Wizards on the Horizon   作:R-TYPE Λ

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Report.5 『航行録』

 

 

その音が鳴り響いた瞬間、彼はコンソールの端に置いてあったコーヒーの紙カップ、既に中身の冷めたそれへと手を伸ばしたところだった。

突然の大音量に驚いた手先が震え、掴み取る筈だったカップを落としてしまう。

床へと叩き付けられるカップ、撒き散らされる中身、耳障りな水音。

だが、彼にはそれらに構っている余裕など無かった。

 

「レーダーに感! 距離235000、方位3-3-0、0-3-5、接近中!」

 

先程の音は、接近警報。

此方のほぼ正面、前方やや上方に突如として出現した艦艇が、此方へと接近しているのだ。

ディスプレイ上へと緊急展開されたレーダースクリーンが、接近中の艦影を拡大表示する。

明滅するオレンジの光点の横に『対象艦艇解析中』の文字列。

 

「艦長に連絡を。今は食堂に居る筈だ」

「解析結果、出ました。第17管理世界所属、ロベルタ級次元間旅客船『サン・ジロッティ』」

「『サン・ジロッティ』だと?」

 

報告に対し返された声は、何時の間にか食堂よりブリッジへと戻ったクロノのものだった。

1時間ほど前に食堂で何らかの騒動が在ったらしく、これまでブリッジを離れていたのだ。

何処か蒼褪めた様にも見て取れる彼は、艦長席に収まると同時にコンソール上に指を奔らせる。

そして、呟いた。

 

「・・・間違いない。『サン・ジロッティ』だ」

「それって2週間前に消えた、あの?」

「ああ。第4空間安定域、巡回艦艇が多数配備された航路上で、忽然とな。今でも大規模な捜索が継続されている。何故こんな所に・・・」

「目標接近中、しかし通信は・・・」

 

徐々に此方へと近付いてくる『サン・ジロッティ』。

しかし現在、此方の通信機能は完全に破壊されており、回線を繋げる事が出来ない。

とはいえ、このままならば『サン・ジロッティ』は、此方の左舷2500を低速で通過する事となる。

此方の異常にはすぐに気付くであろうし、何らかのコンタクトが在る可能性は高い。

縦しんばそうでなくとも、この艦が何らかの異常に見舞われている事は、寄港地から知れ渡る事になる。

此方に通信手段が無い以上、外的要因から来る救援到来の可能性の増大は歓迎すべき事案だ。

15分ほど前にクラウディアの修復作業班から受けた報告では、艦内環境の正常化が完了したとの事。

『イベント・ホライゾン』からの離脱は既に時間の問題だが、それでも万が一の事を考えれば救援は在った方が良い。

だが、それは『サン・ジロッティ』側に何ら異常が無ければの話である。

 

「此方の機能が万全であっても、繋がるかどうかは怪しいが。旅客船が2週間もの間、理由も無く消息を絶つ等とは考え難い」

「事故か、そうでなければ・・・」

「ハイジャックの可能性も在るな。第4域の航路上には第11管理世界が在る。旧王党派が通商破壊作戦を開始する可能性も以前から指摘されていたし、事実そうとしか考えられない交易船襲撃事件も起きていたからな」

「だとしても、その船が何故此処に?」

 

答えは無い。

沈黙するクロノを一瞬だけ横目に見遣り、彼は自身の担当であるディスプレイへと視線を戻した。

そして、絶句する。

 

「何だ・・・」

「どうした?」

「光点が・・・艦影が増えています! 新たな艦艇を捕捉!」

 

レーダー情報を各コンソールへと転送、強制表示。

ブリッジの其処彼処から、息を呑む音が聴こえてくる。

スクリーンに映し出される光点、それが3つに増えていた。

異変は、それだけに止まらない。

 

「まだ増える・・・4、いえ5・・・7!」

「目標艦艇群の所属を明らかにしろ。予測進路を・・・」

「8隻です! 『サン・ジロッティ』以下、計8隻! なおも本艦に向け接近中!」

「解析結果、出ました。いずれも民間船、旅客船および貨物船です。『ヘルミーナ』『サルコジ』『ピーチ・ウィンドⅡ』『サン・オブ・ジョンソン』『リン・ヤオ』『シュッツェ・ドライ』『シュッツェ・フェンフ』」

「どういう事だ、これは・・・」

 

次々に表示される艦名。

そのいずれもが、見覚えのある名だった。

それも、そう遠くない過去に。

 

「これは・・・この1ヶ月で行方不明になった船ばかりです・・・!」

「進路変わらず。いずれの船も『サン・ジロッティ』と同一進路、低速にて接近中」

 

接近中の艦艇群は、いずれも忽然と消息を絶ち、目下捜索対象となっている民間船ばかりであった。

消息が途絶えた際の航路上に何ら痕跡を残さず、まるでこの世から消え去ったかの様に行方を晦ませた船ばかりが8隻。

同じ進路、同じ速度で此方へと向かってくる。

 

「光学捕捉可能な距離までは?」

「このままの速度なら、15分程で・・・いえ」

 

クロノの問いに答えた直後、スクリーン上に複数の警告。

目標群、急加速。

跳ね上がる光点の接近速度。

途端、ブリッジに緊張が奔る。

 

「『サン・ジロッティ』加速、急速接近中!」

「なに!?」

「同じく『ピーチ・ウィンドⅡ』増速! 『リン・ヤオ』『サルコジ』も続く・・・目標艦艇群、全艦急加速!」

「・・・在り得ない! 民間船でこんな加速・・・乗組員の身体が保たないぞ!?」

「目標群、進路微修正! 衝突コースへ!」

 

目標艦艇群の進路に異変。

明確に此方との衝突コースを取り、加速を続ける。

だが、異変はそれだけに止まらなかった。

突如として鳴り響く新たな警告音、そしてブリッジに奔る重い振動。

スクリーン上に表示される無数の警告が、異常の詳細を知らせてくる。

 

「今度は何だ!」

「そんな・・・サブ・イオンエンジン全基、及び後部スラスター49番から128番! いずれも全力稼動中!」

「馬鹿な!?」

「原子炉出力上昇、現在115%! なおも上昇中、危険です!」

「メイン・プラズマエンジン、始動シークエンス開始! 短時間加速モード、噴射実行まで50秒!」

「停止させろ! 船外作業班、聴こえるか! 作業中断、直ちに艦内へ退避せよ!」

「原子炉出力125%!」

 

在り得ない事だった。

推進システムは連絡系統が複数個所で物理的に遮断され、クラウディアの修復を優先するべきとの判断も在って機能回復措置は見送られていた筈だ。

だが現にシステムは正常に稼働し、しかも誰の操作に因るでもなく勝手に反動推進航行を開始している。

一体、何が起きているというのか。

 

『船外作業班よりブリッジ、何事だ!? 艦が動き出しているじゃないか!』

「非常事態だ、直ちに艦内へ戻れ! もう時間が無い!」

「噴射実行まで40秒!」

『おい、噴射警告灯が光っているぞ! この色は・・・冗談じゃない、メインエンジンに点火しようってのか!?』

『総員、緊急! 何処でも良い、身体を固定しろ! このままじゃ取り残されちまう!』

 

船外作業班が艦内へと退避せんとするが、間に合わないと判断したのか、外殻に身体を固定する事を選択したらしい。

だが、彼等の活動箇所はクラウディアの内外が主だ。

当然ながら『イベント・ホライゾン』側へと戻るには時間が足りない。

 

『接舷梯が歪み始めている! 離れろ、崩壊するぞ!』

『もう間に合わん! 船外作業班よりブリッジ、聴こえているか!? 我々はクラウディアに退避する!』

「30秒前!」

「ブリッジより船外作業班、了解した! 直ちに推進システムを起動し、本艦周辺より離脱しろ! モーリス、聴こえるか!?」

『ブリッジ、応答を・・・駄目だ・・・クラウディアへ・・・』

「くそ! 艦内に警告を出せ! 総員、耐衝撃・・・何だ!?」

 

突然、照明が瞬き、次いで徐々に暗くなる。

電力レベル低下。

だが、コンソールは無事に機能している。

そして、其処から齎される情報は、やはり異常なものだった。

 

「原子炉出力135%! 危険域です!」

「そんな、電力レベルは低下して・・・いや、これは・・・」

「20秒前!」

 

一瞬、自身の目を疑う。

それは、在り得ない数値だった。

だが現に、スクリーン上に表示されるその数値は、この瞬間も増大し続けている。

彼は独自の判断を後回しにし、叫んだ。

 

「艦内生命反応、極大値! 発信源・・・」

「何処だ!」

「接舷梯が崩壊します! クラウディア、接舷解除!」

「・・・全部です! 本艦全区画より、生命反応検出! 数値が観測上限を振り切っている!」

「10秒前!」

 

其処で、ふと気付く。

『イベント・ホライゾン』が移動を開始したのならば、それは接近中の目標艦艇群との衝突コースから外れる事を意味する。

だが、そのコース上に取り残される物も在るではないか。

その事実が意味するもの、それは。

 

「クラウディアだ・・・」

「5秒前!」

 

呟き、艦長席のクロノへと振り返る。

彼もまた、驚愕と焦燥とを表情に浮かべ、此方を凝視していた。

スクリーンの光が瞬く中、彼は引き攣った声を絞り出す。

 

 

 

「奴等、クラウディアに突っ込む気だ!」

 

 

 

衝撃。

座席より放り出され、後方のコンソールへと強かに打ち付けられる身体。

暗転する意識の中、彼は最後の希望が潰えんとしている事を悟った。

 

■ ■ ■

 

意識を取り戻した時、先ず視界へと映り込んだものは、無機質な金属製の壁面だった。

幾分か揺らぐ視界に滲む不快感を堪えつつ、未だ霞が掛かった様に不明確な意識を何とか繋ぎ止め、壁際にうつ伏せとなった身を起こさんとする。

瞬間、背筋を奔る鈍い痛み。

思わず小さな声を漏らし、はやては動きを止める。

 

「ぐ・・・う・・・」

 

暫く息を止め、次いでゆっくりと肺の中の空気を吐き出す。

どうにか身体を動かし、上半身を起こして壁面へと背を預け、軽く深呼吸。

そうして漸く、朧げだった意識が明瞭となった。

幸いにして身体の方にも、特に異常は無い様だ。

先程の背の痛みは、壁面へと打ち付けられた際の衝撃に因るものだったらしい。

そして、痛覚の原因に思い至ると同時、浮かび上がる疑問。

 

「何だったんや・・・さっきの・・・」

 

手首の腕時計へと視線を落とすはやて。

暫く意識を失っていた様だが、時間にして10分前後というところか。

食堂で何らかの騒動が在った事を聞き付け、第2デッキから現場へと向かっている最中の出来事だった。

微かな振動の後、通路の照明が一斉に消えたのだ。

突然の事に戸惑い、同時に何が起こるのかと身を竦ませたが、しかし暗闇となった以外に何ら変化は無く。

また、あの家族の姿を取った『何か』が襲い来るのかと、漠然とした恐怖が心中へと滲み出す中、意識を研ぎ澄ませて周囲を警戒していた。

唯一の救いは、暗闇の中でも周囲に居る他の人員、その緊迫した声が続々と耳に飛び込んでいた事だ。

視界は闇に閉ざされても、誰かが其処に居る事が解るだけで、緊張は幾分か和らぐ。

そうして、状況を確認すべく手探りで移動を開始しようとした矢先に、巨大な衝撃が襲い掛かってきたのだ。

意識を失うには充分に過ぎるものであったが、身体に重大な影響が出る程でなかったのは幸いか。

 

とはいえ、状況がまるで分らない。

一先ず周囲の人員と合流し、ブリッジを目指すべきか。

そう判断し、はやては僅かに背に残る痛みを無視して立ち上がる。

そして周囲を見回した時、奇妙な音が彼女の鼓膜を震わせた。

 

「・・・何や?」

 

金属が軋み、擦れ合う音。

咄嗟に、背後へと振り返る。

通路の奥、鈍色の光沢を放つ何かが、曲がり角の奥へと消えてゆく様が視界の端を掠めた。

 

「誰か居るん?」

 

声を掛け、後を追う。

距離にして約10m、大した距離ではない。

曲がり角へと達し、自身もその先へと駆け込む。

そして、すぐに足を止めた。

止めざるを得なかった。

 

「え・・・?」

 

舞い落ちる純白の結晶。

其処は既に、金属に覆われた通路ではなかった。

身を切る程に凍える空気、白く染まる吐息。

薄らと降り積もった白雪を踏みしめた靴底から、氷の結晶が圧縮される独特の音と感触が伝わってくる。

 

「嘘・・・」

 

周囲を見回しても、在るべき金属の壁面は何処にも無い。

今、はやては紛れもなく、薄闇に覆われた雪原に佇んでいた。

頭上を仰ぎ見れば、降りしきる雪の向こう、雪雲の合間から僅かに覗く月が、青白く冷めた月光を放っている。

その僅かな月明かりが、周囲を淡く照らし出しているのだ。

理解を超える現象に思考を凍て付かせたのも数秒の事、はやてはすぐさま以前の事象を思い起こす。

目前のこれがリインフォースとの別れの場面、あの悲しくも大切な記憶を再現した幻覚ではないかと考え、身を強張らせた。

だが、すぐにそうではないと気付く。

此処は、海鳴のあの公園ではない。

見知らぬ、何も無い不毛の雪原だ。

 

「何処なん・・・此処・・・?」

 

幾度も、幾度も振り返り、歩いては立ち止まり、また歩いては立ち止まるを繰り返す。

幾度か声を張り上げてはみたものの、雪原の何処かから声が返るでもなく、只管に静寂が耳に痛いだけ。

徐々に胸中を満たしゆく不安感と孤独感とが、焦燥へと姿を変えはやての意識を蝕んでゆく。

それに突き動かされる様にして、彼女は更に声を張り上げた。

 

「誰か居らんの!? 誰でも良い、返事して・・・!?」

 

その声が、徐々に窄まりゆく。

彼女の視界に映り込む、微かな明かり。

20前後のそれらが、薄闇の彼方に密集して灯っているのだ。

それが集落の明りであると気付くと同時、はやては人の気配を感じて自身の側らへと視線を向ける。

 

「え・・・」

 

其処に、彼女は居た。

見慣れぬ寒冷地の服装に身を包んだ、凡そ5・6歳の少女。

厚手の褐色の防寒着、首元を覆う手編みらしき純白のマフラー。

同じく厚手のスカート、何処か民族的な模様のそれから覗く足首は、革製のブーツを履いている。

分厚い手袋に覆われた手は、見慣れない小動物を模したらしき可愛らしい2つのヌイグルミ、それらを落とすまいと大切そうに胸元へと抱きかかえていた。

白く染まる吐息を弾ませ、少女は小さく歌を口遊みながら雪原を歩む。

その顔は抑え切れない期待と幸福に綻び、時折スキップを交える歩みからは彼女の弾む内心が窺われた。

唐突に出現した少女の存在に、呆気に取られるはやて。

しかし、すぐに我へと返り、少女へと声を掛けんとする。

 

「待って・・・」

 

だが、その声もまた、すぐに途絶える事となった。

集落へと向かい歩み去る少女の後方、彼女の後を尾ける影の存在に気付いたが為だ。

其方へと向き直り、その影の正体を悟るや否や、はやては驚愕の声を上げた。

 

「ザフィーラ!?」

 

それは紛れもなく、守護獣としての形態を取るザフィーラであった。

気配と足音を完全に消し去った彼は、少女から30m程の距離を置いて後を尾けている様だ。

彼は声を張り上げたはやての存在を明らかに無視し、前方を弾む様にして歩んでいる少女を監視するかの様に凝視している。

 

徒ならぬ雰囲気に、はやては続けて紡ぎ出そうとしていた言葉を呑み込んだ。

眼前のザフィーラから、これまでに感じた事の無い『何か』を感じ取ったが故だった。

否、正確には違う。

はやての知るザフィーラが持っている筈の温かみが、目前の彼からは微塵も『感じられない』のだ。

機械の如く感情の窺えない彼が、無邪気に雪上を行く少女を尾行している。

はやては何か、云い様の無い不吉さを感じ取った。

そして直後、彼女の目に映る場面は急激に変化する。

 

「何や!?」

 

雪に覆われた木立の間、白く染まった小道を必死に走る少女。

息を切らし、足を縺れさせて転びながらも、すぐさま起き上がり再び走り出す。

その表情には色濃い恐怖が浮かび、呼吸に交じる異音は少女の限界が近い事を示していた。

そんな彼女をはやては、位置さえ判然としない不確かな、しかし明らかに鋭敏となった自身の視覚で、多角的に意識の中央へと捉えている。

何故そんな事が可能なのかと、其処まで思考を回らせる余裕など、今の彼女には無かった。

はやては只管に、息を切らせて走り続ける少女を見据え続ける。

 

そして、ふと気付いた。

少女が時折、後方へと振り返っている。

その度に彼女は、幼い顔立ちに絶望と焦燥の色を増し、必死に足を速めんとするのだ。

そう、彼女は紛れもなく、何者かの追跡から逃れんとしている。

だが道を誤ったのか、或いはそう誘導されているのか、彼女の進行方向は集落の明かりから徐々に逸れつつあった。

 

その、彼女の後方。

一定の速度で追跡してくる影は、果たしてはやての予想に違う事はなかった。

少女の走りとほぼ同速度、微塵の動揺も感情さえも宿さぬ、機械の様な歩み。

先程と同じ、蒼い狼にも似た姿のザフィーラが一切の音を纏う事なく、薄闇の中から月光の下へと現れる。

 

「あ・・・」

 

だがはやては、その見慣れた彼の姿に戦慄した。

特段、先程と変わった点が在る訳ではない。

しかし、はやては迫り来るザフィーラに対し、身動ぎすらできない程の威圧感、そして抑え切れぬ恐怖を抱いた。

其処に在る者は、彼女の家族の一員でも、彼女達を護る優しい壁でも、頼もしい騎士でもなかった。

 

あれは『死』だ。

逃れられぬ訳ではなく、しかし着実に迫り来る『死』。

追い付かれてしまえば、それでお終い。

一方的に、理不尽に、無慈悲に。

対象の一切の事情を無視し、無感動に生命を奪う無機質な事象。

だからこそ距離を置くべきであるというのに、それがザフィーラという存在の姿を模り、必死に逃げる少女を能動的に追跡している。

其処には何の感情も躊躇も介在せず、正に少女の生存を否定する為だけに前進する機械の様な存在。

彼女の肉体と精神を粉砕する為に、轟音を上げて回転する巨大な破砕機の刃の如き姿。

その刃に捉えられた時、少女に待つものは唯ひとつ。

無慈悲で、凄惨で、無意味な『死』だけだ。

 

「止めて・・・」

 

知らず、声が漏れる。

遥か前方で、少女が声を張り上げた。

どうやら、助けを求めているらしい。

すると彼女の更に前方、小さな明りが揺らめきだした。

それが、近付いてくる車両の前照灯であると、はやてはすぐに理解する。

そして再び、はやての意識は別の場面へと切り替わった。

 

再度の事ながら驚きを抑え切れないはやての目前で、少女は何処か古めかしい車両から降りてきた若い夫婦らしき人物達に助けを求めている。

女性が少女を抱き留め、如何にか彼女を落ち着かせようと試みる横から、男性が少女の肩へと手を置いて事情を聞き出そうとしていた。

傍らの車両内には夫婦どちらかの母親であろうか、1人の老女が後部座席に腰を下ろしており、心配そうに外の様子を見遣っている。

やがて、少女は落ち着いたのか息を整え、小さく頭を下げて夫婦に礼を述べた。

すると彼等は、気にしなくて良いと言わんばかりに少女に微笑み掛け、その手を取って車両へと導こうとする。

車内の老女も、ほっとしたように表情を綻ばせている事を認識し、はやてもまた安堵する様に息を吐いて。

 

「え・・・」

 

 

 

車両が、内部の老女ごと『叩き潰された』。

 

 

 

「あ・・・嘘・・・」

 

突如として出現した巨大な鉄塊、頭上より振り下ろされたそれが、車両と内部の老女を地面そのものと平面となるまでに圧潰したのだ。

周囲には飛び散った無数の鉄片と、撒き散らされた大量の赤い飛沫とが、雪上に異様な文様を描いている。

暫くして、衝撃に転倒していた夫婦と少女、彼等がふらつきながらも立ち上がった。

数秒ほど呆けていた彼等は、しかし漸く事態を正確に認識した様で、男性が絶叫して圧潰した車両へと走り寄る。

その際、車両を押し潰している鉄塊が僅かに動いた事に、彼は気付かなかったのか。

咄嗟に、はやては叫んでいた。

 

「駄目!」

 

鉄塊が重心を移動させ、壁となって男性の頭上へと倒れ込む。

避けようとする素振りを見せる暇さえ無く、男性は大質量の下敷きとなり、くぐもった異音と共に鉄塊と地面との隙間から吹き出す血飛沫と化した。

次いで、甲高い悲鳴が上がる。

泣き叫びながら鉄塊へと駆け寄ろうとする女性、ヌイグルミを取り落してまでそれを必死に止めようとする少女。

そんな2人の目と鼻の先で、鉄塊は蜃気楼の様にその輪郭を消し去った。

そして、圧潰した車両の残骸と男性の血飛沫を踏み付け、小柄な影が2人の目前へと歩み出る。

その人物を視界へと捉え、はやてもまた絶望の滲む声を絞り出した。

 

「何で・・・何でなん、ヴィータ・・・」

 

小柄な体躯に似つかわしくない鉄槌を担ぎ、闇の中から歩み出る少女。

彼女こそは、紛れもないはやての家族。

八神はやてにとっての妹の様な少女、鉄槌の騎士ヴィータ。

彼女は、はやての良く知る溌剌な雰囲気の一切を削ぎ落とされたかの様に、全くの無感情のまま佇んでいた。

車両を老女ごと叩き潰し、男性をも圧死させた鉄塊は、彼女のデバイスたるグラーフアイゼンだ。

一度、歩みを止めたヴィータは姿勢を変える事なく眼球のみを動かし、襲撃者の予想外の正体に呆然とする少女を、次いで同様に動きを止めていた女性を視界へと捉える。

そして、女性へと向けて徐に歩みを再開すると同時、肩に担いでいたグラーフアイゼン・ハンマーフォルムの柄を両手で握り締め、そのまま背後へと振り被った。

全身の血が音を立てて引いてゆくかの様な錯覚に囚われ、知らず女性を庇うべく身体を動かそうとするはやて。

だが無情にも、その眼前でハンマーヘッドが大気を切り裂き、横薙ぎに振り抜かれた。

 

「あ・・・ああぁぁぁッ!?」

 

余りにも軽い水音と共に、女性の頭部が鮮血の飛沫となって掻き消える。

離れた位置の木の幹に血と脳漿とが叩き付けられて飛散し、その場に残された身体がゆっくりと力を失い崩れ落ちた。

一連の惨劇を、呆然と見詰めていた少女。

だが直後、彼女は雪上に転がるヌイグルミを拾うと、怯え切った目でヴィータを一瞥し、背を見せて走り始めた。

恐怖に足を縺れさせ、転んではまた立ち上がり、転んではまた立ち上がり、それでも必死に距離を取るべく走り続ける。

そんな彼女に対し、ヴィータは追う素振りすら見せない。

一方で、傍観者であるはやてはただ、理解を超える蛮行に思考を凍て付かせ、自身が何処に居るかも解らないままにへたり込む事しかできなかった。

 

「何で・・・何でこんな事・・・」

 

だが、そんなはやての視界へと、強制的に映し出される光景。

ヴィータより逃れんと走る少女の前方、木立の陰より歩み出る人影。

風に靡く桃色の長髪が月明りの中へと浮かび上がるや否や、はやてはそれまでの思考を占める一切をかなぐり捨てて絶叫した。

 

「シグナム、止めて!」

 

幽鬼の様に、木陰より歩み出るシグナム。

少女は、気付かない。

そのまま、息せき切ってシグナムの眼前を走り抜け。

 

「あ・・・!」

 

 

 

背後より、一刀のもとに切り伏せられた。

 

 

 

「あ・・・嘘や・・・こんなん・・・」

 

背中より夥しい量の鮮血を吹き出し、うつ伏せに倒れる少女。

その手を離れた2つのヌイグルミが、彼女のすぐ傍へと転がる。

レヴァンティンを袈裟懸けに振り抜いた体勢のまま、シグナムは無表情で倒れ伏す少女を見詰めていた。

しかしすぐに、倒れ伏す少女へと歩み寄り、その身体を爪先で蹴って仰向かせる。

その、凡そ人に対するものではない乱雑な、更に云えば自らが斬った少女に対するものとは思えない非道な振る舞いに、はやては呼吸すら忘れてシグナムを見詰めていた。

今にも途絶えそうな吐血交じりの呼吸を繰り返す、そんな少女を見下ろす彼女の横顔は余りにも整い過ぎていて、しかし何ら感情の色を宿す事なく、命さえ宿ってはいないのではないかと錯覚する程に冷たい。

今までに見た事も無い家族の一面を前に、はやては虚ろに呟く事しかできなかった。

 

「こんなん嘘や・・・嘘やろ・・・?」

 

途端、少女の容体が変化する。

咳き込むと同時に多量の吐血、全身が激しく痙攣を始めた。

凄惨な光景に身体が震え出すはやてだが、その眼前で異変は更に進行する。

痙攣する少女の身体、その胸部から人の腕が突き出てきたのだ。

 

「止めて・・・お願い、もう止めて・・・」

 

少女の胸から生えた磁器の様に白い腕、その掌には光り輝く光球が握られている。

痙攣が更に激しくなる中、ゆっくりと胸部へと引き込まれてゆく腕。

そして、腕と光球が完全に消え去ると同時、少女の痙攣がぴたりと止んだ。

目を瞠るはやての前に、ゆっくりと歩み出る影。

それもまた、彼女の家族のもの。

最早はやてには、懇願する事しかできなかった。

 

「お願いや・・・もう、止めてよぉ・・・」

 

影は、シャマルだ。

その手には闇の書が携えられており、開かれていたそれは蒐集が済んだ為か、音もなく閉じられる。

シャマルは視線を上げて事切れた少女を一瞥すると、何事かをシグナムへと呟いた。

それを受けシグナムは少女の遺体、その足首を掴むと圧潰した車両の傍へと向かい歩みだす。

其処に転がる女性の遺体に重ねる様にして、彼女は無造作に少女の骸を放り出した。

そして、それらの遺体にレヴァンティンの切っ先を押し当てる。

彼女が何をしようとしているのか、それを悟ったはやてが声を上げる暇も無く、2人の遺体を業火が覆い尽くした。

 

「あ・・・ああぁぁぁ・・・」

 

周囲を満たす異臭、薄闇を明々と照らしだす紅蓮の炎。

見る見る内に崩壊してゆく『人間だったもの』の残骸を見詰めるはやての双眸からは、止め処なく涙が溢れ続けている。

信じたくはない、認めたくはない。

だが、彼女の意識は、無情にも理解してしまっている。

これが、この光景こそが、家族が自身に隠したがっていた『過去』であると。

後ろめたさや保身ではなく、自身等の咎をはやてにまで負わせたくはないが為に、幾ら乞われようともひた隠しにしている『過去』の一幕であると。

 

ならば、受け入れるべきだ。

どんな過去であろうと、決して逃げる事なく、家族として受け止めるべきだ。

共に彼等の罪を背負い、贖罪の為に隣り合って歩むべきだ。

それは、理解している。

だと、いうのに。

 

「こんなん・・・こんなんって・・・」

 

否定している。

受け入れられず、否定している。

こんなものが真実であるとは、信じられない、信じたくない。

そんな自身の弱さからくる拒絶だったならば、どれほど救われた事か。

だが、そうではないのだ。

自分が拒絶し、嫌悪を抱いているのは、家族の『過去』を受け入れられない自身の弱さに対してではない。

家族が『過去』に引き起こした惨劇、その行為と結果そのものに対し、強い嫌悪と憤りを感じている。

その惨劇を引き起こした家族、彼等自体に対して強い拒絶感を抱いてしまった。

一連の行為の背景も、彼等に選択肢など無かった事も、その双方を誰よりも良く知りながら、彼等に対し憤怒の感情を抱いてしまった。

 

これは裏切りだ。

信頼に背く行為だ。

何が主だ、夜天の王だ。

これでどの口が家族だ等とほざく。

自分の覚悟とは、この程度のものだったのか。

 

「違う・・・!」

 

そんな筈はない。

全て受け入れる、そう心に刻んだではないか。

それは自分、そして今ある家族だけに対してではなく、逝ってしまった家族に対しての誓いでもある。

この誓いを徹せぬなど許されない、徹せぬ筈がない。

 

「私は・・・私は・・・!?」

 

蹲り、自責と葛藤の念とに蝕まれるはやての意識に、聴き慣れた声が飛び込んだ。

だが、その声には彼女が知る温かみも頼もしさも無く、只管に平坦な機械音の如き響きが在るだけ。

そして、その声が紡いだ言葉の内容に、はやては耳を疑った。

 

『次は母親だ』

「・・・ッ!」

 

咄嗟に顔を上げたはやての視線の先に、集落の中の一軒家が映り込む。

雪が舞い散る宵闇の中、窓からは暖かい光が零れ、その中に女性のものらしき影が動いていた。

女性を手助けしているのか、或いは夫なのか、大人の影がもうひとつ。

その家のすぐ外に、守護騎士達の姿が在った。

庭先の小さな柵の外、周囲を警戒しているというよりは、内部の人間を逃さぬ為に見張っているという様相のザフィーラ。

家屋の壁際、グラーフアイゼンを担いで佇むヴィータ。

そして、音も無く扉を開け、屋内へと立ち入ってゆくシグナムとシャマル。

 

「駄目や・・・あかん、駄目・・・!」

 

一瞬で、赤く染まる窓。

硝子の内側に張り付く、大量の血飛沫。

遅れて響く、微かな悲鳴。

明かりが消え、次いで魔力光の淡い光が零れ出る。

その光が消えた後、一切が闇に閉ざされた。

 

「あ、うあ・・・あぁぁ・・・!」

 

もう、冷気は感じない。

月光も、集落の明かりも、膝下の雪の冷たさまでも、何もかもが消えていた。

唯、暗闇だけがはやてを覆い尽くしている。

堪え切れない嗚咽を零す彼女は、この状況が異常であるとの認識すら失い掛けていた。

其処に在るのは、夜天の王とまで呼称される強大な魔導師としての姿ではなく。

組織の一部門を束ねる、優秀な指揮官としての姿でもなく。

自身の家族が嘗て行った非道に蝕まれ、今まさに覚悟も誓いも諸共に潰えんとしている非力な少女、10年前と何ら変わらぬ八神 はやての姿であった。

 

「・・・ひっ!?」

 

そして、再び鼓膜を震わせる金属音に、はやては怯える様にして周囲を見回す。

何時の間にか闇は晴れ、周囲は何処とも知れぬ屋内へと移り変わっていた。

はやては木質系の床材が敷かれた廊下の途中に座り込んでおり、数m先に在る突き当りの壁には屋外からの陽光が射している。

その突き当りの曲がり角で先程と同じく、鈍色の光沢を放つ何かが微かな金属音と共に奥の部屋へと消えていった。

 

どうするべきかと思案する事もなく、はやては幽鬼の様に立ち上がる。

足元がふらつくが、壁際に体重を預けてゆっくりと歩を進め、通路の奥を目指した。

その耳に飛び込む、微かな話し声、笑い声。

奥の部屋では、数人が会話をしているらしい。

脚が震える。

否、脚だけではない。

全身が、はやての意識を離れて小刻みに震え出している。

 

気付いた、気付いてしまった。

この廊下、この壁面、この匂い。

自分は、此処が何処かを知っている。

当たり前だ、知らない筈がない。

此処で、どれだけの時を過ごしたのだ。

どれだけ多くの出来事が在ったのか。

どれだけ多くの思い出が生まれたのか。

忘れる事など在り得ない。

 

「うあ・・・あ、ぁ・・・」

 

見覚えの在る廊下を辿り、曲がり角の壁に手を掛けて先を覗き込む。

突き当りの部屋の中央に、鈍色の光沢を放つそれが在った。

はやての良く知る、嘗ては自身の一部の様に扱っていたそれ。

金属製の、車椅子。

 

彼等は、其処に居た。

陽光溢れる、居間の中央。

背凭れを此方に向けた車椅子を囲み、はやての知る暖かさもそのままに談笑していた。

はやてにとって無二の存在、何物にも替え難い大切な家族。

そして、先ほど目にしたばかりの、あの惨劇を引き起こした者達。

彼等が、すぐ其処で笑い合っている。

あの惨劇の事など知らぬとばかりに、朗らかに笑い合っている。

そんな彼等の様を目にすると同時、胸中へと湧き起こる暗く淀んだ、しかし溶岩の如く煮え滾る感情。

 

何故、笑える。

あれだけの事をしておきながら何故、笑っていられる。

そんなにも主が、『私』が生き永らえる事が嬉しいか。

夫婦と老女、あの子とその家族を殺めた事実は、彼等からすれば取るに足らないものなのか。

 

何時しかはやての脳裏からは、嘗て家族と交わした言葉が消え失せていた。

蒐集行為に当たっては、決して誰も殺めてはいない。

その言葉を疑った事などこれまでになく、その言葉の意味するところが『今回は』という含みを持っている事も理解していた。

それこそ過去の闇の書の主に仕えていた際には、今し方はやてが目にした様に多くの人々を殺め、蒐集を行っていた事も在るのだろう。

それを理解した上で、八神家の一員となった彼等はそんな事をしていないと、はやてはこれまで唯の一片も疑う事なく信じてきた。

 

だが今や、そんな心は欠片も残さずに消え去っていた。

彼等が無辜の人々を手に掛け蒐集した魔力で以って自身の脚を治そうとしていたと、何の根拠も無く信じ込んでいた。

否、信じ込まされていた。

余りにも強大な心理状態の振れ幅が、これまで彼女の心を支えていた家族との絆という支柱を、木端微塵に砕いてしまった。

その振れ幅がはやての心理の『外部から』与えられたものであると知る由も無く、彼女は間欠泉の如く湧き起こる憤怒と敵意とによって立ち上がる。

そして、足音も荒く部屋へと踏み込んだ彼女は、周囲の家族に目を呉れる事もなく、視線を下に落としたまま車椅子の背に手を掛けた。

 

其処に座る小柄な影は、先程から一言も声を発していない。

周囲で朗らかに笑う家族達の中、只管に沈黙を貫いている。

陽光を浴びて輝く栗色の髪、僅かに見える赤い髪留め。

もう、疑う余地など無い。

これは、過去の自分自身『八神 はやて』そのものだ。

誰かの命を喰らい、そうと知る事もなく闇の書の闇に蝕まれる身体を癒し、家族が出来たと無邪気に喜ぶ、過去の自分。

何と悍ましい、何と愚かしい。

 

壮絶な自己嫌悪に突き動かされるがまま、はやては車椅子の背凭れへと掛けた手に力を込める。

罵倒するか、それとも殴り付けるか。

どうするか自身でも判然としないまま、彼女は車椅子を自身の方へと向けるべく半回転させる。

先ず目に入ったのは、スリッパとソックスを履いた足。

その上に染みひとつ無い健康そのものの脚が在り、その更に上へと視線を移して。

 

「・・・ひっ!?」

 

はやては、咄嗟に後退った。

否、飛び退いた。

そのまま足を縺れさせ、背中から床へと倒れ込む。

それでもなお、彼女は車椅子から距離を置くべく必死に四肢を動かし、壁際まで後退した。

 

「な、ぁ・・・!」

 

車椅子に腰掛ける『はやて』は、何も語らない。

それはそうだ。

話せる訳がない。

少なくとも彼女の脚部は、外観では健康そのもの。

では、その他の部位はどうか。

 

黒ずんだ燃え滓の様に張り付く、皮膚だったらしきもの。

落ち窪みクレバスの様に裂けた、蚯蚓腫れだったらしきもの。

罅割れた枯れ木の様に痩せ細った、指だったらしきもの。

砕かれ拉げて虫食いとなり穴だらけの海綿動物の様になった、顔だったらしきもの。

蟲に食い抜かれ腐り落ちた全身から腐臭と共に溢れる、血と肉片だったらしきもの。

 

「う・・・ぐ、ぇ・・・!」

 

 

 

『八神 はやて』の腐乱死体が、其処に在った。

 

 

 

「・・・う・・・ぅ!」

 

異常だった。

余りにも異常な死体だった。

皮膚が干乾び、肉が腐り流れ出て、至る箇所に虫食い穴の開いた腐乱死体。

だというのに、その両脚だけは紛れもない生者のもの。

その異様さに、はやては恐怖に止まらず、危険さえも感じ取っていた。

そして彼女は直ぐに、その感覚が誤りでなかった事を知る。

 

「っ・・・何・・・!?」

 

突然、脚に走った鈍い痛み。

咄嗟に目を遣れば、自身の両脚、ストッキングの下で何かが蠢いているではないか。

途端に全身を奔った悪寒に突き動かされ、はやては靴を脱ぎ棄て、更にストッキングを掴み破り捨てる。

そして、絶句した。

 

「あ・・・あ・・・!」

 

蚯蚓腫れ。

爪先から伸びる無数の細かな蚯蚓腫れが、まるでそれ自体が独立した生物であるかの様に脈打ち、はやての脚を膝下まで覆っていた。

腫れは緩慢に、しかし確実にはやての脚を這い登っている。

その発生源である爪先で、どす黒く変色した親指の爪が音も無く剥げ落ちた。

知らず、はやてが息を呑んだ一瞬の後、他の指の爪までもが次々に剥げ落ちてゆく。

そして、足の甲に針で刺した様な小さな黒々とした穴が開いた直後、無数の虫食い穴にも似た空洞がはやての脚首から先を覆い尽くした。

 

「ひ・・・嫌あああぁぁァァッ!?」

 

崩れてゆく。

少しずつ、少しずつ崩れてゆく。

はやての脚が、不可視の蟻の大群に食い荒らされているかの様に無数の細かな穴を穿たれ、それらの下から赤黒い皮下組織を覗かせ始めていた。

それらの穴は徐々に数を増し、蚯蚓腫れをなぞる様にして脚を這い登ってくる。

既に皮膚は微細な蜂の巣がぼろぼろになったかの如き惨状を呈しており、縁が青白く変色した無数の穴の奥からは腐り滑る黄緑色の肉が覗いていた。

そして、蚯蚓腫れから始まる一連の崩壊は、徐々に大腿部へと向けて浸食を拡大しているのだ。

 

「嫌だ! 嫌だぁ!」

 

泣き喚き、後退る。

既に膝下から先の感覚は無い。

一秒でも早くこの場を離れようと、本能に突き動かされるが儘に腕を動かす。

その手が、何かに触れた。

反射的に目を遣れば、手の先に見覚えの在るブーツ。

其処から上に視線を動かし、はやては再び凍り付いた。

 

「・・・ッ!? あ・・・!」

 

はやての周囲を、家族が取り囲んでいた。

ヴォルケンリッター達が、彼女の周囲に佇んでいる。

立ち上がる事も出来ないはやてを、沈黙の儘に見下ろす4人。

 

何故、手を貸さないのか。

何故、微動だにしないのか。

何故、語り掛けようともしないのか。

理由は、一目瞭然だった。

前屈みになって此方を見下ろす彼等、その顔面から零れ落ちるもの。

腐りゆくはやての脚、其処に開いた無数の穴の中に落ち、膿に塗れた肉を食むもの。

無数の、蛆の塊。

 

「あぅ、あ・・・あああぁぁぁぁッ!?」

 

 

 

彼等は『腐っていた』。

 

 

 

「うあああぁぁぁッ!」

 

絶叫するはやて。

もはや冷静さなど欠片も残らぬ意識の中、唐突に彼女は理解する。

これは『呪い』だと。

 

あの、幼い自分の死体。

全身が腐り切っていたというのに、脚だけが明らかに生者のものだった。

全身が見る影もなく崩壊している中で、なぜ脚だけが残ったのか。

答えは1つ。

 

奪ったからだ。

健康な、幸福な、何事も無くこれからの未来を過ごす筈であった誰かから、命を奪い取ったから。

本来ならば全身と共に腐り落ち、闇の書と共に果てる筈だった『八神 はやて』の両脚部。

其処に、奪い取った命を注ぎ込んだから。

だから、あの死体の脚は綺麗なまま。

幾多の犠牲者の命を吸って、最も先に朽ちる筈だった脚だけが綺麗なまま。

 

そして今、その報いを受けている。

あの頃の自分、車椅子の上で自由に走り回る事を夢見ていた幼い『八神 はやて』。

彼女の脚を取り戻した事と引き換えに、今の自分の脚は『先送り』にしていた運命に追い付かれた。

とっくにこうなっていた筈の、本来の『八神 はやて』の脚。

とっくにこうなっていた筈の、本来の『八神 はやて』の命。

それが今、眼前に現出している。

家族が奪った数多の命、それらが詰められた脚を起点として、この全身を食い尽くさんとしているのだ。

 

絶叫、嗚咽。

激しく揺れ動く視界の中、車椅子が意識の中央へと捉えられる。

正確には、其処に座る『八神 はやて』の死体。

その全身が、何時の間にか生者のそれへと変じていた。

腐り、干乾び、今にも崩れ落ちそうだった少女の亡骸が、命の質量と肌の艶とを取り戻していたのだ。

だが、その姿は良く似てはいても、決して過去の『八神 はやて』と同一ではない。

 

何故なら、彼女には在る筈のものが無い。

在った筈のものが無い。

嬉しい事も、楽しい事も、辛い事も、悲しい事も。

全てを見届けてきた、絶対に在る筈の器官が無い。

『眼球』の無い『八神 はやて』が、其処に居た。

 

「あ・・・お前が・・・」

 

彼女は嗤っていた。

黒々とした闇を湛える眼窩から夥しい量の血を流し、白いセーターを赤黒く染め上げながら。

紙屑の様に幾重にも裂けた唇の傷の隙間から、殆ど砕けた歯を覗かせながら。

錆びた針金と金属片が肉を突き破って飛び出す鼻と口から、蛆と肉片交じりの血を溢れさせながら。

収めるべき眼球の失われた眦を緩めて、辛うじて残された唇の端を釣り上げて、嗤っていた。

全身が生者そのものの様相となった中、唯一死者の儘である顔面を歪ませて、嗤っていた。

腐りゆく此方を、年月を経て報いを受ける自分を、嗤っていた。

嗤っていたのだ。

 

「お前があああぁぁァァッ!」

 

だから、はやては叫んだ。

気付いたから、叫んだ。

目の前に鎮座する生きた死体、生き返った死体。

その代わりに『呪い』を受けているのだと、気付いたから。

死体が蘇った分、自分の身体が『喰われてゆく』と気付いたから。

腐りゆく自身の脚こそが、何よりも先ず報いを受けるべき部位なのだと気付いたから。

 

「ああああぁぁぁぁぁ!」

 

 

 

はやては、手にした『鋸』で太腿を引き裂いた。

 

 

 

「うああああぁぁぁッ!」

 

鮮血が飛び散る。

何時の間に手にしたのか、彼女の手には手術用の骨鋸が握られていた。

その刃を左大腿部に食い込ませ、躊躇う事なく全力で引く。

激痛が電流となって脳髄を掻き回し、飛び散る鮮血と肉片とが視界を埋め尽くす。

だが、はやては止まらない。

絶叫しながら刃を戻し、更に引く。

 

「要らない! こんなもの要らないッ! こんなもの、こんなものぉぉォォッ!」

 

想像を絶する苦痛に、涙と悲鳴が溢れ返る。

それでも、はやては腕を動かす事を止めなかった。

止められなかった。

遂に刃が大腿骨に達し、金属と骨格とが擦れ合う異音が響き出しても、はやては泣き叫びながら刃を引き続ける。

血飛沫に雑じって飛散する、白い骨片。

扱い方が悪かったのか刃が潰れてしまったらしく、骨格に食い込んで動かなくなってしまった鋸を、それでも我武者羅に引こうとして。

 

「がッ・・・!?」

「何をやってるんです、捜査官!?」

「正気に、正気に戻って!」

 

頬に激しい衝撃、揺さ振られる意識。

怒号、全身を押さえる複数の腕。

鼓膜を破らんばかりの怒鳴り声が、頭のすぐ横で張り上げられる。

 

「気でも狂ったかッ!? さっさとそれを離しやがれ!」

「鋸を取り上げて、早く!」

「くそっ、出血が・・・!」

 

ふと見れば、其処はもう見慣れたあの家ではなかった。

無機質な金属製の構造物、連続して並ぶ診察台。

周囲を取り囲むのは腐り果てた家族の成れの果てではなく、明確に生きていると解る管理局員達。

彼等は一様に眼を血走らせ、必死の形相で此方の四肢を抑え込もうとしている様だ。

 

はやては、漸く気付く。

自分が『イベント・ホライゾン』の医務室に居る事、診察台の上に座している事に。

自身の手に握られた手術用の骨鋸、その刃が左大腿部の実に半ば程まで、肉を割いて食い込んでいる事に。

周囲の人々が、自分で自分の脚を切断しようとしているはやてを、必死に止めようとしている事に。

其処まで理解して、その上ではやては鋸を引く動作を再開した。

 

「くあああああぁぁぁぁぁぁッ!」

「捜査官ッ!?」

「何を・・・この馬鹿、何やってやがる!?」

「止めなさい、八神捜査官!」

 

鋸を引く。

肩を掴む腕を振り払い、傷口を押さえる手を無視して、引く。

視界を遮ろうとする掌を、身体を倒そうと組み付く腕を、何事か絶叫する口を無視して、引く。

血飛沫も、骨片も、毀れて飛んだ刃さえも無視して、引く。

一切合財、周囲の何もかもを無視して、引く。

 

「あああああぁぁぁぁぁッ!」

「クソ・・・なんて力だ、こんなの女の力じゃないぞ! 誰か鎮静剤を!」

「負傷させても良いから取り押さえて! 嗚呼、嘘でしょ・・・骨が、骨が出てる! 切断されるわ!」

「もう駄目だ、完全にイカレちまってる!」

 

止まらない。

否、止められない。

何故なら、今も『呪い』はこの脚を這い登っている。

皆には見えないのだ、この這い登ってくる『呪い』が。

蟻の大群に食い荒らされた様な、この無数の穴が。

穴の中で蠢き肉を食む、この蛆の群れが。

眼前で、相も変わらずに嗤い続ける『彼女達』の姿が。

顔の崩れた『八神 はやて』と『リインフォース』の姿が。

 

「要らないっ・・・こんな・・・こんなぁッ!」

「何を言ってるんです!?」

「打て、打て! 首の後ろだ、早く!」

 

切り離さなければ。

この『呪い』を、この穴を、この蛆の群れを。

この身体を、生命を、存在を蝕む、おぞましい何かを。

不当に強奪され、身勝手に蒐集され、傲慢に集約された、他者の生命の塊を。

 

視界の端、見慣れた影が映り込む。

涙と血飛沫でぼやけた視界の中、それが自身の家族達のものである事を理解するはやて。

シグナム、シャマル、ザフィーラ。

恐らくは騒ぎを聞き付け、此処まで駆け付けてきたのであろう3人。

そんな彼等が、如何なる面持ちで此方を見詰めているのか。

普段であれば浮かんだであろう思考、その一端すらも脳裏を掠める事なく、はやては明確な敵意を向けて叫ぶ。

自身の家族へと、自身の守護騎士へと。

有りっ丈の敵意を向けて、泣き叫ぶ。

自身の心を、彼等の心を決定的に引き裂いてしまう、奈落へと誘う絶叫。

 

 

 

「こんな脚なんか、要らないッ!」

 

 

 

骨が断たれる激痛、首筋に射し込まれる冷たい金属針の感触。

はやての意識は、其処で途絶えた。

 

■ ■ ■

 

「・・・状況を確認する」

 

この艦に乗り込んで以来、こうしてブリッジに集まるのは何度目の事か。

そんな事を考えながら、こんな事を考えるのも現実逃避の一端なのだろうかと自問する。

だが、もしそうだとしても、自身の不甲斐なさを戒める気には到底なれなかった。

 

「既に皆も知っての通り、この艦は我々の意図せぬ処で独自に通常航行を開始した。現在は全ての航行システムが沈黙しているが、反動推進により齎された運動エネルギーは今も保持されたままだ。つまり、この艦は何処へとも知れず航行している事になる」

 

このブリッジには今、艦内に存在する人員のほぼ全てが集結している。

例外は、重力タンク内に収容された重体者と、医務室に詰めている数名。

そして行方不明となっているベニラル博士、即ちウェアー博士だけだ。

後部機関室に展開していた人員までも、全員が残らずブリッジに召集されたのだ。

 

「外部観測システムは全て沈黙し、復旧を急いではいるものの原因すら判明してはいないのが現状だ。つまり、我々が得る事の出来る艦外の情報は、このブリッジを始めとする数か所に設けられた外部視認用の窓、其処から得られる視覚情報のみという訳だ」

 

クロノは何を思ってそんな召集を掛けたのか。

彼もまた、理解しているのだろう。

この艦内に於いて、一瞬でも人員を孤立させる事、その行為の意味する処が。

 

「・・・提督、外部作業班の件についてですが」

「聞き及んでいる者も多いだろう。本艦の突然の加速により、彼等はクラウディアごと当初の位置に取り残された。クラウディアの修復は大部分が完了しており、彼等には其方に退避するよう指示を出した」

「なら、無事である可能性が高いのですね?」

 

だからこそ、監視下に置かれていたフェイトまでもが、この場に居るのだろう。

彼女だけではない。

食堂で見たもの、あのおぞましい光景。

それが意味する処の衝撃から、未だ立ち直ったとは云えないスバルやティアナの姿までもがブリッジに在った。

壁際に背を預ける彼女達からは、数時間前の気迫など微塵も感じられない。

疲労と憔悴と、僅かな絶望とが表情に滲み出ている。

そして恐らくは、自分もまた似た有様なのだろう。

 

「・・・残念だが、彼等とクラウディアが健在である可能性は低い」

「何故です」

「反動推進システムの稼働前、民間船8隻が本艦へと急速接近してきた。いずれも行方不明となり、捜索活動が継続されていた艦船だ。それらの船は本艦との衝突コースを保ったまま、民間船とは思えない加速で異常接近してきた」

「衝突を意図していたというのですか?」

「そうとしか思えない。全ての船が明確に、衝突コースへと転舵していた」

 

ふと、喉の渇きを覚える。

だが、何かを口にする気はなれない。

これまでに2回、艦内の飲料を口にした。

どちらもこの艦の食堂、其処に設置されていた大型の飲料供給器から入手したものだ。

その中に在った蒸留水タンクの中身を見てしまった以上、もはや艦内の飲食物は何であろうと口にする心算は無かった。

 

「本艦は移動を開始したためコースより外れたが、しかし・・・」

「彼等は衝突コース上に取り残されたと?」

「・・・そうだ」

 

知らなかったとはいえタンクの中身を口にした以上、既に越えてはならない一線を越えてしまった身ではあるが、それでも好き好んで更なる禁忌を犯すほど酔狂ではない。

何より、吐けるものは全て吐き出してしまったが、それでもまだ腹の奥で何かが淀んでいる気がしてならないのだ。

出来る事なら臓物ごと体内の全てを抉り出して、この艦に乗り込む以前の綺麗なそれらと丸ごと入れ替えたいと、そんな馬鹿な考えすら浮かぶ有様だ。

生涯の内に決して出くわす事など無かった筈の、余りにおぞましい経験が臓腑と精神とを蝕んでいる。

 

「何で民間船が体当たりなんて・・・いえ、そもそも何故こんな場所に?」

「そんな事よりも、あの加速は尋常じゃなかった・・・明らかに航行安全装置を切った上での加速だった。あれで艦内の人間が生きている筈が在りません」

「馬鹿な、それじゃ誰が船を動かしていたっていうんだ。そんな危険航法を実行できる支援AIなんて、民間船には搭載されていないぞ」

 

フェイトを見遣る。

彼女は何をするでもなく壁際に腰を下ろし、心此処に在らざると云わんばかりに虚空を見詰めていた。

その手が待機状態のバルディッシュを握り締めているのは、如何なる心境の表れか。

 

「・・・誰も、乗っていなかったのかもな」

「何です?」

「少なくとも『生きた人間』は、誰一人として乗り組んでいなかったのかもしれない」

「・・・提督、それはどういう意味です」

 

ザフィーラを見遣る。

何時も通り堂々とした立ち姿は、しかし異常と思える程に生命を感じさせない。

まるで周囲の構造物と同じ、無機質な金属製の彫像の様に微動だにせず、しかも表情からは人間らしい感情の欠片さえも窺えない。

少し気を抜けば、其処に居るのかどうかさえ分からなくなりそうな、蜃気楼じみた有様で佇む彼の姿が其処に在った。

 

「今回もそうだが、この艦で大規模な異変が起こる際・・・必ず、膨大な値の生命反応が観測されるんだ。それも、艦の全体から」

「位置が不明という事ですか? では、何らかの生態型ロストロギアが艦内に・・・」

「そうじゃない、艦全体が生命反応を放っているんだ。機関部から内部構造物、外殻からメインフレームに至るまで、全て」

 

シャマルは、此処には居ない。

彼女は今、医務室にて新たな重体者の治療に当たっている。

錯乱して泣き叫ぶ彼女には荷が重いのではないかとも考えたが、しかし彼女以外に適切な処置を行える者は限られていた。

彼女自身も、動揺が完全に収まった訳ではないだろうが、強靭な意志で精神を無理矢理に落ち着かせた上で自ら処置を行うと宣言していたので、後は治療が上手くいく事を祈るしかないだろう。

 

「・・・冗談だと嬉しいのですが。それはこの艦が『生きている』と言っている様なものではないですか」

「冗談で済むならどれほど救われたか。憶測の域を出るものではないが、ブリッジクルーの総意としては概ねその通りだ。この艦は『生きている』」

「・・・待って下さい、提督。つまり、貴方はこう言いたいのですか。この艦は生きていて、明確な意思を以って我々に対し害を為さんとしている。そして突入してきた8隻もまた、この艦と同様に『生きている』船だったと?」

 

シグナムを見遣る。

彼女の憔悴振りは、一目瞭然だった。

常の凛とした様相は影も無く、コンソール席の1つに腰掛けて項垂れたまま、顔を上げようともしない。

彼女が何故ここまで打ちのめされているのか、その理由は知っている。

最愛の家族から向けられた、心からの拒絶の言葉。

その言葉の刃はザフィーラを、シャマルを、そして他の誰に対するよりも深くシグナムの心を抉ったのだろう。

ヴィータが健在であれば、シグナム以上に心を引き裂かれていたかもしれない。

だが既に、彼女は重力タンクの中だ。

ザフィーラは表立って動揺を表す事もなく、シャマルは自身の心理状態を強制的に制御している。

結果的に、自らの傷心を押して誰かを支える必要の無くなったシグナムは、自らの心によって圧し潰されんとしているのだろう。

 

「馬鹿げた仮説だとは理解している。だが、それならば幾つかの疑問にも説明が付く・・・あの8隻からも検出されていたんだ。あの距離にも拘らず、此方が計測できる程の強大な生命反応が」

「・・・この艦と初めて接触した時も、艦全体から生命反応が検出されていた。コアが『ゲート』を開いた時には、計測値が測定限界を突破した程だ。ベニラルが消えた時も、エアロックの一件の際も、先程だってそうだ。この艦で何かが起こる時は必ず、艦全体が異常な生命反応を放っている」

「今はどうなの?」

「微弱だが、やはり全体から生命反応が検出されている。この艦は紛れもなく『生きている』んだ」

 

クロノを見遣る。

周囲の皆と言葉を交わす彼の姿は、一見すると平常通りだ。

しかし目を凝らせば、僅かにやつれている様にも見える。

無理も無いだろう。

食堂での騒ぎを聞き付けた彼は自ら足を運び、其処であのタンクの中身を目にしたのだ。

彼自身、供給器より齎されたコーヒーを複数回に亘って口にしていた。

しかし、部下達の手前、指揮官たる彼が狼狽する事など許容できなかったのだろう。

すぐにでも胃の中のものを吐き出したかったであろう彼は、しかし周囲の皆を何とか落ち着かせようと奮闘し、タンクの中身を目にした全員に口止めをしてブリッジへと戻ったのだ。

その後すぐに艦が急加速した事を考えれば、彼は未だ自身の内に淀むおぞましいものを吐き出せずにいるのだろう。

憔悴するなという方が無理な話である。

 

「・・・何故です? ブリッジの皆がその仮説を信じているのは兎も角として、艦が生きているなんて事がどうして・・・そんな技術が、未来の第97管理外世界で開発されたのですか?」

「恐らくだが、そうではない。我々の見解としては『ゲート』の向こうが関係しているものと推測している。『ゲート』を潜った先に在る『何処か』、この艦に乗り込んだ人間の悉くを狂わせてきた『何処か』だ」

「其処を経由すると、艦が生命を持つに到ると? なら、あの8隻は・・・」

「彼等が行方不明となったのは、この艦が原因ではないかと考えられる。『ゲート』を展開し艦を『何処か』へと連れ去り、生命を与えていたのではないかと」

「なら、民間船の乗員は・・・」

「生きてはいなかっただろうな。あの時点で、既に」

 

其処で、彼女はふと気付いた。

そして、このブリッジへと踏み入って初めて、声を放つ。

自分でも驚く程に冷静な、状況を解しているのか自身でも疑わしい程に穏やかな声。

 

「じゃあ、私達はその得体の知れない『怪物』の腹の中に居るって事? 私達を殺そうとしてる『怪物』の目と耳が其処ら中に在る中で、行動方針を話し合っているって事なの?」

 

周囲の目が、一斉に此方を向く。

だが、それらに気圧される事はない。

そんな程度の事で揺らぐような精神は、食堂での一件で疾うに破壊されてしまっていた。

今ここに在るのは、吐瀉物と共に流れ出た自身の正常な心、その残り滓の様なものだ。

 

「それって、途轍もなく危険な事じゃないのかな」

「・・・そうだ。その通りだ、高町一尉。我々は今、敵の腹の中に居る。そうとは知らず、これまで何もかも明け透けに情報を交してきた」

「だから、クラウディアは狙われた」

 

なのはの言葉に、息を呑む音が重なる。

彼女は、無感動に続けた。

 

「そうでしょう? 外部作業班は、クラウディアの修復が完了しつつあると報告してきた。私達は此処で、その報告を聞いた。当然、この艦も。もうすぐ帰れるって無邪気に喜ぶ私達を、ずっと見てた」

「・・・離脱を防ぐ為、この艦が『僚艦』にクラウディアの破壊を命じたと?」

 

首を傾げるなのは。

クロノの、此方を見遣る皆の視線に込められた感情に、疑問を抱いたのだ。

そんな事が在って堪るか、信じられない、信じたくない。

その様な感情の氾濫を、心底から疑問に感じたのだ。

そう考えれば納得するではないか、それ以外には考えられないではないか。

そんな思考が、一片の疑念の存在する余地すら無く、なのはの意識を支配している。

その認識自体が常の彼女ならば在り得ぬ、常軌を逸したものであると気付かぬまま。

 

「・・・聞かれなければ良いという問題でもなさそうですね。勝手に人の記憶の奥底まで掘り起こして具現化する艦だ。喋ろうが黙っていようが、この『怪物』にとっては大して違いなど無いでしょう」

「防諜は試みるだけ無駄か」

「そうとは限らないだろう」

 

防諜を無意味とする意見に対し、否定の声を上げたのはザフィーラだった。

クロノが、言葉の先を促す。

 

「どういう事だ」

「ベニラルが消えた際、エアロックと機関部、そして民間船の突入。これまでにこの艦が能動的に妨害工作を行ったのは、接舷直後を除けばいずれも我々が行動方針を話し合った後だ。これからの事を皆が胸中に秘めてはいても、それが表に出たのは一同が会した際に交わされた言葉によるものだった。直後、艦はその会話の内容に対応するかの様に、此方に対する妨害工作を行った。生命反応を増大させ、物理的、精神的と手段を問わずに」

「つまり、こいつは聞いているのか。本当に・・・我々の会話を?」

 

幾人かが、天井面を見上げる。

其処には無機質な金属構造物が在るだけだが、しかし彼等には得体の知れない何かが潜んでいる様な気がしてならないのだろう。

実際には潜んでいるのではなく、周囲の全てが此方の会話に耳を欹てているのだろうが。

 

「我々は深層心理に潜む罪の意識を掘り起こされ、実際の体験として具現化したそれらに遭遇した。実在しているのか否かは兎も角、悲哀や憎悪、罪悪感と。だが、過去に纏わる負の側面を除けば、この艦は何ら心理に関する陽動を仕掛けてはこない。それが、単に実行していないだけであるとの可能性は否定できないが、しかしこうも考察できる。しないのではなく、できないのだと」

「対象とする記憶や意識に負の側面が存在しない場合、それを具現化する事はできない・・・まあ、する必要も無いというだけかもしれないが。それで?」

「つまり、この艦は内部に存在する人間が有する記憶、その全てを我がものとしている訳ではなく、負の側面の在る記憶だけを選択的に呼び起こし具現化しているのではないかという事だ。これまでにこの艦が行ってきた事を考慮すれば、在り得ない話ではないと思うが」

「選択的意識掌握か。成程、確かにネガティヴな情報処理ともなれば、脳内ではそれ特有の反応が引き起こされているだろうからな」

「となると、その過程が自動化されている事も考えられますね。どの様な幻覚を見せ、どう破滅させるか。一連の過程は艦の意識とは独立した処で進行するのかもしれない。或いは、我々の脳内で引き起こされているものなのか・・・」

「そんな科学的な話なのかな」

 

フェイトの声だ。

見れば、彼女は相変わらずバルディッシュを手の中で弄びながら、虚空を見詰めていた。

眼差しを鋭くし、問い返すクロノ。

 

「何が言いたい、執務官」

「科学的に考察して理解できる様な、そんな生易しい状況じゃないと思うよ。解ってるでしょ?」

「・・・何の事だ」

「私達が見たものは、幻覚なんかじゃないって事」

 

ブリッジが静まり返る。

嗚呼、となのはは息を吐いた。

フェイトの言葉は、誰もが聞きたくなかったものに違いない。

或いはまさかと理性が考えはしても、在って堪るかと感情が否定していた思考。

もしかしたらと感情が訴えても、在り得るものかと理性が棄却していた妄想。

言ってしまったと、なのはは息を吐く。

 

「・・・妄想を口にするのは控えてくれ、執務官。無用な不安を煽って何の意味が在る」

「クロノは本当に、自分の見たものが幻覚だったって断言できるの?」

「それは・・・」

「他の皆は? この船で見たものは、本当に実体の無い幻覚だった? それとも確かに存在する『何か』だった?」

「フェイト、その辺に・・・」

 

クロノが、思わずといった様子で立ち上がる。

そんな彼の発言を遮る様に、フェイトの声は響き渡った。

 

 

 

「幻覚なんかの為に人が自殺するの? 自分の脚を切り落とせるものなの?」

 

 

 

止せ、と叫ぶ声。

それより早く、一陣の風が視界の中を横切り、フェイトへと肉薄する。

彼女の均整の取れた身体が、頸部を支点として折れ曲がり、コンソールへと叩き付けられていた。

駆け抜けた影の正体は、シグナムだ。

フェイトの頸を右手で掴み、コンソールへと押し付けている。

遅れて響く、制止の声。

 

「止めろシグナム! 彼女を放せ!」

「アンタまで錯乱してどうするんです!? 頼むから落ち着いて・・・」

 

此方に背を向ける格好である為、シグナムの表情を窺う事はできない。

だが、凡その予想は付く。

震える声が、宙に響いた。

 

「何を・・・」

「シグナム!」

「何を斬れば良い。この手で・・・この剣で、何を」

「彼女を放せ」

「正体が判らない、姿も見せない。実体が在るのかさえ解らないというのに、悪意だけは明確に存在する」

「フェイトを放すんだ、シグナム」

「切っていたんだ、自分の脚を・・・自分の手で。泣きながら、喚き散らしながら・・・鋸で、脚を。あんなに望んでいたのに。あんなに喜んでいたのに」

 

これまでに聞いた事の無い、非力で擦れたシグナムの声。

フェイトの頸を締め上げていた右手が離れ、力無く宙を彷徨う。

軽く咳き込むも、相も変わらず無表情のままシグナムを見詰めるフェイト。

 

「要らない、と・・・こんな脚なんか要らない、と叫んでいた。私達を睨みながら、私達を憎みながら」

「シグナム、もう良い」

「思い出したんだ、提督。思い出したんだよ。あの目は、良く知っている。知っているんだ、私達は」

 

そう言って、シグナムは力無くその場に崩れ落ちた。

床面に手を突き頽れるその姿に、烈火の将、剣の騎士としての威容は全く存在しない。

唯々、悲嘆に暮れ絶望する他ない、無力な1人の人間としての姿だった。

過去に苛まれ、追い付かれ、今にも貪られんとしている罪人としての姿だった。

 

「どうすれば救える? どうすれば贖えるんだ? 私には剣を振るしか能がない。我が主の前に立ち塞がるのであれば、何者であろうと切り伏せてみせよう。如何なる障害であろうと両断してみせよう。だが此処で、この艦で、何を斬れば良い?」

 

血を吐く様な独白。

祈るかの様に、縋り付くかの様に、秘められていた心情を吐露するシグナム。

だが、それに応える声は無い。

 

「見えもしないものを、存在するかも不明瞭なものをどう斬れば良い? 何者かが私達の過去を利用して主を害したというのならば、どうやってその責を負えば良い? 過去を消す事ができないならば、私達自身が死ねば・・・死んで消えてしまえば、主は救われるのか? それとも・・・」

 

ふと、シグナムの声が止む。

見れば、彼女は胸元のレヴァンティン、待機状態のそれを握り締めていた。

そして顔を上げ、言い放つ。

 

「何もかも・・・この艦ごと、全てを破壊してしまえば良いのか? 此処に宿る『何か』ごと、主を蝕む全てを」

 

ブリッジに響き渡る声は、明らかに危険な意思を秘めていた。

幾人かが身動ぎし、また幾人かは待機状態となっている自身のデバイスに手を掛ける。

だがシグナムも含め、彼等の行動はいずれも無意味だ。

 

「このAMF展開環境下で何ができる。精々が壁に傷を付ける事くらいだ・・・皆、落ち着いて話を聞け」

 

クロノの言葉に、俄に色めき立っていた周囲が徐々に落ち着きを取り戻す。

数秒ほどして皆が静まると、改めて彼は話し始めた。

 

「・・・救出活動を妨害した通信のログは、間違い無く存在するものだ。発信された環境が常識では考えられないものであるとはいえ、害意を持った何者かが存在する事は疑い様が無い。その何者かが実体を持っていようがいまいが、それは然程重要な問題じゃない」

 

言いつつ、コンソールを軽く叩く。

それは無意識の動作というよりも、この艦『イベント・ホライゾン』に対する意思表示である様に思われた。

 

「だが、実体が在ると断言できる敵性体も居る。ウェアーだ」

 

コンソールを操作し、幾つかのディスプレイに映像を表示するクロノ。

映し出されるは、USACのカバーオールに身を包んだ人影。

エリック・ベニラル、即ちウィリアム・ウェアー博士。

 

「この艦は生きている。我々とは違う概念の下かもしれないが、間違いなく。それが我々を害しようとしているならば、単純にこの艦そのものを叩けば良いだけだ。生きていようがいまいが、そんな事は問題ではない」

「ですが、そんな事は・・・」

「できる訳がない。そうだ。離脱手段が失われた今、生き延びるにはこの艦に依る以外に術は無い。それを見透かしたからこそ『拉致』した民間船にクラウディアを狙わせたんだろう」

「我々の離脱後、攻撃を受ける事態を回避する為に、ですか」

「そうだ」

 

クラウディアが失われれば、必然的に『イベント・ホライゾン』へと縋る事となる。

この艦を破壊するという事は、即ち自身等の死と同義なのだ。

ならば離脱の為の手段を奪い艦内へと閉じ込めてしまえば、この艦と内部の人間達は運命共同体となる。

 

「クラウディアは失われ、外部への連絡手段も喪失した。艦外の状況すら把握できない。正しくこの艦が意図した通りの状況だ。だが、その企みに大人しく従ってやる心算は無い」

「艦内に潜むウェアーを確保する、という事か」

「奴の身柄を押さえ情報を聞き出し、この艦を離脱、或いは影響下より逃れ、破壊する。AMFさえ止めてしまえば、まだ打つ手は在るんだ。兎にも角にも、話は奴を確保してからだ」

 

其処で口を噤むクロノ。

だが、彼の狙いが何であるかは、凡そだが予想が付く。

なのはは、我知らず口を開いていた。

 

「随分と分の悪い賭けだね、クロノ君。私達の知りたい情報を、ウェアー博士が持っていなかったとしたら? そもそもこのAMFが、機械的な理由で生じているものじゃなかったとしたら?」

「この機構が第152観測指定世界で組み込まれたものである事は、既にログから判明している。問題はその発生機構が、環境維持機構と一体化している事なんだ。システムを安全に停止する方法が解らない。今となっては、知っているのは奴だけだ」

 

言いつつ、ディスプレイの映像を消すクロノ。

息を吐き、改めて周囲を見回し、言い放つ。

 

「ブリッジ要員を除く、総員で艦内を隈なく捜索せよ。行動時は4人1組を厳守。各組につきネイルガンで武装した者、或いはアームドデバイスを有する者を1名以上配置する事。常に互いを監視するんだ。以上」

 

解散、との言葉と同時に、喧騒が戻るブリッジ。

誰も彼もが緊張し、表情に不安の色を浮かべながらも活発に周囲と言葉を交わしつつ、通路へと歩を進めている。

そんな中、なのはは無意識に部下である2人の姿を探していた。

 

彼女達の消耗は激しい。

肉体的な疲労は兎も角、スカリエッティの自殺と食堂での一件とが立て続けに起こり、しかも双方の場に居合わせてしまった事で、精神的には随分と打ちのめされている。

何らかのフォローをしてやらねば保たないだろうと、自身も思い出した様に襲い掛かる強烈な吐き気と戦いながら、なのはは考えていた。

精神的な消耗というのならばヴォルケンリッターの面々も心配ではあったが、其方はシャマルとザフィーラが何とかしてくれるだろう。

先ずは上官として、自身の部下を励ましてやらねばならない。

 

そうして見付けたスバルとティアナは、壁際から緩慢な動作で立ち上がり、通路へと続くドアへと向かおうとしているところだった。

彼女達に追い付くべく、なのはは脚を踏み出す。

その瞬間、耳障りなノイズが聴覚を満たした。

 

「何だ?」

 

ブリッジを後にせんとしていた皆が足を止め、周囲を見回す。

原因はすぐに判った。

ディスプレイ上にベリノイズが奔り、スピーカーから耳障りな音が放たれている。

だが、ディスプレイの縁の表示から、何らかの記録映像が再生されようとしている事だけは解った。

再生記録『captains log date : 1:23:2040』。

すぐさま、クロノの声が飛ぶ。

 

「誰だ、何を再生している」

「何もしていません、触れてもいない! 機器が勝手に・・・」

『我がクルーは優秀だ・・・各部署のチーフ達を紹介しよう。クリス・チェーンバーグ、ジャニス・ルーベン、ベン・フェンダー、ディック・スミス・・・』

 

不意に奔る、何時か聞いた声。

それが、数時間前に耳にした『イベント・ホライゾン』艦長のものであると理解し、なのははディスプレイに見入った。

映像はやはり、以前に目にしたものと同じだ。

 

『我々は漸く安全圏へと脱した。これより重力推進機関を始動し、プロキシマΑへのゲートを開く』

 

皆が、映像に見入っている。

以前と同じならば、この後はノイズが奔るのみである筈だ。

そして紡がれる、別れの言葉。

 

『AVE ATQVE VALE・・・出会い、そして別れを』

 

腕を伸ばし、指先でディスプレイに触れる艦長。

其処で、映像が乱れた。

やはり此処までか、となのはが息を吐いた直後。

 

「・・・ひ!?」

「うぁ・・・クソッ!? クソ、畜生ッ!」

 

スピーカーから溢れる幾重もの絶叫に押される様にして、なのはは口元を手で押さえ後退った。

咄嗟に周囲へと目を遣れば、其処彼処で人が蹲り、目を逸らして表情を歪ませている。

中には堪え切れずに嘔吐している者も居た。

再度、響き続ける絶叫に誘われる様にして、恐る恐る視線をディスプレイへと向けるなのは。

知らず、その口から言葉が零れた。

 

「神様・・・!」

 

其処に、地獄が在った。

半裸、或いは全裸となった大勢の人間が、年齢も性別も問わず絡み合っていた。

だが、それは艶めいた接触行為などではない。

 

肉が裂けていた。

骨が露出していた。

腕が折れていた。

脚が切断されていた。

舌が引き摺り出されていた。

眼球が抉り出されていた。

腹が破られていた。

背骨が抜き取られていた。

肺が切開されていた。

腸が零れていた。

ありとあらゆる方法で、人体が破壊されていた。

 

1人の男性が、別の男性の顔面に手を掛けていた。

相手をコンソールに押し付け、両手でその頭を押さえ込んでいる。

直後、絶叫と共に押さえ付けられていた男性の顔面が裂けた。

裂けて、果実の様に弾け飛んだ。

常軌を逸した握力に耐え切れず、頭蓋骨ごと引き裂かれたのだろう。

 

女性が何事かを喚き散らしながら、男性の腹を掻き毟っていた。

爪で引っ掻くなどという生易しいものではなく、自身の指先の骨が露出する程の力で腹腔内の肉を掻き出している。

引き千切られた臓器が宙を舞い、鮮血と共に飛沫となって女性を赤一色に染め上げていた。

原形を留めたままの臓器が幾つか、周囲の床面に散乱している。

そして、生きたまま体内を掻き毟られている男性は、血を吐きながらも楽器の如く声を上げ続けていた。

 

血塗れの男性2人が互いに向き合い、双方の頸部を鷲掴みにしていた。

後頭部の少し下、互いの指先が肉に食い込んでいる。

直後、一方の男性の上唇が裂け、折れた歯と共に尖った棒状の木片、鉛筆の先端が付き出した。

続いてもう一方の男性の歯を折り飛ばし、唇を引き裂きながら、数本の鉛筆が顔面を内側より突き破って現れる。

互いに鉛筆を相手の頸部に突き刺し、先端が顔面を内側より破るまで指で押し込んでいたのだろう。

そんな状態に至るまで、そして至ってなお、彼等は叫び声を上げ続けていた。

 

男性が女性に後方から覆い被さっていた。

コンソールに手を突いた全裸の女性は、頻りに悲鳴を上げ続けている。

そして、彼女の背面に覆い被さっていた男性が、雄叫びと共に身を起こし右腕を振り上げた。

鮮血に塗れた右腕、その手に握られている物は太く長い血塗れの臓器、人間の大腸そのものだった。

彼は女性の肛門から、内臓を鷲掴みにして引き摺り出し、そのまま引き千切ったのだ。

続いて女性の絶叫と共に引き抜かれた左腕、赤黒く染まったその手には鮮血を噴き出す子宮が握られていた。

 

1人の男性が、自らの口内に腕を突き込んでいた。

顎が外れ、口端が裂け、僅かな隙間から鮮血を吐き出し咽ながらも、徐々に徐々に自らの腕を飲み込んでゆく。

そうして肘までが飲み込まれた頃、突如としてその腕が引き抜かれた。

鮮血と肉片を纏い引き摺り出される50cm程の肉塊。

舌と気道と食道の一部、そしてそれらに付随する幾つかの臓器。

男性は噴水の様に口部から鮮血を噴き上げつつ、自らから切り離された臓器の塊を滅茶苦茶に振り回していた。

 

想像を絶する惨劇が、ディスプレイ上で繰り広げられている。

幾度も切り替わる場面は、しかし連続してカウントされる記録時間から、一連の異常行為が同じ時間、同じ場所で起こったという事を意味していた。

即ちこの惨劇は、過去の『イベント・ホライゾン』のブリッジで繰り広げられたものなのだ。

 

そして、映像は1人の男性が、カメラに向かっている場面へと切り替わる。

相も変わらず周囲には悲鳴と絶叫とが渦巻き、惨劇が止む事なく続いている事を窺わせた。

そして男性もまた、明らかに異常な風貌である。

半裸となった全身の皮膚は隈なく引き裂かれてささくれ立ち、大量の出血を引き起こしていた。

突き出された両腕、その指先は骨格が露出し、剥がれた爪が捩れた皮膚で吊り下がっている。

 

そして、何よりも目を引く異常。

潰れ、辛うじて原形を留めているだけの掌、その上に転がるもの。

それが収められていた筈の、暗く淀んだ2つの穴。

男性自身のものらしき眼球が、その掌の上に転がっていた。

そして、彼は明らかに笑みを浮かべ、呟く。

 

 

 

『Liberate Tutemet Ex Inferis』

 

 

 

悲鳴、嗚咽、絶叫。

なのはは気付いた。

それらの中に混じるもうひとつの声、もう一つの感情。

『笑い声』だ。

 

「笑ってやがる・・・」

 

誰かの、恐怖と嫌悪に満ちた呟きと共に、確信が過ぎる。

そうだ、彼等は『笑っている』。

血反吐を吐き、肉体を引き裂かれ、臓腑を掻き回されてなお、彼等は『笑っている』。

『歓喜』しているのだ。

 

この惨劇を味わっている事が、無上の幸福であるかの様に。

自身等を襲うおぞましい苦痛が、天上の祝福であるかの様に。

足音を鳴らし迫り来る惨たらしい死が、至上の歓喜であるかの様に。

 

「な・・・ッ!?」

「これは・・・!」

 

場面が切り替わる。

日時の表示も、言語さえも別のものへと変貌した映像の中、しかし繰り広げられているのは先程と同じ惨劇。

否、その惨劇を生み出している役者達だけが、別の人間へと入れ替わっている。

そして、それらの中に見覚えの在る影を見出すまで、然程に時間は掛からなかった。

 

「スカリエッティ・・・」

「何だって?」

「スカリエッティだ! 奴が映っている!」

 

狂乱に包まれるブリッジ。

その映像の一端が、誰が操作したでもなく拡大表示される。

映し出された光景に、なのはは歯を食い縛りながら必死に耐えた。

しかしそれでも、押さえ切れずに零れる呻き。

 

「ぐ・・・っ・・・!」

 

映像の中のスカリエッティには、既に眼球が無かった。

彼は戦闘機人、資料によればウーノという名である彼女の背を踏み付け、その長い紫髪を指に絡めて力任せに引いている。

身体が持ち上がらぬ様に全体重を掛けて背を踏み躙り、左手で頭部を床面へと押さえ付け、残る右手に渾身の力を込めて髪を引いているのだ。

ウーノは格子状の床面に顔を叩き付けられ、耳を覆いたくなる様な悲鳴を上げながら暴れ狂っている。

その腕がスカリエッティの膝を掠め、その周囲の肉を削り飛ばした。

だが彼は、その負傷を意に介す素振りも無く、ウーノの髪を引っ張り続ける。

そして、一際凄惨なウーノの絶叫が周囲を覆い尽くした。

 

「う・・・!」

 

頭皮が、頭蓋から引き剥がされる。

有機組織が引き千切られる耳障りな音と共に、紫色の髪が頭皮ごと剥がれてゆく。

悲鳴は更に大きくなり、声帯の限界を迎えたのか、人間のものとは思えぬ震えが声に混じり始めた。

周囲には鮮血が振り撒かれ、遂に紙が破れる様な音と共に頭皮が完全に引き剥がされる。

ウーノの顔面は勢いの余り床面に叩き付けられ、肉片と鮮血を周囲へと撒き散らした。

スカリエッティは剥ぎ取った頭皮を打ち捨て、動かなくなったウーノの身体を引き起こす。

そうして、意識を失ったらしきウーノ、頭皮が失われ頭蓋が剥き出しとなった彼女と向き合った。

ウーノは口から血液混じりの泡を吹き、目は完全に白目を剥いている。

その、あらぬ方向を向いた両眼に、スカリエッティは躊躇なく自身の両親指を突き込んだ。

 

「嫌・・・!」

 

もう見ている事も出来ずに、なのはは固く瞼を閉じ、下を向いた。

聴覚には先程のものをも超えるウーノの絶叫が、肉の千切れる音や液体が撒き散らされる音と混然となり響き渡っている。

そうして暫くの後、漸く音が止んだ。

恐る恐る瞼を上げ、周囲を見遣るなのは。

既にディスプレイ上には何の映像も再生されてはおらず、半透明のプリズム板が其処に在るだけであった。

周囲を見回せば、一様に表情を強張らせた面々が、既に何も映し出してはいないディスプレイを凝視している。

堪え切れずに嘔吐する音、幾つかの嗚咽。

常の状態を保っている者など、何処にも居なかった。

 

「総員、行動に移れ」

 

沈黙を切り裂く、クロノの声。

見れば、彼は天井面を見上げたまま、微動だにしない。

だが、彼が何を見据えているのかは、すぐに判った。

 

「時間が無い、ウェアーを探すんだ。この際、生きて喋る事さえ出来れば、どんな状態でも構わない。奴を確保しろ」

 

天井から、鮮血が染み出している。

紅い滴が1粒、ティスプレイ上に落ちた。

滴は次から次へと落下し、瞬く間にディスプレイを赤く染め上げる。

そして遂には、滴は一筋の奔流となって床面をも染め始めた。

言葉を無くし、凍った様にその光景を見詰めるしかない面々へと向かって、クロノは続ける。

 

「もう時間は残されていない。ウェアーを見付けて情報を引き出し、この艦を離脱するか。さもなくば」

 

染みが、天上一面に広がる。

自身の肩に落ちる鮮血の滴、その感覚に身を震わせながら、なのはは理解した。

 

これは、この血は、開幕を告げるベルだ。

『招待状』を受け取り、この艦へと訪れた客人達へのメッセージ。

この艦の意思、この『イベント・ホライゾン』が今、客人たる自分達に伝えんとしている事。

 

 

 

「我々が、次の見世物の『主演』になるかだ」

 

 

 

次は『私達』の番だ。

 

 


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