

 連絡が切れると、もうジェシカから通信が入ってくる気配はなかった。

 先ほどから車のエンジンをフルスロットルにして、山道から車道に飛び出したシャーキーは通信機に手を伸ばし、連絡を試みた。

 

「アデレードさん、アデレードさん。まだいるか?いるって言ってくれよ!」

『その声はシャーキーね?どうしたのよ』

「よかった!まだ飛んでるよな?帰ったとは言わないでくれよ」

『まだ飛んでるわ。ジェシカの捜索でしょ?私だって――』

 

 なにやらまた悩まし気に文句を口にしそうな彼女を押止るため、簡潔に状況を説明した。

 

「ジェシカだ!ヤバイんだよ、スゲーヤバイ。助けがいるんだ」

『――言ってごらん』

 

 シャーキーは素早く今しがた連絡があったこと、どうやら彼女はジョセフの像の真下にある崖側にいること、そこで動けなくなっているらしいことを伝えた。

 アデレードは黙って最後まで聞くと

 

『状況はわかった。こっちもすでに方向を変えたけど、どのくらいでそっちはつくの?』

「15分以内には。とにかく急がないとヤベー。ペギーに今のジェシカが見つかったら、どんな目にあわされるか考えたくもない。彼女、ジョンを殺ってるんだ」

『いい?落ち着きなさい、坊や。まず悪いニュースだけど、あたしが到着するのは少し遅れそうよ。距離があるの』

「クソっ」

 

 これはつまり、ペギーの巡回網のなかをひとりで突っ切ってジェシカのところまで行けと言うことだ。

 

『彼女を助けた後は?考えがあるのかしら』

「考えだって?そんなものはないさ。さっさと保安官を連れて刑務所にかっ飛ばして逃げ込むしかない。他になんかあるかい?」

『ホランドバレーに逃げ込むってのは?』

「駄目だ、境界線にはまだ検問がある。安全な場所は1ヵ所だけだ」

『そうなると大騒ぎになるわ。ペギーは侵入したアンタの後ろにとびついて、カマを掘りにかかるでしょうね』

「ああ、わかってる。でもこれはやらないと、アデレードさん」

『……ママも必ずそっちに行くわ。あなたはとにかく、運転とジェシカのことだけ考えなさい』

「了解!」

 

 再び山道に入ると、道なき道に突入していく。

 こうなるともう運頼みしかなくなるが、あいにくとシャーキーは恐れと言う言葉の意味だけはちっとも理解できない馬鹿であった。

 急こう配の荒れた道を突き進む4WDの力強さに酔いしれ、己の股間が固くなるほどの興奮を覚えると。そこにスキはなかったはずだが、運命の瞬間が待っていた。

 

 ペギーの2人乗りバギーの腹が見え、シャーキーはアクセルをより一層深く踏みつける。

 横原にバンパーから突っ込むと、驚きで目を丸くしたペギー達を乗せたバイクは吹っ飛んでは道の横へと飛び込み。勢いを殺せないまま、その先の崖の下へと消えていった。

 

「まずは1ポイントゲットだな!」

 

 哀れなペギー達の運命など考えることなく、シャーキーはクラッチを変え。車は再び山道の坂道を力強く登っていく。

 




(設定・人物紹介)
・クーガーズ
ヘンベインリバーのレジスタンス。
アーロンとヴァージル以外は若者が中心となって構成していた。


・エド・エリスは死んでいた
当初、彼がどんな最期を遂げたのか。それを描くエピソードが存在した。
しかし予定を超えて頂戴化する作品をコンパクトにするため。また非常に愉快ではない拷問描写が中心になってしまいそうなので、カットした。

ちなみにエドが捕らえられ、こんな最後を迎えた理由はフェイスのそばにいるティムにある。彼の本名を思い出せばなんとなくわかるかも。

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