Wizards on the Horizon   作:R-TYPE Λ

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Report.4 『救難艦』

 

 

 

「これ、飲んで・・・温かいし、落ち着くよ」

 

話し掛けつつ、紙カップを差し出す。

それをゆっくりと受け取る手の動作からは、普段の凛とした面影も、任務の際の鋭さも感じられなかった。

胸元に引き寄せた紙カップの中身、食堂で無事に機能していた飲料供給器から注いだココア。

安全性も確認済みのそれを口にする事もせず、その人物は揺らぐカップ内の水面をぼんやりと見つめていた。

その様子に不安を感じたのか、彼女は励ます様に語り掛ける。

 

「大丈夫だよ。2人ともタンク内に居れば、救援が来るまで持ち堪えられる。その後の治療も問題ないって、シャマルさんも・・・」

「なのは」

 

言葉を遮った声は、余りに無機質なものだった。

思わず自身の言葉を呑み込んだなのはは、目の前で椅子に腰掛け此方を見遣る彼女、フェイトの顔を見詰めた。

見上げる真紅の瞳は、何の感情も宿してはいない。

少なくとも、なのはにはそう思われた。

思案する彼女をどう思ったのか、フェイトは続ける。

 

「あの人・・・私が撃った人は?」

「・・・軽い裂傷で済んだよ、何も心配いらない。フェイトちゃんはゆっくり休んで」

「できる訳ないじゃない・・・あの子達があんなに傷付いているのに、私だけ・・・」

「フェイトちゃん」

 

立ち上がろうとするフェイトを押し留めんと、なのはは彼女の肩に手を掛けた。

彼女が目覚めてから、まだ20分と経っていない。

エアロックでの一件、そのショックも未だ抜け切らぬであろう彼女を気遣っての行為だった。

しかしその手は、フェイト自身の手によってやんわりと払い除けられる。

彼女が手にしていた筈の紙カップは、既に椅子の上へと置かれていた。

驚きと共に親友を見遣るなのはへと凄絶な視線を向け、フェイトは言い放つ。

 

「・・・あの子達の傷を見たでしょ? あれはもう、どうあっても治りっこない。あの子達の身体には生涯、あの傷痕が残り続ける。素人目にも、それだけは分かる」

「そんな事は・・・」

「出血も激し過ぎる。脳機能に障害が生じていてもおかしくない」

「輸血は間に合ったでしょう? シャマルさんも、スタッフの皆も尽力してくれた。保護者のフェイトちゃんが弱気になってどうするの」

「でも、救助を妨害した人も居る」

 

その言葉に、なのはの意識は凍り付いた。

フェイトの言葉は正しい。

エアロック内にエリオとキャロ、ヴィータが閉じ込められた際。

誰もが必死に彼等を救おうと奔走する中、救助作業を妨害せんと攪乱を図った者が居るのだ。

その人物は、異常事態に気付いた船外活動班からの問い掛けに対し、繰り返し「異常なし」との応答を行った。

結果的に、状況を訝しんだ船外活動班がエアロック外殻ハッチ付近に待機していた事も在り、船外へと吸い出された3人は直後に回収される。

重傷こそ負ったものの最悪の事態だけは回避する事はできたが、もし妨害者の意図通りに事態が推移したならば、今頃は3人とも次元世界を当てなく彷徨う漂流物と化していた事だろう。

今も艦内では、救助作業を妨害した人物の捜索が行われている。

ただ、口には出さないものの、誰もがこの捜索活動の意義に疑問を抱いていた。

 

「フェイトちゃん、妨害の犯人についてだけど・・・」

「・・・聞いてるよ、死体安置所が発信源なんでしょう。なに、犯人は幽霊とでも?」

「そうは言ってないよ。こんな事できるのは、人間しかいない。でも、それが内部の人物だとは・・・」

「そう、思わないよね。だってなのはは・・・他の皆も、犯人が『生きた人間』だなんて思っていない。亡霊か悪魔でも、この艦内に潜んでいるんじゃないか・・・そう思ってる。違う?」

 

フェイトの指摘に、なのはは言葉を返す事ができない。

現在、艦内での捜索活動に当たっている人員、恐らくはその全てに共通するであろう疑念。

-196℃もの超低温環境下、2人以上の人間が入るスペースなど無く、しかも既に『先住者』が居る死体用冷凍保存庫内に潜みつつ攪乱工作を行う等という異常性。

そんな極限環境に適応できる者が、果たして人間と云えるのか?

縦しんば人間であったとして、それは本当に『生きた人間』なのか?

そんな疑念が、今もなのはの脳裏を駆け巡っていた。

非現実的な思考を加速させる要因は、これまでにこの艦で起こった数々の異常な現象と事件に他ならない。

だが、実際に家族を傷付けられたフェイトには、そんな思考に翻弄される周囲の人間達が信用ならないのだろう。

その心情は理解できる。

一方で、状況が状況とはいえ、今のフェイトは何かがおかしいと思う自分が居る事にも、なのはは気付いていた。

彼女は、何処か強迫観念に突き動かされている様な感じがする。

 

「もう一度言うよ、フェイトちゃん。救助活動を妨害したのは人間、それは間違いない。スカリエッティも戦闘機人も、残りのクルーもまだ見付かっていないんだよ。彼等がこの艦の何処かに潜んでいたっておかしくない」

「彼等が、救助を妨害した?」

「それが、考え得る一番の可能性じゃないかな」

「違うよなのは、それだけは絶対に違う。彼等にそんな事は、絶対にできない」

 

なのはの言葉を否定し、それだけは在り得ないと断言するフェイト。

唐突で想定外の反応に、なのはは唖然として彼女の顔を見詰める事しかできない。

力強い否定の言葉は、更に続く。

 

「この艦の元々のクルーには、そんな事できっこない。絶対に、在り得ない」

「何を、言ってるの?」

「ヴィータも、あの死体達も同じ。『向こう』に往った人間は、誰1人としてまともなままじゃいられない。おかしくなった人間に、あんな工作活動なんてできる訳がない」

「落ち着いて、ねえ・・・」

「見たくない、存在さえ認めたくない『何か』から逃れる為・・・それだけの為に、自分の眼を抉ってる。そんな狂った人間が、あんな事・・・」

「フェイトちゃん!」

 

思わず上がった叫びに、フェイトは我に返ったらしい。

呆けた様に目を瞬かせ、此方を見返してくる。

なのはは更に叫びそうになる自身を抑え、改めてフェイトの肩に手を置き語り掛けた。

 

「・・・実際に家族を傷付けられた訳じゃない私には、フェイトちゃんの焦りとか憤りとか、全部は理解できていないんだと思う。だから幾らでも罵って良いし、目障りだって思うならそう言って貰っても良い・・・でも」

 

言葉を区切り、フェイトの目を見詰める。

フェイトがこの異常な環境下で孤立する事態を避ける為にも、これだけは言わねばならない。

 

「仲間を疑うのは止めて。みんな必死に、事態の打開と真相究明に動いている。エリオにキャロ、ヴィータちゃんをあんな目に合わせた犯人を、絶対に見つけ出してやるって。勿論、私も」

 

この艦は、何かがおかしい。

明確になっているものも、判然としないものも。

脅威であると解っているものも、そもそも危害となり得るものなのかすら判然としないものも。

全てが精神的負荷を齎す要因、眼に見えぬ毒となり、内部の人間達を蝕んでゆく。

フェイトもまた、その毒に侵されたのだろう。

自身の家族を、間接的にとはいえ殺され掛けたも同然なのだ。

誰がどうやってあのような攪乱工作を為したのか不明である上、広大な次元空間を漂流する巨大な『幽霊船』に幽閉されているという状況である。

周囲の人間すべてが怪しく見えても、無理からぬ事だろう。

 

だが、それでも。

仲間すらも無条件に疑うという事だけは、して欲しくはない。

否、してはならない。

極限状況下に於いて、一度でも結束に綻びが出来れば、其処から集団全体が崩壊を始める。

これが更に巨大な集団の内部、広大な空間中に於ける問題であれば、時間を掛けての関係修復も可能であるだろう。

だが、現状は通常の環境下ではなく、一般社会から遠く隔離された次元航行艦の内部だ。

時間も人員も、余裕など全く無い。

この状況下で相互間の信用が崩壊すれば、生還は極めて難しくなるだろう。

それこそ最悪の場合、この艦で死んでいった本来のクルー達と同じ、惨たらしい死体の山と化しかねない。

そんな可能性を排除する為にも、フェイトには仲間達を信じて貰いたかった。

 

「だから、フェイトちゃん・・・」

『総員、緊急! 後部機関室、第6極低温冷凍機周辺! 監視装置にスカリエッティを確認! 武装隊は直ちに捜索に当たれ!』

 

続く言葉は、クロノからの緊急を告げる艦内放送により遮られる。

スカリエッティを発見した。

その情報が脳内へと行き渡るや否や、彼女の意識に葛藤が生じる。

親友の元に留まるべきか、後部機関室へと急行すべきか。

なのはは一瞬だけ躊躇し、すぐに待機状態のレイジングハートを握り締めて告げる。

 

「フェイトちゃん、聞いた? スカリエッティが見付かったって。私も、行かなきゃ」

「なのは・・・」

「もうすぐだよ。もうすぐ、全て明らかになる。してみせる。だから、信じて待ってて」

 

手を取り、正面からフェイトの目を捉えつつ、なのはは誓った。

そして、フェイトが弱々しくも確かに頷いた事を確認し、僅かに微笑んで背を向ける。

そのままフェイトに宛がわれた休憩室から退出し、扉の前で待機していた武装隊員に声を掛けた。

 

「それじゃ、行こうか」

「いえ。一尉、私は此処で執務官の監視に当たります」

「監視?」

 

不穏な言葉に、なのはは眉を顰める。

フェイトを監視するとは、どういう事なのか。

 

「ハラオウン提督からの指示です。現在の執務官は情緒不安定の傾向が在り、目を離すべきではないと。既に、医療スタッフを除く人員との面会にも制限が掛けられています」

「私は?」

「提督は、高町一尉ならば問題は無い、寧ろ適任だろうと許可を」

 

その言葉に、なのはは複雑な心境を抱いた。

親友の兄から信頼されている事を喜ぶべきか、その兄が妹である親友を監視対象へと指定している事に憤るべきか。

数瞬ばかり思考に時間を費やすものの、すぐさまそれを振り払って行動に移る。

後部機関室へと向かうべく、足早に歩みだし。

 

「分かった。それじゃ、後はお願い・・・」

 

しかし、すぐに立ち止まった。

なのはの奇妙の行動に疑念を抱いたのか、隊員が声を掛けてくる。

 

「一尉・・・?」

 

待て。

何か、何かが引っ掛かる。

自分は、何かがおかしいと感じている。

何が?

 

「・・・ハラオウン提督がさっきの指示を出したのは、何時?」

「約1時間前です」

「私の前に、誰かハラオウン執務官と話した人は?」

「覚醒した際に、医療スタッフと私が確認をしました。それ以後は誰も入室しておりません」

「その時に、何か話をした?」

「簡単な身体状況のチェックをしたのみで、あとは何も」

「本当に、私の前には誰も会っていないの?」

「私と医療スタッフだけです」

 

踵を返し、休憩室へと戻る。

隊員が驚いた様に声を上げていたが、構っている余裕は無い。

室内のフェイトは、唐突に戻ってきたなのはに驚く素振りも見せず、ぼんやりと中空を見詰めていた。

冷めたココアを啜っていたのか、その手には中身の減った紙カップが握られている。

その肩を幾分か乱雑に掴み、なのはは問い掛けた。

 

「フェイトちゃん、さっきの話だけど」

「・・・なに?」

「艦内に、救助作業を邪魔した人が居るって話。それ、誰から聞いたの?」

 

そうだ、其処がおかしい。

隊員の話が本当ならば、フェイトが目覚めてからこれまで、医療スタッフと彼を除けば彼女に会ったのは自分だけの筈だ。

そして自分は彼女に、攪乱工作の一件についてなど一言も話してはいない。

隊員が嘘を吐いているのだとしても、自分が此処を訪れるまでの間に話す余裕が在ったとは考え難い。

ならば彼女は、攪乱工作の件について『誰から』聞いたのか。

 

「答えて、フェイトちゃん」

「なに、言ってるの? さっきまで一緒に居たじゃない」

「一緒?」

 

フェイトの言葉に、なのはは目を瞠る。

彼女は、何を言っている?

 

「・・・そういう冗談は苦手なんだけど。この部屋に居たのは、私とフェイトちゃんだけでしょう」

「なのはこそ、冗談でも笑えないよ。なのはが入ってくる前から居たのに、気付かない振りして無視するんだもの。怒らせたかもしれないよ、途中で出て行っちゃったもの」

「だから、何の事?」

 

自然、肌が粟立つ。

得体の知れない何かが、背後から覆い被さってくるかの様な錯覚。

混乱を来す脳裏に浮かび上がる、はやてとクロノの言葉。

両親と大切な人、昔の部下。

 

「教えて、フェイトちゃん。その一緒に居た人は『誰だったの』?」

「・・・ああ、そうか。なのはは、会うのは初めてだったんだね」

 

ならば、フェイトの前に現れた者も、必然。

 

 

 

「リニス・・・私の師匠だよ」

 

 

 

故人ではないのか。

 

「一尉!」

 

扉が開き、隊員が駆け込んでくる。

彼は呆然とするなのはの様子を意に介する素振りもなく、切羽詰まった様に叫んだ。

 

「後部機関室コア付近、スカリエッティを捕捉しました!」

 

■ ■ ■

 

「警告します! 直ちに武装解除し、投降しなさい!」

「馬鹿な真似は止せ! こっちへ来い!」

 

スバルとティアナが現場へと到着した時、其処は既に異様な緊張感に包まれていた。

後部機関室、第一耐放射能ドア。

コアへと向かう通路内に、スカリエッティを追い詰めたとの事だった。

先に駆け付けていた武装隊員に、スバルは状況を尋ねる。

 

「スカリエッティは!?」

「・・・通路内に居る。此処は私達に任せて、君達は前部デッキへ」

「おい、止せ!」

 

俄に、隊員の向こうが騒がしくなる。

即座に応援に駆け付けようとするが、そんなスバル達の肩を2人の隊員が掴み、その場に押し留める。

予想だにしなかった動きに、スバルは驚愕の面持ちで隊員を見遣った。

 

「何を!?」

「放して下さい、何なんですか!? スカリエッティが其処に居るんでしょう!」

「だから、君達は戻れと言っている! 応援は必要ない、戻るんだ!」

 

此方の抗議に、隊員は何処か必死の形相で戻れと繰り返す。

その様子に尋常ならざるものを感じた時、奥の通路側で更に叫びが上がった。

 

「駄目、そっちに出ては駄目よ!」

「畜生、近付けない!」

「・・・おい、馬鹿! 行くな!」

 

隊員達が微かに動揺した瞬間に合わせ、ティアナと共に彼等の傍らを擦り抜ける。

引き留めようとする声が聞こえたが、それを無視して通路へと突入。

そして遂に、目的となる人物を視界へと捉えた。

 

「スカリエッティ・・・ッ!?」

「な・・・」

 

直後、絶句するスバル。

ティアナも同様に、足を止め息を呑んでいる。

彼女たちの眼前に広がる光景は、昂っていた精神を凍り付かせるに余り在るものだった。

 

コアと通路を隔てる扉、第二耐放射能ドアへと向かう通路。

幅1ⅿ程度の細い通路はドアとドアの間に掛かる架橋型で、周囲の壁面には一切接触する箇所は無い。

それもその筈で、磁気を避ける為の構造なのか、円筒形の壁面全体が絶えず回転しているのだ。

おまけに、その壁面には『挽肉器』を思わせる鋭い刃状の突起が渦を巻く様に配置され、更に奥の構造物から漏れる光を取り込む無数の穴が設けられている。

通路は、その巨大な円筒形の『挽肉器』、その中央の空間を貫く様にして架橋されているのだ。

 

スカリエッティは、その通路の中央付近に佇んでいた。

左右の手摺からは、周囲の接近を拒むかの様に赤い糸が伸びている。

魔力の糸、恐らくはデバイスによるそれが、手摺と手摺の間に蜘蛛の巣の如く張り巡らされているのだ。

艦内に絶えずAMFが展開されているにも拘らず、真紅の光を放つ糸は崩壊する事もなく、其処だけがAMFを解かれているかの様に魔力結合を保っている。

手摺の高さは1m程度である為、常ならば糸の壁を乗り越える事は容易いだろう。

しかし、現状ではAMFにより飛翔魔法を使う事も出来ず、かといってこの『挽肉器』の中で脚力に任せて跳躍する事など考えられよう筈もない。

結果として、目と鼻の先に佇むスカリエッティに対し、誰も接近する事ができないという状況が発生していた。

だが、それは要因のひとつに過ぎない。

周囲の接近を阻む、もっと重大な要因が他に在った。

 

「其処から戻れ、早まるんじゃない!」

「アイツ、何して・・・!?」

 

困惑したティアナの声。

無理もない。

スカリエッティは通路に設けられた手摺、その内側ではなく外側に佇んでいたのだ。

少しでも足を滑らせようものなら、そのまま『挽肉器』の只中へと倒れ込む事となる。

にも拘らず、彼は手摺を掴む右手1本で身体を保持し、周囲の緊張を嘲る様にして宙空へと身を乗り出していた。

『挽肉器』に配された刃状の突起が、彼の顔面から約30㎝の距離を絶えず通過している。

しかし、スバルが注意を引かれた箇所は、其処ではない。

彼女の視線を捉えて離さない、スカリエッティの左手。

正確には、その指に幾重にも絡まるもの。

 

「・・・ひっ!?」

 

理解した瞬間、堪え難い怖気が背筋を奔った。

ほぼ同時に、ティアナも気付いたのだろう。

右手にクロスミラージュを携えたまま、左手で口元を押さえ後退る。

彼女達の目に映ったそれは、余りにも異様なものだった。

 

薄紫、濃紫、栗色。

3種の色が無数に、乱雑に五指を絡め取っている。

否、寧ろ指がそれらを絡ませ、鷲掴んでいるのだろうか。

絹糸の様なそれらは長さこそまちまちだが、いずれも元は透き通る様な艶を持っていた事が窺われる、人の毛髪だった。

3色の毛髪が大量に、スカリエッティの左手へと絡み付いていたのだ。

だが、その手に握られているものが毛髪だけでない事は、すぐに解った。

その毛髪に付着して、或いは紛れているものこそが、スバルの精神を追い詰めているのだ。

 

それは、薄いビニールの様な何かだった。

毛髪とそれ自体とに付着したどす黒い染みが無ければ、単なるゴミか何かと勘違いしていたであろうそれが3つ。

五指に絡まる毛髪は全て、それら3つの物体から伸びていた。

どす黒く染まった3つの組織体、僅かな肉片の付着したそれら。

頭蓋から剥ぎ取られたのであろう、人間の頭皮。

 

そして、それら頭皮から伸びる毛髪、その中に紛れる様にして絡め取られているもの。

やはり頭皮と同様にどす黒く染まったそれらは、しかしその中から金色の光沢を放っていた。

白地の球体に、金色の円形部。

自身にとっても意義深いその色彩は、それらの物体が何であるのかを否応なしに知らしめてくる。

強引に抉り出されたのであろう、潰れ掛けた複数の眼球。

 

「うっ・・・あ・・・!」

 

スバルは、気付いた。

気付いてしまった。

金色に染まった瞳、各々に異なる色彩の毛髪。

自身の身体的特徴と、任務前に確認した情報との一致。

 

「戦闘機人・・・」

「スバル・・・?」

「戦闘機人だ・・・あの髪の毛と眼球・・・スカリエッティと、一緒に消えた、戦闘機人のものだ」

 

異常だった。

何もかも異常だった。

頭皮ごと毟り取られた毛髪、抉り取られた複数の眼球。

自身の娘たる戦闘機人のそれらを手にしたスカリエッティは、周囲からの呼び掛けに答えようともせず、明確な死の淵に佇んでいる。

更に、彼自身の容貌にも明確な異常が在った。

 

此方からは、スカリエッティの左側面しか見えない。

俯いた彼の目元は、どす黒い血液に塗れ垂れ下がった前髪に隠れて、窺う事はできなかった。

しかし、それ以外にも異常と判る箇所は複数ある。

先ず、全身が血塗れであった。

第152観測指定世界、次元航行部隊正式採用ジャケットを羽織ったスカリエッティは、本来はグレーの配色である筈のそれをどす黒く染め上げ佇んでいる。

肌が露になった箇所は左右の手と頭部のみであるが、しかしそれらの部位は例外なく惨たらしく引き裂かれ、凄惨な傷痕を刻み込まれていた。

流れ出す血は既に止まっている様だが、それは処置によって止血された訳ではなく、単に時間経過によって血液が凝固しただけであるらしい。

 

そして、彼には耳が無かった。

頭部側面、耳が在ったであろう箇所には引き千切られた組織の残滓が僅かばかり、糸屑の様に垂れ下がっているのみ。

赤黒く捩れたそれが人間の身体から繋がる組織とは、俄には信じ難い有様だ。

露となった耳孔からは、やはり大量の流血の跡が在り、その奥にも何らかの傷を負っているであろう事が推察された。

最悪の場合、脳にまで何らかの外傷を負っている可能性も考えられる。

 

出血多量で息絶えていてもおかしくはない。

スバルがスカリエッティに対して抱いた印象だ。

生きている事が不思議な程だが、それでも彼は現実に目の前に居る。

ならば、確保する他ない。

先ずは傷の処置を行い、容体を確認した後に尋問を行わねば。

あの状態で、此方の言葉を理解できるのならば、だが。

 

「スバル・・・どうする?」

「迂闊には近付けない。消極的だけど、このまま様子を・・・ッ!?」

 

またも、言葉が途切れる。

スカリエッティが、此方を向いていた。

胴体の姿勢を変えぬまま、首だけが此方を向いている。

首を動かす瞬間は、全く認識できなかった。

何時の間にか首を廻らせ、顔面を此方へと向けていたのだ。

そして、その顔を視認した瞬間、今度こそスバルは引き攣った悲鳴を上げる。

 

「ひ・・・あ、ひ・・・!」

「う・・・!?」

 

眼球が、無い。

本来ならば此方を見据えていたであろう、狂人の双眸。

それが、無かった。

スカリエッティの顔面には虚ろに窪んだ、黒々とした眼窩だけが口を開けている。

眼球を無理矢理に抉り取ったのか、周囲の皮膚は剥がれ落ち、皮下組織が剥き出しとなっていた。

更に、それらの組織を爪で掻き毟ったのか、肉はささくれ立ち頬骨が露出している。

そんな、とても生者とは思えぬ形相が、何の感情も読み取れぬ顔が、此方を向いていた。

 

大声を上げる事も、逃げ出す事も出来なかった。

脚が凍り付いてしまったかの様に、その場に止まる事しかできない。

スカリエッティは、無言の儘に此方を見据えている。

否、見据えているらしい、と推測する他ない。

何せ、今の彼には見る為の眼球が存在しないのだ。

ならば何故、此方を向いているのか。

どうやって、此処まで辿り着いたのか。

其処まで思考が及んだ時、くぐもった声が鼓膜を震わせる。

 

「ra・・・te・・・」

「え・・・」

 

幻聴か、との考えはすぐに掻き消えた。

眼前、スカリエッティの唇が動いている。

彼は、何らかの言葉を発しようとしているのだ。

反射的にスバルは、一語一句を聞き逃すまいと意識を聴覚に集中させる。

だが。

 

「 Liberate Tutemet 」

 

聴き慣れない言語に、彼女は混乱する。

スカリエッティが発した言葉は、標準的なミッドチルダ言語によるものではなかった。

声は、更に続く。

 

「 Ex Inferis 」

 

何を、言っているのか。

理解しようと試みる暇は与えられなかった。

初めて耳にする言語での発言を終えると同時、スカリエッティの右手が手摺から離れたのだから。

そして、彼は。

 

「止せッ!」

 

 

 

自ら『挽肉器』の中へと倒れ込んだ。

 

 

 

「見るな!」

 

同時に、スバルの視界が天井を向く。

肩に掛かる圧力、誰かの手が掛けられている事を認識する。

鼓膜を震わせる、様々な音。

濡れた厚手の布が引き千切られる様な音、風船が割れる様な音、何かにぶつかった金属が振動する音。

液体が跳ねる音、何かが磨り潰される音、重く湿った物が叩き付けられる音。

悲鳴、怒鳴り声、更に大きな悲鳴、引き攣った声。

 

「彼女達をデッキへ! 此処を封鎖しろ!」

 

漸く我に返った時、スバルはティアナと並んで床へと座り込んでいた。

眼前15mほど先には、後部機関室へと続く第一耐放射能ドアと、それが設けられた巨大な壁面。

ドアの周辺には10名程の武装隊員が集まり、各々が何らかの怒声を上げている。

内2名程が蹲ったかと思うと、その場で口を押えて嘔吐を始めた。

此処にきて、スバルは漸く状況を理解する。

 

スカリエッティが通路から飛び降りた瞬間、自分とティアナは他の隊員達により強制的に退去させられたのだ。

恐らくは、凄惨な現場を見せないが為に。

肩を掴み、有りっ丈の力で通路から引き摺り出された。

そのお蔭で、スカリエッティの末路をこの目で見る事なく済んだのだ。

ならば、あの時に聴こえた音は。

 

「う・・・う・・・っ!」

 

ふと、隣から聴こえてきた音に、其方を見遣る。

其処では、ティアナが前方の隊員達と同じ様に、口元を押さえて蹲っていた。

数秒ほど、その姿を呆然と見つめていたスバルは、次いで自らも嘔吐感が込み上げてきた事を自覚する。

 

「ぐ・・・!」

 

そうだ。

あの音、あの幾重にも響いていた鈍い音。

あれは『挽肉器』に落ちたスカリエッティ、彼の肉体が上げる断末魔だったのだ。

千切れる音も、割れる音も、湿った音も、潰れる音も。

全部、人間の身体から発せられた音。

無数の刃に引き裂かれ、大質量の金属塊に磨り潰される、人間の身体が立てる音。

生きたまま、息をしながら挽肉にされてゆく、人間の身体の音。

 

「ぐ、えふ・・・ッ!」

 

最早、耐えられなかった。

込み上げてくる胃液、焼け付く食道。

前部デッキから駆け付けた応援だろう、複数の足音を聴き留めながら、スバルは体内を逆流する熱を吐き出した。

 

背中に添えられる手、幾人もの気遣う声。

だが、応えられない。

スバルは今、悪夢の記憶を一時的にでも忘れ去らんと必死だった。

それ以外には、何も考えられなかった。

 

■ ■ ■

 

ブリッジに集まった面々は、いずれも色濃い疲労と焦燥の色を表情に浮かべていた。

それらを見回すクロノが言葉を発する瞬間を、彼女は無言の儘に待っている。

元々、戦闘だけが取り柄の身と自負しているのだ。

そんな自分が余計な発言をして、それで有益な情報が得られる訳でない事は重々に承知しているし、する心算も無かった。

だが、今の状況はそんな彼女をして、誰彼へと無意味な問いを投げ掛けたくなる程の異常なものだ。

特に、彼女の家族に起こった異変は、自身の精神を疑い様も無く追い詰めていた。

 

コアに吸い込まれたヴィータは意識の無いまま此方へと戻り、部下を巻き込んで自殺を図った。

シャマルは医務室で目撃した過去の罪の具現により精神的に不安定になり、それは現状で更に悪化している。

そして、遂には主であるはやてまでもが幻覚に翻弄され、普段の冷静さを失い掛けているのだ。

 

常ならば、幻覚を誘発している何者かに対し怒りを覚えるか、現状を打破すべく何らかの行動を起こしていただろう。

だが、状況がそれを許さない。

艦内に常時展開するAMFが、魔法による満足な探索さえ不可能としている。

よって調査は技術要員に頼る他ないのだが、そうなると自分の様な戦闘に特化した人員は邪魔なだけだ。

だからこそ、せめて非常時には素早く動ける様、はやて達の居る前部デッキを中心に巡回をしているのだが。

 

否、それが言い訳である事は、既に自覚している。

自分は、恐ろしいのだ。

家族に降り掛かる災厄は、全て打ち払ってみせよう。

害意を持ち襲い掛かってくるのならば、それが何であれ滅ぼしてみせよう。

だが、過去の罪の具現、そんなものが眼前に現れ、責めるでもなく害を及ぼすでもなく、ただ佇むのだとしたら。

何を求めるでもなく唯々、過去の罪を見せ付けてくるのだとしたら。

取り返しの付かない過去、それを眼前に突き付けられる事が、恐ろしい。

何をしたかを中途半端に覚えているが為に、忘れていた罪の記憶を掘り起こされるやもしれないという事実が、恐ろしくて堪らない。

 

「皆、揃ったな」

 

クロノの声に、我に返る。

ブリッジに集まった人員、実に30名超。

皆、一様に強張った表情をしている。

 

「既に聞き及んでいると思うが、後部機関室磁気拡散通路に於いてスカリエッティを捕捉したものの、確保は・・・失敗した」

 

知っている。

その現場に居合わせたスバルとティアナが、憔悴した様子で連絡通路に座り込んでいた事も知っている。

 

「奴は自ら、稼動中の磁気遮拡散障壁へと飛び込んだ。結果、回転する障壁に全身を引き裂かれて死亡した・・・と、思われる」

「思われる、とは?」

「現状では、障壁を停止する事ができない。安全面での問題もあるが、最大の要因は正規の止め方が分からない事と、稼働停止による影響の予測が付かない事だ」

「・・・つまり、死体を回収する事ができないと?」

「そうだ。スカリエッティは、まだあそこに居る。一部を除いてな」

 

ディスプレイ上に表示される、サンプル保管用容器。

3本のそれらには其々、異なる色の毛髪が収められている。

更に、その下に表示される別の容器。

やはり3つの容器内に満たされた溶液中に、其々2個ずつ、計6個の眼球が浮かんでいる。

内4つは強い力が掛かったのか殆ど潰れ掛かってはいるが、虹彩を確認する事は可能だった。

いずれも金色、何処か作り物めいた色彩。

その感覚が気の所為でない事は、すぐに解った。

眼球側面、幾筋かの回路らしき線状模様、その下に刻まれた細かな単語の羅列。

 

「切断された左手首の一部と、指に絡まっていた毛髪、その毛髪に絡め取られていた眼球の回収に成功した・・・運良く通路に引っ掛かったんだ。回収作業に当たってくれた面々に感謝したい・・・解析の結果、これらの毛髪と眼球はスカリエッティと共に消えた戦闘機人のものであると断定された。対象の名は・・・」

「No.1ウーノ、No.3トーレ、No.4クアットロ。以上3名です」

「有り難う。毛髪は頭皮ごと力任せに剥ぎ取られており、眼球は素手で抉り出された可能性が高いとの事だ」

 

クロノが言葉を止め、改めて周囲を見回す。

だが、誰も口を開こうとはしない。

訊きたい事は幾らでも在るだろうに、誰1人として。

こうなる事を予想していたのか、クロノが重たげに口を開く。

 

「・・・正直に答えて欲しい。この中で『眼球の無い故人』を目撃した者は、どれだけ居る?」

 

その瞬間、ブリッジに詰めた人員の半数ほどが身動ぎした事を、彼女は感じ取った。

それらの中には、はやてやシャマルも含まれている。

じくりと音の無い悲鳴を上げる、医療用眼帯に覆われた右目。

やがて、恐る恐るといった風に声が上がった。

 

「提督・・・貴方も、なのですか?」

「・・・という事は、君もか」

「私もです、提督」

 

其処彼処から、自身も同じものを見たという声が上がり始める。

最終的に、この場に存在する者の8割が、クロノの言う『眼球の無い故人』を見たと証言。

次いで、新たな問いが飛んだ。

 

「もうひとつ訊こう・・・彼等は『何と言った』?」

 

また、沈黙。

幾人かが、視線を交す素振りを見せている。

 

「僕はこうだ・・・『待っている』、と」

 

瞬間、何かが落ちる音。

発生源へと視線を回らせれば、其処には自身を抱き締める様にして蹲っているはやての姿。

その足元には、隣のコンソール上から落ちたのであろう、艦内用PDAが転がっている。

咄嗟に、周囲の反応すら無視して駆け寄り、その肩を抱いた。

そして、小声で語り掛ける。

 

「主、しっかり」

「同じ・・・さっきと同じ・・・」

「主・・・」

 

此方の言葉が聞こえていないのか、ただただ震え続けるはやて。

咄嗟に彼女の隣に控えていたシャマルへと視線を移すも、当の彼女でさえ血の気の失せた表情で何事かを呟いている。

その様子に、彼女の背を冷たいものが奔った。

 

「シグナム」

「ザフィーラ」

 

掛けられた声に、背後へと視線を遣る。

壁際から歩み寄ってきたザフィーラは、彼女へと軽く目配せすると、そのままシャマルへと歩み寄り肩に手を置いた。

シャマルは俯いたままだが、自然と自身の指を彼の手に重ね、軽く力を込める。

 

彼は、何時もこうだ。

何を言うでもなく、寡黙さを保ったまま傍に立ち、傷付いた家族を支えんとする。

癒すのではなく、慰めるのでもない。

ただただ同じ視点で隣に立ち、彼女達が崩れ去る事のない様、身を挺して護り続けるのだ。

絶対に裏切る事のない、何が在っても味方でいてくれる、他の何よりも厳しく強固で、しかし頼もしく暖かい守護の壁。

傷付き疲れた家族を寄り掛からせ、自らは何物にも依る事なく確固として立つ、優しい壁。

そんな彼に、彼女自身も含めた家族達が、どれだけ救われてきた事だろう。

否、それは家族となる以前からだろうか。

終わりの無い煉獄の様な時を渡り歩いていた過去、彼は常に身を挺して仲間を守っていたのではなかったか。

 

遠い過去と現在とに思いを馳せ、改めて彼の存在を頼もしく感じ、しかしふと気付く。

もし、彼が傷付き倒れんとしたならば。

その時、誰が彼を支えるのか。

それは勿論、家族である自分達だ。

これまで彼がそうしてきてくれた様に、自分達が彼を支え護るのだ。

だが、彼がその時を、そうすべき時を悟らせてくれるのだろうか。

家族に余計な負担を掛けまいと、頼る事など微塵も考えず、傷付いている事でさえも最後まで隠し通すのではないか。

一方で、家族である自分達でさえ無意識の内に、彼は支えなど必要としない程に強靭であると、そう判断していたのではないか。

 

自らも過去は、支えなど必要ない、支えられなければならなかった事など無いと、そう過信していた。

だが、はやてと出会い、仲間から家族となり、自身が今まで仲間達に支えられてきた事、共に支え合ってきた事に気付いたのだ。

その中でも、彼は常に支える側として家族と共に在った様に思う。

それは彼自身の過信から来る選択などではなく、家族を護らんとする断固たる決意から生じた行動だったのであろう。

しかしそれは、結果として彼自身の傷が発する叫びを、家族ですら聞く事が能わぬまでに封じ込めているのではないか。

彼が傷付き倒れんとするその時に、離れ往くその手を掴む事さえ叶わぬまでに遠ざけているのではないか。

 

「シグナム」

 

再び名を呼ばれ、我に返る。

見れば、シャマルの傍を離れたザフィーラが此方の肩に手を置き、顔を覗き込んでいた。

少々面食らいつつも、どうにか平常通りの声を返す。

 

「ザフィーラ、どうした?」

「どうした、は此方の台詞だ。呆けていた様だが、何か在ったのか」

 

言われ、初めて気付いた。

シャマルは既に落ち着いたのか、彼の隣で気遣わしげに此方を見遣っている。

どうやら暫しの間、考えに耽っていたらしい。

情けない事に自らが気遣っていたはやてでさえ、今では肩を抱かれたまま此方を気遣う視線を寄越している。

己の不甲斐なさに自身の頬を殴り付けたくなる感覚が沸き起こるのを堪え、どうにか言葉を紡ぎ出す。

 

「済まない、少し考え事をな・・・主、大丈夫です。我々が付いていますから」

「うん。でも・・・シグナムも、無理したらアカンよ? 何か思うところが在ったら、何でも良いから言ってな?」

 

はやての言葉にもう一度、自分は大丈夫だとの言葉が零れそうになるが、それを押し込めて小さく頷く。

此方が気遣うどころか逆に心配させてしまったと、軽い自己嫌悪の念さえ沸き起こりそうだ。

しかし、そんなものに浸る暇が在るのならば家族を護る事に注力すべきであると、すぐに意識を切り替える。

一方で、これがザフィーラの普段の心境なのかもしれないと、漠然とではあるが納得する感覚も在った。

この感覚を恥じるが故に彼は極力、家族が自身を気遣う状況を回避しようとしているのではないか。

納得と共に、普段の彼が如何に頼もしく、自身に厳しい人物であるかを改めて認識する。

同時に、この艦の内部に於いて彼の様な人物が如何に危険な状況下に在るのか、それを理解してしまった。

 

シャマルから打ち明けられた幻覚の内容は、自身等の精神を追い詰めるには充分に過ぎるものだ。

それを聞かされた時、足元の床が崩れ去り奈落に堕ちるかの様な、そんな錯覚が過ぎった事を覚えている。

今でさえ、それは眼帯に覆われた右目を内より蝕み、眼球を無数の虫に食い荒らされるかの様な、苦痛とも不快感とも付かぬ感覚を齎していた。

そして、その幻覚が眼前に現れる瞬間を、自分は今も恐れ続けているのだ。

その恐れが弱さとして現れたのが、先程の自身の振る舞いだろう。

家族が皆、此方を気遣っている。

それは、此方が無意識の内に見せた弱さに、皆が気付いたからだ。

 

では、気付く事が出来なかったなら。

そんな素振りを微塵も見せず、自らが憔悴している事を家族にさえ悟らせない者が居たのなら。

その者を支える手を、誰が差し伸べるというのか。

何時、護れば良いのか。

己が弱さを誰にも見せる事なく、徐々に心身を蝕まれ崩壊してゆくのではないか。

 

「・・・ザフィーラ」

「騒ぎが落ち着いてきたな。漸く話が本筋に戻りそうだ」

 

どうしてもザフィーラの様子が窺いたくなり名を呼ぶも、彼は混乱が収まりつつあるブリッジ内の面々へと意識を向けたところだった。

クロノの発言の後、次々に彼の言葉を肯定する者が現れたのだ。

その事実に混乱が加速し、其処彼処で憶測交じりの議論が交わされていた。

しかしそれも、クロノの制止によって収まりつつある。

 

そんな中でシグナムは密かに、無事な左眼でザフィーラの横顔を見遣った。

彼はメインコンソール付近に立つクロノを視界に捉えたまま、巌の如く微動だにしていない。

彼女の胸中、固まる決意。

後ほど、彼にも問い質さねばならない。

彼女と同じく何も見てはいないのか、或いは既に何かを目にしていながら伝えずにいるのか。

もし後者であるのならば、その時は有無を言わさず傍に在るとしよう。

はやても、シャマルも一緒だ。

家族の皆で、彼を支えねばならない。

何しろ、あれだけ強固で大きな壁だ。

きっと彼女1人では支え切れず、3人掛かりで漸く元に戻せる位だろうから。

 

「・・・そろそろ良いか。聞いた通り、艦内の多くの人員が同様の幻覚を体験している。原因は不明だが、艦内に存在する『何か』が関連している事は間違いない」

 

各員が落ち着いた頃合を見計らって、クロノが言葉を発する。

その内容は、常の彼ならば決して口にはしないであろう、余りにも不確かな憶測だ。

だが、それに対し異議を挟む気には、到底なれなかった。

 

「幻覚は各員の記憶の中に在る故人の姿を取り、此方へと語り掛けてくる・・・内容は各々で異なるだろうが、しかし共通しているのは最後に『待っている』との謎の言葉を残す事と・・・幾度目かに現れた時『眼球が無くなっている』事だ」

 

呟き声。

見れば、クラウディアクルーの1人が頭を抱え、周囲を気に掛ける事もなく何事かを呟いている。

すぐさま近くの人員が駆け寄るが、ブリッジ内には似た様相の人間が他に3名ほど見受けられた。

クロノが僅かにそれらを見遣るも、そのまま言葉を続ける。

 

「残念ながら、幻覚の原因については未だ判明していない。しかし各班から同時に、新たな発見が在ったとの報せも受けている。時間的余裕が無い事も加味し、報告はこの場で受けよう。全ての情報を全員で共有するんだ」

 

数秒ほどの沈黙の後、声が上がった。

武装隊指揮官だ。

 

「艦内捜索班からの報告です。後部機関室、スカリエッティが潜伏していたと思われる区画を重点的に捜索中ですが、現状で潜伏の痕跡と思われるものは一切発見されておりません。集積回路点検通路内も同様です。ベニラル博士についても、未だ行方は掴めておりません。以上」

「修復班から2点ほど。艦内循環システム、機能回復に成功。二酸化炭素濃度は正常値にまで降下しつつあります。次にクラウディアの修復ですが、魔力炉心の再稼働に成功しました。Bブロック及び左舷エンジン、通信機能を除き修復作業は順調に進行。特に問題が無ければ、3時間後には循環システムの再稼働に漕ぎ着けられるとの予想です」

「離脱は?」

「艦内環境の正常化さえ済めば、何時でも」

「やっと朗報が聞けたな。有難い、全班員に礼を伝えてくれ」

 

クラウディアの修復が完了しつつある。

その朗報に、柄にもなく安堵を覚える自分が存在する事に、シグナムは感付いていた。

もう少しで、異常な状況から脱出できる。

その希望が伝播したのだろう。

小さくながらも歓声と安堵の息が其処彼処で零れ、皆の間に僅かながら笑顔が浮かぶ。

それは、はやてやシャマル、少し離れた位置に立つなのはも同様だった。

この場には居ないがスバルやティアナも、この報告を聞けば喜んだ事だろう。

だが、そんな安堵を打ち砕くかの様に、グリフィスの声が響き渡った。

 

「情報解析班より報告。システム深層のデータログより、この艦が『イベント・ホライゾン』と呼称されていた際に、他艦艇から本艦へと移乗した人員の情報が明らかになりました。移乗記録は西暦2047年時に於ける、長距離特殊救難艦による緊急接舷が最後となっております」

「2047年だと?」

 

グリフィスの報告により、俄にざわめきが沸き起こる。

シグナムの目が細められ、腕の中のはやてが僅かに身を乗り出した。

 

「待ってくれ。この艦が第97管理外世界に於いて重力推進機関を始動したのは、西暦2040年だったのでは?」

「その7年後に、この艦は太陽系へと帰還を果たしていたのです。その間については、完全に消息不明。太陽系第8惑星、海王星の軌道上に突如として出現した本艦は、直後から緊急救難信号を発信。アメリカ合衆国、連邦航空宇宙局の追跡衛星が信号を受信し、救助および調査を目的とするチームが編成され、海王星軌道上へと派遣されています」

「その救難艦が、太陽系での最後の接舷艦艇か。艦名は?」

「U.S.A.C. THE RESCUE VESSEL『LEWIS AND CLARK』。クルーは艦長以下、計7名。宇宙航法学から最先端機械工学、医療分野に至るまで、優秀な実績を持つ少数精鋭が乗り組んだ、歴戦の救難艇だった様です」

 

各コンソールのディスプレイ上に表示された構造図。

それは流線型の艦体、艦首下部周辺に複数の長大なアームを備え、後部に逆ガル翼と巨大な主推進機関を備えた宇宙艦のものだった。

救難艦『ルイス・アンド・クラーク』。

クラウディアと比して1/6程度の規模となる艦体の外観は、明らかに次元世界の艦艇とは設計構想からして異なるものだ。

艦体側面に描かれた『LEWIS AND CLARK』と『UNITED STATES AEROSPACE COMMAND RMY-23』との表記と、第97管理外世界に於いて見慣れた星条旗。

自身の知る限りでは、満足な宇宙航行技術も有してはいない筈の世界、其処に存在する巨大国家の国旗。

それこそが、この艦が地球に於いて建造された代物である事を、雄弁に物語っている。

だが、俄には信じ難い。

こんな、それこそ旅客用航空機と大差ない規模の艦艇が、地球から海王星の軌道上にまで航行し、更に往復できるというのか。

そんな代物をあの世界は、今から30年と経たぬ内に造り上げてしまうのか。

奇妙な感覚と共に異形の艦の外観に見入るシグナムの鼓膜を、クロノの声が揺さ振る。

 

「『ルイス・アンド・クラーク』・・・本来のクルーは、この艦に救助されたのか?」

「いいえ。『ルイス・アンド・クラーク』が『イベント・ホライゾン』に接舷した事は確かですが、彼等が離脱したとの記録は存在しません」

 

ほぼ無意識の内に、視線がグリフィスへと向く。

シグナムだけではなく、ブリッジに詰める全員の視線が。

 

「・・・どういう事だ」

「『ルイス・アンド・クラーク』は接舷直後に何らかの要因により艦体を破損、技術要員による修復作業を開始しています。その際に前部デッキにて入力されたデータが後方機関部へとコピーされ、それが現在の前部デッキへと再コピーされているのです」

「救助活動についての記録は」

「生存者は発見できず。ブリッジにて凍結した死体と、コンソールにこびり付いた大量の人骨と肉片を発見したと」

 

思わず、周囲のコンソールへと視線を奔らせるシグナム。

当時の前部デッキと現在の前部デッキは別物の筈だが、それでも反射的な行動を抑える事はできない。

だが、続くグリフィスの言葉は、そんな無意識下の行動でさえ凍り付かせるものだった。

 

「そして・・・クルーの1人、ジャスティン機関士が『コア』へと取り込まれ、意識不明となって回収されたとも」

 

何かが落ちる音と、幾つかの声。

腕の中のはやてが一際強く身動ぎし、シャマルの動揺が空気を通して伝わってくる。

一拍の間を置き、ブリッジ内は喧騒に満たされた。

 

「何だ、それは・・・まるで同じじゃないか!」

「彼等の置かれた状況は、今の我々そのものだ! 『ルイス・アンド・クラーク』が『クラウディア』、機関士が空尉と同じ・・・!」

「救難艦の破損は『コア』が原因なの? やっぱり、あれは事故なんかじゃ・・・!」

 

『ルイス・アンド・クラーク』と『クラウディア』。

ジャスティン機関士とヴィータ。

状況の奇妙な一致に、怖気にも似た感覚が奔った事を、シグナムは他人事の様に自覚した。

そんな彼女に、語り掛けるかの様な声。

 

「・・・救難信号を発していた、ってのも同じやな」

「・・・主?」

「私達がこの艦に乗り込んだのは、スカリエッティが乗り組んでいたからや。でも、そんな事とは関係なしに、この艦が救難信号を発していたのは・・・」

「いずれ、それを受信した何処かしらの勢力の艦艇が接舷する。最初から、それが目的だった・・・?」

 

はやてが、怯える様に周囲を見回す。

その行動が、周囲の人間を視界へと捉える為のものではなく、ブリッジの構造物そのものを見回しているのだと、シグナムは気付いた。

彼女にはこの艦が、得体の知れない怪物の様に思えてならないのだろう。

尤も、それはシグナムにとっても同様であったが。

 

「申し訳ありませんが、お静かに願います・・・提督、もうひとつ報告を。当時『ルイス・アンド・クラーク』には、正規のクルーの他に1名『ゲスト』が乗り組んでいた事が判明しました。USACではなくNASAに所属する人物です」

「何だと?」

「此方が、その情報です」

 

グリフィスがコンソール上に指を奔らせるや否や、ディスプレイ上に表示される詳細な個人情報と、対象人物の画像。

その画像を目にした瞬間、シグナムは息を呑んだ。

ブリッジ内の其処彼処で、同様に息の詰まる音がする。

 

「彼は事故原因究明の為に『ルイス・アンド・クラーク』に乗り組み、他のクルーと共に『イベント・ホライゾン』へと移乗した事が確認されています」

 

 

 

ベニラル博士の姿が、其処に在った。

 

 

 

「ベニラル・・・!?」

 

立ち上がる者、コンソールを叩く者、口元を抑える者。

反応は其々だが、誰もが一様に驚愕している事は確かだ。

それはクロノでさえも例外ではなく、信じ難いとでも云わんばかりの表情でディスプレイ上の画像を見詰めている。

無感動に紡がれる、グリフィスの声。

 

「エリック・ベニラルなどという人間は、最初から存在しない。彼の本当の名は『ウィリアム・ウェアー』。重力推進理論の提唱者であり、深宇宙探査船『イベント・ホライゾン』の設計者です」

 

ブリッジに、沈黙が満ちる。

誰もが呆然とディスプレイ上の画像を見詰め、微動だにしない。

そのまま十数秒が過ぎた頃、絞り出す様な声が上がった。

 

「・・・つまり、奴がこの艦の開発者であるという点だけは、真実だったという訳だ・・・まさか、第97管理外世界の人間とは思いも寄らなかったが」

「『ルイス・アンド・クラーク』をこの艦に導き、今度は『クラウディア』を・・・何の為に・・・?」

 

ふと浮かび上がる、幾つかの疑問。

どれから言葉にすべきかを数瞬ほど迷うも、先ずは時系列に沿って解消してゆこうと声を発する。

 

「救難艇のクルーは、どうなったのだ? 『ルイス・アンド・クラーク』は?」

「記録は接舷から6時間後を境に途絶えています。クルーが艦内で幻覚を見始めた事、『ルイス・アンド・クラーク』の修復が順調に推移している事は記録されていますが・・・」

「離脱は叶わなかったという事か?」

「いえ、恐らくは離脱したのでしょう。これをご覧ください」

 

再び、グリフィスがコンソールを操作。

表示された『イベント・ホライゾン』の構造図は、何処かこれまでのものとは違っている。

違和感の原因には、すぐに気付いた。

前部デッキの外観が、第152観測指定世界の艦艇に多く見られる、流線型を多用した現在のものとは異なっている。

何処か髑髏を思わせる重厚な外観のそれは、現在の前部デッキ構造物以上に見る者へと威圧感を与えるものだ。

その艦首に掲げられた巨大な平面外殻には、やはり巨大な『EVENT HORIZON』の字列が並んでいる。

これは過去の『イベント・ホライゾン』構造図、この艦の本来の外観なのだ。

 

「建造当時の『イベント・ホライゾン』です。現在のデッキは単独で救命艇としての機能を備えていますが、オリジナルは更に単独航行機能を付与された、謂わばそれそのものが独立した宇宙艦でした。次元世界に於いて回収されたのが後方機関部のみであった事から推測するに、恐らく『ルイス・アンド・クラーク』のクルーは非常措置を実行し、前部デッキを切り離して離脱したものと思われます」

「物理的に切り離す機能が在ったの?」

「ええ。連絡通路には600箇所以上にC-4爆薬が設置されており、緊急時にはこれらを起爆して連絡通路を爆破解体、前部デッキと後方機関部を切り離す設計となっていました」

「その機能は、このデッキにも再現されているんだな」

「航行機能は備えておりませんが、救命艇としては機能します。しかし、連絡通路の爆破解体機能については、出航が前倒しとなった為に実装は見送られております」

「つまり、同じ方法での離脱は不可能という事か」

 

これで疑問のひとつは、完全ではないにせよ解消された。

救難艦のクルーは、この艦より離脱していたのだ。

次の疑問を口にしたのは、なのはだった。

 

「結局『ルイス・アンド・クラーク』自体はどうなったの? 修復作業が順調だったのに離脱に使用できなかったのなら、何らかの原因が在る筈でしょう」

「不明です。接舷梯の連結が解除されたとの記録も在りません。それどころか記録が途絶えるまでに『ルイス・アンド・クラーク』艦内に戻った形跡が在るのは、スミス操縦士とクーパー救助隊員のみです」

「・・・何らかのトラブルにより、宇宙艦としての機能回復に失敗したと考える事もできるな」

 

結局、救難艦『ルイス・アンド・クラーク』の辿った結末については、推測する他ないという事か。

他にも訊きたい事は在ったが、中でも取分け気に掛かる事柄を別のクルーが指摘した。

 

「確認するが『ルイス・アンド・クラーク』が接舷した時点で、本来のクルーは全滅していたんだな?」

「記録に拠れば、そうです」

「つまり第152観測指定世界のクルーと同じく、重力推進機構を稼動し『何処か』へと飛んだ事が原因で、USACクルーは全滅したと考えられる訳だ」

 

彼は其処で言葉を区切り、暫し黙考する。

誰も急かす事なく、続く言葉を待っていた。

そして、放たれる疑念。

 

「この艦が次元世界に現れるに至って、少なくともあと1回は重力推進を稼動させている筈だ。次元航行艦ではない『イベント・ホライゾン』が次元空間へと現れる為には、その『何処か』を経由するしか方法は考えられない。当然、残された後方機関部にウェアー博士を乗せて」

「・・・ええ」

「何故、正気を保っていられる?」

 

瞬間、顔を跳ね上げた者は、予想よりも幾分か多かった。

シグナムとて、其処に疑念を抱いたのは少し前の事だ。

異常な状況に埋もれていた、しかし決して無視できぬ違和感。

 

「USACのクルーは全滅した。第152観測指定世界のクルーも死に、スカリエッティは自殺した。我々でさえ死傷者を出している。皆、狂ったとしか思えない行動の果てにだ。なのに何故、その『何処か』を経由した筈のウェアーは正気を保っている?」

 

そうだ。

ベニラル博士、即ち『ウィリアム・ウェアー』が『何処か』を経由して次元世界へと現れたというのならば、彼が狂っていなければ辻褄が合わないのだ。

だが彼は、不審な素振りこそ在れど、気が触れている様には見えなかった。

何故か?

 

「・・・居る」

「何だ?」

「居るじゃありませんか。御世辞にも正気とは言えないが、喋れる程度には人間らしい意識を留めていた人物が」

「・・・ヴィータの事を言っとるんか」

「いいえ、スカリエッティの事です」

 

途端、身を乗り出し掛けたのは、シグナムだけではあるまい。

腕の中のはやてが、強く身動ぎするのを感じる。

全員の視線が武装隊の1人に集中する中、彼女へと問いが飛んだ。

 

「・・・奴は、何か喋ったのか? 初耳だぞ」

「間違い在りません。聴き慣れない言語でしたが、確かに数名が聞いています」

「何て、何て言ったんや?」

「正確ではありませんが、リバラテ・トゥテメ・・・」

「『Liberate Tutemet Ex Inferis』」

 

不慣れな発音に苦戦する声を、流暢なラテン語が遮る。

クロノだ。

 

「・・・提督、御存知でしたか」

「現場に居た者から聞いたよ。第97管理外世界の言語、ラテン語だ」

「何て、言ってるの?」

 

なのはの問い。

何故かクロノは目を伏せ、しかしすぐに全員の顔を見回した。

何事かを確認するかの様に。

そして、告げる。

 

「『己を救え』」

 

『彼方』を垣間見た者達からの、遺言を。

 

 

 

「『地獄から』」

 

 

 

外部からの通信を示す警告音。

だが、即座に反応する者は誰も居ない。

誰もが身動ぎすらしない中、船外作業班の幾分か弾んだ声が響き渡る。

 

『此方クラウディア、朗報だぞ。主要区画の密閉修復措置を完了。離脱まで2時間ほど繰り上げだ』

 

■ ■ ■

 

「ザフィーラ」

 

2人分の紙カップを手にしたシグナムが、彼へと声を掛ける。

何処か普段とは異なり、奇妙な足運びで歩いていたザフィーラが足を止め、此方へと振り返った。

 

「・・・2人とも、どうした? シャマル、主に付いていずとも良いのか」

「はやてちゃんは、なのはちゃんと話が在るとかで。それよりも、ザフィーラ」

 

足早に歩み寄り、彼の顔を見上げる。

紅い瞳を覗き込むが、その色は微塵も揺らぐ事はない。

 

「シグナムが、気にしているのよ。貴方が精神的にもとても強い事は知っているけど、もし何かあっても話してくれないんじゃないかって」

「おいシャマル、何も私は其処まで・・・」

「・・・特に問題は無いな。気遣いは有難いが、今は主の助けになってやってくれ」

 

それだけを言い、再び背を向けて歩き出すザフィーラ。

思わず、シグナムと顔を見合わせる。

彼女もまた、呆気に取られた様な表情で此方を見返していた。

 

何だ、この彼らしくもない反応は。

言葉こそ何時も通りだが、彼が此処までぞんざいな対応をする様など見た事が無い。

すぐにも会話を切り上げたいと云わんばかりの態度からは、何時もの悠然と構えた余裕が感じられない。

何が、彼をそうさせているのか。

 

「・・・待て、ザフィーラ。お前は何か見ていないのか? シャマルから聞いた様な・・・何か」

「耐え難い記憶の産物を、か?」

 

足を止めるも振り返る事なく、遮る様に放たれた言葉に、シグナムの声が詰まる。

益々もっておかしい。

先程は自分やシグナムを気遣っていたというのに、この刺々しい態度は何だ。

 

「貴方も、あの子を見たの? それとも別のもの?」

「生憎だが、私は何も見てはいない・・・気を遣わせてしまって済まない。だが、私は大丈夫だ」

「なあ、ザフィーラ」

 

シグナムが歩み出る。

彼女はそのままザフィーラの正面へと回り込み、先程の自分と同じ様に彼の顔を見上げた。

 

「お前が常に皆を気に掛けていてくれる事は、家族全員が知っている。だが、助けられてばかりではないのが家族だと、お前も知っているだろう」

「そうよ、ザフィーラ」

 

シャマルもまたザフィーラへと追い付き、その肩に手を置く。

何度も自分達を助けてくれた、逞しい腕。

何処か感慨に似たものを感じながら、シャマルは続ける。

 

「ヴィータちゃんがあんな事になってから、私達みんなが追い詰められている。でも、貴方だけは決して弱音を吐かない。今までみたいにね」

「お前の言う様に問題は無いのかもしれんが、それでも気になってな。まあ、気に障ったのなら謝る。済まないな」

 

表情を微塵も変えぬまま、シグナムを見下ろすザフィーラ。

しかし、その仏頂面がふと緩むと、肩に乗せられたシャマルの手に自身のそれを重ね、苦笑と共に言葉を紡ぎ出す。

 

「いや・・・改めて、謝らせてくれ。済まない、お前達の気遣いを無碍にするところだった」

「気にしないで。こんな状況だもの、何の問題も無い方が珍しい位よ」

 

言いつつ、手近な壁の窪みを指すシャマル。

腰掛けるには丁度良い其処に、先ずシグナムが腰を下ろし、シャマル自身もそれに続いた。

そして、医務室から持参してきた魔法瓶の蓋を開け、蓋の上下を返したカップに紅茶を注ぐ。

これが、最後の1杯だ。

 

「はい、紅茶。これで最後だから、良く味わってね」

 

微笑み、紅茶を注いだカップをザフィーラへと差し出す。

其処で、シャマルは気付いた。

 

「・・・ザフィーラ?」

 

彼が、此方を見下ろしている。

ザフィーラは壁際に腰掛けようともせず、呆然と立ち尽くしていた。

その視線は腰を下ろしたシャマルとシグナム、正確にはその背後の窪みへと向けられている様だ。

シャマルと同じく、彼の様子を不審に思ったのか、シグナムが声を掛ける。

 

「何だ? どうしたんだ、ザフィーラ」

「座らないの?」

 

すると、彼は我に返ったかの様に瞼を瞬かせ、右手を自身の額へと添えた。

何か考え込んでいる様にも、頭痛を堪えている様にも見える彼へと、再度に声を掛ける。

 

「ねえ、本当に大丈夫?」

「・・・ああ、済まない。私は大丈夫だ」

「とてもそうは見えんぞ・・・まさか、見えたのか?」

 

自身の背後、壁面の窪みへと振り返るシグナム。

未だ腰掛けるシャマルは、妙な不安に駆られ反射的に立ち上がりたくなる自身を抑えつつ、ザフィーラの言葉を待つ。

 

「どうなんだ、ザフィーラ」

「・・・いや、何も。そうだな、他の者より鼻が利く分、状況に惑わされ易いのかもしれん」

「何か、嗅覚に異常でも?」

「いいや。少しばかり、嗅ぎ慣れた臭いがするだけだ」

 

その言葉の意味する処を、シャマルは正確に理解した。

自分達だけが知る『闇の書』の、ヴォルケンリッターの暗く、陰惨な歴史。

ザフィーラの言う『嗅ぎ慣れた臭い』とやらが、その歴史へと常に付き纏うものであると。

即ち、血と、死の臭い。

 

「そうか、嗅覚か・・・盲点だったな。優れたそれが、今は裏目となっている訳か」

「・・・この艦で起こった事を考えれば、不思議ではないわね。そうなると、これを勧めるのはちょっと不味いかしら」

 

紅茶の入ったカップを揺らす。

豊満な茶葉の香りがふわりと漂うが、自分達より遥かに優れたザフィーラにとっては、周囲の不快な臭いと混然となった異臭として感じられる事だろう。

彼を気遣っての行動だったが、これも裏目に出てしまった様だ。

 

「重ね重ね、済まないな。私の代わりに、それはお前達で飲んでくれ。香りを愉しめる者に飲まれた方が、茶葉としても本望だろう」

「いえ、それは良いの。寧ろ、配慮が足りなかったのは私達の方だわ・・・でも、困ったわね。私達、食堂でコーヒーを貰ってきてしまったのよ」

 

シャマルの言葉に合わせ、シグナムが両手の紙カップを掲げてみせる。

意外な事に、ザフィーラは紙カップの存在に気付いていなかったらしく、驚いた様に目を瞠っていた。

シグナムが僅かにおどけて、肩を竦めつつ紙カップを口に近付ける。

 

「うむ。まあ、勿体ないからな。少しばかり量が多いが、これは私が」

「止せ、シグナム」

 

鋭い、制止の声。

ナイフの切っ先の如く研ぎ澄まされたそれが、シャマルの意識を貫く。

突然の事に驚く彼女、その視線の先では紙カップに口を近付けていたシグナムが、一切の動きを凍り付かせていた。

思わず零れる、掠れた声。

 

「ザフィーラ・・・?」

「それを置け、シグナム。何も言わずに置くんだ」

 

ザフィーラは応えない。

全ての感情が抜け落ちた目で、シグナムを見据えている。

否、シグナムではない。

彼女が手にし、今まさに口を付けんとしている紙カップを睨み据えている。

シグナムがぎこちなく紙カップを口から離し、壁の窪みの上へと置いた。

そして、絞り出す様に発せられる、幾分か固いシグナムの声。

 

「・・・何が、見えた?」

「そのコーヒーは、元からこの艦内に在ったものなのか」

「ザフィーラ」

「答えてくれ」

 

知らず、唾を飲み込む。

シグナムの手元、コーヒーの入った紙カップを睨むザフィーラの目は、明らかに戦場に在る際のそれだ。

戦慄しながらも、シャマルは彼の問いに答える。

 

「そうよ。衛生面でも問題ない事は確認されているから、飲んでも・・・」

「駄目だ。シャマル、今すぐ検査のデータを・・・」

 

言葉が途絶え、ザフィーラが再び自身の額に手を添えた。

表情を顰め、何かを堪えるかの様に固く瞼を閉じる。

彼の爪が額の皮膚に食い込んでいる事を認識した次の瞬間には、其処から鮮血の筋が流れ出していた。

 

「ッ! ザフィーラ!」

「来るな」

 

低く重い制止の声に、駆け寄らんとした足が止まる。

ザフィーラは額から手を離し、掌を此方へと突き付けた。

額の傷は、見た処は大したものではなさそうだ。

 

「悪いな。今の私は、正常ではない様だ・・・少し、人の多い場所で休ませて貰うとしよう」

「待って」

「お前達は主の傍に居ろ。守護騎士としての役目を果たせ」

 

それだけを言い終えると、背を向けたザフィーラは今度こそ振り返る事もなく、通路の先を目指し歩み始めた。

しかし、その足運びは何処か不自然だ。

何もない床の上を、何かを迂回する様に不規則な軌跡で進んでゆくザフィーラ。

その背を呆然と見送っていたシャマルの意識に、同じく呆然とした体のシグナムの声が割入る。

 

「あれは・・・どうしたんだ?」

「・・・分からないわ、何かが見えたんだとは思うけれど」

 

隣を見れば、シグナムは先程置いた紙カップとは別の一方、未だ自らが手にするそれを見詰めていた。

その姿からは普段の覇気など微塵も感じ取れず、自らの手の内に在る小さな紙カップに対する不安と不審とが滲み出ている。

彼女との永劫に亘る付き合いの中でも、こんな姿を見た事は数える程でしかない。

 

「なあ、シャマル」

「なに?」

「艦内に在った飲食物は、全て安全が確認されているのだな」

「・・・ええ。私は後から結果を見せて貰っただけなんだけど、問題は無かった筈よ」

「何故、ザフィーラはこれを置けといったのだろうな」

 

紙カップを掲げてみせるシグナム。

僅かに透過した照明の光が、カップ内に注がれた液体が帯びる褐色を浮かび上がらせる。

 

「分からない。分からない事だらけよ、この艦の中で起きる事は。これだけ多くの死者を出す位なんだから、碌でもない事だとは断言できるけど」

「皮肉だな。他ならぬ碌でもない時間を歩んできた我等が、たかが屑鉄の塊にこうまで翻弄されるとは」

「ごく普通の人生を歩んできた人達だって、あの幻覚に翻弄されているのよ。私達みたいな後ろ暗い過去を持つ身なら尚更だわ」

 

自然と、声が沈む。

人間である以上、何ら後ろ暗い事など無い、という人生を歩む事は困難だろう。

誰しもが記憶の中に、触れられたくない過去というものを持っているものだ。

この艦内の人間は、その記憶を掘り起こされ、幻覚により精神を追い詰められている。

彼等、ごく普通の人間でもそうなのだ。

『闇の書』の一部として、数多の次元世界に災厄と滅びを齎してきたヴォルケンリッターならば、その眼前に現れる幻影が呼び覚ます罪の記憶は如何程のものか。

 

「ザフィーラは私達を、その過去から遠ざけようとしている。彼が見た幻覚がそれらに密接に関係するものなら尚の事、私達を遠ざけようとするでしょうね」

「・・・結局、私達では奴にとっての支えにはなれんという事か」

「烈火の将とは思えない台詞ね、シグナム。まさか、諦めるの?」

「馬鹿な事を言うな。アイツが嫌だと言おうが何だろうが、無理やりにでも支えてやる。それが家族というものだろう?」

 

不敵に言い放ち、シグナムが笑う。

その姿に覇気が戻った事を感じ取り、シャマルは安堵と共に微笑んだ。

だが、すぐにシグナムは表情を引き締める。

 

「しかし、だ。他の連中でさえも耐え難い幻覚を見ているとなると、状況はかなり不味いな。こんな事を言いたくはないが、そうなると危険な者は他にも居る」

「家族を悲惨に亡くした人や、何らかの罪の意識を抱えている人・・・そうでしょう?」

「ああ。テスタロッサがあんな行動に出たのも、何か関係が・・・ッ!?」

 

突然だった。

紙カップが宙に舞い、通路の床へと叩き付けられて、中身の液体を撒き散らす。

水滴が弾ける音と共に、立ち上る僅かな湯気。

一拍遅れて嗅覚を満たす、濃密な鉄の臭い。

 

「シグナム・・・?」

「ッ、あ・・・?」

 

シャマルは見た。

無意識煮だろうか、紙カップを口元に近付けたシグナムが何かに気付き、無事な左目が一瞬だけカップの中身へと視線を落とした瞬間を。

直後に目を瞠り、咄嗟にカップを投げ捨てた瞬間を。

彼女は今、徐々に乱れる呼吸と共に、視線の先に転がる紙カップを凝視している。

放たれる、酷く掠れた声。

 

「シャマル」

「シグナム、貴女・・・」

「今の、見えたか?」

「何の事?」

「・・・質問を変えよう。今、どんな『臭い』がする?」

 

奇妙な質問。

シグナムらしからぬ切羽詰まった様子に気圧されながらも、シャマルはどう答えるべきかと思案した。

しかしそれも数瞬の事、取り敢えずはありのままに答えようとして、彼女は気付く。

 

「・・・え」

 

コーヒーの香りが、しない。

これだけ近距離にコーヒーを飛散させたというのに、その香りが全くしないのだ。

代わりに鼻腔を満たすものは、錆びた鉄の臭い。

これは、この臭いは。

 

「立つんだ」

「シグナム、これは・・・」

「立て、シャマル」

 

有無を言わさぬ口調に、シグナムを見遣る。

何時の間にか彼女は立ち上がり、壁の窪みを睨み据えていた。

その額には汗が滲み、若干だが呼吸に乱れが生じている。

只ならぬシグナムの様子に、シャマルは自身の背後に在る窪みを振り返ろうとして。

 

「立て! 振り返るな!」

 

叫びに弾かれる様にして、立ち上がる。

手にしていた魔法瓶の蓋のカップが床に落ち、最後の紅茶を撒き散らした。

そのまま態勢を整える暇もなく、シグナムに肩を押さえられる。

シャマルは、すぐに悟った。

 

「シグナム・・・其処に、何が在るの?」

「見るな、シャマル・・・見るんじゃない」

「あのカップの中身は、何だったの?」

「幻覚だ・・・こんなもの、幻覚だ・・・!」

「それは、私が『見ているもの』と一緒なの?」

 

シグナムの身体が、震える。

彼女が背後の窪み、つい十数秒前まで自身が腰を下ろしていた其処に何かを見出し、それを見せぬ為に此方を押さえている事は理解した。

だが、その気遣いは無駄だった様だ。

今まさにシャマルの視界に映る通路、その全てに異常が具現しているのだから。

 

「・・・私の背後も、そうなのか?」

「・・・ええ」

 

幻覚だけではなかった。

嗅覚から触覚まで、自身の制御下から奪われるとは。

視界を埋め尽くす赤の世界を前に、諦観にも似た感情が意識を満たしてゆく。

同時に理解する、ザフィーラの奇妙な言動の理由。

 

彼には優れた嗅覚が在る。

それがずっと、それこそ皆が幻覚に襲われ始めるよりも更に以前から、この余りに濃密な鉄の臭いの直中に在ったのだとしたら。

常人離れした嗅覚が在るが故に、常に『この光景』を見続けていたのだとしたら。

そして、それが無きが如く振舞う周囲の反応と、幻覚の問題が発覚した事により、自身の現実認識が正常であると確信が持てなくなったのだとしたら。

誰にもそれを打ち明けられぬまま『この光景』に此処まで耐え抜いてきたのだとしたら。

 

「・・・何て、事」

 

 

 

この、血と内臓と、人骨だらけの世界に。

 

 

 

「・・・目を閉じろ、シャマル。強くだ」

 

床に転がる肉塊、壁に張り付いた細かな肉片、其処彼処に散乱する血塗れの骨格。

天井面からは幾筋もの解れた肉片、或いは腸らしきものが垂れ下がり、それらの全てに蛆が湧いている。

壁際には調度品か何かの様に、ワイヤで括り付けられた肋骨が10以上も並び、底部を別の骨格で塞がれたそれらの中には、複数の臓器が乱雑に詰め込まれていた。

床には指が、手首が、足首が転がり、更にはそれらを切断する為に使用されたと思しき、工具や金属片が散乱している。

そして、シャマルとシグナムのすぐ横には引き千切られたらしき下顎の骨格と、力任せに引き摺り出されたらしき舌とそれに付随する内臓器官、恐らくは十数人分のそれらが山積みとなっていた。

それらの上、壁面に殴り書きされた『delicious!』の血文字が、シャマルの精神を容赦なく蝕んでゆく。

何もかもが血に塗れ、赤く染まった世界。

鼻腔から脳髄へと浸透してゆく死臭、腐臭、血の臭い。

シャマルは理解する。

ザフィーラの足運びは、山積みとなった人体の成れの果て、幾つもの潰れた死体の山を迂回していたのだ。

 

そして、床に転がる紙カップ。

つい先程まで、シャマルとシグナムが飲もうとしていたそれ。

その内より撒き散らされた液体は、褐色ではなく鮮やかな赤。

更にその中に混ざる、剥ぎ取られた複数の生爪とそれに付着した肉片と皮膚、引き抜かれたらしき幾本かの歯。

もう、限界だった。

 

「シグナム、私は・・・」

「閉じろ!」

 

精神を削りゆく視覚と嗅覚からの情報に耐え切れず、シャマルはシグナムの言葉に従う。

瞼を固く閉じ、シグナムの肩に掛けた震える手に、縋り付く様に力を込めた。

 

「目を開けるんだ、シャマル。ゆっくりと」

 

言われるがまま、ゆっくりと瞼を上げる。

果たして、視界へと映り込んだ光景は、先程とは全く異なるもの。

元の光景そのままの、無機物に埋め尽くされた殺風景な通路だった。

思わず震える息を吐き出し、掠れて声にならない声をどうにか振り絞る。

 

「・・・消えた」

「こっちもだ・・・何も残さず、消えた」

「何、だったの? 今の、あれは」

 

応えはない。

シグナムは額に滲んだ汗を拭う事もせず、微動だにしない。

だが数秒の後、重々しく口を開いた。

 

「シャマル・・・飲食物の検査に用いたのは、クラウディアから持ち込んだ機器か?」

「え?」

「答えてくれ」

「・・・いいえ、其処まで余裕が無くて」

「この艦の機器を用いたのだな」

「ええ、このPDAを介して」

 

其処まで口にして、漸く気付く。

この艦内に在った電子機器は、全て艦のメインフレームとリンクしている。

スタンドアローンである機器など存在しないのだ。

それらを使用した際には、未だこの艦の異常性には気付いていなかった。

 

だが、今になって考えるならば。

それらの機器が齎した分析結果は、果たして信用に足るものだろうか。

何者かの干渉により、分析結果が操作されていたとしたら。

 

「・・・食堂よ、シグナム」

 

震えだす声を堪えつつ、シャマルは告げる。

シグナムは、それだけで全てを察してくれた。

その身を翻し、食堂を目掛けて駆け出す。

シャマルもまた、震える足を叱責して走り出した。

 

程なくして辿り着いた食堂では、十数名の武装隊員とクラウディアのクルー達が、思い思いの飲料を手に休憩していた。

彼等の中には、スバルとティアナ、そしてなのはの姿も在る。

彼等は唐突に駆け込んできたシグナムとシャマルに驚いている様だが、今はそんな事を気に留めている余裕は無かった。

それはシグナムも同様らしく、壁際の大型飲料供給器を見付けるや否や、レヴァンティンを待機フォルムからシュベルトフォルムへと移行させる。

艦内に常時展開するAMFにより、魔法の行使やカートリッジロードは不可能だが、フォルムの移行程度ならば問題なく行えた。

周囲の人間が騒然とする中、シグナムは止める間も無く飲料供給器の側面に位置する鍵を切り裂き、隙間に剣先を突き込む。

そして梃子の原理で、供給器の正面に位置する照明式広告板、炭酸飲料の瓶とコーヒー豆の袋が躍るそれを引き剥がすと、内部に鎮座する蒸留水用の大型タンクに手を掛けた。

 

「シグナムさん、何を!?」

「シャマル先生!?」

 

周囲からの声を意に介する事もなく、シグナムはタンクを引き摺り出そうとする。

其処へ追い付いたシャマルも手を貸し、2人掛かりでタンクの位置をずらそうとした。

タンクを此処で開ける心算はない。

万が一の事を考えれば、人気の無い場所で開けた方が混乱を抑えられる。

間違っても、今まさにこのタンクから供給された飲料を飲んでいる彼等、その眼前で蓋を開ける等という事はできない。

 

その時、供給器と床面との僅かな段差に差し掛かったタンクが、急激に傾いた。

内部の蒸留水の動きにより、重心の急激な移動に曝された結果、タンクは2人の手を離れて床へと倒れ込む。

床に叩き付けられたタンクは、その拍子に留め金ごと蓋が外れ、中身の全てを周囲へと撒き散らした。

 

 

 

食堂から、幾つもの引き攣った絶叫が響き渡る。

続く嘔吐の音と啜り泣く声は、周囲の人員が駆け付けても収まる事はなかった。

 


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